にわとり
※二部構成。やや長めです。
岡成見と田地寝音の再会を祝福するにあたって、まず先に彼の母親について説明しなければならなかった。
成見の母親は、今の生活に、不満はなかった。不安などなかった。
成見の母に対する心配は、全くの見当違いだった。
愛したはずの夫に裏切られ、幸せだった生活は打ち切られ、悲しくなかったといえば嘘になる。
職場結婚だった。夫――今は『元』を付けなければならない。さすがにというか、籍は別々となった今、あの男を夫と呼ぶにはあまりにも抵抗があった。
営業職だった彼は、真面目が服を着て出社しているような、仕事熱心で、上からも下からも信頼厚く、そんな彼に、同部署、同僚だった後の妻も惹かれていった。
これは本当に意外だったが、告白は、彼の方が先だった。外回りからの帰り、その日は陽が落ちるのが早く、夕方五時には月が昇っていた。
疲れ、このままアパートまで直帰しようとした道先で、彼は、サラリーマンや下校中の高校生らが行き交う大通りの歩道で、唐突に、縦膝を突いて、書類でパンパンに膨らんだ鞄から、給料三ヶ月分の指輪を出した。堅物だった彼の、見かけによらず結構なナルシストぶりに、二つ返事でOKした。
第一線を退き、スーツからエプロン姿に転身した時も、元・夫は、妻に優しく声をかけた。家事なんて学生の時分、母の料理を手伝った以来で、内心不安だった妻は、男の一面をまたも惚れ直すこととなった。
彼に似た一人息子もすくすくと成長し――こんな生活がずっと続くと、口には出さずとも、そう思って疑わなかった。
今にして思うと、妻は、己の軽率さ、愚かさを呪わずにはいられなかった。
自分は、なんて、人を見る目がないのだろう。
出逢ってから、はや十五余年。
元・夫は、一日たりとも、ほんの一時さえ仕事を怠ったことはなかった。
それが、妻にはあまりにも当たり前の日常の風景で気が付かなかった。家で見せた気遣い、結婚記念日を一度も忘れたことのない誠実さ。
それらは、営業マンで培ったノウハウ。他人が気持ちよくなれる、気持ちいいと感じられる、錯覚できるテクニックだった。
どうりで、不思議と思わないわけだ。
全部ぜんぶ、同じだったのだ。
彼は、ずっと働いていた。真面目な営業マン、良い夫……、良い父親。
ある日、自宅の電話に知らない番号からの留守電が入っていた。電話の主、それは彼が以前受け持ったと話していた会社の部下だった。
その電話で、家族は、夫の本当の我が家はどこか知った。
『じゃあ、元気で』
軽くどこかに遊びにいくかのような口調で、彼は、カメラを握り締める息子の頭を、憑き物が取れたように笑いながら撫でると、車に乗って、二度と帰ってはこなかった……。
――結局、全てを委ねても、彼女は、家族は男の『同僚』以上にはなれなかった。
母一人、子一人。
これまでの話で、彼女らのことを不幸と思った人がいるかもしれない。
だが、妻は、母は、自分を可哀そうだとは思わなかった。家は残してくれたし、親権も置いていった。
息子も父に裏切られ一人になった。が……決して孤独ではなかった。
母には息子がいる。息子には母がまだいる。
1+1=2。安い言葉に聞こえるが、だれしもが知っているその公式には、無限に匹敵する幸福があった。
仕事を変え、街から出て行った男は、自分を偽り、今もだれかを不幸にしている。そんな噂が風に乗って妻の許に届いていた。
母は、別段気に留めなかった。他人の不幸せなんて、自分の知ったこっちゃない。地球を一周すれば、不幸なんて星の数だけある。
他人の不幸を探し続けるより、自分の中にある、たったひとつの、ちっぽけな幸福を感じていた方が、よっぽど幸せというものだ。
+++
「……あら?」
仕事から帰ってくると、玄関にマウンテンバイクがなく、いつも自分を出迎えてくれるはずの息子の姿がなかった。
部屋を覗いても、やはり息子の影も形もなく、やり残した宿題だけが彼の不在を証明していた。
「どこに行ったのかしら」
買い物袋を手に首を傾げていると、携帯が震えた。
『公衆電話』
逡巡。十数年ぶりに見た表示にほんの一瞬、出るのを躊躇った。あの男だったら、どうしよう。
だが、それは過大評価だった。真面目だった彼は、残業だけはしない主義だったのを、ふいに思い出す。
「もしもし」
『母さん?』
「成見。今どこにいるの」
『……ごめん。今、友達と公園にいるから、帰りおそくなる』
「遊んでたの?」
『まあ、そんなとこ』
受話器越しに聞こえる車の走行音。
確かに、成見は今、学校の向かいにある大通り沿いの公園の公衆電話から掛けているらしい。
「暗くなってきてるから、気を付けて帰ってくるのよ」
『わかってるよ……じゃ』
電話を切ると、ひとりになった家で一人、切れた電話を見つめながら、はにかむように笑った。
学校の話はほとんど、というか全くしない息子だが。どうやら、上手くやっているようで安心した。
それから、兄から電話があった。兄は、近所で小さな養鶏場を営んでいる。彼が育てる鶏が産む卵は近所でも有名で、スーパーで売れ残ることはなかった。
鶏が盗まれた。
犯人の顔は残念ながら見れなかったらしい。
なにをしたいか知らないが、美味しい卵を産む鶏を盗むなんて、酷い奴もいたものだ。
+++
旧校舎には、以前からよからぬ噂が――なかった。
果たしていつからそこにあったのだろう。少なくとも自分が入学した時には、それは校舎から隠されるように、雑木林の裏手にひっそりと建っていた。
明かりという灯りが全て抜き取られた木造校舎は、太陽が西に傾けば途端に暗くなる。
だというのに、埃と黴の乾いたにおいの充満する教室はまるでサウナで、大きくなる影は熱を帯びて侵入者を排除せんとした。
額の汗を拭う成見は、一息つくつもりで埃の積もった机に腰を下ろした。
円形状に席をどかした、その教室の中央には、巨大な魔法陣が描かれてあった。
大きさにして約、鶏二羽分。
鶏の体温は四十度近くもあるらしい。養鶏場の叔父さんが話してくれた。
「大丈夫、だいじょうぶ……。顔は、見られてない」
魔法陣の側で、鶏が二羽。頭を割られて息絶えていた。今日まで叔父さんが育てた大切な鶏。
儀式には、生きた動物を生贄にしなければならない。
都会で生き物を見つけるのは至難の業だ。まして、抵抗する動物を取り押さえ、血を抜くなど。
叔父さんの所には、成見は何度も遊びにきていた。
餌をついばみながら、鶏は、また成見が遊びにきたものと全く警戒しなかった。
「……次は」
持参したメモを確認する。
――『よびだす あいて の かお を おもいうかべ じゅもん を となえる』――
「――おかえりさん、おかえりさん。どうぞ、おかえりなさい。おかえりさん、おかえりさん。どうぞ、おかえりなさい。……おかえりさん、おかえりさん。どうぞ…………おかえりなさい……」
魔法陣の前で呪文を詠えること、三度。
…………
…………
…………
特に、なにも起こらなかった。
拍子抜けもいいとこだった。
期待したわけではないけれど、ここまでの大仕事をしたのだ。錯覚でもいい、血液を夕焼けとのナントカ現象でもいいから、魔法陣が光り出すとか、そんな演出があってもよかった。
予想通りというか、あまりにもつまらない時間だった。
死者に会ってみたい。そんな子どもみたいな好奇心があった。
結局、つまり、案外、自分も他の連中と同じだったということが今回の件で証明された。
ほんの興味から――ありもしない七不思議のため、ここまでのことをやってのけた。鶏を儀式に使うのは、些か中学生らしいとは言えないが。
鞄は、ここに置いておこう。成見はそう決めた。
幸いここは、老朽が進み立ち入りが制限されている。用務員だって掃除に来ない。
忍び込もうと考える動機があるのも、今は、ひとりだけだった。それも、もういないが。
鶏は、倉庫からシャベルを拝借して学校の裏手に埋めよう。生贄にしておいてなんだが、このまま放置というのは可哀そうというか、いくらなんでも不憫だった。
とりあえずシャベルを取りに行こうと、成見は教室を出ようとした。
この先、これからの未来で彼になにが起こるか。それはすでに、前書きで明記されていた。
結論から言って、儀式は、成功した。
神秘的な効果も、神々しい光も、あるいは呪いの兆候もなく。曖昧、かつ、余裕綽々に。
“……岡くん……”
懐かしい響きに、耳の――耳小骨に今だ刻み込まれた声に、成見はふり返った。確認せざるを得なかった。
「田地……寝音……!」
彼女の名を口にしたのは、何百年ぶりだったか。
アバンは、岡成見の夏休みは、こんな感じで始まり。
終わった。




