宮越優とユー人
world:ハッピーエンド
stage:西暦2041年6月 鷹狩学園
personage:宮越優
image-bgm:青空のラプソディ(fhana)
宮越優は毎日午前5時ピッタリに起床する。
これは、幼少時からそうやってすごしてきたというただの慣習的なものであり、特別重要な理由があるわけではない。
しかし、雨の日も風の日も爆弾の日も世界滅亡の日も宇宙崩壊の日も休日も女の子の日も、彼女は一日も欠かすことなくその慣習を実行し続けていた。
宮越優が暮らしているのは2LDK(風呂トイレ別)の簡素な木造アパートの二階である。
築41年。LDKがフローリングの洋室で、残りの二部屋が畳敷きの十二畳半の和室という、前世紀の遺物のような“今時”とはかけ離れた格安物件。
そのうちの和室一部屋を、優は自分の部屋として親から分け与えられていた。
布団の中でスヤスヤと眠っている優の枕元には、黒いガラス状の次世代携帯端末WINKと、現代ではあまり見られなくなったアナログ式の卓上時計。
その時計の針がちょうど5時を指した瞬間、優はパッチリしゃっきりを目を見開いて布団から跳ね起きた。
「んん~っ! 朝ですか~っ!」
長座位の状態で気持ちよく背を伸ばし、優は目に軽く涙を滲まながら宣言した。
そしてあらためて枕元の時計を手に取ると、己の体内時計が間違っていないことを確認してニンマリと微笑む。
「うん! 今日も一日、ガンバガンバ!」
優はたった一人で心の底から楽しげに人生を盛り上げ、その勢いで立ち上がりながら着ていたパジャマを一気に脱ぎ捨てた。そして壁に掛けてあった制服を掴むと、勇者的なロボットが合体変形するような効果音を鳴らしながらガチャンガチャンと袖を通しスカートのチャックを締める。
最後に学習机の上に置かれていた巨大で赤いリボンを後頭部に装着すると、姿見に自分を映してグッと両手を握りしめた。
そこから先の彼女の動作は素早く的確だった。
まずは脱ぎ捨てたパジャマをたたみ、布団を軽く振り払って湿気を飛ばした後で押し入れへ収納。それから前時代的な草箒を取り出すと、慣れた手つきでファサファサと畳の埃を履いていく。そのまま窓と襖を開くと、続くLDKの洋室もパッパパッパと掃き掃除を済ませてしまった。
最後に玄関周りの掃除も済ませて埃をチリ取りで掬い、昨夜のうちにまとめておいたゴミ袋に突っ込む。
ちょうど今日は燃やせるゴミの日だったので、そのまま袋を縛って外に出ると、ちょうど太陽が顔を出して優の顔を照らした。
「……~っ!」
優はその日差しの温かさを感じながら、むず痒そうに口元を歪めるともう一度気合を入れるように両手を握りしめた。小声で「よし!」と自分に気合を入れ、周辺住民に配慮した小さな小さな鼻声で最近の流行歌を口ずさみながら、近場のゴミ捨て場へ向かう。
それからゴミ捨て場の掃除を行い、戻って洗濯機を回し始めてから、居間の窓や隅に溜まった汚れ埃を雑巾で拭き掃除。さらに優はエプロンを取り出して制服の上に装着する。
「んみゅっ!」
満面の笑みで食品棚から取り出したるは、大量の食パンと卵とレタスとハムとトマトとその他諸々。それと万能包丁とまな板。
パン切り包丁すら使わずにズダンズダンとパンの耳を切り落とし、熟練の手つきでマーガリンをクラムに薄塗り。そうしている間に温まったフライパンへバターを落とし、いつの間にかかき混ぜ終えていたハムの千切り入り卵を流し込む。トマトはヘタを取ってから肉厚に輪切りして、中途半端な端っこは皮ごと潰して作り置きのイタリアンドレッシングに溶かす。レタスはなんかグッと握ってパッと開くと、謎の力でちょうどいいサイズに千切られていた。
テコテコと子供っぽく動きながら、その所作は鉄人と呼ばれる料理人のようにテキパキとしており。……むしろ食材が宙に浮いているうちに別な作業をこなしてしまえる分だけ、作業効率のみなら優の方が最適化されているのかもしれなかった。
調理を開始しておおよそ15分。居間の柱時計はそろそろ6時半を回ろうかというところだったが、食卓の上には三種の彩りサンドイッチとなんちゃってミモザサラダ、あと気が付いたら用意されていた自家製クルトンたっぷりのコーンポタージュが完成していた。
優は腰に手を当て満足そうに口元を緩めると、小休止を終えて水切り籠からお弁当箱を取り出す。
あまり物のサンドイッチを優しくケースに詰め、小さなタッパにサラダ、魔法瓶にはクルトンを抜いたポタージュを注ぐ。それらを2セット準備した後、片方を学生鞄に収納すると、エプロンを外した優は身だしなみを整えにお風呂場の洗面台へ入っていった。
10分ほどして。
洗顔をするついでにお風呂場で洗濯物を干していた優が居間に戻ると、パジャマ姿の父親、宮越悠が二人分のココアを淹れているところだった。
優はただでさえ幸せそうな表情をさらに緩め、天井に届きそうなほど大きく右手を伸ばす。
「んみゅ! お父さん、おはよ~!」
「ん、おはよう」
娘のテンションに対して、寝癖だらけの父の反応は無愛想極まるものだった。
しかしそれを微塵も気にすることなく、優は差し出されたココアを宝物のように嬉しそうに受け取る。そのまま二人で向かい合って食卓に着くと、完璧なタイミングで両手を合わせて「いただきます」を合唱した。
二人は一切の迷いなくまず一番最初にサンドイッチを手に取り口へ運びながら、幸せすぎて融けそうな顔とぼんやりしすぎて化石化しそうな顔を見合わせる。
「お父さん、少しお寝坊さんだったよね? もしかして今日はお休みなの?」
「ん。今日は日本で仕事だからゆっくり出ても間に合うんだ。帰りもたぶん早いと思うから、夕食はオレが作るよ」
「え、ホント?! やった~! お父さん、だ~い好き♪」
「ん」
食卓を回り込みキスせんばかり勢いで交わされた娘の抱擁を、悠は憮然とした表情で受け止めた。他人事のように黙々と口を動かし、二枚目のサンドイッチもするりと飲み込んでしまう。
「学校はどうだ? なにか困ったことは?」
「困ったことなんてな~んもないよ。みんな良い子でみんな仲良し!」
「ん」
それが完全に娘主観の独善的な見解なのは火を見るよりも明らかだったが、悠は何一つ気にせずココアをすすっていた。
と、今更気づいた風に顔を上げて娘の方を見る。
「……時間、大丈夫なのか?」
「ふぇ?」
父と一緒に柱時計へ振り替えると、時刻はまもなく七時になりそうなところで。
優は「あ~っ!」と情けない声を上げ、慌てて自分の席に戻って朝食をガツ喰いし始める。
「洗い物はオレがやっておくから、落ち着いて食べて」
「ングング。ほとおはん、ありあと~!」
それこそリスのように頬袋を膨らませながら、それでも優はニコニコと頬を緩めて見せた。そしてポタージュでそれらを流し込み、ついでにココアも一気飲みしてから、優は「ごちそうさまです!」と立ち上がって歯磨きに向かう。
一方の悠はそれを心配するでもなく、なんとなくテレビを点けて朝のニュースに目を向けていた。最近人気のディアアナ(アンドロイドのアナウンサー)の笑顔を眺めながら、残ったサラダをポリポリと口に運ぶ。
「かばんかばん……あ、ういんくも~っと」
学生鞄を掴んでそのまま玄関を飛び出そうとしていた優は、踵を返して自分の部屋に戻った。学習机に置いていたWINKを手に取り、スカートのポケットにしまう。
最後に念のため自分の姿をもう一度姿見に映し、後頭部のリボンもズレていないことを確認してから、よし今度こそと笑みを浮かべた。
「それじゃあお父さん、行ってきま~す!」
「優」
靴を履こうとした娘の後姿を、悠はテレビから視線を逸らさずに引き留めた。
優はキョトンとした表情で小首を傾げ、そして言われていることを理解して「あっ」と口元を押さえる。
父の後ろをテコテコ走り抜けて、入ったのは両親の寝室。まだ敷きっぱなしだった父の布団のさらに向こう側に、小さな祭壇が奉られていた。
祭壇と言っても特別何が飾られているわけではない。小さな花瓶と写真立てが一つ。たったそれだけが置かれているもので。
優はその前で厳かに正座すると、写真立てを手に取り静かに目を細める。
「……行ってきます。……お母さん」
そう呟いた優の表情は、普段の彼女からは想像もできないほど愁いに満ちていた。
アパートの階段を下りた優は、学生鞄を両手に大きく背伸びを伸ばした。
そのまま柔軟体操するように左右に腰を捻り、それが終わった後は腕を下ろして伸脚を行う。
「お、おはよう優くん。これから登校かな?」
「あ、ビル・ド・ジャスティスさん! おはようございま~す!」
声と気配でそれが誰かと察した優は、姿勢を正して後ろに振り返った。
そこには、白いタンクトップに茶色のニッカポッカを履き、白く分厚い軍手を嵌めて黄色い作業用の安全ヘルメットを輝かせた、容姿だけはどこぞのアイドルのような好青年であるコレジャナイ系土方。“ビル・ド・ジャスティス”こと須藤正平が立っていた。
正平は格好つけるようにヘルメットのツバを摘まむと、何故か片目だけが覗くようにヘルメットを目深にズラす。
「うんうん、今日も元気で結構。キミのように若さとはやっぱり振り向かないことでなくてはな」
「えへへ~、ありがとうございます」
今の発言のどこにありがたい要素があったのかは理解に苦しむが、とりあえず誉め言葉と受け取った優は頬を緩めた。
しかし、実際に誉め言葉だったらしく、正平はうんうん頷きながら腕を組む。
「いくらキミにとって容易なこととはいえど、毎日400キロの道のりを往復するのは簡単なことではないよ。その点は、我々社会人もしっかりと見習わなくてはいけないな」
「でもでも、あたしはジャスティスさんみたいに正義の測量とか善意のタレコミとかできないですし~」
「はっはっはっ。私の特技など所詮は趣味の手慰み。謙遜することはないさ」
……なんだこの会話は。
通勤途中のサラリーマンが偶然二人の会話を耳にしていたが、全体的に意味が理解できずに真顔で脇を通り抜けた。
雑談がひと段落したところで、正平は右腕についていた耐衝撃時計を見下ろす。
「おっと、あまり時間を取らせてはいけないな。私もそろそろ出社することにするよ。キミも今日一日学業に励んで欲しい」
「はい。ビル・ド・ジャスティスさんも労災にはお気をつけて~」
「はっはっはっ。キミの方こそ、音速の壁に十分気を付けるんだぞ?」
「は~い、行ってきま~す!」
優はブンブンと過剰に右手を振り回すと、学生鞄から肩紐を伸ばし、背負い鞄モードに切り替えて背中に背負いこんだ。
トンッと軽い音だけ残して、その優の姿が残像となり消滅する。
見上げると、優は走り幅跳びするような体勢で数十メートル上空まで飛び上がっていた。制服が相対的な風に煽られ、上下ともにチラチラと下着を覗かせていたが、そんなことは欠片も気にせず優は笑顔で前を見据える。
その体もやがて重力に捕らわれ地面に落下したが、優はスキップするように道路を蹴飛ばし、むしろ一層加速しながらより高くより遠くへ自分の体を跳ね上げた。
そんなことを何度か繰り返すうちに、最初は『アメリカンヒーローのように』といった優の動作が、徐々に『未来の戦闘用アンドロイドのように』と比喩を変える。最終的に『亜音速飛行可能な軍用戦闘機』へと名称を変えた優は、ニコニコしながら適当な住宅やビルの屋根を蹴飛ばし加速を行い続けた。
不思議なことに、そんな脚力で蹴飛ばされても当の屋根や外壁にはなんら損傷が発生しない。
まるで軽く風船が跳ねたかのように揺らぎもせず、重厚な屋根瓦を踏みつけたときも割れるどころか軽く軋む音が鳴ることすらなかった。
そんなこんなで、もう落下しているより滞空している時間の方が長くなった優の体。
シューティングゲームの高速ステージのように流れていく背景を見下ろしながら、優は気持ちよさそうに前方へ体を伸ばし、くるりと一回転させる。そんな風に疑似的な無重力時間を満喫しながらもう一度放送局の電波塔の先を蹴飛ばすと、とうとうその体は航空機が使用する高度にまで舞い上がっていった。
本来であればそれなりの標高を誇る山々を悠々と眺めながら、優は文字通りの遊覧飛行を継続する。
そんな時間が30分は続いたか。
優の視界の端に、見慣れた学園都市の姿が浮かび上がった。
幼稚園から大学まで多数の校舎が乱立する中央部に、一辺が十キロにも及ぶ広大な菱形の(というか正方形の)敷地。菱形の頂点は正確に真北を指し示しており、どこかレトロにのほほんと佇んでいる校舎群に対して、周囲にそびえるコンクリートジャングルや整備されつくされた網の目の交通網は近未来の様相を呈していた。
朝日を浴びて輝く己の学び舎を目にして、優は四肢を動かし姿勢を変えながら落下地点の軌道修正を行う。
その瞬間だった。
キラリと、ビルの反射光とは違う光が優の目に飛び込んだ。
それが何かと確認するよりも早く、光は実像となって優目掛けて突撃してくる。
「んみゅ?!」
優はギョッとした顔で姿勢を起こすと、空力でブレーキを掛けながら迎撃態勢を取った。
飛び込んでくるのは、宇宙戦争用のパワードアーマーを着込んだ兵士のような外観をしていて。その左手はビームブレードを逆手持ちし、右手には大型の拳銃のようなものが握られているのが分かった。
まるで特殊部隊の近接格闘術のような腕を交差したポーズで拳銃を突き出すそのパワードアーマーは、警告代わりにバイザーから覗くロボのような眼光を輝かせる。
「――撃墜スルッ!」
その機械音声が優の耳に届くのと、銃声が響きブレードが振るわれるのはほぼ同時だった。
銃弾で標的の行動を抑制し、そこを神速の一撃で薙ぎ払う熟練の妙技。
「よいしょっと」
草野球のファールボールをキャッチする観客ような気軽さで、優はクルクルと体を捻って確殺コンボを避け切った。
パワードアーマーは背中に内蔵した慣性制御装置を使って急ブレーキを掛け、回転を止めた優はあたり前の表情で空中に立ち止まる。
「あ、最終防衛システムちゃんだ。おっはよ~!」
「……マタ貴女か」
振り返ったパワードアーマーは、心の底から嘆息した声を発しながらフェイスカバーをオープンした。カシャカシャと音を立ててヘルメット部分が首の後ろに収納されると、中から金髪碧眼の少女の顔が現れる。それから拳銃とブレードも前腕部分に折りたたんで収納し、ボイスチェンジャーを切った見た目通りの美声で怒りを露わにした。
「いつも警告しているハズだぞ、宮越優。高高度から高速で登校するのはヨセと。特にオマエは体温が高いのだから、ステルスミサイルと見分けがツカンだろうが」
「えへへ、ごめんなさい。ちょっと急いでたもんだから」
「どれだけ急いでいても校則は校則ダ。……まったく、次からは気をつけるようにナ」
キュインキュインと関節を鳴らしながら肩を竦めると、最終防衛システムと呼ばれたアンドロイドは目を閉じ溜息を吐く。
優は申し訳なさそうに頭を撫でて苦笑し、それじゃあと手を振って学園への降下を再開した。呆れ顔の最終防衛システムの姿があっという間に点となり、代わりに学園の建物がみるみるうちに巨大化していく。
目標は、東西南北で四つに区分けされた菱形の、南側部分に割り当てられている“生活区”――その中に存在する女性専用学生寮の一つだ。
『永夜荘』
そう書かれた表札の前に、優は減速なしで着陸した。
全身で衝撃を緩和するような見事な四点着地を決める優に、周囲の学生たちは登場直後こそビクッと体を震わせたが、すぐにその姿がいつものリボン少女であることを悟って華麗にスルーする。優も優で気軽に体を起こすと、テコテコと小動物の動きで寮の門を潜った。
玄関に入って一番に出迎えたのは、いくつもの触手や節足を持ちところどころ皮膚が崩れて体内から無数の複眼が覗き込んでいるという、“人型”と称するのもギリギリ限界な姿形をした寮母の葬雑椎縁で。一般的に“超獣”と分類される亜人類であろうことは、疑いようもなかった。
不定形な肉体をエプロンで隠しただけの“酒池肉林の常夜”は、右の肩甲骨から伸びている木の枝のような眼球付きの触手を優に向けながら、意外とフランクな口調で嘆息する。
「今日も来たのか、“学園の核弾頭”。毎日毎朝ご苦労なことだ」
「カニバルさん、おはようございます。これも音ちゃんとの約束ですから」
「まぁ貴様のおかげであの自堕落女が遅刻しなくて済んでいるのは、ありがたいことだと思っているが。……ほれ、黒飴をくれてやろう」
「わ~い、ありがとうございま~す!」
縁が飴を握った副腕を取り出して拉げた指で弾くと、優は歓声を上げながら口でそれをキャッチした。そしてボリボリと音を立てて一瞬で飴を噛み砕き、喉を鳴らしながら縁に手を振り移動を再開する。
目指すは親友の遠宮美音が生活している個室の前で。
階段を上り廊下を渡り、美音名札を発見して足を止める。
「音ちゃ~ん、おはよ~。迎えに来たよ~」
一応扉をノックしてみるが、想定通りに返事は来なかった。
優は気にすることなく背中の鞄を下ろすと、中から部屋の合鍵になっているカードを取り出して扉の電子錠にかざす。一度カメラに顔を撮られてから、ピピッと音が鳴ってロックが解除された。
扉を開けて部屋に入ると、その中は腐海と呼ぶに相応しいほど荒れ果てていて。
食べ掛けのインスタント食品の殻に、ゴミが適当に詰められたコンビニの袋。脱いだ制服や下着は床に投げ散らかされ、遊んだゲーム機も出しっぱなし。気ままに使って放置された化粧品やティッシュ箱もそこかしこに散らばっており、興味本位で購入したぬいぐるみは三点倒立している。
優の部屋と大差ない広さのその個室内は、テーブルと言わず座椅子と言わず全てがそんな状態だった。
優は気にせずゴミの山を乗り越えると、部屋の奥にあるベッドでスヤスヤと寝息を立てている遠宮美音の体を揺する。
「音ちゃん音ちゃん、もう朝だよ~。学校に遅刻しちゃうよ~?」
「……んん~、ゆぅ~? ……う゛ぅぅ~っ」
優の声に薄眼を開けた美音は、中年男性のようなくたびれた声を出しながら両手を上げて背伸びをした。
その隙に部屋のカーテンを開けていた優は、優しい笑顔で美音を見下ろす。
「ほらほら、早くしないとまた寝坊しちゃうよ?」
「あ゛~すっごいねむい。くそっ、昨日は夜更かししすぎたわ」
「またずっとゲームしてたの?」
「新作のアクションが出たから寝る前にちょっとと思ったらついついね。……やっぱダメだ、脳みそ使い過ぎて今日は本当に何も見えないわ」
美音はショボショボの目で優を見上げようとして、その視界が七色のノイズに包まれるのを感じて頭痛に頭を押さえた。
優は心配そうにしゃがみ込むと、ベッドの天板に置かれていた美音の眼鏡を手に取り差し出す。
「大丈夫? なんだったらまだ寝ててもいいよ? また私が“大ジャンプ”してあげるから」
「どうせメガネを掛ければ一緒なんだし、そこまでせんでも大丈夫よ。……っていうかこの前のアレで園芸部に完全に目をつけられてるんだから、当分封印しないと」
「えんげいぶ?」
生徒会とか風紀委員会とかじゃなくて?と優は小首を傾げた。
その気になれば国家転覆レベルのバイオテロすら即日可能な技術力と、それを現実にしてしまう行動力を併せ持った鷹狩学園園芸部の真の恐ろしさを、優はまだ知らないのだ。
まあ、こちらも“学園の核弾頭”を所有しているわけで、実効戦力としては五分といったところなのだろうが。
「ごめん、目覚ましに熱いシャワー浴びてくるわ。悪いけど着替えの準備してもらってもいい?」
「うん、分かったよ。行ってらっしゃ~い」
優に手を振られながら、眼鏡を掛けた美音は立ち上がり服を脱ぎながら玄関脇の扉に向かった。何気にこの寮、風呂やトイレに簡易的なキッチンまで完備されているのである(一階には大浴槽もある)。
美音が浴室に消えるのを見送ってから、優は腰に手を当てよし!と気合を入れ直した。学生鞄をベッドの上に投げると、先ほど自分のアパートでそうしていたように、テキパキと動いて美音の部屋を掃除整頓していく。
ゴミを大袋にまとめて必要品を並べ、窓を開けて空気を入れ替えながら埃を払う。後は洗濯物を籠に入れて制服のシワを伸ばすだけで、部屋は見違えるほど広くキレイなものに変わっていた。
手早くシャワーを浴びて戻ってきた下着姿の美音は、その変わりようにうわっと小さく悲鳴を上げる。
「なに、わざわざ片づけてくれたの? べつに良かったのに」
「掃除機とかはかけてないけどね。なんだったら、今日は学校終わった後にお掃除しに来るよ~?」
「……あ~、正直やって欲しいかな。この前の冷凍の作り置きも、そろそろ底を尽きそうだったんだよね」
「うん、まかせて!」
遠宮美音、16才。
もう十年も学園寮で一人暮らししているというのに、生活能力が破滅的に皆無な少女なのである。そして優は、そんな美音のためにときどきハウスメイドの真似事をしてあげているのだ。
学園での二人しか見ていない学友らがこの事実を知れば、パラダイムシフト待ったなしの逆転現象である。
「それで、とりあえず朝ごはんは何食べる? 音ちゃんが髪を乾かしてる間にパパッと作っちゃうよ~♪」
「食欲ないし、コーヒーでも淹れてくれれば十分よ」
「だ~め~。朝ごはんはちゃんと食べないと健康に悪いんだから。それじゃあ、小っちゃいオニギリでも握るね~」
「ハイハイ、よろしくね」
テコテコと冷蔵庫に駆け寄り冷凍ごはんを取り出す優の後姿を眺めながら、ドライヤーを手にした美音は幸せそうに口元を緩めていた。
◇ ◇ ◇
「東北の自宅から毎日徒歩で通ってる? さ、さすがにそれは嘘だよな? ……鷹狩ジョーク、なんだよな?」
昼休みの開始直後。
なんとなく隣の美音に話を振った鳴無兄眞は、驚愕の事実にコンビニおにぎりを食べる手を止めた。
頬杖をついてやる気なく説明していた美音も、あんたの気持ちは分かるといった表情で苦笑を浮かべる。
「まさにあの娘にしかできない芸当だけどね。雨の日とかは雨雲の上を飛んでくるみたいだし、案外気持ちいいってよ?」
「いや、気温とか気圧とか酸素とか……」
「それ以上深く考えるとニュートンとデカルトとアインシュタインがスクラム組んで泣き始めるから止めてあげて」
美音は兄眞の常識的な疑問をピシャリと遮った。
そんな言葉では到底納得しきれない兄眞は、口元をモゴモゴ動かしながら腕を組む。
「宮越さんって本当に人間なの? 超獣とかじゃなくて」
「キミってたまに素でデリカシーを忘れるね。まあ私もときどき自信がなくなるんだけど。……なんでも優のお父さんが仙人で、その仙骨を優も受け継いでるんだとかなんとか」
「せんにん? 仙人って、あの中国の山中で修行してるご老人みたいなイメージの、あの仙人?」
「その仙人。だから、気功だとか勁だとかなんかそんな魔法みたいな力を優も扱えるんだって。まああの娘のことだから、きっと何も考えずただ本能で使ってるだけなんでしょうけど」
「確かに……」
優の普段の行動を思い出して、兄眞は至極合点のいった顔で頷いた。
それはそれでなんだか悔しい美音は、拗ねた感じに頬を膨らませて兄眞を睨む。
「ついでに言っておくけど、あの娘の前で両親の話は厳禁だからね。間違っても尋ねたり話題に出したりしないでよ?」
「へ? 別にいいけど、それまたなんで?」
「あの娘の母親って、あの娘が小さい頃に亡くなってるみたいなの。……その話になると、今でも泣いちゃうときがあるのよ」
「……分かった、十分に気を付ける」
それ以上の説明はいらないとばかりに、兄眞は神妙な表情で頷いた。美音は小さく微笑みを浮かべると、「ありがと」と小声で兄眞に伝える。
つられて微笑みながら、兄眞はそのまま会話を終えて食事に戻ろうとして――そう言えば、と思い出したように美音へ顔を戻した。
「宮越さんのあだ名。“学園の核弾頭”の方はなんとなく分かるんだけど、もう一つが“幸福を君に”なのはいったいどんな理由なんだ? どうして『幸福を君に』な上に『ミューミュー』なのか、それがどうにも思い至らなくて」
「あ~、それね~」
美音はなんとも説明し難そうに眉をしかめて口元を歪めた。
その表情を見て、よほどろくでもない理由なのだと察した兄眞は恐る恐る尋ねる。
「もしかして、『みやこしゆう』だから名前を縮めて『ミユー』とか?」
「いやいや、そんな小難しい理由なんてないわよ。ま~何と言ったらいいか……」
「音ちゃん、んみゅ~!!」
爆音のような歓声を上げると、優は空中でくるくると前転を繰り返しながら美音の机の前でピタッと着地した。
廊下を見ると、通行人が皆開け放たれた窓と優の姿を見比べていて。どうやら、中庭からこの教室の中まで一足飛びにジャンプして来たらしかった(ちなみにこのクラスは3階に存在する)。
美音は嘆息すると、眼鏡を直しながら小首を傾げる。
「それで戦果は?」
「みゅっふっふ~♪ 見て見て、音ちゃん! 今日はなんとスペシャルドッグが3つも買えちゃったんだよ~!」
「……そもそも、あんたがちょいちょいお昼前にお弁当を食べたりしてなきゃ、そんな苦労はいらないんだけどね」
美音がとても冷たい表情で睨むが、優は気にせずホクホク笑顔でパンの包みを抱き締めた。
「いいよね~スペシャルドッグ。外はカリカリだし中はモッチリだし冷めても温かいしなんか良い匂いするし。これで280円とかお買い得だよね~?」
「そんなに食べて、あとでお腹痛いとか言い出しても知らないわよ」
「あたしそんなに食いしん坊じゃないよ~」
当然、説得力などない。
「はい、こっちは音ちゃんの分。この前のイチゴジャムのおかえし~」
「あら。……ありがとう」
そう来るとは思わなかったのか、美音は意外な顔で親友からのプレゼントを受け取った。
優はそれから兄眞に向きを変えると、ニコニコしながら何やら具材がいっぱい挟まれた楕円形のパンを差し出して来る。
「はい、アニマくんにもおすそわけ~。これ本当においしいから、一度食べてみて~」
「え、あ、どうもありがとう」
挟まれているのは、見える範囲でウインナーにスクランブルエッグにトマトにレタスにアボカドと言ったところか。他にも何やら謎肉とか謎野菜が謎ドレッシングに絡まり謎に蠢いている気配も感じるのだが。
反射的にそれを受け取った兄眞は、しばしスペシャルドッグの中身を眺めてから優に視線を移した。
そのときには、優はすでに自分のパンのラップを剥がしてかぶりついているところで。
「みゅ~! みゅっみゅ~! やっぱりスペシャルドッグさいこ~! あたしシアワセだよ~♪」
パクパクと半分も飲み込んだところで、優は奇声にも近い歓声を上げながら、恋する乙女のように頬を赤らめ身悶える。
それを見た兄眞は心底納得したようにスペシャルドッグの包みを叩き、それを見た美音は心底呆れた顔でスペシャルドッグを掲げた。
「……説明、いる?」
「……いらないッス」
「んみゅ?」
/宮越優とユー人 完