鷹狩学園へようこそ(後編)
「初めまして、鳴無さん。私がこの学園の理事長兼学園長を務めております、鷹狩結と申します」
茶室のようにこぢんまりとした畳敷きの和室の中央で、赤い着物を着た三つ編みの少女が三つ指を突いて頭を下げた。
おかしい。『校長室』と書かれた扉を潜る直前までは、確かに一般的な学校の内装をしていたはずなのに。
それまでとあまりにも温度差のある静寂の空間に、兄眞は居心地が悪そうに正座している足を動かした。
ゆっくりと顔を上げた結は、そんな兄眞の態度に気づいて朱塗の瞳を曇らせる。
「申し訳ありません。今時の学童に正座は慣れないでしょうか。それほどお時間は取らせませんので、どうかご容赦ください」
「あ、いや、そんなことはないです。俺の方こそなんかすみません」
見た目小学生くらいの少女に謝られることが逆に罪悪感を刺激して、兄眞は何とも言えない表情で頷いた。
それをどう解釈したのか、結は背筋を伸ばして軽く目を閉じる。
「生徒の顔を憶えておくことは、学園の座敷童である私にとってのこだわりのようなものなのです。普段は全校集会などで一瞥する程度で済ませてしまっているのですが。転入されて来た生徒たちとは、極力時間を作ってこうして直接顔を合わせられるよう努力しております」
「それって結構スゴイ話ですよね。ここの生徒って一万人以上いるって聞いてますけど」
「正確には昨日の時点で13,379人が在籍されています。学士号以降の、修士や博士、研究生などを含めるならば二万人近い人間がここで学び修めているのではないでしょうか」
「それを全員憶えているんですか?」
「……恥ずかしながら、全員の顔と名前が一致できるとはとても申せません。しかし、出来ればそうありたいと私も常に研鑽に励んでおります」
結は凛とした表情で目を閉じたまま、絹のような肌を薄っすらと赤らめ言葉を濁した。
なんだかこの理事長、めちゃくちゃカワイイぞ。
「理解できたようだな、鳴無高校生。うちの理事長の偉大さが」
結のやや斜め後ろに控えていた長身の女性秘書、鬼龍院鞢は、手帳に何かを書き記しながら自慢するように薄ら笑みを浮かべた。
見事に表情を読まれた兄眞はビクリと体を震わせ、まぶたを開いた結は言葉の意味が分からずに小首を傾げる。
「とにかく。この学び舎に籍を置くのであれば、貴方はもう私にとって我が子も同然。何か道に困ることがあれば、遠慮なく私の下を訪ねて来てください」
「なんというか、恐縮です」
見た目に反して悠然と構えている結の懐の広さを感じて、兄眞はしどろもどろに返答した。
風の噂で“教育の権化”などと呼ばれていたものだから、もっと強面で委員長タイプの、規則にものすごくうるさい感じの人物だと思っていたのだ。
やっぱり下手な先入観を持っちゃいけないな。と、兄眞はあらためて襟を正した。
ふと、結はそんな兄眞の顔を見つめると、微かに眉を動かしてエホンと可愛らしい咳払いを漏らす。
「鳴無さんの“特殊な才能”については、私も聞き及んでおります。きっとここに来るまでも多くの苦く苦しい想いをされたことでしょう。その心中、私などが察するには余りあるかと存じます」
「……」
「でもどうか、これからはぜひ私達を頼ってください。童らに学びの機会を。子供らに学びの喜びを。そのためにこの学園は、そのために鷹狩結は、此処に存在しているのですから」
「……ありがとう……ございます」
どう返すべきか少し悩んでから、兄眞はとりあえず頭を下げて感謝を示した。
しかし、だからと言って素直にこの少女を頼ることができる自信は、兄眞にはなかった。
なぜならその“特殊な才能”というものは、兄眞の根幹に根ざすトラウマだから。
簡単に引き抜いてしまうには、あまりにも自我深くに根を伸ばし、兄眞というキャラクターの性質そのものを固めてしまっているから。
兄眞が苦い顔を持ち上げると、その想いすら受け止めた結が優しげに目を細めた。
……と、そんな空気を読みもせず、後ろの秘書がわざとらしい音を立てて手帳を閉じる。
「しかし迂闊ですね、理事長。こんな思春期真っただ中な少年を前に、『遠慮なく自分の下を訪ねろ』などとは。『ん?』とか聞き返されても仕方がありませんよ?」
「「 はい? 」」
唐突に何を言い出すんだこの秘書は。と、兄眞と結は疑問符を浮かべた。
秘書は気にせず、手帳を胸ポケットにしまいながら目端を輝かせる。
「男子高校生とか、思考能力の95%を女性との淫らな妄想に費やしている生命体なのですよ? そんな多感な少年に『私を頼れ』とか、これはもう据え膳の準備オーケーの暗喩としか考えられません」
「え……え、ええぇー!?」
秘書の顔をマジマジと見つめていた結は、ボッと火が出るほど顔を赤く染めると、眼球を震わせながら兄眞へと振り返った。
いや、冤罪にもほどがある。というか全国の高校生男子に謝罪しろ。
むしろ冷静に状況を観察していた兄眞は、途端にオロオロと取り乱し始めた理事長の奇行を見守る。
「え、あ、うん。頼れと口にした以上、それもまた仕方のないことなのかもしれません。で、でも、結にとって学童は翁様の子供みたいなものですし……」
「世の中には“ママショタ”という概念も存在するじゃありませんか、理事長。なんなら“バブみ”と言い換えてもいい」
「たしかに!」
たしかに!じゃないがな。
冷静を通り越して真顔になった兄眞は、瞳孔の開いた瞳で精一杯の脳内ツッコミを入れた。
そんな兄眞の苦悩に気づかぬまま、結は見た目相応に子供っぽい仕草でポンコツに拳を握り締める。
「り、了承いたしました。不肖この鷹狩結、経験豊富とはとても申せませぬが、鳴無さんが望むのであれば精一杯ご奉仕させていただきます!」
「安心していいぞ、鳴無高校生。撮影係は私めが完璧に勤め上げて見せるからな」
「HEY、ポリスメン? へるぷみー」
完全に暴走状態で着物の胸元をはだけ始めた理事長と、容赦なくそれを増長させている確信犯の秘書から己が貞操を守るべく、兄眞は取り出したWINKで緊急通報用の番号をダイヤルした。
◇ ◇ ◇
「朝から災難だったな、鳴無」
スタスタと兄眞の前を歩きながら、異様に眼光の鋭いスーツ姿の女教師“氷の女”水鳥吹雪は肩越しに振り向いた。
つい数分前のドタバタを思い出して、兄眞は何も言えずに引き攣った笑みを返す。
吹雪は何を気にすることもなく、フンと鼻を鳴らしてタブレットタイプのWINKを小脇に抱え直した。
「あの二人には後でしっかりと灸を据えてやる。特に鬼龍院はしばらく泣いたり笑ったり出来ないようにしてやるから、それで留飲を下げろ」
「や、そこまでしてもらわなくても結構ですけど……」
「なんだ、おまえは学園長のような幼女が趣味か。それは悪いことをしたか?」
「そういうわけでもないッスけど!?」
鳴無兄眞の尊厳の全てを賭けて、兄眞は全身全霊で吹雪の言を否定した。
しかしまあ、吹雪が校長室を訪れるのがあと数十秒遅かったなら、あのカワイイ理事長と不健全な関係になっていたかもしれないと思うと。
正直、ちょっと勿体なかったかもとか考えなくもないけど。
「鳴無は随分と思ったことが顔に出やすいタイプなんだな」
「ひぃえっ?!」
これから自分の担任となる女性にさらりと核心を突き付けられて、兄眞はビクッと体を震わせて赤面した。
吹雪は興味なさそうに肩を竦めると、腕を組みながら重そうな自身の両乳房を支える。
「そこまで気にすることはないぞ。おまえくらいの年齢なら、精神面も性欲面もまあそんなもんだ。ここを卒業した後もそんな調子だったなら、さすがに私も堂々と軽蔑させてもらうがな」
「……肝に命じておきます」
「あと老婆心から言わせてもらうと、学園長に手を出すのはやめておけ。あの人には『僕らの理事長を生温かい目で見守ろうファンクラブ』が存在するくらいだからな。OB・OGの中には政界に食い込んでいる人物も多いし、下手にキズモノにでもしたら比喩抜きで抹殺されるぞ」
「ええぇ……」
だったら、あんな危険な秘書を傍に置いておくなよ。
「鬼龍院が、そのファンクラブの会長なんだよ」
どうやら、また思ったことが顔に出てしまっていたらしい。吹雪は下らなそうに嘆息しながら、眉をしかめて兄眞の疑問に答える。
ようするに、あの秘書はギリギリのタイミングで吹雪が乱入することを計算しつつ、そしてそれにより後から吹雪に泣いたり笑ったり出来なくなるような仕打ちを受けるであろうことを魂で覚悟しつつ、その上で理事長を弄って遊ぶという超高度すぎるサドマゾプレイを実施していたわけか。
……いや、本当に大丈夫なのか、この学園は?
「二人とも有事の際はクッソ有能なんだ。……有事の際はな」
それ以上は語りたくもないとばかりに吹雪は吐き捨てた。
学園の教師間のパワーバランスがなんとなく垣間見えた気がして、兄眞もその話題に対して口をつぐむ。
「ここだ」
吹雪は立ち止まると、端的に呟いて兄眞に体を向けた。
つられて足を止めた兄眞は、吹雪が視線で示す教室の扉へ目を向ける。
『二年一組』
上を見上げてネームプレートの文字を眺めると、「ああ本当に転校してしまったんだ」という実感が兄眞の胸にフツフツと湧き上がった。
そんな兄眞の内心をフンと鼻を鳴らして受け流しながら、吹雪は合図もなく心の準備すら与えずに、ガラガラと無遠慮にその扉を引き開ける。
「「「 ――っ 」」」
それまで外からでも分かるほどざわついていた教室が、一瞬でシンと静まり返った。
それが吹雪が入室したからか、それとも自分がその後に続いていたからなのかは、兄眞にも読み取ることが難しく。
「起立!」
見るからに真面目そうなショートカットの女子が素早く号令をかけた。
生徒の半分はすでに立ち上がっており、思い思いの居場所でクラスメイトと語らっていた様子だったが、その女子が声を上げると訓練された兵卒のような俊敏さで各々の持ち場に散らばり整列する。
入り口から数歩進んだところでその様を眺めていた吹雪は、冷たい視線を崩さぬまま、フンと鼻を鳴らして教卓に就いた。それからブートキャンプで新兵の品定めをしている軍曹のような仕草で教室全体を見回し、タブレットを教卓に置いて両手を腰に当てる。
「諸君、おはよう。今日は珍しく遅刻欠席がいないようで何よりだ」
「「「 おはようございます! 」」」
生徒たちは統率された動きで挨拶を返し、頭を下げた。
吹雪は興味薄そうに頷くと、座っても良いとアイサインで許可を出す。
「どうせ噂で聞いていただろうが、今日のホームルームではおまえらに新しいクラスメイトを紹介するぞ」
全員が席に着いたことを確認してから、吹雪は淡々とセリフを繋げた。
その言葉を聞いて、生徒たちがザワザワと小声で雑談を始める。当然、その注目は吹雪の隣で固まっていた兄眞に注がれるわけで。
吹雪に視線で促されて、兄眞は堪忍したように一歩前に出る。
「鳴無兄眞です。兄弟のアニに、旧字体のマコトで、アニマ。どうにも読みにくい名前ですが、どうぞこれからよろしくお願いします」
「「「 おおぉ~! 」」」
当たり障りのない兄眞の自己紹介に、それでも生徒たちは緩い感じの歓声を上げて拍手を返した。
とりあえずのところ、時季外れの闖入者に厳しいクラスではないらしい。
それだけでも少し心が楽になりながら、兄眞は社交辞令で下げていた頭を持ち上げる。
「……あれ?」
「……あら」
顔を上げると、ちょうど目の前の机に座っている少女と目が合った。
少女の目には、この時代オシャレ目的以外では目撃することも稀となったガラス製の視力矯正用品が装着されていて。
頬杖を突きながらどこか他人事に転入生を眺めていた少女も、兄眞の容姿に気づき、珍しいモノを見つけたように目を丸くして声を上げていた。ずっと後ろの窓の方では、やっぱり物凄い既視感のある赤いリボンの少女が、楽しげに笑いながらブンブンと手を振り回す。
「あー、あたしが吹っ飛ばしちゃった人だー! やっほ~、ケガは大丈夫~?」
「……へ~。……転入生ってキミのことだったんだ」
「えっと、その、さっきはどうも……」
メガネ少女――遠宮美音はやりづらそうに眉をしかめながら引き攣った愛想笑いを返し、兄眞も何を話せば良いのか分からずに頬を掻いた。
気まずさに視線を泳がせると、何やらあちらこちらで見覚えのある天然パーマやツナギ姿の男、半眼の女子などの姿が目に付く。
いいや、きっとそれはさすがに気のせいだろう。
いくらここが同年代の少年少女のたまり場とは言え、高校生だけでも数千人単位で生徒が在籍するマンモス学園。そんな宝くじに当たるみたいな奇跡がそうそう連続してたまるか。
……でも、もしかしたらあの青い瞳の少女もここにいるのでは?
不意にそんな恐怖と期待が胸を駆け巡り、兄眞はあらためて教室の生徒たちを見回す。が、幸か不幸かあの黒いマントの少女はクラスメイトの中には存在しないようだった。
兄眞は複雑な感情の混ざった溜息を吐き、そんな兄眞の様子を観察していた吹雪は腕を組んで美音を見据える。
「なんだおまえたち、もう顔見知りだったのか。最近の高校生は随分とラブコメの波動に目覚めるのが早いんだな。私でもさすがに後期に入ってからだったぞ」
「何を言いたいのかまったく分かりませんけど、なんとなく不愉快なので止めてください」
美音は頭痛を我慢するように目頭を摘まむと、嘆息しながら吹雪にツッコミを入れた。
吹雪は気にせず自分の胸を持ち上げ直し、兄眞に顔を戻して顎で美音の隣の机を指す。
「まあちょうど良かった。鳴無、おまえの席は遠宮の隣だ」
「え?」
「……やっぱりそうなるわよねぇ」
兄眞が呆けた声で首を傾げ、美音は諦めの境地で呟いた。
言われてみれば確かに、美音の隣の席には誰も座っておらず、ただの空席となっている。
「遠宮は二年一組のクラス委員長――ではないんだが、とにかく無駄に面倒見がいいんだ。学園に慣れるまではとりあえずこいつを頼ると良い」
「私も好きでやってるわけじゃないんですけどね。というか、お願いですからそういうのはこっちの了承を得てから決めてもらえませんか?」
「好きでもないのにやっているぐらいだ。今更かまわんだろ」
吹雪はにべもなく突き放すと、大人しく席に座るよう兄眞を睨みつけた。
それに逆らうわけにもいかず、兄眞は申し訳なさそうに美音の隣に腰を下ろす。
「ええと、なんかごめん」
「気にしないで、これくらいの理不尽にはもう慣れちゃったから。えっと、オトナシ……?」
「鳴無兄眞。アニマでもいいよ、そっちの方が覚えやすいだろうし」
「ん。これからどうぞよろしくね、アニマくん?」
美音は学生証に乗せているような仏頂面を作ると、兄眞にそっと右手を差し出した。
兄眞は若干躊躇してから、同年代の女子の手を握るという圧倒的経験不足な行為にチャレンジする。
「……よろしく、遠宮さん」
そうして握手を交わした二人は、なんだか色々なことが馬鹿馬鹿しくなって、お互いに困ったような苦笑いを浮かべた。
それが、鳴無兄眞にとって転入初日の出来事で。
その時の兄眞は気づく由もなかった。
鷹狩学園高等部共生課一般教養学科の二年一組。
それが地球上のあらゆる喜劇を煮詰めて生み出されたと称されるほど、個性的な生徒が集まり完成した学園の特異点であるということに。
その変質的異能者たちが、これから一年、幾度となく世界を気軽に救ったり適当に滅ぼしたりしてしまうということに。
おまけに今ぎこちなく握手している遠宮美音こそが、己の生涯のパートナーとなる女性であるということに。
季節は桜の散り切った五月も下旬。
小鳥たちが元気に青空を飛び回る中、学園の始業チャイムが高らかに鳴り響いていた。
/鷹狩学園へようこそ 完