Curse you,belong to you,Nice to meet YOU
彼女とは、偶然再会した。
いや。彼の心中を尊重したならば、してしまった、が表現としては的を射ているのかもしれない。経過した時間を今こうして冷静に俯瞰したなら、彼女と知り遭えたのだって、偶然でない可能性も考えなければならない。人生は物語のように規則正しく進むわけではない、そう頭ではきちんと理解していたはずなのに。
ラブコメみたいな、そんな出逢いをなぜ信じて疑わなかったのか。こちらに手を振りながら名前を連呼する彼女の姿が懐かしく気持ちが高まった、もしくは、いつまで経っても女の子を紹介してやれない母に、後ろめたさを感じるあまり切羽詰まっていたのか。雨の降る街を一人うろうろしていたのだって。そのような気持ちがゼロだった、と言えば嘘になる。一刻も早く、次の子を紹介しなければならなかった。
とにもかくにも、五上灯真は、彼女を見つけた。
「ひさしぶり、元気だった?」
雑居ビルのエントランス前で雨宿りしていた知り合いに言われ、灯真ははい、ととりあえず頷いてみせた。
彼女は高校の先輩だった。先輩なら、いつでも学校で逢える。わざわざこんな街中で再会を喜び合う必要はない。きさくに会話が成立する相手ならさらだった。
だが、それは出来ない。確かに彼女は灯真より学年は上だったが、肩書きの最初に、元、を付属しなければならなかった。
言わずもがな、彼女は現在、灯真と同じ高校には通っていない。ばかりか、風の噂に聞いた話によると、転校と合わせて、この街からも引っ越したのだとか。様々な推測が尾ヒレに背ビレ、おまけに足も付いて生徒の間で跳ねまわっていた。そのどれもが、今はもういない彼女を的にし勝手に面白がっているだけで、信憑性もない、的を射ていない噂だったが。
「先輩こそ、お久しぶりです。今日はどうしたんですか、こんな所で」
「たまたまこっちに帰る用事があってね。そしたら、この様」
雨を多量に含んで重くなった服を見せびらかしながら、先輩は苦笑した。
「ああっ、そんな恰好でいたら風邪引きますよ?」
「そう、そうだよ、女の子がこんな恰好でいたら風邪引いちゃうよねえ? 困ったなぁ、どうしようかなぁ。大きな家にあったかいお茶があって、若いお母さんの服を貸してくれる――そんな後輩、近くにいたりしないかなぁ」
鼻歌交じりにそう言いながら、横目に見てきた。
「……あの、よかったら、雨が止むまで、うち、寄っていきます?」
「そんな、わるいよ。後輩に甘えるなんて」
なんて、口では言いつつ。灯真の差し出してきた傘にちゃっかりお邪魔する先輩だった。
「でも、せっかくだから、優しい後輩くんのご相伴に預かろうかな」
はは、なんて乾いた笑みを浮かべ、灯真は先輩と肩を並べ帰路についた。
「灯真くんの方こそ、こんな雨の日に、こんなところで何やってたの?」
「考え事ですよ。雨の中で歩いたら、もやもやした気持ちも少しは晴れるかなって」
「曇り空の下で気が晴れる……ノスタルジックだなぁ。吹部のエースは、やっぱり私達とは違う感性を持っていらっしゃる」
全く偶然の発想だったが、取り上げられるとつい気恥ずかしくなってきて、そんな先輩だって、などと口走ってしまった。
「僕よりも有名人じゃないないですか」
これにはさすがに反省した。
前の話に戻る。灯真と先輩は、実は全く親しい間柄ではなかった。少なくとも、こんな風に肩を並べて世間話に花を咲かせる仲ではなかっと記憶している。
有名人、という肩書きが互いを繋げる唯一つの共通点だった。まあ敬称が同じなだけで、呼び名、生徒の抱いた印象は二人の間ではかなり異なっていたが。
と言っても。今となっては過去の事。ほんの数ヶ月前なんて野暮な事は伏せ、彼女が学校で受けた軽蔑の視線、彼女が学校に向けた血も涙もない偉業を、ここではっきりと灯真はつまびらかにしたくはなかった。
「すいません」
前置きも勿体ぶった溜めもなしに、灯真は萎むような声で謝った。
先輩の過去を公にしたくない理由は、灯真にはもう一つあった。
以前の彼女の、他人への接し方は、もっとこう――灯真は言葉に詰まった。
身だしなみを整え、制服には皺ひとつ許さず、徹底的に感情を押し殺しそれを他者にも強要する。プログラムで規則的な駆動を盲目と繰り返す、そんな機械よりも機械らしい生き方を、まるで、誰かに自慢するような態度。冷徹なくせに、誰に命令されるでもなく誠実を貫こうとする――熱血なのか冷血なのかよく判らない。
灯真も、服装の事で彼女から注意を受ける生徒を何度か遠目に見たが、彼女の周辺では空気が薄いのか、生徒の唇は真っ青だった。
なのに、数ヶ月ぶりに再会した先輩は、ダウンジャケットに下はデニムのショートパンツ、履いている靴も明るい色をしていた。休みの日も家で勉強、出歩く時も学生服と言っていたあの噂は、嘘、だったのか。
「なに謝ってんのさ。そんな事より、早く行こ? 身体冷えちゃって」
頭に被っているのは、桃色の二ット帽。時おり見せるはにかんだ顔は陶器などではなく、ちゃんと血が流れているようだった。
震える素振りを見せた先輩に、灯真は拳を交互に振って、足を速めた。
そして、例によって、マンションに到着するなり紹介の挨拶と、相なったのだった。
「初めまして、母の涙子です」
「灯真くんの……お母さん……?」
「先輩?」
「いや、私はてっきり。でも、そうか。においはこっちからしてるし、うん。状況は呑み込めた」
譫言のように呟いたと思ったら。
髭もないのに顎を撫でて、すん、と先輩は、鼻を鳴らした。
「灯真ちゃんの先輩さん、そんな恰好で寒くない? ちゃんと着ないと風邪引いちゃうわよ?」
特に薄着な下半身に目をやってきた涙子に、へえ、と口角を三日月の形に歪めた先輩は、後輩を一瞥した。
「なっ、なんですか」
「いやぁ――灯真ちゃんがお母さんにいかに大切にされているかわかったよ」
頬を突こうとした指を灯真は寸でで躱した。
在学中は威圧感を振り撒き、分厚い氷の壁で周囲を寄せ付けなかった先輩が、転校して、美学のようにも捉えていたあの在り様を捨て、文字通り一皮剥けた。だが……これもこれで、近寄り難い。ぐいぐい来る感じが、悪く言えば暑……熱苦しく。よく言えば、人懐っこい。
ぱたぱたと腰で尻尾が揺れているのが見えるかのようだった。
「……いけない!」
「どしたどした?」
「灯真ちゃん?」
「せっかく先輩が来られたのに、飲み物の用意もしないなんて。嗚呼、僕はなんていけない後輩なのだろう!?」
「ジュース? それなら冷蔵庫に灯真ちゃんが買ってきてくれた残りがまだあるよ?」
「いや、それは母さんのだ! 先輩はなにをお飲みになられますか。この僕になんなりとお申し付けください!!」
抑揚を誇張し、手取り足取り。スポットライトもないマンションの古びた一室で灯真はクルクルと舞った。こうして喋っていると、僕というのが単なる人称とは、些か違った意味合いを持つような感じがしたが、その話題は端にやっておくとし。
「ささ、先輩様、この卑しい後輩めに生きる意味を! 何卒!」
「――うむ、苦しゅうない。面を上げよ」
跪いた姿勢のまま灯真は顔を上げた。
「パンツの隙間を覗くのではないぞ。そこは貴様如きが触れてよい領域ではない」
胆に銘じる。先輩様の言う事は絶対。
「では、貴様のセンスを生かし、妾に相応しいと思う最高のジュううううう~ッス、を買ってくるのじゃ。ほれ、お金は渡す。車に気を付けて、無理はせぬようにまっすぐ帰ってくるのじゃぞ」
これまた、ずいぶんと寛容な主様だった。
「ははっ! ありがたき幸せ!」
先輩が指差す方角へ灯真は駆け出した。この百五十円で先輩様に相応しい極上のジュースを購入し、車に気を付け、まっすぐ帰宅する。それを、自分の生きる目的にしよう。
扉が閉じる瞬間、ふり返った灯真に、優しく手を振る先輩が微笑みかけた。
今日この日まで、母に会って、このマンションから生きて出られた人はいない。流れた血の一滴、涙の一つまで、逃れる事は叶わない。
生徒だけでなく、教師陣にまで畏れられ、誠実と清廉を重んじる頑な性格と、血も涙もない判断力で『鉄血ドール』と呼ばれていた先輩が、あそこまで様変わりした。
人格は、本人の周辺の人間関係によって生成されるとは、なるほど、よく言ったものだと名前も顔も知らない相手を灯真は称賛した。垢のようにぬめぬめとこびりついた他者との繋がりが一新され――彼女は垢抜けた。その喩えだと先輩は孤独街道まっしぐらな気も、しないでもないが。
そこに紐付けするつもりは灯真にはなかったが、涙子にこれまで紹介してきた友達とは、良好な関係を築けた――少なくとも本人はそう信じたかった。どのような事情が背後にあ
って、自分や母に同情の目に晒されても、これから悲惨な末路を迎える彼女達には、最期まで誠意を持って接したかった。
夕暮れの街を走っていると、子どもとすれ違った。学校からの帰りだろう。
最近の小学生のランドセルは、ランドセル以外の鞄で登下校するのだろうか。まあ、電子端末一つで教材を賄う時代なのだから、背負う小学生の身の丈を超える、十字の鞄があったって――。
しかし、先輩と親しくなったのは、今日が一日目だ。仲良くなれた実感も、実はかなり薄く手応えも感じられなかった。だから、せめて、自分に出来る最大限のおもてなしをしてやろう、なんて息巻いて飛び出したのに。
ここから先は、灯真が家を空けた、その空白の時間である。
+++
玄関が閉まる扉の音を合図に、涙子は口火を切った。
「ごめんなさい、灯真ちゃんのノリに付き合わせて」
「かわいい息子さんですね。先輩の私が、こんな事言うのもへんですが」
「――けど、思春期の男の子って、けっこう大変よ? 私おばさんだから、あの子がなにを考えているか、時々わからなくなるの。よく聞くけど、ほんの少し前までは、まさか自分が、こんな気持ち、あの子に向ける日が来るなんて思ってもみなかった。……駄目ね」
遠い眼差しが、夜の帳が下りるのを窓から眺める。
「母親だから、なんて、いつまでもあの子に甘えてちゃ」
息子の、あの子への懺悔が、涙となって瞳の奥で蓄積してゆく。夕空を眺めていると目頭が熱くなってきて、零れ落ちた雫は茜の色に染まっていた。
人が一生の間に流す涙は、諸説あるけれど――六十リットル前後なのだとか。眼の乾燥を防ぐためだとか、その他諸々の生理現象で流れた涙に感情の起伏も合わせるとそれくらいの水量になるらしい。
ならば、と涙子はハンカチで瞼を拭って前を見る。視界が開け、世界が一変したあの日以来、この眼はあまりにも多くの涙を流した。バケツで貯めたならこの狭い部屋だって簡単に埋まってしまうくらい。
そんな涙子の気持ちを図ろうともしない、少女は、一転し鋭く言い放った。
「それは、本心からくる言葉ですか?」
「……どういう意味かしら」
「そのままですよ。これだけの事をやらせておきながら、あの子に申し訳ないと、あなたは本当に思っていますか」
責められている――目を見れば判った。この眼はもう、見えているのだから。
言葉で言い表そうものなら一蹴を喰らいそうな軽蔑を向けられている。先ほどの告白を、決して、断じて、憐れんでやるものか、という強い意志を送ってきた。
「あなた、一体……誰……?」
「あなたこそ、誰なんです。私は誰と話をしているんですか?」
「私、私は……」
五上涙子。五上灯真の母親。
そう言おうと、あっ、と口を開いた、……同時。
瞬――と。五指が二人にわだかまっていた空を切り裂いた。
が。伸ばした掌は虚空を握り締め、これといった手応えは感じられない。
馬鹿な――! 驚嘆に見開かれる涙子の双眸。取り繕うのも忘れ荒々しく喉の奥で唸りを上げた。
確かに、見えた。彼女の頸を絞め上げ、その脈打つ血を把握するのを。
と、いうのに。
どういうわけか、掴まれていたのは、涙子の手首の方だった。
渾身の力で元の位置に戻ろうと頑張っても釘で固定されたみたいに身体をビクとも動かせない。腕が抜けても構わないとそう覚悟したが、灯真への言い訳が思い付かず挫折した。
それにしても、何て怪力。これまで灯真が紹介した少女も、ここまでの力はなかった。抵抗しようにも、どれだけ急いだところで脳から信号を受け取った筋肉は、最初の一手には追いつけない。
ただの少女に、なんで――。
「ごめんなさい、私、普通の女の子じゃないんです。でも、それは〝お互い様〟でしょう」
手首を引き寄せたと思った、途端。組み付こうと少女の方から今度は涙子の顔面に手を出してきた。空気抵抗を受けながらもじぐざぐに突いてくる少女の手は、黒曜石の如き煌めきを帯びた鋭い爪に、内側まで、髪と同じ茶の毛に覆われていた。
鷲掴みにされた頭蓋を包む、ほんのりと温かく、柔らかな感触。どこか馴染みのあるそれは、昔飼っていた柴犬に瓜二つだった。
そんな昔の記憶に浸っている場合ではなかった。
この少女から離れよ、と、二つの眼が訴えかけてきた。
本能的な欲求に従おうにも、頭から天井に吊り上げられ踏ん張れない。
「がッ――!?」
気管が潰される感覚に息を詰まらせた、その代償に、掌に隠れていた視界が開く。
ニット帽が落ち初めて判明した。少女の言葉の意味を。
茶の髪から飛び出した少女の耳に涙子は注目した。落葉樹の葉に似て、またも髪と同じ、短い毛に覆われた耳。内側から和毛がこっそりと覗いていて、こちらは綿のようだった。
つい最近までハロウィンだったから、とも思った涙子だったが、こちらの息遣いを聞き分けようと時々ぴくぴくと聞き耳を立てている。表現としてよく多用されるけど、本来人に――聞き耳を立てる、なんて技はない。コスプレの線は、どうやら諦めるしかなさそうだ。
犬耳だけではない。少女の腰から出た、長く、さぞ肌触りがよさそうな尻尾がぱたぱたと空気中の埃を掃っていた。
幻覚と信じれたらどれだけ気が楽だったか。
耳と関連付けて尻尾も犬のそれと思っていた。だが、形状が少し違う。昔犬を飼っていた涙子にはその違和感に気付けた。犬のものより若干しなやかで、弾力がありそうな。
小さい頃の灯真と一緒に、動物園で観た、それきりだったけれど、彼女は――。
人狼。この子は人狼よ。人と獣、両方の血を流す、吸血鬼の敵。
それは、確かに自分の声。声の主は、五上涙子その人だった。
人狼? 吸血鬼? そんなものが本当にいるわけ。
だが神経を辿って脳に囁いた自分は、自分の知らない世界の知識を有していた。
「――母、さん?」
ビニール袋の落下する音に、少女もふり向いた。
「と、ま……きちゃ……め……!」
「先輩、その姿――いや、僕の母さんになにしてるんですか!?」
逃げろと声を張り上げたくても呼吸と併せて声帯も絞られ、かえって灯真を動揺させてしまった。
安心するよう言ったのは、彼女だった。
「この人は、灯真くんのお母さんじゃない。灯真くんも、とっくに気付いていたんでしょ」
なんて、酷い事を言う子なのだろう、と涙子は声を詰まらせ泣いた。
「母さんじゃない――莫迦な事言うな! 僕の母さんは、母さんただひとりだ!!」
引き剥がそうと少女の腕にしがみ付く灯真。拳を叩き付けても、引っ掻いても少女には掠り傷一つと付かない。
吹奏楽部は、時に体力を部員に要求する。ステージではなく立ったまま屋外で演奏したり、隊列で魅せるマーチングは何と言っても姿勢が重要で、本番が近付くと体幹を鍛えたり、運動部と一緒になって校舎の周りで走り込みをやった日もあった。朝練で早起きもするし――文学部なんてイメージが定着しているが、実際、体力勝負な面が色濃い。自慢ではないが、他のスポーツ系の部活と並んで体力にはそれなりの自信があった。
だが、戦闘のプロとは、また才能が違う。いくら体力が有り余っていても、それは誰かを感動させるためのもので。
とどのつまり。
灯真は、母親を助けられなかった。
「……! とうま、ちゃ……だい、じょ、ぶ。おかあさん……だいじょうぶ、だから、ね。はやく、い……って」
慣れていない暴力に頼ったせいで、爪は剥がれ指からは血が垂れていた。関節が青く腫れ上がり摩擦で肌には裂傷の痕がいくつも浮かんでいた。
痛々しい息子の様に、涙子はそれでも涙を堪え、にこりと笑みを。
笑うのが、こんなにも難しい事だったなんて。
「ごめんね、五上灯真くん。だけど、もう大丈夫。君はもう自由だ。今から、君のお母さん。正義の味方が殺すから」
少女の爪が、濡れた涙子の瞳を撫でた。ぐっと力を入れ、眼球の裏を掴もうと試みているようだった。
「ッ!? やめろ! それは、それだけはだめだ!」
「この魔眼がある限り、この街に血が流れ続ける。これは、この世界に存在してはいけないんだ」
ぷちり、と。それは神経が断裂する音――涙子の世界が一つ、絶たれた音だった。
「まずは、一つ」
母子の断末魔が重なった。
痛みからではない。ものすごく痛かったが。
もう、灯真の顔を見れなくなる。どんな風に怒って、泣いて、笑うのか。
再び――元に戻りつつあるかつての暗澹に、涙子は、狂おしいほどの絶望に咆哮した。
正義の味方と‶人狼〟の彼女は言った。ならどうして、こんなにも酷い仕打ちを強いるのか。五上涙子が目が見えるようになりたいと願うのは罪だったのか。
叶うなら。神でも仏でも、悪魔にさえ。
ささやかな幸福なんて期待しない、当たり前の日常が当たり前に続きますように、なんて二度と願ったりなんかしない。だから、
この眼で、息子を眺めていたい。
――永遠に。
閉ざされた瞼から涙より濃い雫を流しながら、五上涙子は祈った。両手を絡めるように組み恭しく。
彼女の祈りに耳を貸したのは、神か仏か、あるいは――。
やけに眼に違和感を覚え、ふっと前を見ると、視力は元に戻っていた。
新しい世界に最初に飛び込んできた景色は、再生した片目と手中に掌握した眼を比較しながら狼狽する少女の顔だった。
「話が違うじゃない――ッ!?」
怒気を込めて少女は呟いた。どうやら何者かの入れ知恵で、眼が二つあると思い込んでいたらしい。
何故か、涙子は少女に告げ口した人物に、心当たりがあるような気がした。
「母さん!!」
叫ぶ灯真の声には、喜びと、好転していない状況に憤りの両方があった。
ここで少女の手を振り払っても、彼女からは逃げられない。せっかく眼が元に戻ったのに、自分じゃ灯真を怪物から守り切れない。
熱い。目の奥が熱い。また泣こうとしているのか。母親なのだから、いい加減泣く以外の事をやってみせたらどうだ。
と、自分に腹を立てた矢先。
少女は、手を放していた。自分の願いが彼女に通じたとも思ったが、すぐにそれは勘違いだと涙子は悟った。
少女は肩から血を流していた。化物でも流れる血は朱いと知った瞬間だった。
何が何だかわけが判らず――視界の端に奇妙なものを、見た。葉脈状に幾つも分岐した紅い、一番しっくりきたのは……それは‶軌道〟だった。
涙子の瞳から放たれた熱線が少女の肩を貫いたのだ。
衝撃波に耐え切れず倒壊していくマンション。だが透明な膜でも掛かったように涙子の頭の上には埃一つと降らなかった。
「――母さん!」
「灯真ちゃん!」
最後の力を振り絞って、膝立ちから踏ん張った少女は、襟首を掴んでそのまま灯真を攫っていった。
「母さん!!」
「大丈夫よ、灯真ちゃんはぜったい……ボクが助けてあげるから!」
その日、新三巫市全域の空に、謎の赤い流星が観測されたのだった。
+++
「放せ、母さんの所に返せ、聞いてんのかこのブス――!」
「学校の人気者にそう言われるとさすがに凹むなぁ。悪いけど、あなたは、これからは私と一蓮托生。感謝なさい、こんな可愛い女の子にこんな事言われて」
瓦礫の崩落を何とか免れた灯真は少女と駅前にやってきていた。
あの謎の‶眼からビーム(とりあえずそう呼称すると決めた少女)〟のせいで、鍋をかき混ぜたみたいに街は大騒ぎ。下校や仕事終わりで帰宅途中の学生、サラリーマンが集中したのが騒動を大きくした原因でもあった。
遠征に続く遠征で、これだけ多くの人を巻き込んでしまった。彼から事前に聴いていた事情とも勝手がだいぶ、腹立たしいほど異なっている。
「母さん以外はこの地球上にいる女はみんなブスなんだよ!」
さらに、そんな事を、なんの臆面もなく言える年下の男子と一緒。
「ストレスで毛が抜けそうだわ」
「やっと手掛かりを見つけ来てみれば、目当ては逃げ、現場もないときている。あれは貴様の仕業か」
雑踏を縫うように、それは、近付いてきた。まるで、誰もその存在に気付いていないというのに。認識を無理やり改ざんでもされているかのような曖昧さ。
黒髪を結んだ小さな子ども。美学の価値も知らない動物でも、一目見たなら意識を奪われてしまう。
「貴様か、手紙にあった‶ヘッドマスター〟の弟子というのは」
「あんたが『吸血鬼殺し』? これも老師の話と違うし、ほんといい加減なんだから、あの人。特徴も1パターンしか一致していない」
背中に携えた巨大な棺――十字という珍しい造形のそれを見、少女は爪を噛んだ。
少年のような雄々しさにも、幼女のような可憐さにも映る存在感を醸し出す子どもの傍らには、長身の、こちらは一瞬で女と判った。張った胸、黄金を紡いだような髪。
だが、傷でもあるのか女の全身――顔も含め包帯に覆い隠されていた。
「まあ、いいや。手紙をもらったって事は、本人だし。――初めまして、『吸血鬼殺し』さん。橘千代紙です。あなたを支援せよと‶老師〟から仰せつかってきました」
差し出してきた少女――千代紙の握手を。
『吸血鬼殺し』は、全面無視した。




