Happer,hair,No longer
今回、導入に物語は安才稚子を選んだ。
「五上くん、お待たせ」
下駄箱前で靴を履き替えながら安才は待ち合わせをしていた部の後輩に手を振った。
「無理言ってご一緒させてしまって。申し訳ありません」
「水臭いこと言わないでよ。しばらく部に顔を出さないから先輩の顔すっかり忘れちゃった?」
校門を抜け二人は歩き出した。秋も終わりに差し掛かった11月ともなると陽が沈むのが早く、街灯に点々と照らし出す通学路も夜の帳が下り一人で歩くには心を焦燥とさせた。
「練習の方は、僕がいなくて……大丈夫ですか」
「な~にそれ、自惚れてんの? 五上くん一人欠けて転覆するほど、我が校の吹奏楽部は軟弱じゃあありません」
隣を往く安才部長は隣で不穏な表情を浮かべる後輩に、どこか茶化すように言った。
何故そんな言い方をしたのか。
学校の部活とは、いわば子どもだけのチームワークだ。学業の一環である以上顧問が介入する。そんな中でも、多感な感性と大人に対し偏見とも呼ぶべき閉塞的な価値観に生きる思春期の少年少女らにしか共有できない領域がある。
文学系でありながら部員が一丸となって一つの演奏をする吹奏楽という部活は、チームで勝利を目指すスポーツ系の部活に近く、共通点に、ある種の繊細さ、完璧を追求する側面が共存している。
安才が五上灯真に辛辣にあたったのは、入部から半年も経たずに部室に来なくなった軟弱な新入部員に対する叱咤、彼のおかげで来年には同好会に降格が決まって、人手不足でコンクールにエントリーする資格すら失った自分達の力不足の嫉妬――その両方だった。
それも、五上の魅力と、それ故に引き起こされた事件を鑑みれば、今しかない青春を疎かにしてしまうのも、他の先輩同級生後輩同様に同情の眼差しで見てしまう。
――見て。五上君と、あれ吹部の安才部長!?
――新沼先輩が失踪してもう新しい彼女見繕ったってこと。
――五上君がそんな女をものみたいに扱うわけないじゃない。安才先輩がたぶらかしたんだよきっと。
――五上君かわいそう。
――そういや、安才先輩と新沼先輩って幼馴染みらしんだけど、新沼先輩から先に告って険悪になったって。
「先輩、僕……離れて歩きましょうか」
「いい。別に、なんとも思ってないから」
背後から噂が憑いて来る。羨望、嫉妬。年上も年下も関係なく睨んでくる同性からの赤裸々の感情は、ことのほか堪えた。
「なんで五上くんが責任感じてんのよ」
「誘ったのは僕からです。それに先輩だって、桜……新沼先輩がいなくなって辛いのに」
必ず桜を見つける、そう宣言する後輩の自信なさげな男の目は、痛々しいほどかわいくて、母性をくすぐられた。
それにしても、世の中には根も葉もない噂で悪口を言うニンゲンがいたものだ。
確かに新沼桜とは、同級生同士だった母親の関係で物心付く前からの付き合いだった。音楽が好きで、同じ部活に入って、弱小チームで部員の増えないことにお互い頭を抱えつつ、毎日を楽しく過ごしていた。
なのに、何の前触れもなく、彼女は幼馴染みの前からいなくなった。相談にこず、手紙で悩みを打ち明けもしないまま。
自分の前で訂正する五上の苦笑いに、純白のテーブルクロスに黒い染みが垂れる――そんな光景が安才の脳裏に過った。
「……名前で呼ぶんだ。あんな女の……」
「先輩?」
「んっ、なに」
「今なにか」
「そんなことより、桜がいなくなった理由、彼氏だったらなにか知らない?」
警察は家族ぐるみで交流のあった安才宅にも来た。荷物や衣類の類がなくなっているから家出だと捜索を続けているらしいが。
「警察から聴いた。五上くんの近所でも、小学生の女の子がひとり、行方不明になったんだって」
やや間があって、おっかなびっくり――意を決したように五上は打ち明けた。
「よく、一緒に遊んでました。いい子だったのに」
「自分を責めないで。その子も、桜がいなくなったのも五上くんのせいじゃない」
部員の噂を拾っただけだが女児は友達の家に遊びにいくといって、夜になっても帰ってこなかった。
少女以外にも最近街を若い女性の失踪事件が騒がしている。西区の学校からも生徒が何人か家に帰らず、友達の家にもいかず学校にも来ていない。警察はなんらかの事件に巻き込まれたと踏んでいる。およそ半年前に起きた『満月事件』との関連も視野に捜査を進めている。
パトカーとテレビ局の車が街を一変させ、昼も夜も見回りのサイレンの光、野次馬、レポーターの声に小さな街はお祭り騒ぎだった。
「実は、……僕」
突然足を止め五上は拳を握り締めながら呟いた。
「桜が失踪した理由に、心当たりがあるかもしれません! もしかしたら、なにかよくないことに巻き込まれたのかも」
「どういうこと……?」
「ここじゃ言えないので、先輩さえよければ……時間、僕に貸してくれませんか!?」
こちらを見る生徒を一瞥しながら五上は声を忍ばせた。
「条件、付けてもいい? ――うちの近所にね、カフェができたのは桜から聞いて知ってるでしょ?」
首肯する五上。やはり。
「最近そこでバイト始めたんだ。部活が忙しいから今はそんなに行けてないけど、私、新メニューを考えたの。パフェなんだけど、今度暇だったら――味見、付き合ってくれない?」
「――はい。楽しみにしてます……!」
時間の交換取引に不満でもあるのか五上の返事はどこか情けなかった。困惑気味な表情も、男の子なのに、耳を垂らした子犬のみたいに愛くるしい。
――ああ、もぅ。どうしてこの子はこんなにもかわいいのかしら!?
もしかしたら、彼女がいるせいで女性への誘いに少なからず抵抗を感じているのかもしれない。
気にする必要はない。だって――。
新沼桜は、いなくなったのだから。
やっぱり、相談を持ち掛けられた時、背中なんか押したりせず、後輩に手を出そうとしたふしだらなあの醜女から、部長として、彼を守っておけばよかったと安才は今更になって後悔を膨らませた。
五上に手を引かれるままバスに乗って謙遜から逃れた安才が到着したのは、螺鈿と茜が混在する空に聳える灰色にヒビ割れた、築半世紀が経過した建物だった。外され穴だけ、もしくは石かなにかで投げ込まれ花模様に割れた窓を数え、エントランスから上部に上る階段を追う。
今は誰も住まない団地は新三巫市の若者でも、西区にある遊園地跡に連なる有名なスポットだった。人気、と言いつつも――逢引きのが枕詞にくっつく。
安才は、制服がじっとりとべたつく首筋のボタンを外す素振りをし、すぐに手を離した。件の行方不明事件で部活動は中止なのに、今日はやたらと汗をかく。
「ここで、じっくり、先輩とお話したいん……です」
安才は、とうとう覚悟を決めて、団地の階段を一段一段上がった。
そう言えば、と。思い出して五上の肩を叩いた。
ぴくっと反応する男特有の大きな背中に胸の高鳴りを覚えた。
「こっ、ここには〈鬼〉が出るらしいよ! クラスの子が話してるのを聞いたんだけどね」
その友達が、別の学校の男子生徒とここを訪れた日の出来事。雨の降る夜中で明かりはなかったが、いくつかの空き部屋からは若い男女の熱い喘ぎ声と畳を掻き毟る音がしていた。
部屋を一つ一つ改めるわけにもいかず、廊下を巡りながら玄関に耳を当て無人であることを確認していたところ、突き当たりの部屋の扉が、こちらを誘うかのように開いているのを発見した。
場所が場所だけなので、閉め忘れたとは考えにくかったけれど、万が一と、人がいないか恐る恐る覗き込んでみると――。
荒れ果てた部屋に、女が立っていた。若い女のシルエットだった。
すると、稲妻が空に煌めき。
こちらを凝視する双眸は、瞳孔が縦に裂かれ、血濡れの如き赤だった。
遅れてやってきた轟音に悲鳴を上げてその場は逃げた。そのせいでその夜は特に彼とはなにも起きなかったという、愚痴だった。
「まあ、所詮は根も葉もないただの噂だけど」
団地に人喰いの〈鬼〉が出る噂は別の学校でも有名だった。若い女性を攫って、愛し合う音に交じって人肉を咀嚼する音が聞こえる、なんてのもあった。
だがそのどれもが、女ではなく男だったという点からも噂にはなんの信憑性がないことが推測される。
「ここで待っていてください。外で飲み物でも買ってきます」
突き当たりの角部屋に安才を置いて五上は外の自販機に走った。
飲み物なんて来る途中の自販機でいくらでも買えたのに、意外にもおっちょこちょいな面もあるのか。
それにしても――新沼桜が失踪した原因について安才は考えた。彼氏もできて、頭もそれなりによかった幼馴染みが充実した生活を捨てた理由。
そりゃ、付き合いたての頃は五上の練習に付き合ったり家で覚えてくるようにと楽譜を渡したり、部活の邪魔にならないように、なんて新沼に対して五上と会う機会を減らすように釘を刺したりもしたが、それはあくまで、五上が恋愛にかまけ部活が疎かにならないように、親友が非行に走ってこのような淫らな場所に来ないように。全ては、部長とし、あの子の親友として当然のことをしたまで。
――などと。安才は、相談に乗ったうえで先に告白した幼馴染みに都合のいい言い訳を、淫らな匂いが残る部屋で思った。
例の〈鬼〉の噂以降、ここがカップルの溜まり場であるのが近所に広まってしまい久々に活気を取り戻した男女の憩いの場はすっかり閑古鳥が鳴いていた。ここを通ってくる間も買い物帰りの主婦が手を繋いで歩く五上と安才を一瞥した。
そんなに気になるなら、建物の持ち主もさっさとここを取り壊せばよいものを。業者を呼んで工事をするにもお金が掛かるのか、ここといい西区の遊園地といい、この街には〝建物の死体〟が多過ぎる。
にしても。遅い。
口に合うジュースでも探してくれているのか。喉が渇けば手持ちの水筒のお茶で足りるのに。
まさか、水筒じゃ満足できないほど、これから、それはそれは濃密な話し合いをするつもりなのか……。
「――こんにちは」
「ッ!?」
突然声を掛けられびっくりした。
「あの、どちらさまですか……?」
「はじめまして。五上灯真の母です。息子にここへ来るよう言われまして」
「五上……灯真くんの、おかあさん」
どさくさに紛れ、彼を下の名前で呼んだ。
それにしても、正面玄関を除き、気付かれずに入ってくる入口なんてどこにもないのに。
五上の母を名乗る会釈した女は、とても若い外見をしていた。見ようによっては、彼の姉と見間違えても不自然ない。
しかし、本当に……。
「……綺麗な人……」
「あら?」
「ああ、ごめんなさい! わたしったらなに言ってんだろ!?」
小首を傾げる仕草は、どことなく灯真に似ていた。
黒髪を後ろに垂れるように結い、エプロン姿。典型的な、誰もがイメージする主婦の恰好。
「ふふっ。いいのよ、べつに。あなたも、とてもかわいらしいわね。今すぐ……食べちゃいたいくらい」
「なっ何言ってんですかおかあさん! あっ、あはは……」
「……ねえ、灯真ちゃんが帰ってくるまで。もう少し、お話ししない? 私、若い子とお話しする機会がなくて」
それから一時間程度、安才は灯真の母――五上涙子と雑談した。
「へえ。涙子さんって、ずっと目が見えなかったんだ」
「生まれ付きだから、自分の境遇を不幸に感じたことはなかったわ。でも、手術がうまくいって、はじめて世界を見て……なんて言えばいいのかしら。正直、なにも感じなかった」
「普通は、世界の景色を見たら、泣いちゃうものじゃないんですか? テレビなんかでもよく目にするシチュエーションですけど」
「もちろん、泣いた。でもそれは、病院の窓から見える景色じゃなくて、わざわざ学校を休んできてくれた、灯真ちゃんの、汗まみれになって、かあさんって喜ぶ姿だった」
聴いていると、こっちまで目頭が熱くなる安才だった。
しかし、夕飯の支度の途中に母親を連れ出してこんな所に連れてくるなんて、五上はなにを企んでいるのだろう。――そういうプレイを、ご所望?
「そういや、知ってます? ここ、人を食べる〈鬼〉が出るんですって。クラスメイトの話じゃ、女なんですって! ――もしかして、涙子さんだったりして。こんな美人に食べられるんだったら、私だったら本望だなぁ、あっはは――」
安才は腕を組もうとした。だけど、できなかった。
気が付いたら片腕がなくなっていて、噴き出した血が天井を赤く染めていた。
「――へっ?」
どくどくと赤黒い血が部屋を染める光景を見、だんだんと、感覚が伝わってきた。
安才から取り上げた腕を奥歯でばりばりと嚙み砕き、咀嚼した骨を呑み込んで、五上涙子は言った。
「そう。安才さんがいい子で、よかった」
「え、え……ええええええええええええええええええええええええええええええええ!?」
涙子の声が引き金となり現実に戻った安才の大脳は激痛によって支配された。これまで感じた経験のない激痛は、痛みとさえ認知するのもむずかしかった。強いて近しい表現を繕うなら――熱々に熱したやかんに、一日中手を当てたような。あくまで想像の範疇だが。
動脈、静脈、どちらから飛び散った血か最早判別することもできない。
頭で判断するよりも早く、本能の赴くまま安才稚子は玄関に走った。そしてすぐ得体の知れない液体が飛び散り今は女子高生の血にまみれた畳の上にうつ伏せに倒れた。
膝を突こうにも、飛び掛かった涙子が、安才のマーチングで鍛えた太ももから下を食い千切った。
「涙子、さん。いたい、いたいよ。返して……わたしの手と足。それがないと困るの!」
這いつくばる安才に、涙子は肉を食みながら首を横に振った。
「ごめんなさい。私だって、灯真ちゃんのお友達に、こんなひどいことしたくないの。怒って、恨んで当然よね?」
「怒らない、恨んだりしないから! 返して! 食べないで!!」
「でも、おばさんにはどうすることもできないの。ひぐっ、うう……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。この目がいけないの、この目が――安才さんを食べたいって私に言うの!」
ぽろぽろ、ぽろぽろ――五上涙子は、泣いていた。その目を真っ赤に腫らして。
いや、違う。安才を見る眼は、元々赤かった。
「安才先輩……?」
がちゃりと扉が開き、ペットボトルを手にした五上灯真が戻ってきた。
「灯真ちゃん……?」
「五上くん逃げて! あなたのお母さんニンゲンじゃない! 警察、警察に――」
必死に助けを求める安才。
その口を塞ぎ、灯真は、
「――ただいま、母さん。飲み物買ってきたよ」
「ずいぶん遠くまで買いに行ってたのねぇ」
「母さんの好きなやつがなかなか見つからなくて、スーパーまで走ったよ」
「なんでもいいっていつも言ってるでしょう。灯真ちゃんが気を遣う必要ないんだから」
「まーたこんなに汚して。桜といい、古都美の時は身体が小さくて片付けしやすかったけど、手伝う僕の身にもなってよねぇ」
「ごめんなさい……灯真ちゃんのお友達って、みんなおいしいから、つい……」
落ち込む涙子に、灯真はふくれっ面になった。
「……ッ!? ……!!」
意識が薄れていく中、息苦しさを覚えながら、安才は、これは夢なんだと悟った。
朝になったら、桜なんかに相談なんかしたりせず、自分から灯真に告白して、通学路では手を繋いで、休みの日には、自分の作ったパフェを食べさせるんだ。
――ああ、早く、朝にならないかなぁ。
「……あは、あはは……あはははは……!」
「見て灯真ちゃん。安才さんったら、泣きながら笑ってる」
「母さんに食べられて、よっぽど嬉しいんだろうね。――あ、そういや母さん、ちゃんとした?」
「いっけない、私ったら急いでてすっかり忘れてた。安才さん……今までありがとう――いただきます」
手を合わせる音が聞こえ、安才の意識は、深く、決して明けない夜の淵に堕ちていった。




