Hungry,angry,Ugly
一部を除いて、五上涙子は何でも持っている。日常生活もさることながら、彼女に不可能という文言は存在しない。炊事だろうが、洗濯だろうが。力仕事だけだと思ったら、座学も得意ときている。彼女の舌には、膨大なんてちっぽけな単語では言い表せない言語に知識が収集されていた。
あと、これは根拠となるには些か弱いが、自宅には、電卓がなかった。足し算引き算というレベルを超え、掛けるのも割るのも彼女に掛かれば計算機器はおろか、紙もペンも無用の長物と化してしまう。小学生の頃、習ったばかりの円周率をどこまで言えるか競った事があった。夕飯前に始めたが、あのまま言っていれば、夜が明けていたに違いない。しばらくは円の面積を求めるのも冷や汗をかいた。何をそこまで怯えているのか先生は首を捻っていたが。今でも『パイ』という言葉を聞くと飛び上がってしまう。
高校に進学して電子辞書なるものを買えと学校側に勧められたが、そんなものを買うなら、親に聞いた方が安くて済むのにと言ったら、親と仲がいいのをクラスメイトから揶揄われた。コミュニケーションを嫌がるなんて、彼らは昆虫か蟹か、海老にでも育てられたのか。
五上涙子。僕、そして彼――五上灯真の母親だ。
縁あって――そんな彼女の数少ない弱点も最近克服された。それについて灯真は喜びを噛みしめた。こんなにも完璧な母に短所があるなんて、神は何て残酷な仕打ちを強いるのかと憎んでさえいた。まあ所詮は、才能を妬んだ神の嫌がらせ。神さえ嫉妬させる母は、本当に凄いと改めて思った。
一行目をふり返ろう。
完璧完全無欠無敵な五上涙子に、唯一息子が、ない、と断言できるそれ。
詳細は、……彼がマンションのドアをノックしてから紹介するとしよう。
「はい、着替え、あと、帰りの自販機に母さんの好きなジュースがあったから」
「ありがとう灯真ちゃん」
この団地に引っ越してから、今日で一ヶ月が経とうとしていた。
「頼まれたものもちゃんと買ってきたよ」
ここを出る前、涙子は息子にあるものを注文した。
黒い、カーテンだった。
部屋にも一応カーテンはあったが、花柄だと推測される布地は砂埃にまみれ、見るだけで衛生観念がおかしくなる。
「黒でよかったの? もっとカラフルな柄、お店の人に薦められたよ?」
「目が、ね。痛いの。昼間の間は、カーテンを閉めておこうと思って」
申し訳なさそうに、しかし笑みを崩さず言う涙子にしまったと反省する。母の眼は見えるようになったばかり。ほんの微かな陽の光も刺激になる。
「着替え、本当にありがとう。この恰好だとベタベタして気持ち悪くて」
声を萎ませた涙子は、‶食事〟の際に浴びた返り血で真っ赤に染まっていた。飛び散ったというより、頭からバケツを被ったかのように、エプロンも洋服にもドス黒い体液にまみれていた。その量は、両手両足の指でもまだ足りない。
畳、壁紙、部屋中に血はぶち撒かれ、扉を開けた瞬間、乾いた鉄と、女物の香水の匂いが充満していた。
「灯真ちゃん、これ」
「いっ、いやー! たまたま見つけたからさ。たまたま、たまたま!」
見抜かれると判っていても、灯真は嘘をついた。身分を偽ろうとした。
これが、灯真の悩みでもある。
欠けた要素のない、非の打ち所がない五上涙子だからこそ足りないもの。
五上涙子は、好き嫌いをしない。
無論、灯真から見れば、涙子もニンゲンである。嫌いな方は知らないが、母の好きなものは挙げられた。毎日のように買ってくるジュースが、ただひとつの具体例である。
多少選り好んでも地獄に堕とすほど神も仏も狭量な心持ちではないだろうに、戒律に則って母は何でも口にした。蝗だろうか躄蟹だろうが、お玉杓子だろうが。皿に盛られていれば美味いと感じるかもしれない。
そんな事を悶々と思案していた灯真が、ふと現実に引き戻された。
瓶を持ったまま、涙子が、突然涙を見せたからだ。ほろほろと、その勢いは凄まじかった。上下に震え、自分の意思ではどうしようもない嗚咽が溢れ出した。
この時、生まれて初めて母が泣くのを目の当たりにした灯真の頭は空白になった。
とりあえず理由を問うたが、肩を揺らした涙子は息子に詫びの言葉を繰り返すばかり。
何か、そう何かだ。今まで母と交流のあったのはただひとりだけ。なのだから、母をこんな目に遭わせたのは、自分以外に考えられない。
カーテンの色を馬鹿にしたからか。店の主人に薦められたように、母にはもっと明るい色が似あうと思ったのだが、目のことを言及するのはまずかったか。
あるいは買ってきた服が好みに合わなかった、いつも着ているのと似たデザインを、慎重に、慎重に慎重を重ね選択したつもりだった。
はたまた、今、持っている飲み物。あれは、本当に母の好物なのか。毎回毎回買ってくることに嫌気が差しつつも、親心から邪険にしないつつ、内心ではそれほど好きでもないものを飲まされうんざりしていた。
このどれかが正解なのは間違いない。
直接、問い質すか――いや、と、灯真は開きかけた口を縛った。血を分けた息子が泣いている母の気持ちを推し量れないなんて、これほど不幸なことがあってたまるか。
「ごめんなさい、ごめんなさい……こんな、非道い母親で」
「母さんが非道いなんて……! 僕の方こそ、母さんを泣かせる、最低な息子で」
悔いる灯真に、ちがうの、と、蚊の鳴く声よりも、弱々しく呟いて。
「灯真ちゃんのおともだちを、おかあさん……みんな、あんなにもいい子だったのに」
辛く温かい涙が、化粧要らずの涙子の頬を伝う。
透明な涙に濡れた二つの瞳は、この世ならざる紅の色彩に染まっていた。
「おかあさんの眼が見えるようになった、せいで……大好きな灯真ちゃんに、こんな仕打ち――! 灯真ちゃんがこんな目に遭うなら、おかあさん……一生、目が見えないままでよかった……!」
この街に移り住むのを条件に、あの人から貰ったこの眼。物心ついてから白夜のような視界しか知らなかった涙子に、彼の声は、季節が巡る風の音に聞こえた。
ずっと、このままでいい。大切な息子を側に感じられるなら、耳も聞こえなくていいし、味も感じなくていい。
だけど……、――欲をかいたせいで、こんな結末を招くなんて。
最初は、息子とよく遊んでいた近所の女の子の誕生会を引き受けた時だった。蝋燭を吹き消した息遣いに――少女の首筋に脈打つ血の流れる音が、何故だか、テーブルに並んだ料理のどれよりも、甘く、おいしそうと思った。試しに味見してみたら、悲鳴と困惑に味付けされた血はカシスソースの風味がし、ふんわりと柔らかいほっぺはホットケーキのような弾力と舌触りがした。
産まれてこの方、食というものには遜色することなどなかったが、また、あの味を味わいたいと喉を掻き毟る自分の姿が鏡に写し出された。
灯真は、本当に母想いの優しい子だった。お腹が空けば、息子は色んな場所から、子ども達を連れてきた。サッカー選手になりたい男の子、お花が好きで、息子のために公園の野花で髪飾りを作ってくれた女の子、勉強が苦手で息子に教えてもらった大人しい女の子、病気のお母さんのために必死に勉強してお医者さんになりたい真面目な男の子。いじめっこに勝ちたくて息子に相談にやってきた背の小さな男の子。息子のことを「灯真くん」なんて言って、駄菓子屋で買ったおもちゃの婚約指輪をくれた女の子。お父さんの誕生日に驚かせるんだ、なんて言って料理を教わりにやってきた女の子……。
憶えているのは、これくらいだった。灯真は人気者で子どもにはよく懐かれるから、近所の友達を記憶するのは大変だった。
しばらくすると、学校に馴染んだ息子が彼女を連れてきた。灯真ももう高校生。そういう機会があってもいいとしみじみしつつ、息子の成長が、少し寂しかった。
だけど、それが――母親のためだと知った。
――‶母さん。最近食べ過ぎじゃない? たまにはあっさりしたのも食べたら?〟
確かに、近頃何だか胃がもたれる。食欲も前に比べて落ちた気がした。
もう若くないんだなと自分の歳を改めて実感し、そんな母を案じる息子に甘えることにした。
灯真の言った通り――引き締まった筋肉はあっさりと喉を通りやすく、量もそこそこあって満足した。
もう、どれくらい殺しただろう。
あと、どれくらい殺すだろう。
自分はどうなっても構わない。
可哀そうなのは、灯真だ。せっかく高校に進めたのに、親の我が儘で故郷を離れ、棲み処を転々とし、せっかく友達ができても、…………。
息子の不幸の元凶である自覚はある。これが、母のする仕打ちとは思えない。
なのに、息子は、母を気遣って、見限るどころか一瞬だって離れようとしない。子ども頃によく飲んで、今は生産の終わっているこのジュースだって、本当は、一軒一軒、スーパーと自販機をしらみつぶしにあたり何時間も費やし余った在庫品を見つけてくれた。
なのに、たまたま見つけたなんて言い張る。
灯真にそんな嘘をつかせる自分が、情けなくてたまらなかった。
このまま別々に生きた方がお互いのためになるのではないか、と、最近はそのような冗談にも真剣になってしまう。
「母さん……」
「でも、どうしても……!」
――さよなら、もう、あなたとは一緒にいられない。
そんな残酷な事、こんな化物を大事にしてくれる息子に、言えるわけがなかった。
「母さん……、――顔、よく見せて」
え、と思わず訊き返してしまった。
洋服には血が乾き瞼は腫れて張っている。洗面所に走った所で水道は止まっており、顔を洗いにも行けない。
「やめて、お母さん、汚いから」
「確かめてみるよ。――ははっ、全く、母さんは心配性だな」
両端から挟み込む恰好で、灯真の手が涙子に触れた。
「僕は、母さんの今の眼、とっても綺麗だと思うよ? 紅玉みたいで。……そうだ!」
灯真が涙子の手を引いて向かった先は、今しがた彼女が行くのを諦めた場所だった。
「灯真ちゃん、お水、出ないよ?」
「ちがうちがう。ちょっとそこに立ってよ」
何やらはしゃぐ灯真を横に見ながら涙子が首を傾げる、と。
「ほら! 僕と母さんが映ってる」
埃に色褪せた洗面所の鏡に表れる、二人一組の男女。はにかむ青年と、戸惑うように鏡と鏡像を見比べる女性。互いに肩を寄せ合う二人の顔立ちはよく似ていて、涙子には、二人が親子だとすぐに判った。
「改めて見ると、僕って本当に母さん似だなぁ。母さん知ってた? 目元なんて瓜二つだ」
――本当に、そっくりだった。
「……そうね。ありがとう、灯真ちゃんは……お母さんの自慢の息子だわ」
親子なんだから、似ているのは当たり前だ。
この眼がなければ、そんな事にも気づけなかった。
灯真は涙子を励まそうと、いや。
いつまでも泣いてばかりいる母を、彼なりに叱ろうとした。前を向いて、掴んだ幸福を、その眼で見て欲しかった。
「母さんは今、お腹が減ってイライラしてるだけだよ。また、友達も彼女もたっくさん紹介するから。実はまた、いい感じの子ができたんだ。今度母さんにも会わせるよ」
「――楽しみにしてるわ」
「でも、いつまでもこんな場所に一人だと退屈するか。……そうだ! 僕が母さんになんか作ってあげるよ」
「灯真ちゃんが?」
「コンロとガスボンベ買ってくれば料理くらいここでもできるでしょ? ねえねえ、食べたいものとかある? なんでも言ってよ!」
母親である涙子ももちろん、灯真に料理の経験がないのは承知している。フライパンも握ったこともない。
だが、せっかくやる気になっているのだ。何かに挑戦したいという子どもの自主性を尊重するのも親の責任といえる。
ならここは、遠慮なく、図々しく、お願いしてみることに涙子はした。
「そう、ねえ…………肉じゃが、灯真ちゃんの作った肉じゃがが食べたいな」
「オーケー、肉じゃが………………オーケー」
どうやら、家庭定番の料理も、灯真にはエスニック料理を作るのと難易度が同じのよう。
あらあら、と、涙子は笑って。
「一緒に作りましょう。男の子でも、料理くらい作れなきゃだめだぞ?」
意地悪するみたく鼻を指差すと、灯真は、はい……なんて頷いて苦笑した。
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それから、灯真はホームセンターでフライパンとコンロ、ガスボンベを買って、帰りのスーパーで材料を買って、涙子から料理を習いつつ主婦の苦労を身を以て知――――るはずだった。
「とう、ま……ちゃ……!」
血濡れの夕焼けに浮かび上がる母。その頸がスポンジみたいに絞られる様を畳にへたれ込みながら息子は見るしかなかった。
「ごめんね、五上灯真くん。だけど、もう大丈夫。君はもう自由だ。今から、君のお母さん。正義の味方が殺すから」




