招待状
全ての始まりとなるその手紙を式折々が受け取ったのは、夏が終わりかけた八月下旬の暑い日だった。
最高気温は四十度近くとなり、エアコンのない式の部屋は一晩蒸し風呂状態だった。地下で本来なら夏でも快適なはずが。
『魔法使いの末裔』も、命を奪うような気温には耐えられない。
「おはようございます。折々坊ちゃま」
屋敷の大広間で式を迎えたのは、使用人の一人の空木雀だった。
新三巫市の高校に通う雀は、式家の屋敷に通いで給仕として働いている。
「おはよう雀さん」
雀から貰ったタオルで額の汗を拭う式に、雀は改めて一礼。メイド服に、シニヨン髪をまとめた雀は、式よりも背が高く、大人の女性独特の気配があった。
同じ高校の一年生である式折々と雀は、学校の先輩後輩で、それ以外に一切接点のない間柄だった。しかし、ここでは主と従者。その礼儀は、彼女も心得ている。
「今日は、また暑いですね……」
「はい。本当に……暑いですね」
なぜか落胆したように肩を落とす。声のトーンの落ち込み具合も、寝起きからくるそれとは明らかに違っており。
「……期待していました? ……式が死ぬのを」
屋敷の誰よりも早く起きる雀は、とある理由から主を亡き者にしようと計画を企んでいた。
殺すな、と、どれだけ約束しても次の日の朝には、あの手この手その手で式の命を取ろうとしてくる。
慢性的な殺害計画に、とうとう式も雀を止めるのを止めた。今もこうして元気に過ごせている、ということは雀も本気で殺すつもりはないようだが。
今日は安心して目覚めることができる、と……思っていた式だが。
今朝の雀は自然を味方に主を抹殺しようとした。
「雀さんは、宿題どれくらい終わったんですか?」
すでに用意されていた朝食を頬張りながら寝間着姿の式は尋ねた。
「私よりも、坊ちゃんはまずご自身の心配をなさってください」
冷淡に言う雀は、主の成績を本気で案じていた。
テストは毎回白紙。授業時間は屋上で昼寝。
たった一人の肉親である祖母も、そんな自由奔放な孫を黙認していた。
雀が通い、式が転校してきた高校は、周辺の地区でも知らない者はいない超有名な進学校だった。
生徒指導部も、街でばったり出くわそうものなら逃げ出してしまうほど生徒には恐れられているのに、自他共に不良と認める式には、どういうわけか甘かった。
原因は、外の人間は知らないが、この街に住む者なら知らない者はいないほど『式』という名が有名で通っていたからだ。
この街で、その次期当主である式折々に逆らえる命知らずは、ただひとりであった。
「今日も、坊ちゃんに夏休みの宿題の楽しさを私自ら教えて差し上げます」
式は箸を止める。
鉛筆、許可書とルーズリーフの束を持った雀が目の前に立っていた。
「さっ……さーて。タチバナさんたちの様子でも見に行きましょうかー」
食事もそのままに立ち上がる。が、往く手を阻む雀は主の逃亡を許さない。
「どこに行かれるのです。私の許しがあるまで、坊ちゃんは屋敷を出ることはできませんよ?」
「『魔法使いの末裔』は、なにかと忙しいんです。そこを退いてください」
「坊ちゃまが、忙しい? ……はっ」
世迷言をと、雀は鼻で笑った。
「用事を作らないと外出できないあなたが、多忙なはずないでしょう」
「本当だもん! 式、とってもとっても忙しいもん!」
駄々をこねて強行突破しようとするが、袖を摑む雀に通じるわけもなく。
隠れた前髪から式を覗く眼は、雀というより、恐怖に硬直する獲物に狙いを定める猛禽類の眼光だった。
「では、質問します。我が主。あなたは、この一ヶ月近くもの間、なにをしてきましたか」
ぐっ、と唸る式。わなわなと狼狽する式の返答を雀はいつまでも待っていた。
「今と同じです。坊ちゃん、あなたは、なにもしていない」
直球ストレートで真実を突き付けられた式の身体が大きくえび反りに傾いた。
「ここッ! これから、用事を済ませに行くんですー」
「たとえば?」
「……た、タチバナさん! これから、タチバナさんと会う約束を」
「坊ちゃんが頼りにしている橘一誠様ですが、昨夜『いや、さすがに宿題はやった方がいいよ。明日は、こなくていいからさ、あはは……』と仰られていましたよね?」
それは、あまりにも具体的、いや、まるで現場を目撃したような発言だった。
『魔法使いの末裔』は、いついかなる時でも、平静を崩さず平然と身構える。
「……証拠でも、あるんですか?」
その言葉を待っていた、とでも言うように。
雀が懐から取り出したのは、マイクと、イヤホンの付いたトランシーバーのような機器だった。そこに貼られたシールには『坊ちゃん見守りアイテム』とマジックで大きく書かれてあった。
「この私に、隠しごとが通用するとでも?」
ちーん。と、式の脳内に鈴の鳴るような音が響いた。
ちなみに『鈴』とは‶すず〟ではなく‶リン〟と読み、仏壇で手を合わせる時などに鳴らす鉢の形をしたあれだ。
まさか。苦し紛れとはいえ、橘と雀は初対面。勝算は十二分にあったのに、盗聴されていたとは。
「スカートの裏に、夏休み中仕込んでおきました。場所を明かしたので、また仕掛け直させていただきます」
「夏休みの間ずっと!? そしてまだ仕掛けるんですか!?」
これでは、もう、着替える度に雀の監視を意識して、落ち着くこともできなかった。
「ちょっと、ポストを確認してきます」
「逃がしませんよ」
玄関に向かおうとした式をぐいっと雀は強靭な腕力で引き戻した。
気痩せするタイプ、なんて、世間ではよく言われるが。雀の華奢な体躯からは想像もできない力が生み出された。
「だいたい、どうして坊ちゃんがポストを確かめる必要があるんです?」
「『魔法使いの末裔』宛てに助けを求める依頼がきているかもしれないでしょう」
追い込まれたとはいえ、ここまでやぶれかぶれになるとは雀も想定外だった。普段のあの式折々なら絶対に取らない言動の数々。
真夏の猛暑は、自称『魔法使いの末裔』をも狂わせてしまうのか。
「じゃあじゃあ、雀さん。雀さんはどうなんです? 見た感じ、友だちいさなそうですけど?」
負け惜しみだ。性質の悪い子どもじみた負け惜しみに、思わず口端が吊り上げられそうになる雀だった。
「ほーら、ご覧なさい。雀さんだって、人望ないくせいにー」
「……残念でした」
坊ちゃんこそ、さあさ、ご覧なさい。
雀が式に披露したモノ。
先月に届いた暑中見舞い。先週届いた暑中見舞い。三日前に届いた五通の暑中見舞い。今朝届いた同級生、先輩からの暑中見舞いが十、二十、三十…………
楷書で丁寧に書かれたマジックペンの濃厚な匂いが、あんぐりと口を開け硬直する式に、雀の絶対的な勝利を告げていた。
「誰の、人望がないって……?」
扇のようにひらひらと仰ぐ雀。
裏返し、手で隠した宛て名は、全て剣道部からのモノだった。
雀は今、式の命で新三巫市で起きた事件の被害者が所属していた部に潜入している。
そこでは、夏になると部員で暑中見舞いを送り合う伝統があることを、雀は主に報告していなかった。事件とは無関係……おまけに社交辞令的行事であったから。
「そん、な……。雀さんも……学校ではぼっちだと、おもてーたのに……」
地面に膝を突く式。信じていた相手に裏切られたショックは、図り知れないものであった。
これでもか、これでもかと見せつける雀。当然、宛て名は伏せておく。
「あれ? ……これ坊ちゃん宛てです」
扇いでいると、ふと、葉書に紛れて一通、宛て先が違う郵便物があることに雀は気付いた。
渡されたそこには、確かに『式折々様』と書かれていた。
「ほーら! やっぱり依頼はきていました」
土下座しろと胸を張って床を指差す式。
「て、なに勝手に開封しているんですか」
「……坊ちゃん、すごいです。……本当に、きました……!」
本当に式宛てに、一体どこの変態が彼に手紙なんか送り付けたのか中身を確かめた雀。
茶封筒には、一枚の便箋と、一枚の写真が添えられていた。
燃えるような夕陽に照らされた校舎の廊下を写した写真。
封筒の裏と便箋の末尾には、差し出し人の名が記されていた。
『火原井毬里』
茶封筒を覗き込む式と雀は、愛らしい名前から連想する姿ではなく、その荒々しい名字にこそ惹き付けられた。
‶七不思議〟とか‶亡霊〟とか……‶もうじき殺される〟なんて、常識的に正気な人間なら悪戯か悪ふざけと思ったはず。
だが、二人は信じた。非常識に正気ではない二人は、そこに書かれている事実を鵜呑みにした。
――かくして、この物語は始まったのです。
などと、恰好付けた前置きを宣言する酔狂な人物は、このお話には登場しない。
なぜなら、これから先、この物語には、主人公が一切登場しないまま完結するのだから。




