ノゾミ
この仕事をするために生まれてきたんです。
児童相談所で働く理由を訊かれたときには、こう答えることに決めている。
ノゾミ
夕焼け
この仕事をするために生まれてきたんです。
児童相談所で働く理由を訊かれたときには、こう答えることに決めている。安心して任せてくださいと、相談者に向けてアピールしているつもりだけれど、実は自分に向けて、大丈夫と言い聞かせている節もある。僕は相談員にむいていますよ、本当ですよ、と自己暗示をかけているのだ。
子供の頃、何かのテレビ番組で、ガラス職人の特集を見たことがあった。いつ、誰と見たのか記憶は定かではないけれど、そこで取り上げられた女性が、「私って絶対に、ガラスで何かを作るために生まれたんです。この仕事をするために生まれてきたんです」と嬉しそうに話していたのを覚えている。
長い髪をヘアバンドで束ねて、重そうな吹きガラスの棒を軽やかに操り、真剣な眼差しでガラス細工を作る彼女は溌剌としていて、とても眩しかった。絶対に、と言い切るところに、子供ながら感心し、すごいと思ったものだ。
僕も将来、こんな大人になりたいな、と漠然と考えたように思う。だったらガラス職人を目指せばよかったのだけれど、残念ながら芸術的センスを持ち合わせておらず、気がつくと児童相談所の職員になっていた。やり甲斐のある仕事だし、後悔はしていない。けれどテレビで見た彼女みたいに、自分が輝いているのか自信はない。
この仕事をするために生まれてきた、と主張はできても、絶対に、と言い切るのは気が引けた。相談者から強い口調で問い質されると、大丈夫と心の中で呟き、暗示を繰り返すしかなかった。
この仕事をするために生まれてきたんです。僕は相談員にむいていますよ。大丈夫、大丈夫、本当ですよ。
「ふざけるな! この仕事をするために生まれてきただって? お前、俺をバカにしているのか?」
町田という男は、僕の微かな自信を吹き消す勢いで、怒鳴り声をあげた。最初から喧嘩腰で、ものすごい剣幕だった。
「正直頼りないんだよ。こっちは子供のことで真剣に悩んでいるのに、何でお前みたいなのが相談員をやっているわけ?」
彼は僕よりも年長で、四十手前という印象だった。グレーのスーツが上等で、ネイビーにピンクのストライプが入ったネクタイも似合っている。相談所に来る他の親と比べると、かなり身なりがよくて、社会的地位も高そうに見えた。
手渡された名刺にも、仰々しく肩書きが書かれているので、きっと僕より偉いのだろう。こちらの意見に聞く耳を持たず、妻が悪い、子供が悪いと主張する。挙句の果てにお前が悪いと言い出して、僕を否定し始めた。命令口調で嫌な感じだった。
「ですから、この仕事をするために生まれてきたんですよ、たぶん」
絶対と言う代わりに口から出たのは、たぶんだった。僕としては精一杯の自信を見せたつもりで、「たぶん、大丈夫ですよ」と誇らしげに付け足してもみた。
「たぶんって何だよ。お前、しっかりしろよ」
どうやらたぶんでは、心許ないらしい。
あのガラス職人の言葉を借りて、仕事に対する強い気持ちを表現したいと思うけれど、どうも上手くいかなかった。反感を持たれるケースが多くて、町田氏の場合もそんな感じに思えた。
児童相談所の職員は、いじめや虐待に始まり、離婚や家出といったトラブル、子供の病気に関することまで幅広く相談を受ける。デリケートな問題ばかりで、相談者との距離感を掴むのは難しい。大丈夫、僕は相談員にむいていますよと自分を鼓舞しても、気が滅入ることだらけ。力になってあげられず、落ち込むことも多い。
なかでも、いじめと虐待に関する相談では力不足を感じずにはいられない。苦しむ子供の存在を知りながら、救いの手を差し伸べられないときには、暗たんとした気持ちになる。
「とにかく、妻はすぐ怒るんだ。娘がちょっと失敗すると、怒鳴りつけて手をあげるときもある。虐待だよ、虐待」
「もう少し具体的にお願いします。例えばどんな体罰ですか?」
虐待という言葉を口にするのが恐ろしくて、体罰という表現を選択した。すると町田氏は頬を紅潮させ、高い声で喚き散らした。僕を凶悪犯のように指差し、糾弾する勢いだった。
「体罰じゃなくて、虐待だって言っただろ! ちゃんと聞けよ」
「申し訳ありません」咄嗟に謝る。動揺を隠しながら、「では、奥様はお仕事をされていますか?」と話題を変えてみた。
「専業主婦だ。それなのに子供の面倒すら見られない、どうしようもないヤツだ」
町田氏との距離をはかりながら、たぶん大丈夫と念じて弱気の虫を追い払い、視線に力を込めた。彼を見つめ、質問を続ける。
「奥様が何か悩みを抱えていたり、病気だったり、特別な理由でお子様の面倒を見られないという可能性はありますか?」
「あいつに悩みなんかあるものか。悩んでいるのは俺だ。なあ、どうすれば良い? 娘が不憫だ。助けてくれよ」
少し芝居がかった口調に引っかかりを感じながらも、「まずはお子様のことを第一に考えるべきです」と口にした。そんなことは当たり前だけれど、世の中には意外にも、当たり前のことを忘れている親が多い。「例えば当面は、ご主人が代わりに面倒を見るというのはどうでしょうか?」慎重に言葉を選んで、意見を述べた。
「俺は仕事で忙しいんだ。それに子供の面倒を見るのは、母親の仕事だろ。それを妻はやらない。やろうともしない。明らかに子育て放棄だよ、これは!」
小さな声で、やっぱりと唸ってしまう。当たり前のことをやっぱり忘れていますね、という意味だけれど、彼はきっと、奥様はやっぱり子育て放棄ですね、と受け取ったかもしれない。
子育てとは、両親が助け合って取り組むものだと思う。仕事が忙しいと言い訳して、母親の義務と押し付け、非難するのはどうだろうか。経験上、この手の相談者は手強い。自分の非に見向きもせず、ただひたすら相手の非ばかり主張する。
「お子様や奥様のお話も伺わないと、具体的なことは申し上げ難いのですが、例えば日を改めて、ご夫婦揃ってご相談させて頂くというのはどうでしょう?」
「何かと言えば、例えば、だな。そんな仮定の話なんてするな! 俺が欲しいのは、具体的なアドバイスだ。それも今すぐに。ここは児童相談所だろ。お前たちは、児童問題のスペシャリストだろうが」
言い返したいことは山ほどあったけれど、僕はにこやかに対応した。両親はともかく、子供が心配だった。親の愛情を受けていない可能性もあるし、彼の主張通り虐待されているとしたら、救ってやらなければ、と思う。
子供を救えなくて何が大人だ。
苦しんでいる子供たちを、すべて助けられはしないけれど、手の届く範囲だけでも救ってやりたい。それが児童相談所で働く本音だった。ガラスで何かを作るために生まれた人がいるなら、子供を救うために生まれた人がいたっていいと思う。
僕は相談員にむいていますよ、だからあなたの子供を救ってあげたいんですよ。
身の程も知らずに、他人を救うなんて大それたことを口にするべきではないけれど、この仕事を選らんだからには、一人でも多くの子供に手を差しのべたかった。
あなたの子供を救いますと切り出したら、目の前の男はまた難癖をつけて、ふざけるなと怒り出すだろうか。そう考えながら、用意していた書類と写真を机に置いた。
「これ、夕焼けの写真です。僕が写したんですよ」
突然のことで、町田氏は明らかに面食らっていた。こいつは何を言い出すんだという表情で、こちらを窺っていた。
「夕焼けを見ると、誰もが郷愁の思いを抱くそうです。子供のとき、夕焼けを見ながら家に帰った記憶が呼び覚まされるから、と聞きました。最近は日が沈んでも家に帰らない子供が増えているので、劇的な効果はないかもしれません。でも多少効き目はあるでしょう」
「それがどうした?」
「これを差し上げます。夕焼けの写真を家族みなさんで見ながら、試しに話をしてみて下さい。きっと初心に戻って会話ができると思います。そのうえで、日を改めてご相談させてもらえませんか。奥様やお子様と一緒が嬉しいのですが、ご主人だけでも構いません。もしご迷惑でなければ、お宅へ訪問させて頂ければと思います」
彼は胡散臭そうに目を細めながらも、写真を見ていた。棚引く雲の隙間から、オレンジ色の夕焼けが柔らかい光を放っている、なかなかの一枚だ。
僕は子供の頃から日没を撮影するのが趣味で、写真を仕事に活用することもあった。赤や黄色、グリーンフラッシュという緑色に光る夕焼けもあるが、一番好きなのはオレンジ色だった。温かみのあるオレンジに染まった空を見ると、懐かしくて切ない気持ちになる。胸がチクチクするような物悲しさに、どういう訳か惹かれてしまう。
「こんな写真で問題が解決するとは思えん」
しばらくしてから、町田氏はそう呟いた。強い口調ではなくなり、どうやら勢いも和らいだ感じがした。困惑した表情を浮かべながらも、次第に僕の話に耳を傾け始める。文句を言いつつも不承不承頷いて、来週末に会うと約束を交わし、何とか納得して帰っていった。
大騒ぎしていた彼がいなくなると、まるで嵐が去ったあとのように静かな気持ちになった。ホッと胸を撫で下ろし、自分のデスクに戻る。次の面会予定を手帳に記入しながら、今回の案件も解決するよ、大丈夫だよ、と自分に言い聞かせた。自然と溜め息がもれた。
隣のデスクにいる同期の相談員が、心配そうな顔で話しかけてきた。僕が弱っているとでも思ったのか、普段よりも優しい声だった。
「平野、厄介そうな親だったな。虐待か?」
彼だって厄介な案件ばかり抱えているけれど、僕と違って前向きというか、溜め息一つもらすこともない、明るい男だった。
「虐待の可能性あり。でも一方的な主張を鵜呑みにはできないよ」
「また夕焼けの写真を使っただろ。好きだね。夕焼けで虐待がなくなるなら、苦労はしないよ」
「虐待がなくなるなら、夕焼けが消えてなくなってもいいよ」
「面白いこと言うね。ああ、何か面白くて楽しいこと、ないかな。そうだ、週末飲みにいかないか? 女の子を誘って、賑やかにさ」
虐待より飲み会、子供より女、それが彼の思考パターンで、どちらかと言えば仕事よりも別のことに前向きだった。
「週末は小学六年のときのクラス仲間で、同窓会があるから」
せっかくだけど悪いね、と返事して、昨晩のことを思い出した。小学校の頃から腐れ縁の川村が、「絶対に来いよ」と電話で念を押してきたのだ。同窓会なんて、あまり気乗りはしなかったけれど、川村に押し切られる形で参加することになった。何で気乗りしないかと言えば記憶が薄いからで、六年生の頃は特に記憶がなかった。もう十八年も昔のこととはいえ、まるで覚えていない。
「楽しそうな予定があるんだ。ひょっとして幼馴染の美女と再会とか、あるかもしれないな。久しぶりなんて話が弾んで、イイコトできちゃうかもよ。羨ましい」
彼は下唇を突き出して、不満な表情を見せた。やっぱり女のことしか頭にないらしい。しかも下心を丸出しだ。
「楽しみでもないよ」深く息を吐き出した。「何だか良い思い出がないんだ。というか当時の記憶がまるでない。小学六年の一年間だけ、綺麗サッパリ忘れている感じでさ。そんな頃の友達と再会しても嬉しくはないよ」
彼は首を傾けて、「おいおい、どういうこと?」と訊いてきた。
「うちは母子家庭だったけど」当時を振り返るようにして喋る。「その頃、母親に新しい男ができて一年くらい一緒に生活したんだ。そいつと母親が別れたのが六年生のときで、実は当時のことなんてそれくらいしか思い出せないんだ。何だか記憶喪失みたいだよな」
軽い口調で答えると、同期の彼は驚いた表情を隠しもせずに、重々しく口を開いた。
「家庭の事情で苦労したんだな。記憶障害はそれが原因だろ」
記憶がない原因はよくわからないんだ。そう返すと彼は、顔をしかめて更に続けた。
「児童相談所に相談すれば、変わっていたかもよ。俺みたいな優秀な相談員の手にかかれば、少なくとも同窓会を楽しみに思える大人に、なれたかもしれない」
君に似ているってことは女好きだろ? そんな相談員が、何か変えてくれたとは思えないけどな。
押し競饅頭
同窓会に出たって、何も変わらないと思うけどな。
川村にはそう言ってみたけれど、「まあ、騙されたと思って参加しろよ。絶対に楽しいって」と何度も誘われるうちに、出てみようかという気持ちになった。どうやら口車に乗せられたらしくて、そういえば彼は昔から、調子がいいことばかり言うよな、と苦笑を浮かべてしまう。絶対に楽しいと言われると、何故かその気になってしまう。もしかしたら僕が、絶対という「うたい文句」に弱いことを、彼は知っているのかもしれない。
川村は訳のわからないことを、堂々と喋ることに長けている。巧みな、というより強引且つ出鱈目な話で仲間を惹きつけるのは、子供のころから変わらない。大学までずっと一緒で、人生の大半を共に過ごしてきたからなのか、彼の性格は心得ているつもりだった。
同窓会なんて自分が参加したいだけで、僕のことはついでに誘ったに違いない。自分勝手という表現がピッタリで、どうして僕のまわりには、女好きや自分勝手といった、困った連中が集まるのだろうかと頭を抱えたくなる。
週末の同窓会でも、川村はマイペースぶりを遺憾なく発揮して、僕を困らせた。午後四時から、母校でタイムカプセルを掘り起こす予定だったので、十分前に近くのバス停で待ち合わせをした。けれど彼が現れたのは、四時を三十分ほど過ぎてからだった。
「おお、平野。早いな。もう来ていたのか」
川村は慌てる様子もなく、悪びれた気配も見せずに登場した。しかも第一声がそれなので、力が抜け、膝から崩れ落ちそうになった。
「その言い草はないだろ」
「遅くなったのは、たまたまだ。気にするな」
遅刻の言い訳に、たまたまはないと思うぞ。文句を言ってみたけれど、川村は反省するどころか、今日は絶対にいい日だと、一人で騒いでいた。
こうなるともう、諦めて小学校へと向かうしかなかった。彼は隣で、どうして今日が絶対にいい日なのかを力説していたけれど、適当に相槌をうって聞き流した。
学校に到着すると、旧友たちはグラウンドの片隅に集まって、すでに作業を開始していた。人だかりに後から近寄る。川村が周囲の同級生に声をかけ、笑顔を振りまいた。
ザクッ、ザクッと音が鳴り響いていた。
校庭の地面が掘り返され、そのたびに粘土質の土が小高く積み上げられていく。人の輪の向こうで、二人の男がシャベルを持って地面と格闘していた。汗だくで上着を脱ぎ、鼻歌を口ずさんで掘り進めていた。
一月の風が木々を揺らし、葉を落とした枝が擦れあって、さわさわという音がした。太陽は弱々しく、今日は寒い。その中で汗まみれになるということは、穴掘り作業は重労働なのだろう。どうして二人だけが働いているのかわからないが、遅れてきたのは悪かったかなと思う。まあ、悪いのはたぶん川村だ。
しばらくは彼らが地面を掘る姿を見ていた。そのうち、何故か気分が悪くなってきて、僕は痛む胸を押さえながら視線を逸らし、あたりを見渡した。休日の小学校は静まり返っていて、不思議な感じがする。グラウンドの向こうには、鉄棒が並んでいるのが見えた。昔のままで懐かしい、気がする。
鉄棒に塗られた青色のペンキは剥げかけて、錆びも浮いているようだった。あの鉄棒で遊んだのかな、と過去を振り返ろうとしたけれど、特に何も思い出せなかった。
シャベルの男二人を十数人の男女が囲んでいた。早く宝物が掘り出されないかと、誰もが期待の表情を浮かべて、固唾を飲んで見守っていた。地面を掘る二人も囲む十数人も、かつてこの小学校で学んだ同級生、六年二組の仲間だと思うと、妙な気分になってしまう。
「押し競饅頭だな」川村が突然呟いた。
「どこが?」僕は彼の方に向き直って訊いた。
どうせ今回も、ロクでもないことを言い出すに決まっているが、それでも耳を傾けずにはいられない。黙っていれば男前なのに、喋り出したら止まらないのが、彼の特徴だ。
「だってそうだろ。みんな少しずつ輪を縮めて、穴を掘っている二人にジリジリと近づいていきそうじゃないか。このままだと全員穴に落ちて、押し競饅頭をする羽目になる」
「みんな落ちる前に、踏みとどまるだろ」僕はそう返す。
「あの二人は」川村はシャベルの二人を指差した。「高田と山田は、じゃんけんで負けたのか?」
周囲で何人かが頷いた。そうだよ、という声も聞こえてきた。
「そうか。じゃあ、じゃんけんで負けて、穴を掘る羽目になったんだな。それで高みの見物をしている俺たちを恨んでいるのか」
まわりから注目を浴びていた。視線を感じて、僕は一歩後ろに下がったけれど、川村は逆に一歩、前進した。自ら穴に落ちて、押し競饅頭をする勢いがあった。
「アイツら、いじめっ子だっただろ」彼は声を張り上げる。「だから穴を掘りながら、じゃんけんの仕返しをするために、悪巧みを考えているはずだ。高田が鼻歌を歌っているけど、あれはみんなを誘き寄せる呪文かもしれない。このままだと、みんな穴に落ちる」
川村らしい冗談だった。わざと穴に飛び込んで、やっぱり誘き寄せられたぞ、これは呪文だったぞ、と言い出しかねない気がして、冷や冷やする。
近くの同級生たちは、困惑気味に苦笑するか、あからさまに眉をひそめていた。川村の声が聞こえたのか、穴の中の男がシャベルを脇に置いて、こちらを見上げ文句を言った。
「おい。いじめっ子呼ばわりはないだろ。そりゃあ、そう言われても仕方ないことを、やった覚えはあるよ。でも子供のころの話だし、いじめというか軽いおふざけだ。だいたい、いじめられるヤツにも、何かしら問題があるだろ?」
「いじめっ子にかぎって、いじめられる側の問題を主張するんだよ、高田」
「そう言うなよ」高田、と呼ばれた男が口を尖らせる。山田らしきもう一人は、作業を続けていた。どうも名前と顔が一致しない。
「しかし普通、いじめた側は過去を忘れて、いじめられた側が根に持つものだろ。それなのにいじめっ子の高田が忘れていないとは、逆だから驚きだ。特殊で変だ」
「変人の川村に言われたくないぞ。お前、先生からよく注意されていただろ。変なこと言ってないで、静かにしなさいって」
「おお、よく覚えているな。いつもそうやって先生に褒められていたぞ、俺様は」
「あのな」高田は呆れた様子で、「怒られていたんだって」と言う。
「いや、怒られるフリをして、本当は裏で褒められていたんだ。クラスの反面教師として、君は素晴らしい存在だ、なんてな」
「それは先生の皮肉だって。やっぱりお前は変だ」
川村と高田のやり取りで、まわりが笑顔に包まれた。これが彼の話術の凄さだ。僕は子供一人を救うのに四苦八苦しているけれど、コイツはただ喋るだけで、人を救えるかもしれない。
「俺様より、高田と平野の方がずっと特殊で変だぞ」
おいおい、高田に加えて僕にまで八つ当たりするなよ、と文句を言う前に、「それにしてもタイムカプセルは一体、どれだけ深く埋められたんだろうな?」と川村が疑問を口にした。
この質問に、みんなが遠い記憶を呼び覚まそうと必死になった。十八年前、卒業間際にタイムカプセルを作り、校庭の片隅に埋めたらしい。でも僕は覚えていない。だからそれを掘り起こすイベントも、あまりワクワクしていなかった。
「埋めたのは体育の先生よ。それを私たちが手伝った。だから思ったよりも深い場所に埋まっているかもね」
そう言い出したのは、田辺みゆきだった。濃いピンクとグレーを基調とした、大胆なチェックのハーフコートを爽やかに着こなし、長い髪が緩やかに背中へと流れている。整った目鼻立ちは印象的で、とても同い年には見えなかった。二十代前半で通りそうな若々しさが魅力的だ。
記憶が曖昧な僕でも、田辺のことはうっすら覚えていた。昔から美人で目立っていたからなのか、それとも彼女に好意を持っていたからなのか、理由はよくわからない。彼女が喋り出した途端、鼓動が激しくなるくらいだから、特別な存在だったのかもしれない。
「みゆきって昔から可愛かったが、益々いい女になってないか?」
川村が質問してきた。彼なりに気を遣って小声だったけれど、聞こえるんじゃないかと心配で、「どうだろう?」と耳元で囁いた。
「十八年も経つと、少女は魔女に変身するんだな。気をつけろ。綺麗な花には刺があるから。手を出すと痛い目に遭うかもしれない」
「川村、それは自戒の台詞か?」
「いや、警告だ。お前は美人を見るとフラフラと寄っていく習性があるからな。もしどうしてもと言うなら、俺が下調べしてやるから。よし、そうしよう」
「やめておけ。彼女が不幸になる」
片眉をあげて顔をしかめた。だいたい美人を見てフラフラするのは僕じゃなくて、同僚のことじゃないかと不満に感じた。しかし川村はそれ以上何も言わず、ニヤニヤしていた。
「あったぞ!」
黙々とシャベルを動かしていた山田が叫んだ。おお、という歓声が起き、しばらくしてタイムカプセルが僕たちの目前に姿を現した。
興奮した面持ちの旧友たちが、我先にと発掘されたばかりのそれに駆け寄る。おい押すなよ、痛いだろ、という声が聞こえてくる。僕と川村は遠巻きにそれを眺めていた。
「ほら、言った通りだろ。押し競饅頭じゃないか」川村が勝ち誇ったように言った。偶然だろ、と僕は認めない。
そこへ田辺が歩み寄ってきた。美人の方からフラフラ寄ってくるとは驚きだった。僕の隣には、君を下調べしようと企んでいるヤツがいて、無防備に近付くと襲われるぞ、と警告しそうになる。
「川村君、六年生のときにね。押し競饅頭したこと覚えている? さっきの話で思い出したのよ。タイムカプセルを埋めた日に、あっちの鉄棒の近くでやったでしょ。どう?」
「そう言えば、そんな気もする」川村は頷くが僕は思い出せない。
「あのときさ、川村君って確か、私のお尻を触ったよね。本当に油断も隙もないんだから、このスケベ」
彼女は優しい笑顔のまま川村の頬を張った。力一杯ではない。明らかに手加減していたし、ふざけたノリで、可愛らしいビンタだった。子猫が鞠に戯れるような仕草で、パチッと控え目な音が響いた。
「私は魔女だから何でも覚えているのよ」彼女がすまし顔で言う。
「聞こえていたのか?」僕が訊ねると、彼女は、どうかしらという表情をした。嫌味がなくてサッパリした印象を受ける。
「ほら、やっぱり刺があっただろ。俺様の目に狂いはなかった」
頬をさすりながら、川村が呟いた。
「お前、今日は絶対にいい日じゃなかったのか?」
思わず訊ねると、川村は不機嫌そうに鼻をフンと鳴らして、星占いだと最高点だったんだ、と呟いた。僕と田辺は一瞬顔を見合わせ、それから声を上げて笑った。星占いをチェックする川村の姿が目に浮かんで、可笑しかった。
同窓会なんてつまらないだろうと思っていたけれど、楽しいこともありそうだ。田辺の横顔を見ながら、幼馴染の美女に再会したぞ、と心の中でガッツポーズをしていた。ステキな女性と会話するだけで、心は躍るものだな、と我ながら感心してしまう。
特に下心があるわけじゃないけれど、どうしてなのか、期待は膨らむよな。
ニコちゃんバッジ
期待が膨らむと、どうしても彼女を意識するよな。
三人で入ったファミリーレストランで、チラチラと田辺の表情を窺いながら、今日は本当にいい日なのかも、と思い始めていた。僕の隣には川村が、テーブルを挟んで向かい側には田辺が座っていた。三人ともコーヒーだけで一時間くらい粘っている。
「あれはわざとじゃない。小学生のお尻なんて何の興味も湧かない。そんなものに興味をもったら、犯罪者だ。児童福祉法違反、児童ポルノ禁止法違反だぞ」
川村は同じことを、何度も繰り返して主張していた。
「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律、でしょ。法律名は正確に言わなくちゃ」
田辺が肩をすくめながら、サラリと返事する。
「そんな長ったらしい名称、覚えられるか。舌を噛む」
「私は覚えたし、舌も噛んでないわ」
「忌々しい魔女だな。何で法律名を暗記しているんだ?」
川村が舌打ちすると、田辺はベェと舌を出す。二人の言い争いに、口をはさむ余地はなかった。
同窓会はあっけなく終了した。掘り起こされた記念品を渡されて、居酒屋に場所を移して二次会が始まると、一時間くらいで解散となった。もう少し盛り上がると思っていたけれど、予想外にあっさりとしたものだった。
普通は三次会とかあるだろう、と川村が文句を言ったが、あとは仲の良い者同士で適当に、ということになった。まだ夜の七時過ぎじゃないか、解散なんて早過ぎだ、と川村は再び文句を言った。文句ばかり言うヤツだ。
ボウリングやカラオケボックスへ向かうグループを横目に、僕たちはファミリーレストランへ向かうことにした。飲み直す前にコーヒーでも一杯と、川村がまわりの人を誘ったけれど、特に賛同者は現れない。もういいよ、二人で行こうよ、と彼を促していると、田辺がこちらに近寄ってきた。ニコニコと微笑みながら、僕の肩を叩いて喋る。
「コーヒー、私も一緒に行きたいな」
え、本当に? と彼女の顔を見つめてしまう。驚きのあまり言葉が出てこなかった。
「歓迎するぞ、田辺みゆき。さっきのビンタは許してやろうじゃないか。俺様は心が広いからな」
黙っている僕の代わりに川村が答えた。じゃあ早速行こうと彼女がはしゃぎ、三人でコーヒーを飲むことが決まる。予想外の展開に、もしかしてと心が震えた。やっぱり僕は、彼女のことを昔から好きだったのかもしれない。
ウエイトレスに案内されて席に着き、どんな話題で盛り上がるのだろうかと構えているうちに、川村と田辺は激しい舌戦を繰り広げ始めた。争点は、小学生のときにお尻を触ったのは偶然か、それとも故意かという、僕にとってはどうでも良いことだった。しかしどんな話題であっても、彼女と一緒にいるだけで嬉しかった。
「あのさ。今の川村君が小学生のお尻に興味を持ったら問題だけど、当時はお互い小学生でしょ。思春期だったし、そういう気持ちになっても不思議じゃないわ」
「まるで痴漢呼ばわりだ。美人だから男に狙われちゃうの、とでも言いたいのか? 気に入らない」
「危ない目に遭ったことだって」田辺は深く息を吐き出し、「もういいよ、そんな話。話題を変えよう。私、平野君の話に興味あるわ」と僕を見て笑った。
かなり嬉しかった。美人に微笑みかけられるなんて、そうそうあるものじゃない。同期のあいつに自慢しようかと考える自分が、少し情けなくなった。
「仕方ないな。平野、どうだ。思い出したか?」
仕方ないと言いながら、川村は興味津々という感じで訊いてきた。
「駄目だ。思い出せない」僕は首を横に振る。
タイムカプセルには、未来の自分へ宛てた手紙と、当時の思い出の品が入っていた。テーブルの上に手紙とピンバッジを置く。どちらも十八年前の僕が、今の僕のために用意したもので、ついさっき掘り出されたばかりの品だった。
〈僕はノゾミが好きだった。平野光〉
手紙にはそう書いてあったけれど、どういう意図で書いたのか、まったく覚えていなかった。一緒に埋められていたピンバッジも、記憶になかった。オレンジがかった黄色で、まん丸の形をした、黒の目と口が書かれたニコちゃんバッジ。笑顔を意匠化したもので、スマイルマークとかピースマークとも呼ばれている。
どうしてこんなものをタイムカプセルに入れたのか、と考えてみるが何も浮かんでこない。そもそも当時のことを、まるで覚えていない。六年生の僕は一体どんな生活をしていたのだろう?
「ノゾミなんて名前の女子、いたか?」
川村が腕組みをして悩み始めた。彼は僕の手紙を見るや、十八年越しのラブレターを見つけたかのように騒ぎ、ノゾミという女を捜して気持ちを伝えるべきだと主張した。他人事だと思って、楽しんでいるに違いない。
「ノゾミって名前の子、同級生にはいないよ。他の学年にもいなかったと思う」田辺が断言した。
「違う小学校の子かもしれん」「そうなるとお手上げね。私たちにはわからないわ」二人は嬉しそうに会話する。さっきまで喧嘩していたのに、この雰囲気は何だ?
「その笑顔のバッジが鍵を握るんじゃないのか?」
川村が机の上に置いてあったピンバッジを手に取って調べだした。引っ繰り返して裏側を見たり、指で叩いて音を確かめたり、骨董品の鑑定士のように目を細めて観察しながら質問する。
「ニコちゃんバッジを平野がつけていたこと、あったか? 田辺、お前は何でも覚えている記憶の女王だろ。魔女並みの記憶力で思い出せないか?」
「平野君がそれをつけて学校に来たことはないと思う。でも家で大事に持っていたかもよ」
彼女は首を捻りながら答えた。真剣な眼差しで必死に考えている。
「川村も田辺さんも、そんなに悩まなくていいよ。小学生の考えることなんて、たいした意味はないからさ」僕は溜め息をついて、「このバッジは拾ったものかもしれないし、ノゾミというのは女子の名前じゃなくて、願い事の望みかもしれないだろ」と言った。
「じゃあ平野君は、叶えて欲しい望みでもあったの?」
「当時はどうだったか、覚えてないよ」
「それならさ、平野君が今、望んでいることって何?」
「うーん」僕は唸りながら、「いじめや虐待を受ける子供がいなくなることかな」と答えた。
「へえ。平野君、仕事熱心だね。いじめや虐待の根絶なんて、さすが児童相談所の職員だよ」
「いや、それほどでも」
この仕事をするために生まれてきたんです、と言いたかったけれど、笑われそうな気がして言うのをやめた。代わりに、田辺さんの望みは何なのと訊いてみた。
「私は、大切な人が幸せになることが望みかな」
「ちなみに俺様は神になることが望みだ」訊いてもいないのに、川村が口を挟んだ。「ところで田辺、大切な人とは恋人か?」
それは是非知りたいな、と身を乗り出したけれど、彼女は内緒とはぐらかし、「どうして人は、いじめなんてするんだろうね?」と話を逸らした。
「幼稚な理由だよ」これはいいところを見せないと、と僕は咄嗟に答えた。「他人を攻撃して貶めることで、自分より立場が弱く、見下せる存在を作り出す。そうやって自分の力を実感して満足したいのさ。子供は特にそうだよ。人として未成熟だからこそ、自分の力を誇示したがるんだ」
自然な口調を心がけたけれど、鼻の穴が膨らんでいたかもしれない。ほかにも理由はあるよと、さり気なく言い足してみた。自分は優秀な相談員だとアピールしているようで、少し気が引けた。
「どうしたらいじめがなくなるかな?」田辺は更に質問してきた。
「それは、いじめという真実に向き合って」と説明し始めると、川村が遮るように喋り出した。
「そんな話はどうでもいいだろ。今はノゾミちゃんを見つけ出すのが先だ。長年の気持ちを伝えるんだよ。思っているだけじゃ、気持ちは相手に伝わらんぞ」
「それもそうね」田辺は嬉しそうだった。「川村君の意見に賛成かも。ノゾミちゃんが誰か、みんなで考えましょう」
困ったことになったな、と頭を掻く。今、僕が興味を持っているのはノゾミちゃんじゃなくて、田辺さんですと言いたくなる。
「いいか、これはチャンスだ。独身生活にピリオドを打つチャンスだぞ。今、彼女いないだろ?」川村が大声を出す。
お前だって彼女いないだろうが、と言い返そうとして、言葉を呑み込んだ。田辺はどうだろう。大切な人とは男だろうか?
「本当にノゾミという女性がいたとして、独身とは限らない。同い年なら三十歳だ。結婚して子供がいてもおかしくない」
僕はそう言って、コーヒーカップを優しく包む田辺の両手を盗み見たが、左手の薬指にリングをはめてはいなかった。その代わり、右手の薬指にはシルバーのリングが見えた。男からの贈り物かもしれないし、そうじゃないかもしれない。微妙なところだ。
「このニコちゃんバッジ、ノゾミって子からのプレゼントじゃないかな。そうだと面白いよな。うん、そういうことにしよう」
「勝手に決めるなよ、川村」僕は苦笑する。
「でも、これって可愛いよね。黄色っていうかオレンジ色っていうか、温かみがあるし、笑顔を見ると何だか元気になるよ」
田辺が川村からバッジを奪い取って、愛おしそうに眺める。ニッコリとした笑顔を絶やさずに、バッジは十八年間、地中で笑い続けてきたのだ。それだけで奇跡的だ。
川村が突然、「閃いたぞ」と大声をあげて、机を拳で叩いた。何だか嫌な予感がして、身体を仰け反らせる。
「このマークのお面を作って、それを世界中の人が被るんだ。世の中が笑顔で包まれて和やかになる。そうしたら、いじめも虐待も消えるぞ。どうだ、平野。児童相談所で流行らせてみないか?」
「川村君って面白いこと言うけどさ、本当に変人だね」
田辺が真顔で言うと、川村は得意気に胸を張って返事した。
「お褒めの言葉、嬉しいね」
いや、褒めていないだろ、たぶん。田辺は呆れているんだよ。そう思って川村を見ると、目が合った。
「平野。お面だぞ、お面。ニコちゃんのお面。絶対流行らせろよ」
仏頂面で投げやりな言い草だったけれど、川村はお面だぞと繰り返した。もしそれを職場で提案したら、僕は変人扱いされるかも、とげんなりする。
たぶん流行らないって、そんなの。
アルミニウム
美味しいとは聞いていたけれど、この店がこんなに流行っているなんて、驚きだ。
ファミリーレストランから近くの焼鳥屋へ移動すると、広い店内は満席状態だった。ラッキーなことに席が一つだけ空いていて、座敷へと案内された。その直後にやってきた客が、満員ですと断られる。やっぱり今日は、いい日に間違いない。
「あの女、嫁にしたくないランキング、一位だな」
何杯もジョッキを空にしたからなのか、川村は真っ赤な顔で力説していた。耳たぶまで赤く染まっていて、酔っているのが一目瞭然だった。
「あのときはどうだったと、過去を何度も蒸し返す。だってそうだろ。十八年前のことを言われても困るじゃないか。そのときに言ってもらわないと、意味がない。ああいうタイプは、もし浮気をしたら死ぬまでずっと責めるに決まっている」
彼は口元を泡だらけにしてまくし立てた。鳥の焼ける香ばしい匂いが煙と一緒に充満して、鼻孔をくすぐる。
「どんな女でも、浮気したら責めると思うぞ」
僕は串に刺さった鳥皮を頬張りながら答えた。残念なことに、田辺は用事があると言って、焼鳥屋には来なかった。「男と約束があるのか?」と川村が訊くと、再び内緒とかわされた。携帯番号を交換できただけでも、喜ぶべきだろう。
「そのときに言わないと意味がないっていうのは、名言だな。川村にしては名言だ。それなら、僕がノゾミという女性に思いを告げるのも、今となっては無意味ということになる」
「世の中、無意味なものほど重宝がられる。嫁にしたくないランキングだって無意味だが、あったら気になるだろ。理屈は同じだ」
彼の屁理屈に肩をすくめて、苦笑いする。
「なあ、平野。お前本当にノゾミって子が誰だか、覚えていないのか?」川村が真面目な表情で訊いてきた。
「本当だ。何も覚えていない。ところで川村はどうなんだ」
僕は畳の上に無造作に置かれた紙袋を指差した。そこには、タイムカプセルで眠っていた彼の手紙と思い出の品が入っている。
「その一円玉と手紙の内容は、記憶にあるのか?」
十八年前の川村少年は、未来の自分へ一円玉百枚を用意していた。賽銭箱と印字された茶色い貯金箱に入った一円玉は、僕のピンバッジよりインパクトがある。
「これはだな」川村が紙袋に視線を落としながら話した。「未来ではアルミニウムが不足して高騰すると思ったんだ。一円玉が何億円にも化けると思ったんだが、現実は甘くなかった」
「アルミの高騰なんて、小学生の考えることかよ?」
思わず甲高い声を出した。驚くというより、呆れてしまう。
「手紙のことだって覚えているぞ、俺様は」川村は胸を張って続けた。「大人になったら、誰もが一目置く神のような存在になろうと思っていたんだ」袋から紙切れを取り出して、ヒラヒラ振る。
そこには、〈俺は神様になって、みんなをアッと言わせる。ビックリするマジックで、願いをかなえてやる〉と、下手な字で書かれていた。
「世界中の人が驚くようなマジックだよ、マジック。誰もが俺を尊敬するんだ。何せ神様だ。スケールのでかい話だろ」
「そうだな。俺様教の教祖にでもなる気なら、スケールはでかい」
「そうだろ」
「神様、いじめや虐待は、どうしたらなくなりますか?」
冗談のつもりで、笑いながら質問した。すると川村は、意外にも真剣な表情で答えた。
「誰もが自分に自信を持つんだ。圧倒的な自信があれば、他人を貶める必要もない。いじめも虐待もしなくなる。でも最近は、何かといえば他人と競争ばかりだろ。だから身近に見下せる存在を作って、自信をなくした心のバランスを取ろうとする。困った世の中だ」
「川村、今日は名言ばかりだね。じゃあもう一つ教えてくれ。すべての人が自信を持つには、何が必要だ?」
「簡単だ。適当だよ、テキトウ。何でも真面目に取り組むから殺伐とするんだ。人生なんて肩の力を抜いて、適当に笑っていれば問題ない。笑いに包まれていれば、何でも上手くいく。そうすれば自信も漲って、いじめも虐待も消える」
その意見は一理あるなと感心していると、川村は焼鳥にかぶりついた。美味しそうに食べながら、モゴモゴと口を動かす。
「平野はどうして、小学六年の頃を覚えていないんだろう。一年分だけ記憶喪失なんて不思議だ」
言葉の端々に、僕を気遣う感情が込められている気がした。皮肉屋の癖に、優しい一面もある。
「六年生の頃、僕はどんな感じだった?」
川村は天井を見上げた。そこに昔の出来事が書かれているのだろうかと、僕もつられて上を見ると、蛍光灯がチカチカ光っていた。
「お前、子供向けの入門書を読むのが好きだったな。寒がりだったのか、いつも長袖長ズボンで一人読書だ。ひ弱なイメージかな」
今まで同じ質問を何回かしたけれど、今日も似たような思い出話を聞かされる気がした。とりあえず、全然覚えてないよ、と答えた。
「怪我や病気で、よく休んでいたぞ。月に一週間くらいは学校を休んでいたような気がする」
「僕はそんなに病弱だったか?」
「俺の知る限り、休みが多かったのは小学六年の頃だけだな」
「そうか。あんまり思い出がないのは、休みが多かったせいかな」
「卒業間際に、突然夕焼けにはまり出した。覚えているか?」
「いや、記憶にございません、だな」
「本当にその頃の思い出だけ抜けているのか。もっと小さいときはどうなんだ?」
「小さいときはうろ覚えだけど、少しは記憶があるよ。でも六年生の頃はすっぽり抜けた感じなんだ」
溜め息をついた。どうしてだろうと考えても、答えは出てこない。
「当時って、平野の家は大変だったよな。同居していた人が出て行ったとか何とか。覚えていないか?」
「ああ。母親の男ね。確かにあの頃は男が家にいて、出て行った。そういう覚えはあるよ」
「それが関係しているんじゃないのか。だって母親が、新しい男と暮らしていたんだろ。もう男女のことだって漠然と把握している年頃だ。母親のそういう一面を見たら、トラウマになって記憶が曖昧になるかもしれん。そういやお前は、児童問題のスペシャリストじゃないか。どうだ、そういう事例はあるか?」
「最近、いけ好かないヤツに同じことを言われたよ。児童問題のスペシャリストらしいところ、見せてくれってさ」苦笑して答える。
それは薄々勘付いていることだった。よその男が家にあがり込んでいたことを、僕は忘れたいのかもしれない。潜在意識が忘れようとするから、思い出せないのではないか。つまりこれは、真実から目を背け、覚えていないと自己暗示をかけているのではないか?
「俺なんて、小学生のときが一番楽しかったけどな」川村は目を細めて喋った。「あの頃の自分を思い出すと楽しくなる。辛いことや嫌なこともあった筈なのに、頭に浮かぶのはキラキラと輝いた思い出ばかりだ」
キラキラと輝いた思い出と聞いて、僕はガラス細工を連想した。
人の記憶はもしかしたら、ガラス細工なのかもしれない。過去を思い出そうと記憶に光をあてれば、キラキラと輝いて、美しい幻影を見せてくれる。ガラスが反射する光は眩しかったり、ぼやけていたりして、どんな過去でも都合よく脚色して思い出せる気がした。
それなら僕の記憶はどうなってしまったのだろうか。ガラスにひびが入ったのか、それとも汚れてしまったのか、光をあてても反射してくれず、過去を思い出せないのではないか。
「その当時、ガラス職人の話って、してなかった?」僕は思わず質問していた。
「お前が?」川村がこちらを見る。「ガラス職人なんて、聞いた覚えがないぞ」そこで彼は首を捻り、「待てよ。そういえばガラス職人が夢だってヤツ、いなかったか? お前の夢って、ガラス職人になることだったか?」と訊いてきた。
「違うと思うよ」ゆっくりと首を横に振って否定した。
「あ、そうか」川村がポンと手を叩く。「ノゾミって女がガラス職人なんだよ、きっと。そうすると同い年じゃなくて、年上のお姉さんに恋心を抱いていたことになるな」
「違うよ、たぶん」
そうか、そうなのか。初恋のお姉さんはガラス職人か、と呟く川村に、同窓会の途中から心に引っ掛かっていたことを訊いた。
「なあ。田辺と僕は、どんな関係だった?」
ガラス職人なんてどこで知り合ったんだ、ずるいぞ、と文句を言いながら、川村は少し首を傾けていた。ずるいはないだろと思いつつ、彼の顔をまじまじと見る。僕の質問はまるで聞いていない様子で、職人っていい響きだよな、などと口にしている。
「ガラス職人はもういいから、田辺のことを教えてくれよ」
つまらないという表情で、彼は口を斜めにして答えてくれた。
「仲良かった。と言うか、好きあっていただろ。忘れたのか?」
そうなのか、と返事する。初恋の相手がガラス職人だったという説よりは、すんなりと受け入れられる話だった。
「まあ、あの女のことは忘れたらどうだ。タイムカプセルに入れた手紙や記念品を見せようともしないのに、俺たちのだけ散々見て、好き勝手なことを言うんだからな。内緒の多い女はロクでもない。これが下調べの結論だ」
お前も好き勝手なことばかり言う、ロクでもないヤツじゃないかと言い、それから僕は別のことを訊く。
「田辺は魅力的な女性だと思うけど、川村は趣味じゃないのか?」
すると彼は大袈裟に両手を広げて、意味不明なことを口走った。
「アルミニウムが一億で売れたとしても、アイツは嫁にしたくないランキング、不動の一位だよ」
そう? じゃあ彼女を狙っても文句言わないよな、とけん制すると、川村は唇の端をわずかに上げ、「あいつ、わりといいお尻だったぞ。あの感触はなかなかだったな」と言って、口笛を吹いた。
お前、お尻を触ったのはやっぱり、わざとじゃないのか。僕は咳払いを一つして、目を細めながら川村を睨みつけた。
ダンボール
あまりに埃っぽくて、咳払いをしながら目を細め、天井を見上げてみた。
久しぶりに物置の整理をしたけれど、目的のものは簡単には見つからなかった。段ボールを動かして開けるたびに、埃が舞い上がる。小学校の卒業アルバムは、なかなか出てこなかった。
ノゾミが誰か、ニコちゃんバッジは何かという謎に迫るため、物置を探してみた。と言うのは建前で、本音は別にあった。田辺の顔を写真で確かめてみたいという、衝動に駆られたからだ。
昔の彼女を調べることで、記憶が蘇るのではないかという、淡い期待があった。今さらという気もするけれど、特定の時期だけ消しゴムで消されたように思い出がないのは、やっぱり嫌だった。
いくつも箱を開けたところで、やっと目的のものに辿り着いた。他の本と一緒にダンボール詰めされていた、卒業アルバムを手に取る。早速開いて写真を確認するが、どれが田辺か、見ただけではわからなかった。写真の下に記載された氏名をチェックして、ようやく彼女を見つける。
可愛らしい少女が写っていた。しかしそれを見ても何も思い出せない。当時から美人だったのかと、感心するばかりだった。
自分はどこにいるのだろうかと探してみた。しばらくして、集合写真の右上端に、撮影日が違うのか小さな四角で囲まれ、一人で写っているのに気付いた。川村の言う通り、学校を休む日が多かったのだろうなと思う。
卒業アルバムは脇に置いて、同じダンボールの中に眠っていた、他の本も手に取ってみた。しかし記憶にないものばかりだった。
パラパラとめくり、内容を確認すると、素人向けに編集された解説書が何冊もあった。実践手品入門、占星術入門、素人から始める催眠術、タロット占い極意、魔法使いになる方法。
愛読家だったのは間違いない。それもおかしな入門書ばかり。こんな本を読み漁って何がしたかったのだろう。占い師になって、劇的なマジックを起すつもりだったのか? もしそうなら、神様になりたい川村と大差ないように思えた。幼稚な発想に情けなくなる。
溜め息をつきながら本を片付けようとして、何かがひらひらと足下に舞い落ちた。それは古くなって黄ばんだ便箋で、どうやら本の間に挟まっていたらしい。手に取るとメッセージが残されていた。
〈今日のことがなければ、私はあなたを殺したかもしれない。それが真実です。悪魔のような私を、いつか思い出して下さい〉
流れるように綺麗な筆跡は母のものだった。あなたって誰、殺すってどういうこと、悪魔って何と次々に疑問が湧いた。口の中がねっとりと渇き、背筋に冷たい感覚が走る。身体がブルっと震えた。
腕時計を見ると、約束の時間が迫っていた。躊躇いながらも便箋をダンボールにしまって、メッセージの内容を頭から追い出し、慌ててクローゼットへ向かう。今日は町田氏の家を訪問する日だった。
自宅訪問をしても、留守だったり追い返されたり、無駄足に終わることがある。相手の仕事の都合を考えて夜遅くに訪問したり、ときには休日返上で対応したりもするが、苦労が報われないことも多い。果たして今日はどうなるだろうか。少し不安になった。
目的地は最寄り駅から電車に乗って、四つ目の駅だった。そこから十五分くらい歩くと、国道沿いに立派なマンションが見えた。町田氏はやっぱり偉くて、きっと金持ちだな、と思う。
僕の家は古くてボロボロの平屋なのに対して、町田氏のマンションは白い外壁が美しくて眩しかった。立地も良く、見上げるほどに高い。部屋は十七階の三号室だった。
母子家庭で育った僕は、様々なことを切り詰めながら暮らしてきたように思う。贅沢なんて許されなかった。それでも母には感謝している。死に物狂いに働き、女手一つで大学まで通わせてくれた苦労は計りしれない。母と過ごした家は、オンボロでも愛着があった。
「迷ったり悩んだり、苦しいときでも逃げないで、真実と向き合って生きていくんだよ」死を覚悟した母は、僕にそう言った。「ごめんね、光ちゃん。逃げてばっかりで」
それが最期の言葉だった。何から逃げていたのか、何を伝えたかったのか理解できなかったけれど、彼女を見取ることができただけでも、よかったと思う。ごめんねというメッセージは、母一人、子一人で生きてきた象徴のように感じられて、涙が止まらなかった。
母が病気で他界した後も、何かを託された気がして、実家から出る気にはなれなかった。高級マンションでの生活というイメージが湧かないのは、たぶん僕がボロ家に固執しているからかもしれない。
贅沢な暮らしが人を歪ませて、虐待問題に繋がっているのでは、と疑っている節もあった。この考えを同期に披露したところ、それはお前の思い込みだよ、と言われたことがある。貧しい家庭でも虐待はあるし、裕福な家庭でも清流のように綺麗な心を持つ家族がいる、というのが彼の意見だった。
これから訪ねる町田氏の家庭は、清流のように澄んでいるのだろうか。一度会って話しただけだが、彼の言動から予測できるのは、子供を恫喝して従わせようとする親子関係だった。そこに母親の無関心が加われば、子供の悲しみは深いかもしれない。虐待の事実があれば救ってやりたい。救い出すヒーロー役が僕では頼りないかもしれないけれど、たぶん大丈夫だと思う。
大丈夫、大丈夫。僕は相談員にむいていますよ、と心の中で繰り返す。
エントランスホールには暗証番号で開けるドアがあった。訪問者は端末で住人に連絡し、オートロックを解除してもらう必要がある。部屋番号を入力して回線をつないだ。しばらくして、ドアの横にあるインターフォンから町田氏の声が聞こえてきた。天井に設置されたカメラ越しに、僕の姿も見えているだろう。
「児童相談所の平野です。先日はどうも」
インターフォンに向かって挨拶をすると、カチリという音がして、ドアが開いた。今度は十七階まで上って、部屋の前にあるチャイムを押さないといけない。面倒くさいと思う。平屋なら、ごめん下さい、とドアを叩けば済むのだから。
息苦しい思いをしながら、狭いエレベーターで十七階まで上がった。チンという音がして扉が開くと、町田氏が子供と二人で待ち構えていた。予期せぬ出迎えに驚きながらも、慌てて口を開いた。
「今日はお時間を頂き、ありがとうございます」
頭を一度下げてから、子供の目線に合わせてしゃがみ、少女にも声をかけた。
「こんにちは。お名前は何と言うのかな?」
「み、瑞希と言います」
「何歳か教えてくれる?」
「あの、その、じゅ、十歳」
父親の顔色を窺いながら、消え入りそうな声で喋る彼女を見て、予想は当っていたなと感じた。暴力を受けているかは不明だけれど、目に見えない力で押えつけられ、怯えているように見えた。
「差し支えなければ、お部屋へ伺ってもよろしいでしょうか?」
「駄目だ。部屋には妻がいる。お前が来ることは内緒だ。瑞希と散歩すると言って出てきたから、近くの喫茶店で話をしよう」
妻には内緒だと言われ、困惑する。さあ行くぞと町田氏に腕を引っ張られて、再びエレベーターに乗り込んだ。三人だと更に窮屈になった。高級マンションなら、広いエレベーターにすればいいのにと不満に思い、つい疑問を口にした。
「引越し業者はダンボールをどうやって運ぶのですか?」
「え?」町田氏が怪訝そうにこちらを見る。
「いや、ちょっと疑問に思ったので。エレベーターが狭いと、引越し業者も大変だろうなと思いまして」
この人は何を言っているのだろう? そう思ったのか、瑞希ちゃんが不思議そうな表情で僕を見上げた。町田氏は嫌そうに、知らん、とだけ答えた。あなたも入居したときに、業者がダンボールを部屋まで運ぶところを見たでしょ、と言いたかったけれど、止めた。
ダンボールの話がしたくて、ここに来たわけじゃないのだから。
嵐
奥様の悪口が聞きたくて、ここに来たわけではないですよ。
いつ切り出そうかとタイミングを計っていたけれど、なかなか言い出せなかった。町田氏を制して口を開くのが難しかったからだ。
何しろ彼は、嵐のように喋り続けていた。妻はこいつを叩くんだ。あれはいつだったか。手加減もせずに頭をパチンと殴るんだ。痛いに決まっている。怖いに決まっている。娘は妻を恐れているんだ。
何度も繰り返し、妻が悪いと主張する。ある意味、羨ましい性格だとは思ったけれど、共感はできそうになかった。
瑞希ちゃんは下を向いて、ぎゅっと唇を噛みしめていた。喚き散らす父親の暴言に、耐えようとしているみたいに思えた。その仕草を見ていると、虐待しているのは母親ではなくて、この男じゃないのか、と疑いたくなる。
あの、そろそろいいですか? と言いかけたときに、喫茶店の自動ドアが開き、キョロキョロと店内を見回す女性が目に入った。
町田氏と瑞希ちゃんは、入口に背を向けて座っていた。だから彼女が店に入って来たことも、急ぎ足でこちらに来たことにも、気付く様子はなかった。
不思議な光景だった。彼女の目は怒っているように見えて、口元は笑っていた。全身から落胆の色が窺えるのに、姿勢や歩調には活気が漲っていた。抱え込んだ問題に苦悩しながらも、明日への希望は失っていないようで、複雑な心境が垣間見えたように思う。
突然現れた彼女が町田氏の妻だとは、すぐにわからなかった。夫の肩を叩き、振り向く彼に指を突きつけ、「嘘つき。どこが散歩なの? しかも勝手に瑞希を連れ出してさ!」と言い放つのを見て、二人の関係に気付いた。
振り向いて彼女を見上げる町田氏の表情はわからない。ただ彼女を見た瞬間に、彼は腰を浮かしかけ、椅子がガタリと音をたてた。明らかに狼狽した感じだった。
瑞希ちゃんが、「ママ!」と声を出した。感情が込められた大きな声だ。嬉しそうに席を立つと母親にすがりつき、楽しげに笑う。縮こまっていた今までが嘘のようだった。
「瑞希、何をしていたの?」母親の問いに、「おじさんと、お話をしていたの」と娘が答える。二人がこちらを見た。僕が口を開くよりも早く、母親は丁寧にお辞儀して喋り出した。
「はじめまして。町田の妻、瑞希の母です」
「は、はじめ、まして」僕は掠れる声で、やっと返事した。
「この人から」彼女は町田氏を指差し、言葉を続けた。「この人から何を聞いたかわかりませんが、瑞希には何の問題もありません」
優しい笑顔を浮かべて、子供の頭を撫でている。微笑ましい親子にしか見えない。
「瑞希、この人にママのことをどう思っているのか、お話してあげて。それと、おじさんは失礼よ。せめてお兄さんと言いなさい」
「うん、わかったよ」
この仄々とした雰囲気は何だろうと、目を疑う。虐待という重苦しい話題が不釣合いなほど、母と娘の関係は良好に感じられた。
「お兄さん、私とママ、仲がいいんだよ」瑞希ちゃんが笑う。
「違う、これは違うんだ!」
町田氏が叫んだ。児童相談所を訪ねてきたときの高圧的な感じは、微塵もなかった。
「瑞希、少しの間、耳を塞いでいてくれる?」
母親がそう言うと、瑞希ちゃんはコクリと頷いて、両手で耳を塞いでしゃがんだ。可愛い仕草だ。
「私とこの人は、もうすぐ離婚するんです」
毅然とした口調だった。町田氏が、「お前、見ず知らずの人にそんなことまで」と言いかけると、彼女はギロリと横目で睨んだ。思わず口ごもる彼を見ても、僕は事情が呑みこめないでいた。
「瑞希をどちらが引取るか、もめています。でも私はこの子と離れて暮らすつもりはありません。仕事がないことはネックですが、働き口を探そうと思っています」
「お、俺だって瑞希を手放したくないんだ」町田氏が呟く。
「だからって、児童相談所に作り話を持ち込むことはないでしょ。私がいつ瑞希を虐待したのよ。嘘をついて親権を勝ち取ろうなんて、あなたらしい考えね。卑怯だわ」
「嘘じゃない。お前、瑞希を叩いたじゃないか!」
店員や客の視線を感じて、僕は背中を丸め縮こまった。注目を浴びているみたいだけれど、気付かないフリをして二人の話を聞く。
「あのね、悪いことをしたら叩くのも、一つの教育方法よ」
「あれは虐待だ。お前みたいな暴力ママに瑞希を任せられるか」
「そう思いたければ、ご勝手に。私がどんな気持ちで瑞希を叱っているのか、わかりもしない癖に。愛する子供を叩くとき、どれほど辛いか、あなたにわかる?」
「ええと、すみません」
そこで僕は、両手を上げて二人を制した。お手上げの万歳をしているようにも見えるだろう。二人が黙ったのを確認して、瑞希ちゃんの肩をそっと叩いた。彼女は耳を塞いでいた両手を下ろし、何ですかという表情で僕を見上げた。
「先に一人でお家へ帰ろうか。おじさ、ええと、お兄さんはパパとママにお話があるんだ」
瑞希ちゃんは両親の顔を交互に見比べた。母親が頷いて家の鍵を差し出す。
「わかった。早く帰ってきてね」
そう言って手を振ると、瑞希ちゃんは勢いよく駆け出し、店を出ていった。
「この人は、私が瑞希を連れて出て行くことを拒むんです。私と瑞希の荷物は、もうダンボールに詰め込んで、片付いているのに」
ダンボールですか、と呟いてみた。エレベーターで引越し業者の話題をしたときに、嫌そうな顔をした町田氏を思い出す。
「俺は認めない。虐待する母親と二人で暮らして、娘が幸せになるとは思えない」
「母親が娘を虐待しているという事実を作りあげたくて、児童相談所に来られたのですか?」
僕の質問に、町田氏は苦虫を噛み潰したような表情を見せた。
「虐待は本当だ。コイツも認めただろ。娘を叩いたことがあると」
「どこからが虐待なのか、定義は難しいでしょうね。でも」
僕は二人の顔を交互に見ながら、丁寧に説明しようと試みる。
「そこに愛情があるかどうかが、一番の鍵だと思います。愛情が込められていれば、必ず子供に伝わります。逆に愛情の欠片もない、精神的、肉体的な苦痛を与えるだけの行為は、子供に深い傷を作るでしょう」
両手の平を広げて見せ、ゆっくりと喋る。心の中で、大丈夫、僕は相談員にむいていますよ、と囁いた。
「瑞希ちゃんと奥様の様子を拝見すると、瑞希ちゃんに怯えた様子は少しもなかった。虐待で傷ついた子供とは思えません。二人の間に確かな愛の形があるのは明白です」
「出鱈目だ。十歳の子供に愛がわかるものか。叩かれれば心に傷が残る。お前のアドバイスは信頼できん」
「僕は児童問題のスペシャリストです」
冷静な口調を努める。たぶんスペシャリストです、と言いかけて慌てて口をつぐんだ。さすがにここで、たぶんはまずいだろう。
僕の話に耳を傾ける母親をよく見ると、ノーメイクで髪も乱れ気味だった。慌てて家から飛び出してきたのだろう。それほど、娘のことを心配していたのかもしれない。自分の姿に気を配ることもなく、僕に向かって、はじめましてと挨拶した彼女の気持ちを考えながら、「虐待には色々あります」と言って説明を続けた。
「子供を叱るときに感情が高ぶり、エスカレートする親がいます。愛しているのに手が出てしまうタイプです。怒り出すと、感情を止められない。次第に怒りが愛情を上回ってブレーキが利かなくなる。この手の親子は、互いの距離を上手に取れていない。近過ぎたり、遠過ぎたり。適正距離がわからない」
町田夫婦も距離を保てなかったのだろうか?
「世間の常識や、自分の考えを押しつけて、虐待してしまう親もいます。男の子は元気よく外で遊ぶものだと、物静かな息子に無理強いする親もいました。子供が思い通りにいかないと叱る。精神的に追い詰めてしまう。気が付くと虐待に発展していることもある」
僕は息を吐いた。相談員として担当した個々の事例は、辛いものばかり。誰一人救えていないかも、と眉をひそめた。
「子供を憎んでいたり、八つ当たりで虐待したりする親もいますが、論外です。さて、こんな事例に奥様が当てはまるでしょうか?」
町田氏は押し黙ったまま、ふて腐れた表情でそっぽを向いた。母親は、「参考になりました。ありがとうございます」と言ってお辞儀すると、家に戻るつもりか踵を返した。まるで嵐が去った後のように清々しい気分になった。しかし店の入口で母親は歩みを止めると、何かを思い出したように振り返って、再びこちらへ戻って来た。
「夕焼けの写真、この人に見せてもらいました」
彼女は微笑んでいた。
「私、あんな綺麗な夕焼け、久しぶりに見ました。それで調べたんですけど」彼女の笑みが悪戯っぽく変る。「太陽の位置や角度のせいで、日没の光は大気を通過する距離が長くなるそうですね。すると波長の短い光は、空気中の塵とかにぶつかって、吸収されてしまう。でも、波長の長い赤やオレンジの光は地上に届く。だから夕焼け空は、赤色だったり、オレンジ色だったりするのでしょ?」
彼女の視線が上方に動いた。思わずつられて天井を見上げる。
そこにはまん丸の照明が浮かんでいた。透明な丸い枠の内側で、電球がオレンジ色に輝いている。夕焼けみたいに光が滲んで、綺麗だった。
「これ、ガラスの照明ですよ。前にマスターから聞いたんですけど、有名な職人さんが作った、夕焼けって名前の照明ですって」
彼女の説明に、へえそうですか、と呟いた。その職人はやっぱり女性で、ガラスで何かを作るために生まれてきたのだろうか。
疑問に思ったけれど、訊く気にはなれなかった。
そんなことを訊かれたって、困るだろうし。
ハンマー
今さらそんなことを言われても、困るじゃないか。
口を尖らせ文句を言ってやろうかと思ったけれど、思いとどまった。もしかしたら僕が覚えていないだけかもしれない。その可能性は十分あると思った。
「あの頃の私は、平野君が好きだったの」
田辺みゆきは焼酎をロックで飲んでいた。何杯も飲んでいるのに、頬が少し紅色に変化しているくらいで、酔いを示す兆候はほかに見られなかった。しらふだと言われても気付かないだろう。口調はハッキリしていて、視線も定まり、何より姿勢が良かった。
「どうして告白してくれなかったの?」未練がましく訴えた。
期待した通り、彼女から携帯に連絡が入り、次の週末に一緒に飲もうと誘われた。二つ返事で了承し、約束の日を心待ちにして過ごした。そして今夜、居酒屋は喧騒に包まれていた。
「平野君のお嫁さんになりたいって、小学六年のときに言ったよ」
「その頃の記憶はないって、この前も言っただろ」
彼女は笑った。白とグレーのボーダーシャツの上に黒いジャケットを羽織っている。格好良さを前面に出した装いだった。
「あのね。中学生までは平野君に憧れていたのよ。本当に。でも違う高校に進学して、そこから疎遠になったじゃない。この前の同窓会まで会うこともなかったし」
「中学時代にも、告白してくれたらよかったのに」
「もしそうしていたら、今頃は平野君のお嫁さんになって、離婚しなくて済んだかもね」
笑えないジョークだな、と思う。
「何で教えてくれなかったのさ。僕も川村も、同窓会で君のことを田辺って呼んだだろ。そのとき、町田だよって訂正してくれたらよかったのに。初めて会ったフリをするの、結構難しかったぞ」
「だってもうすぐ、町田姓から田辺姓に戻る予定だったし」
グラスに口をつけると、焼酎の香りが口内に広がる。質問してもいい? と訊くと、彼女はどうぞと頷いた。
「どうして離婚することになったの?」
「いきなりだね」彼女が肩をすくめる。
どうして町田氏と結婚したの、と訊く方がよかったのか、それとも何で初対面のフリをしたの、と訊く方がよかったのか。しかし彼女は躊躇いも見せず、世間話をするかのように語りだした。
「町田はね、出会った頃はステキだったの。でも仕事で成功した頃からおかしくなった。高級マンションに住んで、車を何台も持って。そういう生活を維持するのに、失敗を恐れ、怯えるようになった。過去の偉業に執着し始めた。前向きの一生懸命と、後ろ向きの一生懸命って違うよね?」
「ごめん。違いのわからない男で」僕は苦笑する。
「わかってもらえないか」彼女はグラスを片手に持って揺らす。「失敗を恐れて一生懸命になる姿って、ジンとこないんだ。どう言えばいいのかな」グラスに口をつけ、彼女は酒を飲む。一瞬だけ、店の喧騒が消えたような気がした。「迷ったり悩んだり、苦しいときでも逃げないで、真実と向き合って生きて欲しかったのよね」
聞き間違えだろうか? 田辺みゆきと呼ぶべきか、それとも町田みゆきと呼ぶべきなのか、彼女の言葉に僕は耳を疑った。
カタリという音がする。彼女がグラスをテーブルに置いた音だった。その瞬間、店の喧騒が戻った。
「あの人が夕焼けの写真を見せて、講釈を始めたときにピンときたの。児童相談所に行ったんだって。平野君が相談員をしているのは噂で聞いていたし、昔から夕焼け好きなのも知っていたでしょ。これはきっと、裏で何か画策しているんだなと思って、それで私も色々と調べたの。瑞希を守るために、法律もたくさん覚えたわ」
それで法律名を、スラスラと言えたんだ。
「私は虐待なんてしてない」
彼女の主張が本当かどうか、判断する材料は限られているけれど、「そうだね」と即答した。「子供を虐待するような特殊な親と、田辺さんは違うよ」と断言もした。彼女のすべてを知っているわけでもないのに、自信満々だった。
「本当に違うのかしら?」田辺は僕の言葉に眉を寄せ、表情を曇らせた。自信が揺らぎ、悪いことでも言ったのだろうか、と不安になる。彼女は慎重に言葉を選びながら、話を続けた。
「親になってわかったことだけど」そこで少し間を開け、考え込むような仕草をした。「虐待する人としない人に、特別な差はないと思う。みんな同じ人間だから、子供に腹が立つときも、邪魔に思うときもあるの。何かきっかけがあれば、誰でも過ちを犯す可能性がある。虐待する親が特殊とは限らないの」
「でも実際に手を出す人と、出さない人がいるだろ。その違いは、歴然じゃないかな?」僕はすぐに反論した。
「違わないよ」田辺は寂しそうに微笑んだ。「手を出すかどうかは結果論だもの。虐待する可能性が誰にでもあるって、それだけで悲しいと思わない?」
いやいや、結果が大事でしょ。僕はそう思いながらも口には出せなかった。もやもやとした感覚が心を支配する。誰にでも虐待の可能性があるなら、彼女ももしかしてと変な想像をしてしまう。親は誰でも、子供に理不尽な感情を抱くことがあるものだろうか?
「あんまり深く考えない方がいいね」かろうじて言葉を絞り出した。
「そうかもね」彼女がウインクした。何のサインかは不明だ。
これから母娘二人で大丈夫なのか、もしよかったら僕に手伝えることはないか、瑞希ちゃんが嫌がらなければ、ウチヘ来ないか。そういった口説き文句を幾つか頭に浮かべてみたけれど、どれも口に出して言う気にはなれなかった。
「あのね、平野君」
彼女はゴソゴソと鞄を引っ掻き回して、何かを取り出した。
「内緒って言っていたけど、私、タイムカプセルにこんな手紙を残していたんだ。今日誘ったのも、これを見て欲しかったからなの」
そう言って手渡された紙には、丁寧な字でこう書かれていた。
〈いつか平野君が、真実と向き合える大人に成長したら、夕焼けを壊す。忘れないように、これに書いておきます〉
「これ、何?」僕は首を捻った。
「タイムカプセルの手紙を書く前の日、平野君の家でおばさんと大切な約束をしたの。それをね、この手紙に書いたんだ」
「本当?」僕が問うと、「記憶の女王であり、魔女である私を信じなさい」と彼女が舌を出す。夕焼けを壊すとは何を意味するのだろう。
「平野君は六年生の頃を思い出したい?」
「え?」
「私ね、頼まれたんだ。将来、平野君が大人になって、真実と向き合える日がきたら、思い出したいかどうか訊いてくれって。そして夕焼けを壊してくれって。おばさんは、夕焼けが壊れたら思い出せるって言っていた。この話、忘れていた訳じゃない。ただ頭の片隅に追いやられていたって感じかな。それが同窓会で手紙を見て、そうだ、私にはやらなきゃいけないことがあるって気付いた。この前は川村君がいたから言えなかったけど、この手紙に書かれていることは、とても大切なことだと思うんだ」
記憶の女王が言うなら間違いないね、と冗談混じりに答えれば良かったのだろうか? ただ僕の口から出た言葉は違うものだった。
「夕焼けを壊すって?」
すると彼女は鞄から小振りのハンマーを取り出した。最近の女性は護身用にそれを持ち歩いているのか、それとも離婚を決めた女性はいざというときのために携帯しているのか、どちらだろう。
「これはタイムカプセルに入れた、私の思い出の品。おばさんからもらったの。夕焼けを壊すときに使いなさいって」
「ハンマーで夕焼けは壊せないだろ」
「壊せるよ」彼女が悪戯っぽく笑う。「夕焼けってあれだもの」
「あれ?」僕は再び首を捻った。
「ニコちゃんバッジって、夕焼けみたいだよね」
いや、そんなこともないでしょ、と思わず眉をひそめた。
シャベル
激しい雨音に、思わず眉をひそめた。
外は嵐。吹き荒れる風が窓を揺らし、ガタガタと音が響く。今にも雨漏りしそうな場所には、バケツと雑巾が置かれていた。補修に使った板とハンマーも床に転がっていた。
薄暗い廊下の窓から庭を見ていた。外には雨合羽を着込んだ女がいて、シャベルで地面と格闘していた。雨や風に怯むことなくひたすら地面を掘っている。どれだけ掘るつもりなのかと不安になった。
右腕が痛むので擦った。赤く腫れた腕が痛々しい。
シャベルで地面を掘る音がザクッ、ザクッ、と聞こえる気がした。鳥肌が立ち気分が悪くなる。人が穴を掘るのは気持ち悪い。僕が穴掘りから目を背けるようになったのは、この頃からだ。
突然、「お別れだね」と声をかけられて、声をあげそうになった。驚いて隣を見ると、少女が泣いていた。呆けたように廊下に座り込んで、僕を見ている。両目から溢れる涙は頬を伝って流れ落ち、廊下に染みを作っていた。雨漏りと間違えそうだ。
お別れって何、と訊こうとしたが、言葉が出てこなかった。しかし意思が伝わったのか、少女は話を続けてくれた。
「もうお嫁さんになれない。これからは光ちゃんじゃなくて、平野君って呼ぶことにする。もうお別れだもの」
ああ。僕はこの少女を知っている。アルバムで見た。
ドスン。聞こえる筈もない低音が響き、思わず外を見た。シャベルの女が何かを穴の中に落とした。青いゴミ袋で包んだ、いくつもの塊が穴の中に落とされる。休む間もなく、彼女は土をかぶせた。懸命にかぶせていた。
女にうっすら重なるように、窓に映った自分の姿が目に入った。背が低く、あどけなさが残っている。若い。いや幼い。
やがて女が土を綺麗にならす頃、雨はあがり、風はやんだ。手際よく作業を済ませ、女はそのまま家に入って来た。雨合羽を玄関の土間に脱ぎ捨て、タオルで身体や髪を拭きながら、廊下を真っすぐ進んでくる。
それは母だった。しかも若い。死ぬ間際の、草臥れて老いた感じは微塵も見られなかった。雨に濡れた長い髪をかきあげる仕草は、息子が見ても色気を感じるくらいに、美しかった。
彼女の表情は不思議だった。目が怒っているように見えて、口元は笑っていた。あれ、どこかで見た光景じゃないか?
「さあ、二人ともこちらに来なさい」
母が静かに、しかし強い口調で部屋に誘った。
薄汚れたテーブルの上に、本が無造作に並べられていて、彼女はその中から一冊を手に取った。素人から始める催眠術。それは僕の本だよ、と言いたかったが、やはり言葉にはならなかった。
「まず、みゆきちゃんから。ほらもう泣かないで。そんなに泣いたら、可愛い顔が台無しよ」
母は優しく諭すと、少女を座らせた。どこから取り出したのか、長い紐を少女の目前に垂らす。紐の先端には一円玉がテープで止めてあった。
「本当は五円玉か五十円玉があれば良かったのだけど、生憎切らしていてね」母が笑う。
一円玉がついた紐がゆっくり、大きく左右に揺れだした。少女の目がそれを追いかける。最初から放心状態に近かったからなのか、すぐに目がトロンとして、少女は言われるがままになった。
「みゆきちゃん。あなたは今日、この家で起きたことを忘れる。他の何を覚えていても構わない。だけどあなたは、今日のことだけは思い出せない。記憶がものすごく良くなっても、今日起きたことだけは覚えていないの。わかった?」
目を閉じた少女がコクリと頷いた。ザラついた感覚が身体の中から湧き上がってきた。
「そのまま、お休みなさい。お昼寝の時間ですよ」
母が囁くように言うと、少女は畳の上に倒れ込んだ。身動き一つしなくなる。「怖かったよね」そう呟きながら、母はこちらを見た。妖しい目だ。
「今度は光ちゃんの番よ。こちらにおいで」
嫌だ、と言おうとしたのに、どうしても言葉が出なかった。そして気付けば、目の前で一円玉が揺れていた。左右に大きく弧を描き、アルミニウムが揺れていた。
「あなたはこの一年のことを忘れなさい。思い出す必要もない。あの人に叩かれ、殴られ、虐待された日々を。ゴメンね。今から救ってあげるからね」
右腕が疼いた。これはあの男に殴られた跡だ。左手には火傷の跡もあった。煙草を押し付けられた恐怖と苦痛が鮮明に蘇えり、身体が小刻みに震えた。傷を隠すため、明日も長袖を着ていかなければ。
「あんな人でも、お母さんは大好きだったの。辛い思いをさせたね。私が真実から目を背けて、逃げてばっかりいるから」母は泣いていた。「でも大丈夫。あの男は行ってしまった。どこか遠くへ。もう忘れなさい。虐待された一年を。あの人と暮らしたこの一年を」
揺れる一円玉を目が追いかけ、薄れる意識の中で思い出す。
あの男はいつも僕を苦しめた。傷付くたびに学校を休んだ。傷が癒えて学校に行けば、「お前の母ちゃん、男を連れ込むスケベ女だってなぁ」と、同級生からいじめられた。
あの男のことを憎んだ。殺してやりたいほど恨んでいた。お母さんは僕を助けてくれないの? 僕が嫌いになったの?
「忘れなさい。忘れるのよ。あなたが大嫌いなあの男は、この世に存在しなかったのよ。そうだ。あなたはあの男のことが大好きだったの。そうしましょう。いい考えだわ。これは大切なことよ」
あんなに憎んでいたあの男を、どうして好きになれるのか? 反論しようとしても言葉が出なかった。瞼が徐々に重くなる。
目が覚めると、母は机で手紙を書いていた。何か考え込むようにペンを動かし、書き終えるとそれを、催眠術の本に挟んだ。見たことのある便箋だった。
部屋の外に出ると、窓から日が差していた。オレンジ色の柔らかい光が、汚れた床や壁を照らす。廊下には水で濡れたような染みがあった。これは何だろうと、僕は首を傾げていた。少女が流した涙の跡だと叫びたかったが、口が動かなかった。
「綺麗だね、オレンジ色の空」
すぐ横に立っていた少女の言葉に、僕も窓の外を見た。空気中の塵や水蒸気の関係で、夕焼けの色は微妙に変化するんだという、六年生にはわかる筈もない原理が、脳裏を過った。
「今日の夕焼けを忘れない」僕は確かにそう言った。
だとしたら、この日から夕焼けを追いかけ始めたのだろうか?
「さあ、みゆきちゃん、もう帰りなさい」母が言う。
玄関先で少女は母から袋を手渡された。よく見ると、小振りのハンマーが入っている。母は少女に耳打ちをした。何を言い聞かせているのか、今の僕は知っている。たぶん、夕焼けを壊すのよ、と囁いているに違いない。
母に向かって笑顔で頷いた少女は、僕に別れを告げた。
「平野君、バイバイ」玄関に差し込む柔らかい光の影響なのか、彼女の表情は眩しかった。「明日は、タイムカプセルを作る日だね。未来の自分に届けたいメッセージを、手紙に書きなさいって先生が言っていたよね。私、ガラス職人になれましたか? 夢は叶いましたか? なんて書こうと思っていたけど、やめたの」
「じゃあ、なんて書くの?」答えを知っているのに、僕は訊いた。
「内緒だよ。じゃあまた明日」
少女が去っていく。オレンジに染まる街を駆けていく後姿は、美しかった。ふと庭先を見ると、泥まみれのシャベルが転がっていた。
「光ちゃん、これをあげるわ」
母が何かを握らせてくれた。笑顔が愛らしいニコちゃんバッジだ。
「これ、夕焼けみたいだね。いつか真実と向き合える日がくるまで、壊さないように大切にしなさい」
明日、学校でタイムカプセルの中に入れて埋めよう。壊れないように。なくさないように。母がノゾミの死体を埋めたように、僕はこれを埋めるのだ。
ノゾミをバラバラにして埋めた母と違って、僕は将来、これを掘り起こしてからハンマーでバラバラにするのか、と思った。
そして何もかもを思い出す。それはきっと、この日から決まっていた、運命みたいなものだろう。
たぶんそうだ。
マジック
たぶんそうなんです、と言っても、あまり反感を買わなくなった。
児童相談所で働く理由を主張して、絶対にとは言わず、たぶんそうなんですと付け加える。それでも多くの人たちから、賛同を得るようになった。
昔の僕と似た子供たちを救うために生まれてきたんです。
いじめと虐待の経験を持つ児童相談所の職員というのは、悩める親たちにとって頼り甲斐があるようだ。以前よりもスムーズに相談者と会話できるようになり、距離感も掴みやすくなった。過去を思い出したおかげだ。
ニコちゃんバッジをハンマーで壊すと、溢れるように記憶が蘇えってきた。母がそういう暗示をかけたのだろう。消しゴムで消された六年生の頃の記憶が、一瞬で復元したみたいだった。
田辺も僕も、単純に催眠術にかかった、というわけでもないだろう。ただ忘れたかっただけだ。無意識のうちにあの頃を、あの日のことを、忘れたかったのだ。
催眠術はきっかけに過ぎず、心が思い出すことを拒んでいた。ガラス細工の記憶は繊細で脆く、あまりに衝撃的な過去を思い出そうとすると、粉々に砕けてしまうのかもしれない。だから今まで、記憶に光をあてることもせず、思い出さなかった。真実と向き合っても耐えられる大人になるまで。それだけのことだ、たぶん。
人間は都合よくできているよな、と思う。思い出したくない記憶を封印して、十八年生きてきた。それだけで奇跡的だ。
「平野君のお母さんの恋人が、ノゾミさんだったのね」
思い出した過去の一部を喋ると、田辺がポツリと呟いた。どうやら彼女は何も思い出していないようだった。これからもずっと、記憶を封印して生きていくのかもしれない。
遠い昔、一年間だけ一緒に過ごした男、ノゾミ。母はそいつを愛し、僕はそいつを憎んだ。苦痛だった日々も一緒に思い出した。当時の母は僕を救ってはくれなかった。殴られても、蹴られても、助けてはくれなかった。男を溺愛していたからか、それとも恐れていたからなのか、今となってはわからない。
それでも、と思う。母なりに罪を償おうとしていたのだろう。女手一つで懸命に僕を育てたのだ。死に際に謝罪の言葉を述べた母の顔を思い浮かべた。ごめんね、光ちゃん。逃げてばっかりで。
「何か考え事?」
隣のデスクにいる同期の相談員が、心配そうに覗き込んできた。胸にニコちゃんバッジをつけている。
職員が自信を持てば、いじめや虐待が減るかもしれない。そう思って、全員でバッジをつけるように提案した。子供の笑顔を得るためには、僕たちが笑う必要がある。自信に満ち溢れた笑顔で、いじめや虐待の真実と向き合う。この考えはみんなに受け入れられたけれど、さすがにニコちゃんのお面をつける提案はできなかった。
「なあ、今度の週末、飲みに行かないか? 実は友達のつてで、モデルの女の子と合コンするんだ」彼は嬉しそうに誘ってきた。
「残念だけど、ほかをあたってくれ。友人の結婚式があるんだ」
週末のことを考えた。川村の結婚式なんて行きたくない。しかもスピーチを頼まれているから、気が重かった。
俺様を褒め称えるスピーチを頼むぞと、川村は電話で言った。嫌だと答えると、新婦からのお願いだぞと付け加えられた。そう言われると断れない。
「じゃあ、お前たちの馴れ初めを喋ってやるよ」
僕は込み上げる笑いを噛み殺して言った。馴れ初めって何だよと、川村は怪訝そうな声を出した。
「新郎は小学生のとき、押し競饅頭をしながら新婦の尻を触った、スケベ野郎です、ってな」
「おい。そんなことを言うのか!」
「大丈夫だよ。続きがあるから」
受話器を右手から左手に持ち替えて、椅子に腰をおろした。足を組み、自然な口調を心がけて話す。声が震えないように注意した。
「川村少年は、押し競饅頭でもみくちゃにされ、いじめられていた僕を救うため、新婦のお尻を触ったんです。女子のお尻を触ったら、騒ぎになっていじめも止まる。そうすることで、家庭環境を揶揄され、虐げられていた僕を救ってくれたのです」
へえ、と一声唸り、彼は受話器の向こうで押し黙っていた。十八年前の真相を言い当てられたことに、驚いているようだった。
「お前は常識外れなことばかりするけど、何故か人を救うんだ」
「え、何だって?」
嫁にしたくないランキング一位の女とゴールインするとは、川村らしいビックリ仰天のマジックだった。アッと驚かされた。僕だって彼女を狙ってはいたけれど、どうしてなのか悔しさはなかった。
彼はお見通しだろうか、と考えてみた。記憶が戻っても、田辺には内緒にしておいた事実があることを。
嵐だった十八年前のあの日、初めてうちに遊びに来た田辺と二人で、テレビを見ていた。彼女の夢だったガラス職人の特集が放送されていたのは、偶々だったのかもしれない。
この仕事をするために生まれてきたんです、とテレビの中の女性は笑顔を見せ、吹きガラスで何かを作っていた。吹き棒の先端には高温で熱されたガラスがあって、オレンジ色の光を放っていた。
プウと息が吹き込まれると、オレンジ色のガラスが丸みを帯びて膨らむ。温かい光が微笑む彼女の表情を照らした。輝く夕焼けの中で笑っているみたいだな、と思った。ガラス職人の顔が、隣にいる田辺の顔にすり替わる。綺麗だなと見とれ、息を呑む。
二人とも夢中でテレビを見ていたのだろう。背後から近づく男に気付かなかった。肩に手を置かれ、振り向くと殴られた。身体が吹っ飛び、転がった。立ち上がろうと上半身を起こしたら、今度は足が飛んできた。何度も何度も執拗に蹴られた。
ノゾミはいつものように僕を虐待した。しかしいつもと違うのは、そこに田辺がいることだった。動かなくなった僕に興味を失ったノゾミは、田辺を見てニヤリと笑った。六年生とはいえ、彼女は大人びていて可愛かった。自慢の幼馴染だった。
ノゾミは田辺に襲いかかり、服を引き剥がそうとした。必死に抵抗する彼女の顔は恐怖に歪み、這いつくばって逃げようとする。
彼女と視線が合った。唇が、たすけて、と動く。
うおお、と吠えた。彼女を救えなくて何が男だ。彼女を助けるんだ。僕は彼女を救うために生まれてきたんだ。絶対にそうだ。
強い思いが、痛めつけられた身体を突き動かした。床に転がっていた小振りのハンマーは、雨漏りの補修に使っていたもので、それを手に取り、田辺に馬乗りしていたノゾミに飛びかかる。
彼の後頭部を殴った。何度も、何度も殴った。襲われる田辺を救うために、虐待から自分の身を守るために。必死でハンマーを振り続け、ノゾミはピクリとも動かなくなった。
記憶の再生を止めて、ほっと息を吐き出す。ふと、物置で見つけた手紙を思い出した。今日のことがなければ、私はあなたを殺したかもしれない、というやつだ。
母が記憶を呼び覚ます手はずを整え、それを田辺に託したのは、息子に真実と向き合って欲しかったからだろうか、と考えてみた。ノゾミを殺さなければ、母は虐待を受け衰弱する僕を、見殺しにしたかもしれない。まさかとは思うけれど、僕が邪魔で、自ら手をかけようとした可能性だってあるのだ。虐待する親は特殊じゃないという田辺の意見が、胸にズシリと重かった。
母は僕を殺したかもしれない。大人になって、真実と正面から向き合えるようになった僕に、その事実を伝えたかったのだろう。勝手だと思う反面、これで良かったという気もした。真実から目を逸らしていては、誰も救えないと思った。真実と向き合ってこそ、あのガラス職人のように輝ける気がした。
僕はノゾミを殺した。田辺を救うためだけれど、結局、彼女に救われたようなものだ。虐待から逃れるにはこれしかなかった。ノゾミを殺したいと思っていた。田辺はそのきっかけを与えてくれた。
だから川村。いや神様、仏様、川村様。僕を救ってくれた彼女を幸せにしてくれ、と願う。瑞希ちゃんを大切にしてくれ、と願う。
彼は根拠のない自信に満ち溢れている。だからこそ、いじめや虐待と無縁の、理想の家庭を築ける気がした。田辺や瑞希ちゃんと、笑顔に包まれて暮らせるように思えた。
それは僕の望みでもある。この望みが叶うように、結婚式の祝儀袋には御祝じゃなくて、御賽銭と書いてみよう。俺様教の神様が、願いを聞いてくれるかもしれない。
祝儀袋の中味が全部一円玉だったら、アイツどう思うかな? 怒るよな、たぶん。文句を言われるよな、絶対に。
まあいいや、望みさえ叶えば。大丈夫、大丈夫。川村が望みを叶えてくれますよ。本当ですよ。
僕はそんなことを考えながら、今日もカメラを持って、夕焼けにレンズを向ける。
了