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杜綱きさらは笑わない

world:ハッピーエンド

stage:西暦2041年7月 鷹狩学園

personage:杜綱(もりつな)きさら (すぎ)恭路(きょうみち)

image-bgm:1/3の純情な感情(SIAM SHADE)





「勝負だ、きさら! 今日こそ、いつもの借りを三倍にして返してやる!」


 鷹狩学園高等部共生課一般教養学科、二年生の廊下。

 放課から少し時間が経過して、教職員たちが一度職員室へと引き籠ってしまった時間帯。


 学科一年の(すぎ)恭路(きょうみち)は、いかにもな負け台詞を喚きながら目の前の女子をビシッと指差した。

 その指差されている赤毛の女子。“熱い杜魂と白兵戦術の素質を先天的に併せ持つ最強の風紀委員長(あまりにも長いので略して魂杜羅(クーデレ))”杜綱(もりつな)きさらは、いつもの通りの、何を考えているのかよく分からない無感情な顔で恭路を見つめ返した。


『おい、あの一年坊また来てるぞ?』

『え、マジで? あの子、毎日毎日ホント懲りないよねー』

『“魂杜羅(クーデレ)”にケンカ売るなんて命知らずもいいところなのに……』

『きさらん、かまわないからとっとと()っちゃいな~』


 二人から5メートルほど距離を置いた野次馬たちは、ひそひそと、しかししっかりと二人に聞こえる程度の声量で囁き合う。


 制服をこれ見よがしに着崩し髪を明るい金髪に染めている恭路が世に言う“不良”のテンプレートであったのに対して、きさらは多少スカートの丈を短くしている以外は整った身なりをしていた。

 腰を隠すほどの長さがある生まれ持っての赤髪も、今はキレイにストレートパーマが掛けられており、むしろ見る者に清楚な印象を抱かせる。頭につけた白いカチューシャも彼女の品位向上に一役買っていた。


 そんなきさらは持っていた手提げ鞄を壁際に放り投げ、一切表情を変えないままにやれやれと嘆息する。


(きょう)? ()()()()()はな、こう見えてもあんまり暇じゃないんだぞ?」

「……ぅ。……や、やかましい! いちいち姉貴面するんじゃねぇよ!」


 “お姉ちゃん”の部分に異様に押韻を籠めたきさらに、恭路は周囲の視線を気にしつつ真っ赤な顔で叫んだ。

 それを聞いてもきさらはまったく揺らぐ様子を見せず、むしろ「よしよし、それは悪かったな」と年上の威厳たっぷりの返事を返す(早生まれなだけで実際は三ヵ月程度しか差がないのだが)。


 以上、『不良ぶりたい弟とそれを諫めている姉』という解りやすい構図が、二人のやり取りを初めて見る人間にも何誤解なく描かれていた。


 きさらは腰を曲げて靴下の弛みを引っ張ると、そのまま準備体操のように屈伸を開始する。


「それで今日は何で勝負するんだ? できればお姉ちゃん、プリクラの早デコ対決とかパフェの大食いコンテストとか、もっと女の子っぽい方法で戦いたいんだが」

「誰がそんな勝負挑むかってんだよ! っつーか前々から思ってたけど、おまえの“女の子っぽい”の基準、周りと大分ズレてるからな!?」

「そうなのか……?!」


 目を見開いて真顔を少しだけ崩したきさらは、ガーン!と派手な効果音を発して狼狽えた。

 肩を震わせ目に涙を溜めながら思わず後ろへ振り返ると、周りの同級生たちが大慌てで引き攣った笑顔を取り繕う。


『だ、大丈夫だよ、きさらん! きさらんはちゃんと女の子っぽいよ! もっと自分に自信を持って!』

『そうそう、甘い物が好きなところとか子猫を抱くと脳みそが融けるところとか、なんかもう超絶女の子っぽいから!』

『むしろきさらんこそが女の子の権化と言っても過言ではないね! カワイイよきさらんマジカワイイ!』

『ええと、その、とにかくきさらんファイト!』


「そ、そうだよな。私はちゃんと普通の女の子だよな。……ふぅ~、お姉ちゃんビックリしちゃったぞ」


 などときさらが胸を撫で下ろしている隙に、主に女子らが一斉に眼光を光らせて恭路を睨んだ。

 一瞬にして四面楚歌に陥った恭路は、恐怖心を誤魔化すように拳を握りしめる。


「と、とにかく拳で勝負しろって言ってるんだよ! ぐちゃぐちゃ話してないでとっとと掛かって来い!」

「ふむ。恭がどうしてもと望むのなら、お姉ちゃんも別に構いはしないのだが……」


 気を取り直して真顔に戻ったきさらは、腰に左手を突き、顎に右手を当ててしばし思惟した。

 その状態で舐めるように恭路の顔を観察してから、右手を差し出してクイクイっと人差し指と中指で手招きして見せる。


「……?」


 突然の挑発行動の意味が分からずに、恭路はついつい間の抜けた顔で首を傾げた。


 義弟との以心伝心に失敗するなどと考えもしなかったきさらは、2・3回瞬きをしてから、若干残念そうに口を開く。


「……毎度一撃で蹴り倒されていたら、さすがのおまえもプライドが傷付くだろう? 多少手こずったふりをしてやるから、おまえの方から掛かって来い」


 それって相手に伝えちゃったら意味がないのでは?と、野次馬たちは心の中でツッコミを入れた。


 おそらく、きさらには一切他意がないのだろう。

 義弟のことを衷心から心配し、純粋な親切心で提案したに違いない。


 しかし、そんなきさらの言葉でこれ以上なくプライドを傷付けられた恭路は、怒りゲージを一気にマックスまで溜めながらきさらへと駆けだす。


「こんのぉ!」

「……ん」


 恭路の放った二連ジャブから右ストレートのコンビネーションは、きさらがハエを払うように右手を振るだけで軽くいなされた。続けて左ローと見せかけた相手軸足へのストンピング行為は、そもそもきさらがフェイントに引っ掛からなかったので軽く右足をズラすだけで回避される。

 恭路が諦めずに左右のボディブローを繰り出すと、さすがにその場で対応できなくなったきさらは軽く一歩後退り――直後に野次馬たちがどよめきを発した。


『そんなバカな、クーデレが後ろに下がっただとぉ!?』

『“風紀委員長にあるのはただ制圧前進のみ”とまで言わしめたあのクーデレが後退するだなんて……』

『おいおい、あの一年って実はすげぇ強いのか?!』

『え、なに、私このバリスタできさらんの背中を撃っちゃえばいいの!?』


 おおむね好き勝手なことを叫びまくる野次馬たちの感想を耳にして、恭路の攻撃を片手で回避していたきさらはのんびり嘆息する。


「悪鬼に挑む拳王じゃあるまいし、私だって攻撃されたら下がるぞ。まったく、私はこんなにも()()()()()()だというのに失礼な話だとは思わないか?」

「余裕見せやがって、舐めんなよ!」


 世話話でもするように語りかけてくるきさらに、もう一度フルスイングのフックを打ち込みながら恭路は毒づいた。

 開始一分ほどで早くも呼吸が切れ始めていたが、それでもかまわずインファイトを続ける恭路に、きさらは「……ほぅ」と感心したような声を上げる。


「なるほど、私に蹴りを出させないための接近戦か」

「へっ、今頃気がついたのかよ!」


 してやったりの顔で放たれた恭路の右肘打ちが、きさらの頬をわずかに掠めた。

 きさらはまた一歩後退し、恭路がすかさずそれを追いかける。


「ここまで密着されりゃあ得意の蹴り技は一切使えないだろ! この勝負、もらったぁー!」


 顔面からボディに一発ずつ左右のジャブを飛ばし、続けて左のローキックで足を浮かせたところで、恭路は本命の右ストレートを放った。


 きさらの顎はがら空きで間合いも絶妙。下肢が崩れて回避も難しく、こちらの力の溜めも申し分ない。

 実戦中にここまで完璧なフィニッシュブローを打ち出せたのは生まれて初めて――思わず恭路がそう断言してしまうほど完璧なストレートだった。


 その渾身のストレートが、ピンポン玉を受け止めるような気軽さできさらにキャッチされる。


「……え?」


 腹部をガードしていたはずの左手がいつの間にかきさらの顎の前に移動していて、その左手一本がパンチの衝撃を完全に吸収してしまっていた。

 きさらは特に驚くでも慌てるでもなく、強いて言うなら何も考えていなさそうな真顔で恭路を見つめる。


「着眼点は悪くない。今まで得た情報を元に考え抜いた、現時点でおまえの取れる最大限の戦術だろう。攻撃の組み立ても私の回避パターンをよく学習していた。……正直、お姉ちゃんは本気で感心したんだぞ?」

「え、えっとー……」


 押してみても引いてみても、果ては揺さぶってみても。

 きさらに掴まれた右手は空間に固定されたかのようにピクリとも動かなかった。


 次第に青ざめていく恭路の顔を眺めながら、きさらは僅かに目を細める。


「だが、おまえは同時に一番やってはいけない判断ミスを犯した。私の攻撃が蹴り技だけだと思い込んでしまったことだ」

「……はい?」

「私が普段蹴り技を多用しているのは、単に男女の体格差を補うため。そもそも私は本来――」


 きさらは握った右手を思いっきり下へと引き下げた。

 それに引き摺られて前のめりになった恭路の両足を、しゃがみながらの左後ろ回し蹴りで薙ぎ払うと、その勢いで右アッパーを打ち上げて腹部を痛打する。瞬間、恭路の肉体はへの字に曲がりながら天井スレスレまで浮き上がっていた。


 見た目は派手だが、衝撃自体はそこまで強烈ではない。

 しかし、自らが置かれているあまりにも非現実的な状況に、恭路は放心したまま眼下のきさらを見下ろした。


 残身を解いて自然体に戻ったきさらは、一度ふぁさっと自分の長い赤髪を梳き均してから、宙に浮いている恭路をのんびり見据える。


「……超近接戦闘を得意としたパワーファイターだ」


 きさらの宣言と同時に、ようやく重力を思い出した恭路の体が落下を開始した。


 上下が逆さまになり頭から落ちてくる恭路に対して、きさらは掘削でもするかのように右手の指をワシッと立てる。

 それから大きく右足を引いて姿勢を低くすると、弓を引くかの如く右腕を引き絞るという独特のフォームを作った。


 ――虎浪(ころう)流護星術奥義乃壱“雷充(らいふる)”。


 ガチャンと。

 周囲の野次馬たちは、きさらの腕から小銃のチャンバーにライフル弾が装填される音を錯覚する。


 目を向ければ、きさらの眼前には無防備に晒された恭路の胴体が存在していて。


「頭に気を付けろよ。……死ぬぞ?」


 発射。


 爆発音を響かせながら放たれた神速の掌底が恭路の鳩尾に突き刺さり、遺影のような残像を残して、その体を廊下の突き当りまで一直線に吹き飛ばした。


 腕を伸ばしきった姿勢でしばらく残心を取っていたきさらは、ゆっくり体を起こすと投げ捨てた鞄を拾い上げる。

 そのままパンパンと鞄の埃を払うと、モーゼのように割れていた野次馬たちの間を通り、遥か彼方で逆さ十字に磔されている恭路の下へと近づいた。


 壁に数センチほどめり込んだ状態の恭路が、ちょうどきさらが到着したタイミングで剥がれ落ちて廊下に倒れる。

 体中が不随意に痙攣していたが、奇跡的にまだ意識があるのか、恭路は顔を持ち上げきさらを見上げようとしていた。


 それに気づいたきさらは、少し驚いたようにまぶたを広げる。


「致死ラインのギリギリを狙ったつもりだったのだがな。完全に見直したぞ。……おまえは本当にすごいな、恭」


 理不尽な褒め称え方ではあったが、きさらは嬉しそうに呟きながら口元を微細に歪めた。

 恭路はひたすら咳き込みながら焦点の定まらない目できさらを睨み、自分の闘志を示すように震える右手を持ち上げる。


「ぐっ……がぁ……」

「そうだ、どうせならもうちょっと頑張れ。そうしたら、お姉ちゃんが膝枕してやるぞ?」

「……っ!」


 もう何の音も届いていないであろうに。

 恭路はまるでその声に促されるように、最後の力を振り絞って右手を掲げきった。そしてその手を握りしめてきさらへと突き出したところで、今度こそ限界を迎えて完全に事切れる。


「うんうん、よくやったぞ」


 きさらは腰に手を当てると、表情が変わらないながらも満足気に頷いていた。





 ◇ ◇ ◇





「やめとけマジやめとけイイカラやめとけゼッタイやめとけ!!」

(ホントホント、悪魔をも恐れぬ行為とはまさにこのことだね!!)


 恭路を前にして、高等部において一匹狼を貫く不良として名高い“裏切り者の名(ミスターデビル)”こと千徳野(ちのり)永谷(えいや)が情けない悲鳴を上げた。ちなみに( )内のロリボイスに関しては、永谷にしか聞こえていないのでこの場面では無視してもらってかまわない。


 時刻は午前十時を過ぎたくらい。

 恭路と永谷は授業中の教室から離れ、校舎の死角でジュース片手に雑談していた。


 そんな永谷はジュースを投げ捨て恭路の両肩に手を乗せると、いまだかつてないほど真剣な表情で詰め寄る。


「おまえは“クーデレ”の本当の怖さを知らないからそんな無謀な事が言えるんだよ。悪いことは言わん、とにかく考え直せ」

(そうそう、人生捨てるのは悪魔に魂売ってからでも遅くはないよ?)

「……ちょ、エイヤさん必死すぎませんか?」


 普段敬愛している先輩の狼狽っぷりに、恭路はやや引き気味に答えた。

 永谷の方はそれを気にする余裕もなく、捨てたペットボトルを踏みつぶしながら恭路の肩を揺さぶる。


「いいか、あの女は学園で最強かつ冷徹と呼ばれるグラップラーなんだぞ。その蹴りで再起不能に追い込まれた学生は数知れず。真面目にストリートファイトしてれば今頃世界ランカーとタメ張ってるレベルだって言われるくらいの女なんだよ。そもそもあいつが一年の頃から風紀委員長を務めてるのだって、入学式で一千体のエイリアン相手に無双してみせたからなんだからな!」

「いや、それはさすがに誇張っしょ。本当にそうならもっと筋骨隆々のゴリラみたいな体型してますよ」

「外見だけは“普通の女の子”だからこそ怖いんだよ。おまえ想像してみろ。全員平等に病院送りにするためだけに、一度蹴り倒した二十人からの不良の頭を流れ作業で踏みつけていく女子高生の姿を」


 自分が踏まれた中の一人であるという事実は巧妙に伏せながら、永谷は過去の悪夢に全身を震わせた(永谷は人一倍強靭だったので5回くらい踏まれた)。

 勿論そんな事情を知る由もない恭路は、嘆息交じりに永谷の手を振り払う。


「とにかく俺はもう決めたんで。……あの女のすまし顔を今度こそ敗北感でにじませてやる!」


 すまし顔というより、ただ単に感情表現が苦手なクーデレさんなのでは?


 と、永谷は思わなくもなかったのだが、当人の熱意に冷水を注すのもあれなのでツッコミは控えた。

 代わりに恭路から数歩離れ、腕を組みながら大袈裟に嘆息する。


「たかだか一回蹴っ飛ばされたくらいでそんなムキになることもないだろうに。あれはもう女とは違う生き物だぞ? むしろ本当に人間かも怪しい次元だ」

(実際、手加減って思考が欠片も存在していない時点であたしら悪魔よりずっと残虐な超人類だと思うよ)


 永谷は脳内に響くロリボイスにうんうんと頷きを返した。

 その頷きの意味はよく分からなかったが、恭路は永谷から視線を外して、きさらがいるであろう二年一組の教室がある辺りに目を向ける。


「……そんなこと、俺には関係ねぇんすよ」


 恭路が何かを誓うように拳を握りしめたことには、永谷はまったく気がつかなかった。





 それは大昔の約束。


 他愛のない子供同士の誓い。


 姉はいつまでも義弟を守り続けると指を切り、

 弟はいつか義姉を守れるようになると指を切った。


 それは別れ際のおまじない。


 きっともう二度と会えないであろうと子供ながらに悟りながらの、諦めにも似た願掛け。


 姉が義弟を守ることはなくなり、

 弟が義姉に守られることもなくなってから、


 ――もう、十年以上が経過していた。





 恭路は胸に軽い痛みを感じながら目を覚ました。


 胸を押さえてまぶたを開くと、見慣れない天井の下で自分を見下ろしているきさらの胸と顔が見えた。

 後頭部には何やら暖かく不思議な柔らかさを保った物体が当てられていて。


 引いたアングルで場面を見直せば、誰もない夕暮れの教室で、床に座った杜綱きさらが杉恭路に膝枕をしているところだった。


 状況が把握できない恭路はしばらくきさらの顔をぼんやり見つめていたが、きさらが優しく頭を撫でるとハッと我に返る。


「きさら、おまえいったい……ぐうぅ?!」


 恭路は仰天した勢いで上体を起こそうとはしたものの、体中に激痛が走って咳き込みながらきさらの太股に頭を戻した。

 きさらはそんな反応を見ても真顔のままで、恭路の髪を優しく撫で続ける。


「ヒビが入ってもおかしくないダメージを受けたんだ、あんまり急に動くな。一応、触った感じは大丈夫だと思うが」

「……な、なんなんだよ。……いったい何のつもりだ」


 ゲホゲホと咳き込みながら、涙目の恭路はきさらを睨んだ。

 きさらはパチパチと瞬きを繰り返し、そして微かに目を細めながら恭路を見下ろす。


「今日のおまえはすごく頑張ったからな。これはその御褒美だ」

「……ごほうび?」

「ああ。こんなカワイイ女の子に膝枕されて、恭も気持ちが良いだろう?」


 事実そこそこ気持ちが良かった恭路は頬を赤らめ言葉を濁した。

 しかし色々な心の葛藤を経た上で、自尊心が勝った恭路はそっぽを向きながら精一杯強がってみせる。


「いちいち姉貴面するんじゃねぇよ、うぜぇな」

「気持ち良くなかったのか?」


 夕日のせいで恭路の顔色に気づけなかったのか、きさらは純粋に小首を傾げた。

 恭路はきさらの問いかけを無視して室内へ目を向ける。


 一般の教室にしては机も椅子も少なく、部屋自体もやや狭い。

 会議をするようにくっ付けられた机の上には風紀委員の腕章が置かれ、電子黒板には明日の抜き打ち持ち物検査の概要が記されていた。


 どうやらこの場所は、風紀委員会が普段使用している事務所のようだった。


「……そうなのか、それはすまなかった」


 声色だけは本当に申し訳なさそうに、きさらは真顔のままで謝罪した。

 その声の落ち込み具合に良心を痛めつけられて、恭路はついついきさらへ顔を戻す。


「私の方はものすごく気持ちが良いのだがな。いや本当にすまない。今度はもっとスゴイことをしてやろう」

「今度なんかねぇよ!?」


 聞き方によっては物凄い勘違いを生んでしまいそうなきさらの発言に、思春期真っ只中の恭路は過剰反応を示した。

 きさらはそんな恭路を見下ろし、なぜだかやれやれと溜息を吐く。


「なんだ今すぐにして欲しいのか? さすがにそれは欲張りというものだぞ、恭」

「オマエ、ニホンゴ、ツウジナイノカーッ?!」


 怒りと興奮のあまり片言になってしまいながらも、恭路は痛む体を無理やり持ち上げた。


「あ、こら、まだ動いてはダメだ」


 きさらは恭路を引き留めるためにその手を掴み、皮肉にもその衝撃が恭路の傷口を開いた。

 八割方起こされていた上体に激痛が走り、いざ立ち上がらんと踏ん張り始めていた両足から力が抜ける。


 一方のきさらにとっても、その反応はまったく予想の外だった。

 きっと力強く立ち上がって自分を振り払ってくれるのだろう。などと義弟の回復力を過大評価していたきさらは遠慮なく恭路の体を引っ張っており、そしてその抵抗が一瞬で焼失したことに驚きながらバランスを崩す。


 どっしーん!と、間の抜けた衝撃音が室内に響き。


「……」

「……」


 数十秒ほど間を置いて、仲良く目を開いて現状を確認した二人はその現状に絶句する。


 上は恭路で、下はきさら。

 仰向けに倒れたきさらに恭路が思いっきり圧し掛かっている状態で。


 二人ともしばらく見つめ合った後、恭路は顔を真っ赤に染めて、逆にきさらは落ち着いて元の無感情な表情に戻る。


「大丈夫か、恭?」

「……きさら……その、俺」

「なに、原因は私だし気にしなくていいぞ」

「……」


 恭路は赤い顔のまま、黙ってきさらの左肩の上に額を押し当てた。

 てっきりすぐに離れるものだと思っていたきさらは首を傾げる。


「どうした、またどこか痛くしてしまったか?」

「ごめん、俺……おれ……」


 呟きながら、恭路は感極まったようにきさらの背中に手を回して抱き締めた。

 そして感触を確かめるように体重をかけると、きさらは目を閉じて嘆息する。


「そうかそうか、恭ももうそういうことに興味を持つ年頃なのか」


 どこか恭路をからかうように囁きながら、きさらは恭路の頭と背中に手を回して逆に抱擁し返した。


「うんうん、これが女の子の感触だ。慌てず焦らずゆっくりと楽しめ」

「きさら、おねえちゃん」

「……本当に久しぶりだな、私のことをそう呼んでくれたのは」

「――!」


 恭路はほとんど衝動的に、まるで頭突きでもするんじゃないかという勢いで、きさらの口を目掛けて顔を近づけた。

 しかし、頭を撫でていたきさらの右手が瞬時に回り込み、その額を鷲掴みにする。


「いくらおまえでもこれ以上はさすがにダメだぞ。ここは学校で、私たちは学生なんだからな」

「……」


 愛犬をしつけるようにピシッと言い切りながら、きさらはそっと恭路の頭を解放した。

 恭路はしばらく名残惜しそうにきさらの顔を見下ろしていたが、やがて諦めたのか再び肩に顔を落として体重をかける。再び目を閉じたきさらも、お詫びのように一層力を込めて恭路を抱き締め、自分の体を遠慮なく擦り付けた。


 夕焼けが差し込む室内で、五分ほどはそうしていたか。


『あっれー? なんか開かないよー?』


 いきなり部屋の扉がガタガタと揺れ、同時に複数人の女子生徒の声が聞こえていた。

 恭路は火で炙られた豆のような勢いで跳ね上がるが、その体をきさらがしっかりと引き留める。


「……安心しろ、鍵はちゃんと締めてある」


 きさらは恭路に頬を寄せると、その耳元でそっと囁いた。

 そうは言われても、今なおガタガタ揺すられ続けている扉にドギマギしながら恭路は視線を彷徨わせる。


『おっかしいなー。委員長、もう帰っちゃったのかなー』

『どうする。もういっそのこと明日の朝にしちゃう?』

『えー、そっちの方が面倒臭いよー。待ってて、うちが職員室で合鍵もらって来るから』

『待って待って、あたしもあたしもー』

『あー、だったら私も行くよー』


 わいわいガヤガヤと。

 来たときとうって変わって騒がしく、女子生徒たちはその場を立ち去って行った。


 一安心した恭路が全身の力を抜くと、きさらがその頭をポンポン叩く。


「時間切れだな。早く退散しないと、今度は間違いなく現場を押さえられるぞ」

「……」


 複雑な表情で体を起こした恭路は、制服の埃をポンポン払いながらきさらと距離を離した。

 きさらも続いて立ち上がると、挙動不審に視線を動かしている恭路の顔を見据える。


「今のことは別に気にしなくていいぞ。まあ膝枕の代わりだと思ってくれ」

「きさら、俺はその、おまえのこと……」

「また悶々としたのなら遠慮なく相談しろ。おまえが相手なら特別だ」


 左手を腰に添えたきさらは、無感情な顔を崩すことなく事も無げにそう続けた。

 その態度を前にして、恭路は何を告げることもできずに踵を返す。


「……覚えてろよ」


 扉の内鍵を開けた恭路は、負け惜しみのようにボソボソとか細く呟いた。

 きさらは長い髪を手で梳きながら、年上の余裕を示すように優しく目を閉じる。


「他人に迷惑をかけないのならいくらでも相手をしてやる。いつでも掛かって来い」

「……」

「よし。じゃあ私から一本を取れた暁には、存分にこの胸を揉ませてやるということにしようか」

「ヨケイナ、エンシュツ、ツケクワエルナーッ?!」


 再び片言で絶叫した恭路は、もう後ろも振り向かずにズカズカと足音を響かせて部屋を立ち去って行った。


 そうして一人取り残されたきさらは、ゆっくりまぶたを開いて消えた恭路の背中へ目を向ける。


「……もう少し強引に迫ってくれるかと思ったんだがな。……やはり男になったのは体だけか」


 一人で呟くと、きさらは切ない吐息を吐きながら両太股を擦り合わせた。

 無感情な頬にどんどん赤みが差し、どことなく呼吸も荒くなっていく。


「ん。……なんだか今更になって感じてきたぞ」


 自分で自分の体を抱き締めながら、きさらは先ほどまで感じていた恭路の感触と体温を思い返した。

 その匂いまでもが鮮明にフラッシュバックする中で、無表情の仮面が崩れて幸せそうな笑みに染まる。おまけにウネウネと毛虫のように体をくねらせ、事実毛虫のように長い髪が揺れ動いた。


 そんな、学友たちが見たら拒絶反応を示してしまいそうな挙動を示すきさらは、熱い吐息と共に窓の外へ視線を投げる。


「早く一本取ってくれよ、恭。……でないと、お姉ちゃんの方が持たないぞ」


 そう呟いたきさらの表情は、どんな恋する乙女より甘く蕩けた顔をしていた。





 ◇ ◇ ◇





『あれ? 委員長いるじゃん。ってかなんでロンリーハグしてんの?』

「ん? いや、ちょっと一人で欲情していただけだ」

『えーマジでー!?』

「ああ、マジだ」

『委員長がエロいの?! ねぇねぇ委員長ってエロいの!?』

「ああ、エロエロだ」

『みんな落ち着け』





/杜綱きさらは笑わない 完

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