死を殺す男-1-
橘一誠の吸血鬼にまつわる話を終わらせるにあたり、八月の出来事は避けては通れない道だった。
あの旋律的に戦慄する夏の最後に起きた事件。
人間と吸血鬼、魔法使いの末裔、吸血鬼殺しを巻き込んでの四つ巴の『大戦争』。
吸血鬼殺し。死を殺す男。死殺し――食物連鎖に歯向かう存在。
――物語は、海の上からはじまる。
「……あれは……?」
八月某日。
大陸沿岸をパトロールしていた海上保安庁の巡視船の船員が異様なものを発見した。
小休止のためひとり甲板に出た船員は、海の上に配属されて五年になる。海保の業務もこの真夜中の光景にも慣れてきた頃だった。
けれど、こんな異様な――異様と形容することしか許されない『それ』を見たのは生まれてはじめてだった。
天も地もない、まるで宇宙のような。けれど浮遊感のある宇宙空間ではなく黒く暗く揺らめく重々しい 夜の海を航行する白く歪な扇型の物体。
暗闇に順応した肉眼で観察する限りでは、大きさは二メートルをやや超えるといった感じか。
大海から迷い込んだ小型のイルカか。あるいはそれを模した外国のドローンか。
イルカにしては速度が遅く、偵察機では泳ぎが激し過ぎた。
身を乗り出してさらに先を覗こうとした船員は――衝撃のあまり海の底に呑み込まれそうになった。
「なにッ……!?」
前置きして言うと、船員の予想はどれも外れていた。
海を泳いでいたのは、人間だった。
ただの人間ではない。
水しぶきを上げ下着一丁で、背中に巨大な十字架を背負いながら海を横断する大男が、黙って――バタフライで大陸から不法入国を試みていた。
夏とはいえ、重しを付けながらこんな海の中を何十キロもひとり泳ぐなんて。想像するだけで精神が潰される。
とにかく今、目の前で起きていることは犯罪。見逃してはならない侵略行為だった。
警報を鳴らそうと走り出した船員は、しかし立ち止まって逡巡する。
――この現実離れした現実を、人間の言語でどう伝えよう。
ぐるぐると考え込んでいる、三秒間。
振り向くと、静かに波を打つ海面に大男がいた痕跡などなかった。
そこでようやく気付く。
劇作家の作品と同じ、夏の夜に、疲れて夢を見たのだと。
名誉を守るために言うが、船員は事件を見逃したわけではない。
経験を積んだ彼は健全に職務を全うし、脳の認知機能も正常だった。
ただ一つ訂正を加えるなら。
この一分間の間に、船員はたった一度の思い違いを犯した。
密入国者を見逃し、夢と言い訳をした件ではない。
本人は人間を見たと言ったが、あれは――人間ではなかった。
+++
時刻は二時間前に遡り。
物語は海から地上へ転換する。
その日、橘一誠はいつもの通り夕暮れの街を歩いていた。
燃え上がるように染まる繁華街を行き交う人々は、ほとんどが学校帰りの学生か会社帰りのサラリーマンだった。
かつては、自分のあの雑踏の中にいた。疲れた顔で社会の列にいた。
けれど会社を辞めてしまい、家族とも縁を切った橘がサラリーマンだったと判る証拠は、そのくたびれた少し汗のにおいが付いた白のYシャツだけ。
今では、皆が起きている日中は寝て過ごし夜になると起きる日々。
そして、こうして街を荷物も持たずにぶらぶら歩く。
一ヶ月繰り返し、今ではすっかり日課となった街歩きぶらり旅。
荷物を持たず――その文章は的を射た答えではなかった。
自堕落な生活を送っていた橘一誠。
ひとりとなった彼は、だが孤独ではなかった。
一ヶ月前。
橘は、重さでは測れないとてつもないものを抱え込んだ。
「――タチバナ?」
「……えっ」
「ぼーっとしてたが、平気か?」
並行していた相手が俯く橘に声を掛けた。
「平気だよ、ごめん。行こうか」
笑みを取り繕うと同行者は安心してくれた。
脱サラのバツが一つ付いたおじさんが連れていたのは、この季節に相応しい身なり――白のパジャマに小麦肌、黒髪を一つ結いの三つ編みに編んだ十歳くらいの女の子だった。
手を引いて歩く童女は、娘のいる橘の――だが娘ではなかった。知り合いでもなければ知り合いの子ではなかった。縁も所縁もない赤の他人だった。
意地悪に表現するなら。
この童女のせいで橘は会社を辞め、家族を失う原因になった。
事件に巻き込まれたとか、童女の方を逆に事件に巻き込んだとかそんな事情でもなかった。
解決してはいけない問題に手を触れたから、彼らはこうして、ふたりぼっちになったのだった。
そんなとてつもなく重みがあるふたりがどうして呑気に街を歩いているかというと……。
童女の方がコンビニに売っている季節限定のアイスが欲しいとねだったからで。
目指した駅前のコンビニに到着した橘にアルバイトの学生が挨拶した。
「モア、これ?」
「うん! それだ」
アイス売り場から取り出した棒アイス『季節限定ガソガソ君 七日目のアブラゼミ味』を指差し、モア と呼ばれた童女は笑った。
童女特有の太陽のように明るい笑顔だった。
ところで、と橘は掴んだアイスの商品タイトルを見ながら舌を巻いた。
一体なぜ、こんな名前のアイスをモアはほしがったのだろう……?
しかも……店に残ったアイスは、これと合わせて残り二つ。
「あー! アイスあった!!」
店に駆け込んできた一人の男が売り場から最後に残った一本を引き抜き高らかと上に突き上げた。
ひょっとすると、子どもの間で人気だったりするのだろうか、と橘は思う。
「こら、待ちなさい」
「おかあさん、これ買ってー!」
子どもの後を追い掛けてきた母親に男の子が走り寄った。
「モア!」
モアと男の子がぶつかりそうになり。
だが橘が慌てる前に――男の子はモアをすり抜けて母親に抱き付いてアイスをねだっていた。
「……モア」
「……ボクは平気だ!」
そうはにかむ童女の口許からは、血が付いた鋭い八重歯が二本覗いていた。
血は、橘のものだった。
それからアイスを小銭で買って、橘は駅前のベンチに腰掛けモアに約束の品を渡した。
『呪い』とはとかくいい加減なものだ。
モアの付き人だった自分の姿は見えるなんて。
「……タチバナ、本当に大丈夫か?」
「大丈夫ったら大丈夫だよ」
「もしかして、ここに来る前、血を吸い過ぎたか」
アイスを頬張るモアは、今では橘以外の人間にも視えていた。
月が出て夜が満ちたことで吸血鬼としての力が――『始祖』としての能力が彼女を実体化させたのだ。
道を行く人が見れば、ふたりは親子と勘違いするだろう。
哀しい思い込みだった。
ベンチから景色を眺めていると、見知った顔を橘は発見する。汗を拭いながら歩くスーツ姿の男は、同じ部署で後輩だった。
先輩には気付かずそのまま駅に向かってしまう。
この時、橘一誠は迷ってしまった。
自分にしか知覚できない童女に、現実には存在しない女の子を一体全体どう声を掛けたらいいか。
さっきの自分みたく、血の滴る口では『平気』と強がる吸血鬼をどう励ませばいいか。
モアは、人間ではない。
人とそっくりの見た目をしていても、正体は――十年間も子どものままでいる人類の天敵。
人間を襲い、その血肉を啜って生きる。
最も知られた怪物の代名詞――絶滅寸前の吸血鬼。その最後の生き残りだった。
七月に出逢い、紆余曲折あり彼女を救ったことで、橘は呪いにかかり人間関係を築けなくなった。
血を吸わない吸血鬼に血を与えた橘に社会への参加は許されくなった。
だが、モアを救ったことで全てを失った橘に後悔はなかった。
吸血鬼になってから十年間、一度も人間の血を吸わず苦痛を過ごし、死を懇願するしかなかった優しい女の子に、こうしてアイスを振舞うことができるのだから。
「……モア?」
楽しみしていたアイスを食べかけのまま放り捨て、モアはベンチを立ち上がった。
色白の顔からはさらに血の気が引き、カチカチと顎を鳴らし明後日の方向を見る。
あの方角には、確か、海があったかと。
「――おめでとう」
「どうしたんだよ。おい、アイス」
月下に佇むた吸血鬼は、
「君の呪いは……もうじき解ける」
目に涙を浮かべ、笑って橘を祝福していた。




