God,lost,Even so
橘千代紙は知っている。この世界には、決して変わらない概念が在ると。
時間を大河に喩えるなら、我々が知覚できるありとあらゆる物事はそれ即ち石ころである。姿形が一致する物は一つもなく、叩いても投げても砕けない様は永遠をも感じさせる。だが、永久は、永遠は、不変は所詮願望に過ぎない。
流れの絶えない大河の中では、不滅を夢見させる石も他の石と接触することで徐々に形を変え、穏やかなせせらぎに身を削られ、擦り減り、いつか何者にも観測されない塵に還るのだ。
ならば――大河に流される我々は絶望するしかないのか。諦めて、流れに身を任せ転がり続けるのを生きる指針としなければならないのか。
駄目だ。
ああ、全然なってない。諦観は堕落であり、人生の半分も理解せず不幸を嘲笑い自分に酔うナルシストの生き方だ。
人生を諦める観測者ではなく、馬鹿で間抜けで、限られた時間をがむしゃらに謳歌しようと足搔く愚者にこそ憧れを抱け。
こんなどうしようもどうしようもない世界にも在り方が変わらないモノがある。
空を見れば太陽が昇って、夜になると月が闇を煌々と照らし、また朝が訪れる。太陽もずっと宇宙にはなく、あと五〇億年後には膨張して太陽系を呑み込むとか力説するような輩は、己の聡明さをアピールし苛立ちを発散させたいだけの、犬も食わない八つ当たりでしかなく。
それも、ニンゲンという生き物が営む社会で不変で、普遍な思想だった。
これまで、六二五文字を費やし、そこまでして橘千代紙がなにを言いたかったと言うと。
一生涯で量れない時間、死してなお滅びない抽象的思想が永遠であり、残り三つ目、千代紙が最も力を込め宣言したかった――永遠。不変。
甘い物は美味しい。
以上。
終了。説明終わり。イッツオーバー。
まあとにかく、今の彼女にはなんでもよかった。
「お~いしぃいい~!?」
喫茶店のオープンスペースに響き渡るなんとも幸せそうな絶叫に周囲の客は一瞥し、すぐに友人や家族との雑談に戻る。
「労働の後にはやっぱり甘いものよねぇ。舌が! 脳が! 私が! 幸せに溺れるちゃうよぉ」
ぷるんと落ちそうになる頬肉を両手で支えるようにし女子高生の身体は左右に揺れた。
この女、胃袋ではなく脳髄に生クリームでも絡み付いているのか、あるいは人狼の脳というのは頭部ではなく腹部にあるのか。
腹に脳があるのは、実は昆虫というのをどこかで読んだ憶えがある。哺乳類を越えて無脊椎動物まで退化しているぞ――
――と。
「美味いか、他人の金で食うパフェは?」
「人じゃないじゃん、お前」
この女、臆面もなく大衆の面前で言いやがった。言い張りやがった。強引にというか、まんま拉致監禁で人でごった返す夜の喫茶店に攫っておいて、食べたら金を払わせるのを一切悪びれない。ばかりか初対面の相手をバケモノ呼ばわり。
「挙げ句、今……お前って言ったなお前?」
「お前って正しくは御前っていうちゃんとした丁寧語なんだよ。そんなのも知らないなんて『吸血鬼殺し』さんも子どもだなぁ」
それくらいもちろん知っている。この国の生まれではないにしても『吸血鬼殺し』にもそれくらいの教養はあった。
――何年生きて、いや、生かされていると思っているんだ。
年齢で知識の幅をひけらかすつもりはないが。
パフェスプーンをくわえたまま、今の姿をあからさまに差して餓鬼扱いする千代紙からは敬意なんてひと匙の砂糖ほども感じなかった。
「だいたい、貴様もどうかと思うが。なんだこの店、というかそのパフェ」
グラスに張られたシリアル、バニラ、ストロベリー、チョコミントとアイスは三層に分けられている。種類もだが、まるで地下迷宮を彷彿とさせる量だった。花びら状に盛られた果物は苺に甘蕉に、林檎に……あとスライス甜瓜。皮つき。
溢れんばかり、というかグラスからパフェは既に溢れていた。
これまでの字面から千代紙がどれだけ常軌を逸した代物を食しているかイメージしづらいかもしれない。種類こそ豊富なれど、トッピングや食材は世にある一般的なスイーツと大差ない。
だが、最後にこれを加えたなら是非もない。
パフェグラスは、長さは実に二尺――六〇点六〇六センチメートル、太さは百Φ――十センチもある、制作した職人、喫茶店のマスター、それを――立ったまま平らげようとするJKの人間性を疑う特注サイズだった。
「いい加減座ったらどうだ」
「座ったらパフェ食べられないじゃん」
「普通パフェは座ったまま食べるものだ」
ニンゲンの食べ物なんてもう何世紀も口にしていないがそれくらいは不死身のバケモノでも知っている。
「客も客だ。こんなイカれたパフェをごくごく食べる小娘が側にいて呑気に茶が飲めるとは」
ちらちらと心配そうに窺う視線を認めるが、そんなものは、この狼娘の前では目線の内に数えられない。
「この『殺さないでパフェ』はここの目玉スイーツだから。チャレンジする命知らずは後を絶たないんだ。考案したのがバイトの子だったから、女の子が一番注文するよ」
パフェスプーンもやがて完全に底まで届かなくなって。大ジョッキみたいに、片手でグラスを掴んでごく、ごく、と喉を鳴らす隙間で千代紙は言った。
なるほど実に的を射たネーミングではあった。グラスに凝集された糖分は最早、暴力と言ってもまだ生温い――パフェを温さで比喩するのはややズレている気もするが。
確かにこれだけあればいかな甘党であれ即死は免れない。過食かインスリンの激増減かの、些細な死因の違いでしかない。
そんな世にもおぞましい兵器を制作するまで、俗世の甘味に対する執着が望まれた背景に『吸血鬼殺し』は頬杖を突いて感嘆の念を吐露した。
一体、なにがあった、少女よ、と。
「そのバイトやらの尊顔を拝見したいものだな……今夜は非番か。顔を見ないが」
今、彼は店内を一望するにもいちいちテーブルを立って身を乗り出さねばならない。天井を突き抜けるほど身長のあった九月までが懐かしかった。
一通り見渡しても、やはりウエイトレスも厨房にも若い女は働いていなかった。
「彼女ならもう来ないよ」
言って――……もっと早く私が声を掛けてやれていれば、と、嘆息と共に千代紙は付け足した。
‶校長〟から事前に情報を受け取っていた――顔馴染みでもある『吸血鬼殺し』はその推測を除外した。あの自由奔放、無鉄砲な一匹狼が、たとえ門下生であっても下準備を用意しておくとはどうしても、そんな器用な真似。
その手腕は彼女の落胆ぶりを見れば明らかだったが。
被捕食者を芋蔓式に手繰って、本命の五上涙子に辿り着いた。ニンゲン離れした洞察力、獲物を着々と追いやる常軌を逸した信念と忍耐。作戦も戦術も曖昧なまま敵の喉笛に突っ込んでここまでの努力を台無しにする爪の甘さ。
あの男に学んだという千代紙の言葉も納得だった。
「それで、打つ手ゼロで自棄食いするつもりだったのか」
「打つ手ならあります。これを食べ終わったらゆっくり休息を取って、明日頑張る。二人ならきっと倒せるって、自信持ちなよー!」
非難を、千代紙は『吸血鬼殺し』自身に対する自信の喪失と捉えた。
はぁ。
狼というのは何故にこうどいつもこいつも、自分にはとことんポジティブでいようとする。おまけにチームワークは、相手にも自分にも心掛けるのを忘れさせない。
「私はもういいから、そろそろあなたの話がしたいな。大男って聴いたけど。ねぇねぇ、大男と男の娘――どっちが本当の姿なの?」
土足で押し入られた上、心に足跡まで残されたとあっては。あの〈魅人〉の前に先にもう一方を狩っておこうか『吸血鬼殺し』は本気でプランニングを始めた。
この、会話が噛み合わない感じも、どことなく親しみを覚えた。
「……私のせい、なんだよね。『吸血鬼殺し』さんが、そうなったの」
「何が言いたい」
低い声音で脅す『吸血鬼殺し』に千代紙は神妙な面持ちになって。
「三上創がいなかったら、五上涙子もひとりで倒せた……?」
「……貴様」
ここまで交わした会話の違和感は、千代紙が師匠に倣って関係を迫っているとばかり彼の男は思っていたが。
直線的な思考の持ち主――かと思いきや。草陰に身を沈め機会を窺う沈着こそが、素の彼女だった。一見冷静で思慮深いかとも思ったが、言動の数々はその裏付けにはならない。
これまでやられっぱなしだった『吸血鬼殺し』は、ようやっと彼女の弱点を掴むことができた。自覚しているかは定かではないけれど。
自分の及ばない世界で誰かが被害を被り、それがもし人だろうがバケモノだろうが、化生を喰らい生き永らえる存在であっても責任を負い、わざと道化を演じることでしか謝罪の場面に繋げることが叶わない。
致死量のカロリーを完食する狼娘の根幹は、とても脆く、儚く。どうしようもないほど、見ていられなかった。
こっちをじっと見つめてくる千代紙。顔を背けても追ってくるので鬱陶しいたらありゃしない。
子犬のように潤んだ眼差しは、罷免を拒むよう、はたまた罵倒を熱望するかのようだった。
だが、生憎。『吸血鬼殺し』はそのどちらも今は手元にはなく。手持ち無沙汰な彼は少女に、知らん、とだけ言い切った。
今はこのような姿だが、大人としてひとまず気の利いた台詞でも吐いた方がいいのかもしれない、しかし。残暑の折、人魚の歌声で始まった長月――それに続く神無月に、あの『魔法使いの末裔』主催の許行われた‶神殺し〟に関しては、便乗しただけに過ぎず、三上創と何か接点を持ったわけでもない男に、何を言えと。
あの神もどきと千代紙との間にやんごとなき経緯があるのは承知するが。この席に当時の当事者が不在である以上、目の前の――この街に新たに顕れた問題に集中してもらわなければ。
吼える場所は、ここではないのだから。
「パフェはもういいのか」
「うん、約束は守った。ごめんなさいね、付き合わせてしまって。もう大丈夫! 済んだ事は忘れて気持ち切り替えるよ」
「代金は我が払うんだ。勝手に済ませるんじゃない。あと誰だ、お前にパフェを食うように約束させたのは。呼び付けて説教してやる」
――そんな事より、と席に付いた千代紙は話題を変える。
神妙な面持ちで自信がなかったのは、単に腹が空いていたのではと『吸血鬼殺し』は千代紙を置いて店を出ようかなと本気で思ったりもした。
パフェを食べるのも本当はその某との約束で当人にはその気がなかったとも思うと胃の腑が怒りで煮え滾る気がした。
「‶師匠〟に言われたのは、盗まれた吸血鬼の『眼』の回収。右左、両方とも。感触で判る、私が獲ったのは確かに‶右〟目だった。なのに二つだった対象が、三つに増えた。これは何? 私達は一体、なにを相手にしているの?」
忌々し気に質問を繰り返しながら。
ニット帽から引っ張り出したそれを、千代紙はテーブルに叩き付けた。
「――綺麗」
木を打つ乾いた音に一瞬注目した客のうち、千代紙から見て斜め右後ろの席でカプチーノを飲んでいた会社帰りのOLと思われる二人のうち一人の女性客が溜め息をついていた。
温かみのある黄金色の照明に照らされた紅梅色の宝石。完璧な球体に歪みなどなく。テーブルにかかる価値は35カラット。この世に存在する如何なる宝石よりも、重く煌めき、そして、恐ろしい……。紅々と瞬く輝きに縁取られた瞳孔は、本物の夜と繋がっていた。一度魅入られれば最後、夜が恋しくなるほどの、血に飢えた怪物さえ震え上がるような漆黒に堕とされるであろう。
「貴様の軽率な行動が、あの女の人生を狂わせた」
言って、『吸血鬼殺し』は眼球を側にあったグラスに放り込み給水係から水差しを引ったくって冷水を注いだ。
「ちょっと、どうしたの? ぼーっとしちゃって」
「ううん、なんでもない」
突然子どもに水差しを取られおっかなびっくりするウエイトレスの後ろで友人と会話を弾ませるOLを見ながら千代紙は声をすぼませた。
「見た感じ、特に変化はないけど」
「別に今すぐ向かいにいる友達を喰い殺したりはしないさ。ただ、あの様子だとこれからなにを見ても、誰になにを贈られても満足しないだろう」
くっくっと微笑を浮かべる『吸血鬼殺し』は、屈託なく無邪気に笑う童にしか見えず。噂に聞いていた、死を嬲り殺しにする男には千代紙にはどうしても思えなかった。
‶見た目で判断してはいけない〟
誰かの決め台詞を借りるつもりはないけれど、この男の全身には、数え切れないほどの憎しみと怨嗟、人語では語れない猛烈な怒りが染み付いている。
ポップソングと雑談に盛り上がる喫茶店に漂う血の生臭さを嗅ぎ取ったのは、千代紙だけだった。
「吸血鬼の遺物に水を使うのは習ったよ」
‶『始祖』の残滓〟と会敵するにあたって千代紙は元・傭兵の‶師匠〟から一通りの講義を受けた。
現実に存在する吸血鬼と一般に想像する吸血鬼に、実はそれほどの相違はなかった。十字架に怯え、にんにくの臭いを煙たがり、浄められた液体に恐怖を覚える。
ポイントは、使用される物体に金銭的価値は重要ではない事。にんにくはチューブでもいい、十字架は雑貨屋で買ったアクセサリー、聖水に水道水を代用しても効力は発揮する。
信じる者は救われる。この軽々で根拠のない一言が、この業界では命を分けるのだ。
「あの女が非処女なのを祈るんだな。尤も、家族には申し訳が立たないが」
「……後悔はしないよ」
「ほう、正義の味方気取りの血統書付きの‶ワンちゃん〟かと思いきや」
「悪名高い‶首狩公〟の代行であんたの隣にいる女を、舐めないで欲しいわね」
〈鬼〉殺しの術の全てを叩き込まれる前、師匠は千代紙に誓わせた。夜の世界で戦う上で己の命よりも優先すべき、鉄則。
――自分の行動に責任を持つな。
吸血鬼は、いわば死の体現者。人々に絶望と混乱をもたらす夜そのもの。それを殺そうとする者に最も似合わないのは――正義。この二文字に尽きる。
死とは、誰しもに訪れる不可避の存在。力と暴力で運命を強引に捻じ曲げようとするのは、エゴ以外の何物でもない。
行動の如何に関わらず、これから千代紙は多くの人を不幸にする。どれだけ慎重に振る舞った所で、後ろ指を刺され、下劣な言葉に罵られ、殺されれば死体に石を投げられ――それでも、戦わなければならない。
吸血鬼を打倒するというのは、その運命を進んで望むという事。
「そんな事どうでもいいから――これからの作戦をいい加減立てなきゃ」
「人任せか」
「だってくり抜いた目が再生して、おまけに目からビーム出すんだよ! 目からビーム、わかる!? 目からビーム!! あんなのに勝てっこないよー!」
弱気な泣き言を繰り返す千代紙に。
『吸血鬼殺し』は順を追って説明した。
「これは――」
「この目玉?」
「これは、貴様の目当ての品だった。今は違うが」
グラスに沈む眼を指差し続ける。
「状況は差し迫っている。これ以上の同化は面倒だ。今の我と貴様でも倒すのは困難を極める」
魔眼が再生したという事は、つまり。
ここに『奴』の意識はもうない。
再生の起点が視神経なら、脳を完全に侵食されるのもそう遠くない。
あるいは、すでに……。
「あれより、もっと強くなるって?」
「西暦の始まりを知るあの女の力が、あの程度で済むと?」
あの爺――と師匠への忠節はどこへやら、低く唸り声を千代紙は発した。
「私はどうしたらいいボス?」
「奴をおびき寄せて、殺す。一片の肉片までこの世に存在するのを許さん。幸い、こっちには『餌』もあるしな。だが……」
「どちらか一方は、確実に死ぬ。この場合は、戦闘経験の少ない私か」
鼻で笑って――橘千代紙は立ち上がった。
「いいよ、乗った。でも、死ぬのはあんただから。それが嫌なら、せいぜい頑張るのね」
「……子犬が」
(――ああ、この親子は本当に、我を笑わせてくれる)
「あてはあるから、……っとその前に」
席を立った千代紙は、左前のテーブルに向かった。
「あの、なにか」
「これ、私の十字架。肌身離さず持ってなさい。……ごめんなさい、私には、こうする事しかできない。魔法が使えたら、もう少しマシな解決法を思いつくんだけど」
OLに十字架を渡し、千代紙は店を後にした。
手を振って、晴れやかな、悔しそうな顔を浮かべ。
「じゃ、お金払っといてね」
「……甘ったれめ」




