せなか
『本当に、いいの!?』
ふり向いた寝音は、強張る笑顔で訊ねた。
「お前が着たいって言ったんだろ? 素直に喜べ」
『わあい!!』
嬉しさのあまり手放しでくるくると舞う。
成見に買って貰った服を着た寝音が、夏の太陽に負けんばかりの笑みを輝かせていた。
二人は――その言い方はある意味で正確ではなかった。通行人にしてみれば、服屋のショーウィンドウのガラスに映る人影は、成見ただ一人だけである。立ち止まってぶつぶつと譫言を呟く成見に道行く人は距離を空けていた。
まあ、ともかく。
二人は――街に来ていた。西区の繁華街は新三巫市四区でも人気の、この街の中継地点である。踏切を超えると、そこはまさに異世界に迷い込んだかの如き賑わいだった。
純白のワンピースを、一度でいいから着てみたい。
――何時までこの世界に留まれるかわからないから。
人ごみの渦中に飛び込むなんて無理、まっぴら御免被りたかったが、買ってあげた服に身を包み跳ねる寝音を見ている内、成見の中で鬱々と絡んでいた苛立ちも次第に晴れていく感じがした。
『驚いたよ。岡くんに、こんな高い服を買える経済力があったなんて』
「田地が俺をどういう目で見ているか推察できる言い草だな。……別に、貯めてたってわけじゃないよ。たまたま、財布に去年と今年のお年玉が入っているのを忘れていただけ」
使い道もなくこのまま財布の肥やしになるのもかさ張ってうんざりしていたから、スッキリして成見にも好都合だった。
『……岡くん、ありがとう!!』
「え、……ああ」
“ありがとう”
最後に面と向かって言われたのは、何時のことだったか。成見はその意味をなかなか思い出せず後頭部に手を回した。
『有り難く』がウ音便化して現代に定着した言葉。意味は、滅多にないこと。
どんなものにも、いつか終わりがくる。永遠などないことを断言した、ある意味では諦めを表した言葉でもあった。
岡成見と、田地寝音。この世に在る生者と、他者には認知できない幽霊の二人が、仲良くショッピングに興じている。成見の買った服に楽しそうにはしゃぐ寝音は、何時までこの世に存在できるかどうか定かではない。
「お前には皮肉屋の才能があるよ」
『ひき肉屋? お父さんはマンガ家だよ』
「あのお父さんマンガ書くの!?」
見た感じ、銀行員とかお堅い仕事をしている人かと思った成見には過去一の衝撃だった。
『『吸血ボーイと貧血社畜』。血が足りない中間管理職のおじさんに、吸血鬼の男の子が自分の血を飲ませる話。“みらくるみみか”って知らない?』
「作品云々よりも、お前のお父さんの話がマンガになりそうだよ!」
マンガには疎い成見も、その名前は聞いたことがある。今、巷でその手の“スペシャリスト”の間で、カリスマを超えカルト的人気を誇る大人気の純愛マンガ。ゴールデンでのアニメ化や実写映画化も決まり、今期一のマンガとニュースでも取り上げられるほどだった。
ところが、作者はメディアの出演NG。高校生だったり、主婦が描いていると考察が朝のワイドショーを盛り上げていた。
「人は見かけに寄らないっていうけど、それでも限度があるだろ。ていうかいいのか、そんな話、俺なんかにして」
『誰かに言ったら……祟っちゃうかも?』
手を前に出し、ドロドロと脅かしながら寝音が詰め寄ってきた。
「その脅迫は今洒落にならないからやめろ!」
呪うという表現を敢えて避けるあたり、寝音も、やはりマンガ家の娘だった。
「一つ気になったんだけど」
『なに?』
ワンピースの裾を翻し方向転換する寝音の首がことりと傾げた。
「お前って、周りからどう見えているんだ?」
『どう……て?』
「俺には、田地が服を着て歩いているようにしか視えないんだよ。他人には、俺らは今どう認識されているんだ?」
『わたしが普段は全裸で外を出歩いているような言い方だね……でも、そうだな』
胸の前で腕を組んだ寝音は眉間に皺を寄せ唸った――かと思うと、携帯を耳に当て歩く男の往く手を阻むように躍り出ようとした。
無論、というか当然――幽霊である寝音を男は知覚できない。目の前にはいないが、直感でなにかを予知したのか反射運動で歩道の脇に逸れた。
「なにやっているんだよ!?」
奇行に奔る寝音を見兼ねた成見が手を引き路地裏に退避させた。
男はというと、自分が『なに』を避けたのかと、辺りを見回しては首を捻っていた。
『どういうこと?』
「それはこっちの台詞だ。いきなりあんな真似して」
『え、だって。岡くんが訊いたんじゃない。周りにどう見られているか……見られないと判らない。そうでしょ?』
成見に問うた寝音の問いは跳ね返る山びこのようであった。
迂闊だった。
田地寝音を召喚した当事者として、成見には、彼女の気配を認識できる。会話も可能で、質問すれば返してくる。
……だが。それは、岡成見にのみ許された、自分だけの特権だとばかり思って。可能性に対して深く考えようとしなかった。
霊的な事象に敏感な、あるいわその未知の道に精通した者であったなら。例えば――クラスメイトにそういった人種が、一人でもいれば。
休日の地下、死人と談笑する姿を見られてしまう。
信用に足る噂とは言えない。こんなオカルトめいた冗談、一言零せば学校の憂き者として扱われる。だがその一人である成見は、学校の人間関係など意に介していない。霊感もあってコミュケーションもあるオカルトマニアだって、いてもいいはず。
先の一連の行動から寝音の存在が公にならなかったのは、成見には、とても運のいいことだった。
「みっ……見えてないんだから、そんなことしても、仕方ないだろ」
自分だけが、彼女を識ることができる。
強がりのつもりで言った成見の発言は、寝音には、冷たくとも取れた。
だがら。寝音は、ささやかな〝反撃〟を試みた。
『じゃあ、教えてよ。岡くんには、わたしが……どう見えてる? 今の、この、田地寝音が一体』
「また揶揄おうとしてるのか……。――いい、と……思う」
『……っ!』
「おいバカッ! 今のなし、真に受けんな!」
頬を染める寝音に、曖昧にぼかした部分を聴かれたのが成見にも判って咄嗟に訂正を申し出た。
あのまま車に歩行者と騒音まみれの表通りにいれば、反応はもう少し違うものとなっていた。狭い路地の裏手で、吐息が当たるほど距離を詰めるしかなかった寝音は、成見の思惑に気が付いてしまった。意図して、彼がなにを恥ずかしがったのか。
仮に、聞こえただけなら、平然といられた。
暗く、涼しく、他人の目もない空間が、異性と二人きりになった事実を強調していた。
『かわいい』――なんて、面と言われた寝音は、照れを隠そうとするあ
まり、車道を突っ切って反対の遊歩道に逃げ込もうと駆け出した。
遠く背中を目で追ううちに――いつかの光景が成見の脳裏でフラッシュバックした。
「まって!!」
無意識に喉仏が震え、大きく振りかぶった寝音の腕を、成見は力加減も構うことなく掴まえた。
荷物を運ぶ宅配便のトラックが寝音の鼻頭を掠めた。
「あぶないだろ! わすれたのか!?」
『…………ごめん』
抱き締められたことなど忘れ、寝音は、成見に謝るしかなかった。全霊で、目いっぱいの罪悪感と反省、取り戻せない後悔を込め。
田地寝音の死因は、事故だった。放課後、道路に飛び出したところを、トラックに轢かれた。
彼女の最期を、岡成見はだれよりも知っている。
『でも……今度は、間に合ったね』
そう囁き、笑ってみせる寝音に、体温はなかった。温もりも、冷たさも。成見は霞を抱いているようだった。
寝音が変わらず、ここにいる。笑って、助けてくれたことに感謝している。
それが、なにもかももう、手遅れである証明で。クラスメイトを救えなかった、なによりも変え難い真実で。
この時までは、成見は、寝音と共に時間を共有できること、他のだれでもない、自分だけが死者を独占している状況に、ほんの僅かばかりか――大いに優越感を感じていた。
寝音は、自分の過ちを許してくれた。だからこそ、呼び掛けに応えた。
田地寝音は、事故死では、なかった。
「田地寝音を殺したのは――……俺だ」




