Tom,calm,her Palm
少女の前に、男が一人、横たわっていた。
光も届かない路地裏。泥腐と血肉の悪臭にそこに生きる生命体の精神を蝕む。脳細胞が収縮し迷い込んだ人は息をするにも億劫になり、喉をかっきり、連れていた飼い犬の、手入れの行き届いた上等な毛皮は薄汚れ涎を垂らして落ちていた肉片にむしゃぶり付く。ほんの数分前までリードを握った手を咥えながら、子犬は満たされない空腹に低く唸った。慈愛に満ちた神様でさえ匙を投げたろくでなし共の楽園。禁断の果実から滴る蜜の味も忘れ獣の本質を取り戻す。
そんな路地裏の真ん中で寝そべる人影に、少女は声をかけた。
「貴様が、情報源だな?」
「……なんだ、お前」
ここ三日間まともな食事にありつけていない男のしわがれた質問に対し、少女の声はとても澄んでいた。鍾乳洞に滴る雫のような。
遠くで木霊する女の悲鳴をうつらうつらと聞きながら白濁した眼球を瞼の内側で転がした男が見やる。
齢は十一かそこそこ。服装はどこぞの私立の制服。日没が近いこの時間帯でも紺が際立っていた。磨かれた革靴、半袖のズボンから生えたすらりと白い足、やや年季の入った赤いランドセルを両手でしっかりと握り締めている様がまた愛くるしい。艶やかな黒髪を一つに綺麗に結い上げている。どんなシャンプーを使えば髪がそこまで輝くか、もう何日も風呂に入らずスウェットで過ごしている男は聞いてみたかった。
「貴様に問う――貴様の娘についてだ」
永久凍土よりも冷たい言葉だった。こんな大人に遭ったんだ。軽蔑されても無理ない。
「娘、ムスメ――ああ。そういやそんなのも、俺にはいたっけ」
ふっと閉じた瞼の裏が鮮やかな記憶に色づいた。
――そういえば。あの子、誕生日だっけ。妻と選んだプレゼントは今もクローゼットに隠しておいてある。家族でドライブに出かけた時、車窓からあの子が偶然見つけたランドセル。小学校に行くのは義務教育なのだからいづれは用意する計画だった。だから、もっといいのを買ってやると母親と何度も説得したのに、たまたま発見した新品のランドセルに張りついて、誕生日にこれを買ってほしい、誕生日じゃなきゃいやとせがまれた。
わがままなんて言ったことのない大人しいあの子の大泣きは、まるで夏の蝉のようだった。
結局その日は店を後にしたが、あのランドセルが売れた事実を、娘は知らない。なにもない商品棚を見たら、娘はひどく落ち込むに違いない。両親を責め、産んだことを恨む子に成長する――なんてあの子に限って起きるはず、起こすはずもなかった。
ケーキを開けて、蝋燭を吹き消した娘が、クローゼットを開けて驚く顔が目に浮かび、男は笑みを零した。
「娘を忘れたか」
「いや……憶えてるよ」
「そうか。――〈鬼〉に喰い殺された貴様の娘だ」
殺された? 誰が?
想い出に酔い痴れ、と――曇天から溶け落ちた雨が男の頬を鈍色に濡らした。生温かい感触が顎を撫でてゆく。
「……あ、あ、っあ……ああ!?」
頭が割れそうになる。偏頭痛にこめかみ、ではなく耳を押さえた。大晦日にはまだ少し早いのに鐘を打つ音が脳神経を破裂させ海老のように身体を仰け反らせた。
断末魔に泡を噴く男の形相は、悪魔に乗っ取られたように鬼気迫っていた。
鬼気――そう。〈鬼〉だ。娘は〈鬼〉に殺された。
大脳にねっとりと張り付いた鉄臭い記憶。誕生日なのにその日は定時に帰れず押し付けられた残業を終わらせ、駆け込んだ終電で確認した携帯で、娘がまた大きくなったのを知った。
画面は膨大な着信履歴で埋め尽くされていた。一番最近いもので三分前。番号は妻の携帯だった。固定電話ではなく携帯、十秒間隔で表示された膨大な履歴の累積に、ドアの前で助走をつけ、駅に着くなり、周囲の顰々声も置き去りに男は走り出した。高校は運動部でそれなりチヤホヤされ足には多少自信があったが、革靴だと本調子が出なかった。十分の一も出せただけで上出来だった。
――あら、こんばんは。
――どうしたんですか、そんなに慌てて。
道で腕を摑まれふり返ると、顔見知りと鉢合わせした。近所に引っ越してきた母子で、おっとりと、ふわふわした物腰の母親と息子。息子の方は男でも可笑しな気分にさせられる顔立ちで。不思議な雰囲気の母子に妻、特に娘がよく懐き、知り合って一日目で息子を「おにいちゃん」なんて呼んだりしていた。歳の離れた友達ができたと喜んでいたのを憶えている。
――今日、いや昨日か。娘の、誕生日だったんです。
足踏みが治まらない下半身に釣られ早口になった。
――知っています。ついさっきまで、僕らの家で誕生会を開いていましたから。
――用事がありますので、私たちは少し出掛けてきます。娘さんと奥様は、今日は泊まっていくとおっしゃっていました。
――そう、でしたか。
いつまでも帰ってこない夫を家で待つより友人の家で盛大に誕生日を祝った方がいい、そう思ったのだろう。
どちらにしろ、家には帰れない。
手を放してもらい再び走り出そうとしたら、今度母親は、名前で引き留めてきた。
――まだなにか?
気付かないうちに声に苛立ちが籠っていた。
――今日は……ごちそうさまでした。
最後に微笑み、腕を組みながら母子は街灯の明滅する夜に消えていった。
言われた通り、五上家の玄関には娘の靴が揃えて置いてあった。不用心に玄関が開いていたのは母子が気を利かせたわけではなく、家を出た妻が鍵を持っていなかったためだった。
他人の家に上がり込むのは気が引けるが、妻子が世話になったのだ。あの母も、家に入るのを許可するような口ぶりだった。
――妻は、夫の帰りを待つため家に戻ったのか。母子の用とは、娘の父親を、駅まで迎えに行く事か。なんにせよ、小さな子どもを放っておくなんて。
玄関先から見た家の明かりは消えていた。子どもはもう寝る時間だった。
と、靴を脱いだ男は――廊下の先、リビングに続く扉の擦りガラスに揺らぐ蝋燭の灯火に気付いた。
娘が待っている。父親は直感で思った。電気を消し、ケーキに火を点け、吹き消すタイミングを待ち遠しにしている。
――ごめん、遅くなって!
男は焦っていた。娘への罪悪感に頭がいっぱいで、夜ふかしを叱るも、ハッピーバースデーと手を叩くも、今いるのが、他人の家であるのも忘れていた。
不運にも、男の伸ばした指の先には、リビングの明かりを点けるスイッチがあった。
パチン――!
灯る光の先に、あの子の笑顔はふり向かなかった。
『さあ、話せ。貴様が見たものを」
どこかで少女の囁く声が聞こえた。
絵の具を塗るみたいに記憶に色彩が為されていく。
部屋は、なぜか陰っていた。
ケーキが映る。そこに紅が墜落しホールケーキに立てた蝋燭の火を消した。雫はテーブル以外にも床や壁紙にも飛び散っていた。
噎せ返る命の香りに男は口を押さえ蹲った。
つむじにポタリと落ちる朱色の雨。指でつまむと糸を引いた。
見上げた男の頬に、血の雨が降り注いだ。べっとりと、ねっとりと天井に浮かぶ赤黒い沁み。ぼこぼこと凹凸の天井は、糸で縛ったソーセージを連想させた。
‶赤黒い〟のは、血が、ではない。色の違いは物体の異なりから。
天井にこびりついた髪は結ばれてあり、束ねる、サクランボの飾りのヘアゴムは――娘がしているものとよく似ていた。
リビングの隅に転がっているランドセルより、娘の血は朱く、温かった。
「あアああああああああアアアアアアアアアAAAAAAAAAAAAAAAAAA」
男がどれだけ涙を流しても、薄まらず、娘の血は鮮烈さを保っていた。
あの子がもう、歳を取ることは、永遠にない。
「貴様が最後に遭った奴は、〈鬼〉だ。そいつは貴様の娘を殺し、今もこの街のどこかに潜んでいる。言え、晒せ、開示せよ――貴様の娘の血を啜ったのは誰だ?」
現実は、どんな時にも解を要求する。生に失意し、堕落の果て全てを失くしても、真実から目を反らすどころか、希望という名の絶望を贈り付けてくる。
ほら、聞こえた。見えた。
福音が……。
「……あなた」
ここまで辿り着くまで一体どれほどの理不尽を味わったか猿でも憐れみの目線を向けるほど、男の妻は変わり果てた姿で路地裏にやってきた。そう――果て、だ。痩せこけたというにはあまりにもオブラートに包み過ぎ、皮を剝いだように、一目惚れした面は頭蓋骨のようだった。靴も服にも泥が跳ね薄っすら化粧を施した肌は水気を失い罅が割れていた。しわがれた声は声帯だけが何年も歳を重ねたようで。
少女を挟み再会した夫婦は、乾き切った目で互いを憐れんだ。
たった一つ、綺麗だったのは。
妻の右手に握られた安物の果物ナイフだった。
「……あの子が」
妻の殺意に夫は自分が何者なのかを思い出せた。摩耗した人格に、無言で発信された殺意が補完され自己を獲得した。客観的、自意識なんて高尚なものじゃない。
一度は一つとなり、子を成した相手であっても、だからこそと言うべきか――異なる意思が交わったなら、両者の間にわだかまるのは三つ目の感情だ。黄と橙、同系色を混ぜ合わせたら、片方ずつには似ているが、新たな色彩はどちらとも似れないように。
それは、いいわけがましくいいわけを羅列する機能が限界だった。
「あの子が、あんなことになったのは、僕のせいじゃない」
「そうね、あの子がああなったのは、私のせいじゃないわ」
仮にあの肉の塊を「あの子」と呼べたなら。
リビングには引っかいた跡がいくつもあった。削られたドアには、小さな子どもの爪も残っていた。
「お巡りさんに、私、言っちゃったの。……‶娘が、いなくなった〟って」
娘が目の前で喰われた。手足をもがれ、頭を潰され、泣きじゃくった喉を咀嚼する音を聞いたのはその耳だ。
――ごめんなさい、もう、おなかがいっぱいなの。今夜はお開きにしましょう。娘さんの誕生日を祝えてうれしかったわ。プレゼント、明日の朝に渡しておくわね。
彼女はそう言い、笑って、放心状態になっている母親からランドセルをひったくった。
駆け込んだ交番の巡査があまりにも落ち着いて、取り乱す自分を宥めようとまでするものだから、身体中の血痕を、本当は嫌だったのに、触って確かめた。
服は、昨日の夜洗ったばかりで、ほとんど汚れていなかった。
馬鹿な、と、男は笑った。
妻の服は――あんなにもあの子の血にまみれているではないか。
すん、と少女は鼻を鳴らした。
懐かしい、忌々しい記憶が鼻腔をくすぐり舌打ちした。
男の袖にこびりついた残滓を頼りに居場所は追える。
ここに来る前に家にも行ったが、奴の痕跡すら残っていなかった。そのまま放置された死体に付着した唾液は追跡するには薄すぎたから、別の香りを頼りに仕方なくここに立ち寄った。
明らかな罠だった。現場の痕跡を調整し、犠牲者の近況を見せる陰険さが、実に『奴』らしい。
「奴の居所を教えてくれた礼に、貴様らにこれを返す」
ランドセルを放置し立ち寄ろうとした、ら――少女は最後の確認のためふり返った。
「貴様らの娘を殺した〈鬼〉は、あそこに住んでいたのか。目の視えない母親の方はとにかく、息子は、ただの人間だろう」
間違いない、と、両親は断言した。
「「……五上涙子、五上灯真。娘は、あの母子に殺されたんだ」」
ランドセルを下ろして初めて判った。
少女が少女ではなく、少年な事に。
「ママ、そろそろ」
「そうね……あの子が、プレゼントを待ってるわ」
夫婦の行く末を見届ける事なく、少年は路地から立ち去った。
翌日。新三巫市西区の廃ビルの裏で男女の死体が見つかった。警察は娘の失踪を悔いた両親の心中と断定。
だが、包丁で互いの喉を突いて向かい合って斃れる二人に感情はなく、寝顔のように安らかだった。
二人の間に抱かれた、赤いランドセル。
僅かに開いた隙間は、もう一人入るには十分だった。




