相対悪理論
world:ハッピーエンド
stage:西暦2041年6月 鷹狩学園
personage:鷹狩結 神谷都古
image-bgm:Black in truth(BAROQUE MODE)
日付も変わって深夜の鷹狩学園。
主要都市のオフィス街が如く高層ビルの立ち並んでいる運営区の中心に、その古ぼけた旧家は存在していた。
時代の流れから取り残されてしまったかのように。もしくは、あえて自ら時代の流れに抗いそこに留まっているかのように。
鉄骨とコンクリートに塗り固められたジャングルの谷間に、今にも朽ちてしまいそうな木造の瓦家は深と佇む。
その、わずかに開いた障子戸の奥。
微かな月明かりが射し込む二十畳ほどの和室の中央に正座しているのは、齢十ほどの赤い着物姿の少女。
長い黒髪を三つ編みに束ね、それを首に回して肩から胸へ垂らした少女は、そっと目を開けて朱塗の瞳を覗かせる。
「……鞢、そこにいますか?」
「はい。お呼びでしょうか、理事長」
少女が凛とした声で囁くと、待ちかねたように背後の襖が開かれた。
そこに座り控えていたのは、目立たないフォーマルスーツをきっちりと着こなした、四十歳前後の長身の女性で。
その女性、鬼龍院鞢は、次の言葉を促すようにジッと主の背中を見据えていた。
着物の少女――鷹狩学園理事長、鷹狩結は、振り向くどころか身動ぎ一つせず、再び静かに目を瞑る。
「侵入者です。生活区B番地のC棟四階に黒づくめで軽装な成人男子が五名。脇には面妖な臭いを漂わせたボストンバッグが人数分。……確かあの場所は、現在テナントもなく空いた土地になっていたと記憶しています」
「――確認しました、映像をどうぞ」
結が全てを語り終えるよりも早く、鞢は胸元からWINKを取り出し操作していた。
部屋の四隅に設置されていたプロジェクターが駆動音を発し、WINKに映された映像を結の網膜内に直接転送する。
結の視界の端に浮かび上がった強化現実のモニタには、結が告げた通り五人の不審者が薄暗いビルの一室に集い、なにやら密談をしている様子だった。
まぶたを開いてそれを確認した結は、視線を正面に戻しながら背後の秘書へ呼びかける。
「彼の者達の情報は?」
「リーダー格の人物に見覚えがあります。最近過激派組織として国連からマークされている人権保護団体の幹部です」
「人権保護団体、ですか?」
「はい。人間の社会に超獣やディアは不要との論調を崩さない、いつの時代にも存在する系のアレです。近年はより強硬な姿勢を強め、関連施設やWINK社を破壊するなどのテロリズムに走っているとか。学園の象徴たる中央校舎やこの運営区ではなく、生活区に入り込んだということは、彼らの狙いはおそらく我が校の生徒たちかと」
「……それは穏やかな話ではありませんね」
結は畳に左手の指を置き両足の親指を立てると、ささやかに衣擦れの音を立てながら鞢の方へと体を向けた。
WINKから目を離した鞢は、主以上に表情を硬くして目を細める。
「H.Pに連絡しましょう。最悪であれば、最終防衛システムも起動して鎮圧を」
「いけません。鞄の中身が爆弾や化学兵器だとすればその場で起爆される可能性もある。それに、私たちが手を下してしまえばそれは次なる闘争の火種となってしまうでしょう。子供たちが本格的な標的と定められてしまいます」
「しかし、和平を申し入れたところで彼らが交渉に応じるとは思えません」
「……“相対悪”を行使します」
結は言葉から極力感情を削ぎ落とすと、スッと慎ましやかに立ち上がり下腹部の前で手を重ねた。
それを聞いた鞢は、ビクッと体を震わせて結の顔を見上げる。部屋の薄暗さと微かな月明かりで、結がどんな表情をしているのか窺い知ることはできなかった。
その提言は予想していた。
だが、口にして欲しくはなかった。
鞢は苦々しく顔を歪め、しかしそれでも己が主に異を挟むことはせずに、手の中のWINKに視線を逃がす。
「かしこまりました。各省庁への連絡と団体に向けた声明はこちらで済ませておきます」
「よろしくお願いします。童らが寝ている間に、全て終わらせてしまいましょう」
鞢が顔を戻すと、結は目を背けるように顎を引いてまぶたを閉じた。すると、その体が畳に溶けるように足元から沈んでいく。
静かに、音もなく、幻だったかのように。
秘書の見守る中、結の小さな肉体はものの数秒で和室の中から消失する。
「……行ってらっしゃいませ」
お気をつけて。とは付け足さなかった。
その言葉が何一つ――本当に何一つ意味をなさないことを、鬼龍院鞢は誰よりも知っていたから。
◇ ◇ ◇
「……時間だ。全員、準備はできたな?」
鞢が“リーダー格”と呼んでいたその男は、確認するように仲間を見回すと持っていたフルフェイスマスクを被った。
その他の男たちも同様にマスクを被ると、その中の一人が置かれていたボストンバッグを開く。中には太めのガスボンベのような塊が入っており、表面には様々なコードや基盤が張り巡らされていた。
基盤につけられたLEDがときどき明滅しているのをチェックして、頷きながらチャックを閉じる。
「目標は超獣専用の寮が三つに、ディアの修理工場、後はあいつらの管理を行っている運営施設。外壁で爆破させるだけでも、建物を倒壊させるには十分な威力だそうだ」
「威力がありすぎるんじゃねえか? 勢いあまって人まで巻き込んだら……」
「それはそれで話が作りやすいんだとよ。むしろ子供が何人か怪我した方が都合がいいくらいだ」
事前のブリーフィングとほとんど同じ内容の会話を、男たちはあらためて繰り返した。
かと言って、別に男たちに迷いや戸惑いがあるわけではない。
人間を巻き込むのは気が引けるが、全ては大事の前の小事。
むしろこんな街で人外と仲良く轡を並べているガキどもなど、人類の未来のために摘んでしまった方がマシとまで考えていた。
――人の世に超獣が割り込んで来てから、もはや四十年以上が経過していた。
人間が人間のためにここまで築き上げた秩序と社会に、人外共は唐突に土足で踏み込み、あまつさえ当然のように権利を主張してきたのだ。
早く彼らを絶滅させなければ人間という種の存続に関わるというのに、国連は人類を軽視し人外を優遇している。
近頃は機械人形までもが人権を主張して我が物顔で街を歩いている始末だ。
特にひどいのがここ日本で、『原種保護法』だの『超獣共存法』だのと馬鹿げた法律を乱立し、救世主気取りで世界中の人外を招き入れている。
その通り。
こんな学園都市が存在することこそが、害悪の象徴なのだ。
「……まったく、反吐の出る街だぜ」
夜遊びに興じている超獣の子供らを窓から見下ろして、リーダー格の男はマスクの下で眉をしかめた。
同じ空気を吸っているだけでも虫唾が走るというのに、最近では超獣と結婚したり、それどころか子供を作る物狂いまで増えているという。
この学園のデータを初めて知ったときは、超獣の在籍数よりも、混血種の匹数を見て吐き気をもようしたものだ。
早く。
早く何とかしなければ。
誰に願うではない。自分たちの力で、行動で、人類を超獣たちの魔の手から救うのだ。
ガンと窓ガラスを叩くと、志を同じにする仲間たちへ振り返って頷き合った。
背中に担ぐようにバッグを提げ、勇みよく足を踏み出しながら彼らを先導する。
「っ!?」
その歩みは、わずか数歩で押し留められた。
部屋の出口のその前に、いつの間にか赤い着物の少女が佇んでいたからだ。
直立不動の態勢でそっと両手を重ねている鷹狩結は、男たちが自分の存在をしっかり認識したのを確認してから、その朱塗りの瞳を見開く。
「お初にお目にかかります。私の銘は鷹狩結。この学園の理事長を努めている者です」
「……これはこれは。諸悪の根源が自らご登場とはご苦労なことだ」
あからさまに狼狽えている仲間たちを落ち着かせるように、リーダー格の男は堂々と不敵に返事を返した。
結は怒るでも睨むでもなく、個人的な感情を除いた真摯な眼差しでマスクの奥の瞳を見つめる。
「大変失礼な事かとは存じましたが、あなた方の謀は全て把握させていただきました。あなた方が所属する団体にも現在確認作業を行っております」
「所属する団体? それが何かは知らないが俺たちはただの観光客。結果として不法侵入になったことは謝罪するが、それ以上の何かを言われる筋合いはないぞ」
「化かし合いをするつもりはございません。単刀直入に申し上げます。今すぐにこの学園から立ち退き、そして二度と足を踏み入れぬことを誓ってください」
威嚇するように身を乗り出す男に対して、結は淡々と事務的に己の要望を告げた。
背後の仲間たちが顔を見合わせ苦笑するが、その笑い声は結の雰囲気に気圧され乾いたものとなる。
「カワイイ形して随分と尊大な態度だな。さすがはこの学園の理事長様。俺たち人間を腹の中に幽閉して、そこから吸い上げる蜜はさぞかし甘く甘美なものだろうさ」
「……童らが集い集まることで、学園の座敷童たる私の顕現が強まっているという事実は認めましょう。しかし、私の望みはあくまでも子供たちに学びの場を提供し、伸び伸びと育ってもらうこと。知りたいことを知り、学びたいことを学ばせる。そんなあたり前の機会を童らに与えたいだけ」
結は目を伏せると、優しく草履を擦りながら男たちに歩み寄る。
「この学園は亡くなった先代の理想と理念が形となった、ただそれだけの“学習塾”なのです。そこに通う学童らに種族も身分もございません。どうかお引き取りを」
「……先代?」
「こいつと結婚して学園を作った、幼女趣味の変態ロリコンジジイだよ。まんまと洗脳されてこの化物の出汁に使われやがった、人間の風上にも置けないクソ野郎さ」
男が発した暴言に、結は初めて眉を動かし感情を滲ませた。
しかしそれも一瞬のことで、男たちがそれを認識するより先に元のすまし顔へと戻る。
「もう一度申し上げます。どうか、どうかお引き取りを」
「断る。……そういえば、座敷童が居なくなった家は衰え滅びるって話があったな。こいつが死んだらどうなるか、この学園で試してみるというのはどうだ?」
男が背後の仲間たちに問いかけると、その意図を察してそれぞれがバッグを置き銃やナイフを取り出し始めた。
このような行為に及んでいるのだ。
おそらく銃弾や刀身には、対超獣用の何らかの処理が施されていることだろう。
それに気がついていても、結はなに怯むことなく、凛とした空気を崩さないまま正面の男を見据え続ける。
「座敷童が住む家には富と繁栄がもたらされると伝えられています。しかし一方が栄えるということは、他方、座敷童が住まぬ家は相対的に損を得ているということになります」
「……はあ?」
「私は私自身の特性を理解しようとした際、その本質が“相対悪”にあると解釈しました。私という存在は誰かを幸福にするのではなく、見知らぬ誰かを不幸にしてしまう。表裏一体にして一衣帯水――むしろ悪因悪果こそが私の根源であると、私は考えているわけです」
「急に何の話だ? 時間稼ぎのつもりなら――」
「残念ながら、時間稼ぎはもう終わっております」
結が淡々と告げた瞬間、結を取り囲もうとしていた仲間たちの足元から闇が立ち上がった。
〈〈〈〈 ごっくん 〉〉〉〉
不意の出来事で。
突然の出来事で。
一瞬の出来事で。
いったい何が起きたのか誰ひとり理解する間もなく、四人の仲間は全員、その闇に巻き付かれ噛み砕かれ咀嚼されて飲み込まれる。
闇が地面の中に沈み込んだ後には、そこに四人が存在したという証拠など何一つ残っていなかった。
唯一難を逃れた男だけが、数十秒が経過してから、目の前で起こった現象を認識して混乱の悲鳴を上げる。
「な、ななな、なぁ?! な、なんだ!? きさま、いったい何をしやがった!!」
「何をされたと思いますか♪」
まるで耳元でそっと甘く囁かれたかのように、その声は聞こえた。
男が言葉を失くして振り向くと、そこには古めかしい学生服を着た、黒いマント姿の女子高生が一人。
その少女の笑顔は、ニコニコと毒気がなく、ニコニコと邪気がなく、ニコニコと驕気がなく。
そしてゾッとするほどの怖気を男にもたらした。
結は至って冷静なまま、むしろ冷酷なまでに表情を変えずに男の目を見据え続ける。
「私は座敷童としてこの学園を繁栄させる義務を持ちます。それは学童らを繁栄させるという義務であり、そしてそれは、子供たちに仇為す者には相対的な不幸を与えるという義務に他なりません」
「そうそうその通り♪ でも本当に運がないですよねぇ、おじさん? こんなところで私に出会っちゃうなんて」
「……っ!!」
“危険”なのは学園長ではなく、このマントの少女の方だと男は本能で理解した。
後ろ腰から素早く拳銃を抜き取ると、構えながら少女に向けて連続で引き金を引く。
ただ、それだけだった。
弾倉の弾を残らず吐き出したというのに。
弾丸は全て少女の肉体を貫いたというのに。
顔面も心臓も急所という急所を撃ち抜いたはずなのに。
少女は柳の枝ほども体を揺らすことなく、ニコニコとした笑顔のままで男と向かい合っていた。
スライドが開ききった拳銃の、その引き金を無意識に引き続けながら、男は呆然と少女の顔を見下ろす。
「ばけ……もの……?」
「安心してください、ちゃんと人間ですよ♪」
そして貴方はちゃんと人間に殺されるんですと、少女は優しい微笑みと共に宣告する。
先ほど四人が消えた時と同様に、足元から闇が伸び上がり男の体に巻き付いた。
しかし、今度はすぐ噛み砕くことをしない。拳銃を構えた姿勢で男を固定しながら、まるで嘗め回すように蠢き絡まり男の視界を塞いでいく。
「あ……あ……ぁ……」
男はもう意味のある言葉を話すことができなかった。というか、もう脳が思考することを諦めていた。
ただ現状を眺めて認識して、そしてあらゆる理解を放棄する。
「それではおじさんに人生最後の質問です♪ 座敷童の性質によってこれから不幸にも亡くなってしまうおじさんの、その死因はいったい何でしょうか~?」
「……ぁ」
「一番、このまま骨をバキバキに砕かれて激痛でショック死する。二番、全身の皮膚という皮膚を溶かされて悶え苦しんだ末にこと切れる。三番、生きたまま彫像にされて絶望の中で発狂死する」
少女はクスクスと楽しげに笑いながら三本指を立てた。
男は何も考えることができないまま、反射的に嗚咽を漏らし生理的な涙を流す。
「答えは無難に即死です」
少女が告げると同時に、闇が一瞬で収縮してテニスボール大の球体と化した。
最後に絞り出された空気すら残さず、男という痕跡がこの世から消失する。
少女は宙に浮くその球を手に取り、慈しむように胸に抱えてその表面を撫であげた。それから飽きたように球を肩の辺りに乗せると、球はドロリと溶けて背中のマントと一体化する。
「……さて挨拶が遅れましたね、結ちゃん。……それとも理事長先生とお呼びした方が?」
「お久しぶりです、神谷さん。この度は学園の窮地を救っていただき、ありがたく思っております」
「あらあら、おかしなことを言いますね。私はたまたま夜のお散歩をしていたらたまたまここに足が向いてたまたま人を殺しただけ」
最初からそういう契約でしょう?と、マントの少女“相対悪”神谷都古は目線で訴えた。
結はそれでも都古の傍に近づき、彼女に向かって深々と頭を下げる。
「如何なる理由であれ、お礼は述べさせていただきます。貴女の行動は結果として学園の子供たちを救う結果となりました。感謝を」
「あらあら、それはそれはおかしな話ですね。私はただ悪を為しただけだというのに、結果として誰かを幸福にしてしまっただなんて。これって“魔王”失格じゃないですか」
都古は顎に手を当てると、う~んと声を上げてわざとらしく小首を傾げてみせた。
そんな小芝居にも数秒で飽きてから、都古はパッと両手を広げて結に笑いかける。
「でも気をつけて下さいよ、結ちゃん。なんたって私は“相対悪”なんですから。またいつ気まぐれで大虐殺を始めちゃうかも分かりませんよ?」
「……学童に手を出さないのであれば、それは私の関与するところではありません」
「そんなこと言われたら、それこそ今からでも何人か手にかけたく――」
「ドロシーッ!」
都古が邪悪な笑みを浮かべるより早く、結の叫びが言葉を遮った。
瞬間、結の眼前に魔法陣が浮かび、中から完全武装のパワードアーマーが飛び出して都古の首筋にビームブレードを押し当てる。
「……動いてくれるナヨ。……恥も外聞もナク懇願するから、一ミリたりトテ動いてくれるナ」
「どうもお久しぶりです、最終防衛システムちゃん。以前お会いしたときよりも随分とバージョンアップしてもらえたんですね」
じりじりと首の皮膚を焦がされながらも、都古は口元から笑みを絶やさなかった。
パワードアーマーは眼光のようにセンサーアイを光らせると、ブレードを持つに力を込める。
「貴様の脅威カラ学園を守る、私はそのためにツクられたのダ。いつまでも簡単にあしらえるト思うな」
「勇ましいのは結構ですが、私を撃退するにはまだまだ実力不足ですよ」
「知っていル。だから今回ハとりあえず数を用意シタ」
ブォンと音を立てて、室内の至るところに魔法陣が浮かび上がった。
所狭しとスシ詰めのように、数十体のパワードアーマーが出現しては武器を構えて都古へと向ける。都古が微笑みながら窓の外へ目を向けると、宙に浮く光学迷彩されたパワードアーマーの群れがそれとなく滲んで見えていた。
と、パワードアーマーの隙間を縫うようにして結が顔を出し、感情を押し殺した目で都古を見据える。
「今の冗談は聞かなかったことに致しましょう。神谷さん、どうぞ夜の散歩の続きを」
「……このままだと私にも不幸が訪れそうな感じだし、ぜひそうさせてもらいましょうか」
都古は降参するように両手を挙げると、肩を竦めながら結に背を向ける。
そして部屋の出口とは正反対の、ただ壁があるだけの場所に向かって、パワードアーマーの群れを掻き分けテクテクと歩を進めた。
「あ、そうそう結ちゃん?」
ふと思いついたように足を止め、肩越しに結と、先ほど自分に刃を押し付けていたパワードアーマーに目配せする。
「まったく全然これっぽっちも足りません♪ 私を打倒したいのならば、最終防衛システムちゃんをせめて一千体は用意しておかないと。このままじゃ“魔王”に返り討ちですよ」
それではと手を振り、都古は背中のマントに包まれるようにして闇に溶けて消え去った。
「……帰ったカ」
気配が完全に途絶えてもしばらく緊張を維持していたパワードアーマーたちが、ようやく構えを戻して武装を解除する。
振り返ると、結も脱力するように両肩から力を抜き、深い溜息を吐いていた。
「理事長。差し出がましいようダガ、もうアイツと関わるのは辞めた方が良い。このままデハ貴女の心が持たナイ」
「そうは参りません。あの子が“魔王”となった一端には、私も関わって、いるのです、から……」
「理事長?」
喋りながらフラフラと揺れる結を見て、パワードアーマーは間の抜けた声を発した。
それを耳にした結は、そこで己の精神が摩耗しきっていたことを自覚したが、だからと言ってもうその衝動を抑え込むことも出来ず。
堪えるように右手で額を押さえたのを最後の抵抗として、結はそのまま受け身も取らずに仰向けに倒れた。
◇ ◇ ◇
カーテンから朝日が射し込みチュンチュンと小鳥がさえずる中で、黒棟秋羅は目を覚ました。
四十歳を目前に控えた中年男性の肉体は、爽やかな朝に重い倦怠感と慢性疲労をもたらす。
「……んー?」
ぼんやりと目を見開いた秋羅は、その右手に何か柔らかい感触を感じて視線をそちらに向ける。
自分のすぐ隣では、もう二十年以上の付き合いとなる神谷都古がスヤスヤと眠りについていた。
――全裸で。
「……うわあぁぁーっ?!」
何十年経とうが見慣れないものはやっぱり見慣れないわけで。
秋羅は大げさな悲鳴を上げると右手を跳ね上げながら都古から遠ざかり、そしてその勢いのままにベッドから転落する。
その物音で目を覚ました都古は、四つん這いになり「くぁあー」と鳴き声を上げると、猫のように体を伸ばして震えた。
秋羅は何とか姿勢を立て直して、己の肢体を微塵も隠そうとしない都古にタオルケットを巻き付ける。
「ちょっと先輩、泊まりに来たのなら一声かけてくださいよ! 本気で寿命が縮むじゃないですか!」
「うふふ、黒棟くんがあまりにも気持ちよさそうに眠っていたものだから起こすのが忍びなくなっちゃいました」
「いや、絶対僕を驚かしたかっただけですよね」
秋羅はガックリと肩を落とすと、白髪の見え始めた頭をポリポリ掻いた。
目を向ければ、一見女子高生な見た目の都古が悪戯っ子のようにはにかんでいるわけで。
「……お願いですから、そろそろ元の姿に戻ってもらえませんか? 最近、ガチで買春してるんじゃないかとか周りの人たちに心配されてるんですけど」
「あらあら。愛する人のために告白されたその当時の姿であり続けたい。それって女性なら誰しもが思い描く理想なのでは?」
「いや、絶対僕をからかって遊んでいるだけですよね」
わざとらしくタオルケットをズラして見えそうで見えないラインを作ろうとしている都古を、秋羅は白い目でねめつけた。
しかしまあ、そんな不満をいくら述べたところで取り合ってくれないことも、この二十年の付き合いで分かっているのだけれど。
「それで、今回はいったい何があったんですか?」
「……。……何のことかしら?」
秋羅の問いかけに、都古の笑顔がマネキンのように固まった。
秋羅はヤレヤレと、本当に心の底から呆れ果てたように溜息を吐く。
「先輩が呼んでもないのに家に来るときは、大抵“何か”があったときでしょうが。先輩ってわりと嘘が下手くそなんですから誤魔化さないでくださいよ」
「……別にそんな、あらためて言うほど大したことじゃありませんよ」
都古はマネキンの表情のまま、秋羅の視線から顔を背けた。
秋羅が続きを促すように隣に腰を下ろすと、窓ガラスを割ってしまった子供のように恐る恐るセリフを繋ぐ。
「昨日ちょっと、五人ほど人を殺しただけです」
「……」
「いつものように、理由らしい理由もなく、ただそこにいたからというだけで殺しました。何の感情もなく何の感慨もなく何の意味もなく。気づかずに蟻を踏みつぶす靴底のように、偶然頭上に落ちてきた隕石のように、なんとなく人間を生み出した神様のように」
――ああ、彼らが私に殺されたことには、本当に何の価値もなかった。
「……ねぇ、黒棟くん。私って誰から見ても最悪ですよね。誰にとっても悪党ですよね。私は、私はちゃんと“相対悪”でいられていますよね?」
「先輩」
マネキンの笑顔を向ける都古の体を、秋羅は全身で抱きしめた。
そして、どう説明すればいいか分からずオロオロと怯えている子供に、そっと優しく耳打ちする。
「安心してください。先輩は誰から見ても最悪です。誰にとっても悪党です。ちゃんと、ちゃんと先輩は都己さんの“魔王”でいられています」
「……」
「でも、そんな最悪な先輩のことを愛してしまっているこの僕が、何よりも一番の最悪です。……それは、それだけは、絶対に譲りませんから」
体を離した秋羅はそう伝えると目を細めて微笑んだ。
都古は一滴の涙もこぼしていないというのに、泣き疲れたように憔悴しきった顔で頬を緩める。
「いい歳こいて、こんな若作りして彼氏をからかって遊んでいる私よりも?」
「遊んでいる私よりも」
「もう何百万人も何千万人も、人を殺して物を壊して社会に迷惑をかけまくってる私よりも?」
「かけまくってる私よりも」
「もしかしたら今この瞬間に、なんとなく気まぐれで貴方を殺しちゃうかもしれない私よりも?」
「殺しちゃうかもしれない私よりも」
都古が問いかける度に、秋羅が頷きを返した。
都古は最後に「あはっ」と笑い声を漏らし、タオルケットを投げ捨てて秋羅に抱きつき返す。
「……それなら私は“魔王”として、黒棟くんよりもっともっと、愛してあげなくっちゃいけませんよね♪」
「……お手柔らかにお願いしますよ」
娘ほども見た目に差がある少女に押し倒された秋羅は、今日の仕事とかご近所さんへの世間体とか、色々なものを諦めながらWINKの電源を落とした。
◇ ◇ ◇
朝日が射し込む中で目を覚ますと、そこには見慣れた旧家の天井があった。
布団から体を起こした結は、すぐ隣に鞢が正座で控えていたことに気づく。
器用なことに、鞢はピシッと正座をした態勢でスヤスヤと寝息を立てていた。
結はクスリと忍び笑いをもらすと、指を伸ばして鞢の頬をツンツンと突っつく。
「……む。……はっ!? おはようございます、理事長!!」
「おはようございます、鞢。昨夜は苦労をかけてしまいましたね」
「そんな、勿体無いお言葉です。それに理事長の心労を思えば、この程度の労力は屁のツッパリにもなりません」
「その使い方だと本当に意味が分かりませんよ」
結はクスクスと笑いながら、布団から完全に立ち上がり着物の乱れを直した。
鞢が「もう少し休んでは」と引き留めたが、結はゆっくりと首を振って襟首を正す。
「私はこの学園の座敷童です。ならばこそ、子供たちと一緒に起きて子供たちと一緒に学ぶのが道理。でなければ、賤しくも鷹狩の性は名乗れませんから」
「……お供いたします、理事長」
結が障子戸を開けると、その後ろに鞢が付き従う。
眩しいまでの陽光の中で、いつも通りの学園の日常が今日も始まろうとしていた。
/相対悪理論 完