死を殺す男-5-
時刻は遡り、午後六時。
死を殺す男の上陸から一日が経とうとしていた。
日没が迫ると共に起きた橘一誠は、傍らにいるはずの吸血鬼がいなくなっていることに気付いた。
「モアー! モアー!」
陽の暮れかけた街を息も絶え絶えに大声を発する橘をすれ違う通行人が振り返る。だが誰も引き留めはしなかった。
昨日行ったコンビニに行った。
一緒にアイスを食べた場所を確認した。
人を呼び止めては尋ねたけれど、誰もモアの特徴と一致する人物は目撃していないと返答した。
「どこ行っちゃんだよ……モア」
思い当たる場所を捜し尽くし、途方に暮れた。陽もとうに暮れ街に明かりが灯り始める。
足の筋肉が悲鳴を上げいた。喉も潰れ、名前を囁くことも叶わない。
仕事を辞めたばかりで、財布もなければクレジットカードも今は持っていない。
橘は自らの体力でモアを見つけるしかなかった。
ポケットをまさぐっては、虚しく音を立てる小銭の音に橘はため息をついた。これでは電車で一駅越えることもできない。
式折々からの支援金は尽きた。
新しく金を借りようにも、なぜか昨日から式は姿を見せず、連絡も取れなくなっていた。
モアがいない。
式にも会えない。
時間が巻き戻ったようだった。
吸血鬼と出逢ったあの日の前に。
ふらふらと歩く橘の足は、廃墟となった遊園地に向かった。
アスファルトを割り生える雑草が茂るメインストリート。塗装が剥げ赤く錆びた老朽化が激しいアトラクションには、巨大な爪跡が付いていた。
七月から残るそれが、獣のものではないと橘は知っている。
よかった。
これまでの日々が、もしかしたら夢だったのではないか。
仕事で疲れていて、モアや式と過ごした毎日をここで妄想していたではないか。
なんて自信をなくしていた橘に、この跡は教えていた。
夢ではない。
吸血鬼を助けたのは、無駄ではなかったと。
ふと、ポケットの中で携帯が鳴る。
連絡用に式が渡した彼名義の携帯だった。
だが、それは見慣れない携帯番号だった。
「……もしもし?」
『もしもし?』
その声で、橘は誰からの電話かすぐに判った。
鼻をすする音に、電話の向こう側は何事かと混乱した。
『どうしたの、義父さん。ちょっと、大丈夫?」
「ちよちゃん」
『うん、千代紙だけど』
「……ありがとう」
『唐突に感謝された!?』
橘千代紙。
最後に会ってまだ一月しか経っていないのに、慌てる娘の声は大昔ぶりに聞いたように橘によく効いて、緊張した心をほぐした。
『電話かけたの、そんなに嬉しかった?』
「うん、死ぬほど嬉しいよ!」
『いや死んだら困るって……てかそこまで感謝されると、娘としてはちょっと引く』
「気を付けます……」
『よろしい』
「……携帯、持ったんだ」
『スマホ。式君がくれてね。お節介なのよ、あの自称魔法使い』
愚痴をこぼす千代紙は、橘にはまんざらでもないようだった。
……愚痴を、こぼせるようになったんだな。
色々と理由あって、今、橘親子は離れて暮らしている。
西区の高校に通っていた千代紙も、今は新三巫市にいない。七月に起きた吸血鬼を巻き込んでの命がけの親子喧嘩が解決した後、式折々の勧めでとある学校に転校した。
人狼について学ぶ学校。
人狼が教師で、人狼が通う学校。
力を制御する技術を学ぶ。
望まない才を貰い、どう使えばいいか判らない能力を解るための学び舎。
そこで、そんな絡み合って解くのに何年もかかる思春期の悩みが絶えず錯綜する伏魔殿のような場所で、娘はどうやらうまくやっていけてるらしい。
などと。
『義父さん』
「なんだい?」
『負けないでよ』
「……負けるもんか」
『私も、負けないから』
最後の言葉がどういう意味か橘が訊く前に、千代紙は電話を切ってしまった。
しかし、一体なんだったのだろう。
やはりなにか悩みでもあったのか。
あるいは、新しい携帯を自慢したかった?
……などと娘の思惑がはっきりしない橘に声をかけたのは。
「お話は済みましたか?」
すぐ後方、メイド服を着た若い女性に振り返った橘は驚愕した。
「だっ、誰……!?」
「こうしてお会いするのは初めてですね。式低で折々坊ちゃんの身の周りのお世話をしております、空木雀と申します」
すっとスカートの裾を摘み一礼をするメイドはそう名乗った。
顔を見たところ千代紙と同い年なのに、浮世離れした上品な立ち居振る舞いだった。
別に千代紙が下品というわけではないけれど……と一応念を押す父だった。
「式くんの、お屋敷の人……?」
背後にいきなり現れた雀に、橘でなくとも誰だって警戒する。式折々については知っているようだが。
……というか、いつから後ろにいた?
足音一つしかったぞ。
「警戒するのは正常な反応です。私が式の遣いではなく、あなたを殺しにやってきた『吸血鬼殺し』の可能性だって十分あり得るのだから」
「『吸血鬼殺し』?」
これは雀の失念だった。
橘一誠だけは『吸血鬼』についてはなにも知らない。
だからこそ、式に頼まれここに橘を訪ねてきたというのに。
「失礼しました。しかし、困りましたね。式の人間だと証明するために、私はなにを証明すればよいですか?」
「……じ、じゃあ……」
実を言うと、雀に対して最初こそ驚きはしたけれど、橘は雀をそれほど疑ってはいなかった。
だがこの人、どうしても式との関係を知ってほしいようで。ムキになるそんな様子に橘も声をかけづらくなってしまった。
「式くんの恥ずかしい秘密でも、言い合います?」
知り合ってまだ間もない式の秘密。
橘は一つだけ知っていた。
「それはグッドアイデア。では私から」
不審がられると思ったが拍子抜けするほどすんなり雀は受け入れる。
まるで、橘の提案を始めから予想していたようで。
まあでも、と橘。
さすがに『あの秘密』はこんな場で言わないだろう。
「クマブリーフ」
「……HAI??」
「坊ちゃんのパンツは、ブリーフ。それにクマさんの絵が描いています」
「なんでんなこと知ってんの!?」
「ですから先ほども申したように、私は坊ちゃんのお世話を。……もしかして違ってました!?」
「いや合ってるけど!」
わざとらしいリアクションを取る雀に思わずツッコミを入れてしまう橘。
式は普段、女子の制服で過ごしている。というかそれ以外の恰好を見たことがなかった。本人は学校に発注を間違えたと言い張っているが。
それで以前、スカートから覗く彼のパンツを、うっかり見てしまったことがあった。
「正解していてよかった。それに私を信じてもくれたようで。いや、ここで坊ちゃんしか知らない秘密をあなたから振ってもらわなければ一体どうなっていたことやら。そうなんです、折々坊ちゃんは、こんなにも若くて可愛い蕾のような少女を侍らせ雑用を押し付ける男子高校生でありながら、クマさんのパンツで女子の制服を着て、おまけに魔法使いを自称して街を我が物で歩くのが大好きな、そんな今時マンガでも見かけない救いようのない変態さんなんです」
早口で力説する雀は、肩を微かに震わせ橘に迫った。
「あはは……なんだか君と式くんの関係がよく判ったよ」
「それはよかった。ええ、本当に……」
嘆息する雀に、橘は苦笑する。
素性を明かすと言って……この人、式の悪口を言いたかっただけだ。
「ああ、そうでした。橘様にこれを」
思い出したように雀が懐から取り出したのは一通の茶封筒だった。
「坊ちゃんからあなた宛に伝言を預かっています」
「式くんが?」
レターオープナーで手際よく封を切って、雀は広げた手紙を橘に寄越した。
『やあ、タチバナさん。この手紙を今読んでいるということは、雀さんは無事あなたと会えたらしい。もう紹介済みかと思うが、そこにいる式のメイドさんはとても信頼できる人だ。式がいない間、今度は彼女の言うことに従っていただきたい。
時間はたくさんあるが、手短に話します。
今、この街は未曾有の危機に直面しています。吸血鬼を狙う一人の男によってね。そのせいでモアちゃんは姿を消し、タチバナさんの命も危うい状況になっています』
「……これ、って……!?」
「どうぞ、最後までお読みに」
雀から目線を再度文面に戻す橘。
『式も今、あなたの傍にはいられません。街を管理する魔法使いの末裔として『吸血鬼殺し』の行動を見過ごすわけにはいきません。
そこで、せっかく助けた手前非常に心苦しいお願いですが、モアちゃんを諦めてはくれませんか?
一体全体、なぜ彼女があなたの前からいなくなったのか、それは、自分では『吸血鬼殺し』からタチバナさんを守れないと知っているからです。もちろん、腐ってもモアちゃんは吸血鬼最後の生き残り。タチバナさんの血を吸っているから、最初のうちは優勢でしょう。ですが、自信満々の彼女も、ほかの吸血鬼と同じように、最期は必ずあの男に負け、そして、喰べられる。
ですが、そうなることはすでに決まっています。それが、吸血鬼と天敵同士が交わした『約定』の条件ですから。そして、その『約定』を破ったのは、彼女、そして、ほかでもない。あなたです、タチバナさん。
まあ、それについてや『吸血鬼殺し』のことは、式が戻った後に二人きりでゆっくりとお話ししましょう。
暗い話題ばかりで落ち込んでいるかもしれませんが、安心してください。嬉しいニュースも持ってきました。
吸血鬼が消えたら、モアちゃんから受けたタチバナさんの『呪い』は、一体どうなるのか。
答えは簡単。1ー1と同じです。
吸血鬼の絶滅は、この世から吸血鬼が消えるということは、呪いも消えるということ。モアちゃんから解放されたタチバナさんは、晴れて奪われた日々に戻れます。家族の許に帰り、仕事にも復帰できます。
なーに、そんなに固く考えずとも、単に元に戻るだけです。モアちゃんと過ごした日々は、夢と思えばいいんです。ほんの一ヶ月か少しの間、助けた小麦色の童女の『餌』になって楽しい時間を過ごした、なんてちょっぴり頓珍漢な夢を視たと言えば、奥さんや娘さんに笑われてしまうかもしれませんが。
モアちゃんのことが気になりますか? だったら、タチバナさんが自分を責める必要はありません。
全部ぜんぶ、あの子が、吸血鬼なのが悪いんですから』
「……ありがとう」
手紙を雀に返した橘は溜め息をついて。
そして、二秒……間を置いて言った。
「それで、モアを助けるには、どこに行けばいいのかな?」
「……念のため訊いてもいいですか?」
「びっくりしないんだ」
「以外ではあります。普通、あんな手紙をもらったら、怒ると思うので」
「怒ったりなんかしないよ。……だって」
手紙にはどこにも、橘を本気で止めようとする意思は書いていなかったのだから。
「その自信と覚悟。それほどその吸血鬼が大事ですか? 正義感ですか、それとも坊ちゃんに対する意地ですか?」
「そんな大層な志はおじさん残念ながら持ってないよ。……今から僕、君にすごくさむいこと言うけど、いいかな……?」
「もったいぶってるあたり、とても自信があるようにも見えますが?」
腕を組む雀に、あははと橘は笑うしかなかった。
千代紙といい、どうして最近の女の子はこうも勘がいいのか。
「……ただね。男は、いない方がいいなんて責められている女の子を助けると、めちゃくちゃ興奮する生き物なんだ」
胸を張って、橘は会ってまだ一時間も経っていない娘と同じ年くらいの少女に己の欲望を宣言した。
孤独な化物の味方になりたい、という少年マンガの主人公のような青く小恥ずかしい欲望だった。
「どうして、坊ちゃんがあなたに興味を持たれているのか、その理由が解った気がします」
全く以て、死ぬほどうんざりする展開だが。
式の予想が当たった以上、雀は彼に渡さなければならなかった。
「……私としては不本意ですが。もう一通、主から渡すようにと手紙を預かっています」
懐から取り出された二つ目の封筒。
中身には一通目と同じ字でこう書かれていた。
『なーんて。
式がどう止めても、結局タチバナさんはモアちゃんを助けるのはもうお見通しです。あぶない目に遭ってほしくないというのは、本心なんですからね。
でも、それでもタチバナさんの気持ちが変わってくれないなら、式は全力でお手伝いします。まずは、彼女といっしょに地下鉄に乗ってください。式とは車内で合流しましょう。
ですが、そこから先はアドリブです。モアちゃんが助かるかどうかは、タチバナさんに懸かってます。式も殺されるかもしれないので、地下に着くまで覚悟を決めてきてください。
追伸。
タチバナさんを守護するよう言ってありますが、雀さんは式のことが嫌いです。
式が嫌いな彼女は、式の友達も殺したいほど憎んでますので、背中に注意して、ゆめ気を付けてお越しください。
式折々』
「ではさっそく参りましょう。坊ちゃんがお待ちです」
「……あの、伺ってもよろしいでしょうか……?」
信じていいと式からも言われている。
だが一応、一件だけ橘は確認を取っておきたかった。
「生きて、モアのところに辿り着けます……よね?」
「もちろん。そう主から命じられています。ですが、万が一うっかりということもございます。『吸血鬼殺し』の侵入を許したりするなど、私はこのお話のドジっ娘枠にございますので」
太ももに巻いたホルスターから銃を覗かせながら冷たい眼光で念を押す雀に、背中の冷や汗が止まらない橘だった。




