-幕間- かくてあやし
最終話です。ご愛読ありがとうございました。
休戦協定締結から――四日後。
『吸血鬼殺し』は久方振りの休暇を満喫していた。
「……いい場所だな」
皮肉をたっぷり込めて言う。
隠れ家を提供したのは、あの胡散臭い自称・魔法使いの末裔の小僧だった。
岩山を抉り取り掘られた手掘りの隧道。ごつごつと岩石が密集してできた壁のすき間からは、長い年月をかけ滴り続けた水滴が至るところに――それはまるで時間が止まったかのように垂れていた。
人一人がやっと通れるじめじめとしたトンネルは、道というより鍾乳洞であった。
新三巫市から車で三時間かけた奥深い山にあるトンネルは、あの小僧によると二百年ほど前に掘削が計画されたのだとか。街を支配していた豪族を逃がすために掘り進められた道のりは、隣街山中の旧道まで一本道に続いている。この堅く冷たい地面の下に、トンネル堀りに動員された配下の作業員、のべ百人が今だ埋まったまま。
工員には、女や年端もいかぬ子どもまで含まれており、落盤事故で全滅した一族もいると式折々は言った。
夜中、草木も眠る時刻になると、泣き叫ぶ声や、岩に身体を潰される犠牲者の断末魔の叫びが聞こえるとかいないとか。噂からさらなる噂が生まれ、雑誌にも取り上げられたトンネルは全国から若者を呼び寄せる心霊スポットとなっていた。
というのも、今は過去の錆付いた人気。出入り口を厚い鉄板で塞がれたトンネルは何人たりとも侵入を許さず、唯一開錠が可能な新三巫市側の扉の鍵も、式家が厳重に保管、管理していた。
「くそ……忌々しいはあの糞餓鬼」
土の粒子を含む汚水に一張羅が濡れるのも構わず、明かり一つない隧道にもたれた『吸血鬼殺し』は唾を吐き捨てた。
ここが〝隠れ家〟?
人の噂は本当だ。ここには眠ることを許されない死者の嘆きに満ち満ちている。岩山が発する磁場も名だたるほかの霊峰に匹敵する。ここは、間違いなく『神の領域』だ。勘の鈍い人間でも一歩立ち入れば精神に異常を来たす。
間違いを指摘するなら――埋まっているのが百や二百では足りないということ。
屍体の数が多い。多過ぎる。一個の災害規模だ。
これでは、意図的に人柱にしたと考えるのが自然。
そこまでして、ここを掘った人間は――一体『なに』を逃がそうとしたのか。
噂に関する語弊の件はいい。
これくらいの屍体の数、吸血鬼を相手にしている天敵には嗅ぎ慣れていた。
『吸血鬼殺し』が憤っていた原因は、式折々は、なにもかも判っていたということ。鉄板も軟禁する手段にはならない、と全てお見通しのうえで、あの軽薄極まりない慧眼な小僧は、断れない『吸血鬼殺し』を見て愉しんでいた。
あの吸血鬼、アレを助けた男を追い詰めたことへの意趣返しということは、薄々気が付いていた。
「『闇に慣れろ』……か」
師匠の口癖だった。そう言い聞かされては、こんな暗闇に何日も、何週間も閉じ込められた。太陽を浴びず、孤独に言葉を忘れることもあった。
吸血鬼に母親を……たったひとりの家族を殺されたあの日、少年は世界の裏側を識った。人を食糧に死に続ける怪物。不死身の化物の腸を裂き血を啜り生きる『死を殺す者ども』。
『死を殺す男』の師もまた、死を糧に生きる男だった。人のまま闇を放浪する哀しい存在。
……今にして思えば、あんな破綻しきった男によく人を育てる能力があったものだ。
「自律思考限定解除。……質問してもよろしいでしょうか?」
棺から顔を覗かせた十字架が主人に伺いを立てた。声はくぐもっていたが男の聴覚は言葉を正確に捉えた。
「許す。なんだ」
自律行動を許可された十字架が男の傍らに腰を下ろす。体育座りの金髪の女は包帯越しに横をじっと見た。
口の包帯は『吸血鬼殺し』自身にしか解けない。
「どうして、彼らを見逃したのですか?」
「不満か」
そんなわけがない。
十字架に感情はない。考える意思も、疑問を抱く機能は備わっていない。冷徹に計算し、機械のように入力された任務を遂行する。
「そのような機能はありません。人形に心はありません」
綺麗な声でそう断言する。
やはり心は宿っていない、と『吸血鬼殺し』は事実を再確認した。
その通り。十字架の問いは主人の行動の矛盾に対する反射だった。
世界中の誰よりも彼女を理解している男には判っていた。
「奴らは、夢を視ている。叶わぬ愚かな夢だ」
吸血鬼を人間に戻す。
それが果たして、どれほどの意味を持つのか、あの男はまるで理解していない。想像力が足りないとは、なんと愚かなことか。
あの男は言った。誓った。
死者を生き返らせる、と。
世界を創造した神がなし得なかったことを、半年でやってみせると、不遜にも豪語したのだ。
「奴らがどのような末路を辿るのか、など……楽しみでもなんでもない。……橘一誠。貴様は、破滅する」
『二十番目の始祖』は必ず、己の天敵に懇願する。
殺してくれと。
十字架の矛盾は解消された。
「理解しました」
「無駄話は終わりだ。来い」
腕を摑み引き寄せ、その柔らかな首筋に『吸血鬼殺し』は牙を突き立てると、血を飲み、空腹を……癒えぬ乾きをいつものように凌いだ。
かつて、母と呼んだ、魂なきその肉体によって。
+++
「こんな所にいたんですか」
「式……」
「またいなくなったと心配しましたよ。って実際いなくなったから、当たっているんですが」
式家が所有する廃遊園地にて。吸血鬼の寝床にて。
展望台の柵の上に立つモアは茜色に彩られた街並みを茫漠と眺めていた。
「……タチバナは?」
「まだ寝てます。ここ三日間ずっと気を張ってましたからねぇ」
意地悪そうに笑う式。狙ってやっていた。
「彼には、余計な重荷を背負わせてしまった。……シキ、君にも」
「水くさいことを。式の役目は、タチバナさんの役に立つことですから」
「ずっと気になってたんだけど」
柵から降り立つモアの服がふわり、と秋の風にたわめく。
「君は……どうしてそこまでタチバナにこだわるんだい?」
以前、橘からも同じ質問を受けた。
誰に聞かれても、式は同じ回答をする。
「あなたは、どうしてなんですか? 助けてもらった恩、なんてありきたりなこと言いませんよね」
「そうだよ。ボクは彼に助けられた。だからボクも、彼を助ける。ありきたりかい?」
式はかぶりを振った。
断じて、そんなことはないと。
「君が言ったんじゃないか」
「ここで本心を隠すようじゃ、その想いはニセモノです。けれどあなたは即答した。……だから信じます」
互いに笑い合う。それは、談笑する少女の光景で……とても微笑ましいものだった。
見た目に騙されるな……とはよく言ったものだ。
「タチバナには、内緒にしていてくれ。たぶん、怒るから」
「でもいつか、言ってほしい……でしょ」
「いじわる」
くすり、と自然に笑みをつくる吸血鬼。
まるで、人みたいに……。
「本当は、知ってるんでしょ? 吸血鬼が人間に戻る方法」
かつて、人に戻れた吸血鬼はいない。
外側から世界を観測し続けている魔法使いの末裔である式折々には、それが断言できた。
「彼は、答えに辿り着きますよ。必ず。その時、どうするつもりですか?」
モアは言った。
「本当なら、この場所でボクは最期を迎えるはずだった。それが、半年まで伸びたんだ。たとえ半年しかいっしょにいられないとしても……ボクは、もう少しだけここにいる。タチバナのそばにいたい」
未練に満ちた表情で。
「ずっと、こんな自分が嫌いだった。だけど、だけどね。生まれて……死んではじめて、『吸血鬼になってよかったな』って、思えた。だから……そう思わせてくれた彼との出逢いを、これからも大切にしたい」
人喰いの怪物が、夢を視ている。なんて純粋で、なんて無垢なのだろう。
ああ……気持ち悪い。反吐が出そうだ。
「……よかったですね。じゃあ、残された時間をどうか謳歌してください。ここからは平穏なスローライフの始まりです」
「シキ、なんか怒ってる?」
「モアー!」
「ほら、来ましたよ?」
「タチバナ!」
「どこいってたんだ!? 起きたらいないから、街中探しちゃったぞ……!」
血相を変える熱い橘を手を取りながら、彼の熱を感じながら……。
「ごめんなさい! もう、どこにも行かないから」
「ほんとに、もう大丈夫? なにかしてほしいこととかない?」
「ん~……歩きたい!」
「歩く? どこかに連れていってほしいってこと?」
「ううん、タチバナといっしょに歩きたいだけ。気が済むまで、どこまでも」
「どこまでもってのは、ちょっと。帰ってこれなくなるから。でもまあ、それもいいか」
手を取り合って、一人と一匹は歩き出す。
仲睦まじい光景を、式は険しい面持ちで眺めていた。
『そばにいたい』
『大切にしたい』
彼女は、願望を口にした。なにも望まない、本能のままただ人を喰らう吸血鬼がはじめて。
それが、世界の均衡をどれだけ揺るがすか。
「……守りますよ。タチバナさん」
‟たとえ吸血鬼を殺してでも”
夜の帳が下りる空の彼方から、暗雲が迫っていた。




