ベヌクの時間
world:ハッピーエンド
stage:西暦2041年7月 鷹狩学園
personage:櫻井サラ・カーライル
image-bgm:flyers(BRADIO)
鷹狩学園共生課高等部一般教養科二年一組、女子体育の時間。
「オンドリャーやってやろうじゃんかよーっ!」
体操服にショートパンツ姿の八柳双葉は、華々しく啖呵を切ると手に持つバスケットボールを弾ませフィールドを駆け出した。
首に巻いたマフラーをなびかせながら、立ち塞がったクラスメイトを一人躱して二人すり抜け、三人目と四人目を潜り避ける。
そして、ほんの数秒の間に相手コートの奥深くへ侵入した双葉はゴールの下へと滑り込み、素早くボールの持ち手を変えて足を蹴り上げた。
一気にダンクを決めてしまうかと思われた瞬間に跳ね上がってきたのは、赤目の少女で。
異様に犬歯が発達しているその少女、唯守乃若七は双葉を上回る高さまで手を伸ばし、ボールとゴールの間をブロックした。
「……っ!」
「隙を見せたぞ、八柳」
強引に飛び込むか仲間にパスするか悩んだ瞬間に、耳元で声が聞こえた。
双葉がハッとするまもなく、先ほど完璧に躱したはずのクラスメイトが背後から飛び込んで来る。額が若干せり上がっている青目少女(こちらは夜嶋鴉と言った)は、後ろから強引に手を差し入れて双葉の手からボールを捻じり取った。
鴉は人外の体幹機能を駆使してボールを胸元に引き寄せズダン!と着地すると、影のように滑りながらコートを大外周りするように疾走する。
双葉の仲間たちは邪魔をする以前にその影に追いつくことすらできず。鴉は悠々とゴール下までたどり着くと、そっとボールを添えるような優しいシュートを放った。
「はい、そこまでー! 時間でーす!」
ピピーッと笛を吹きながら、クラス委員の楔岩交が声を上げる。隣に表示されているホログラムの点数表には、言葉にするのもためらわれるような圧倒的な点数差が刻まれていた。
相手のゴール下で一歩も動けずにいた双葉は、それを確認するとうがーっと悔しそうな雄叫びを上げる。
「やっぱりズルい、っていうか納得いかないっスよ! 吸血鬼と青鬼を二人相手にしていったいどうやって得点しろっていうんスかーっ!」
「今更往生際が悪いわよ、双葉。チーム割りを決めた時点で『問題なっしんぐっスよ!』とか言ってたのはあんたじゃない」
「ふむ、そのセリフは鴉も記憶しているぞ。さすがに人間相手に地力を出すなんて大人げないかと考えはしたが、かと言ってノリノリの八柳に水を差すのも悪いと思ったからな」
若七と鴉が並んで答えると、双葉はぐうの音も出ないと言った表情で口元を尖らせた。
その後方では、双葉と同じチームだった驫木明日菜と椿木春がやれやれと嘆息している。
「と言うか、あんなマフラーを着けながらあの二人とそこそこ良い勝負ができてる時点で、双葉っちも大概人間やめてるよねぇ?」
「私もそう思う。……今からでも遅くはないから、魔法使いなんて諦めて真面目にスポーツ選手目指したら? 運動部からも引く手数多なんでしょ?」
「いーやーだー! 私は魔法使いになるのー!」
「そんなこと言って、今年の編入試験も落ちちゃってるじゃない」
「それは……その……まだ後期の試験が残ってるもん!」
双葉は心の底から涙目になりながら、うぎゃーっと背中の二人に噛みついた。
一方で、審判役の交が「チームを入れ替えるので負け犬はとっとと退場してくださーい」と無慈悲に笛を鳴らして双葉を追い出す。
双葉は涙をちょちょぎりながらスゴスゴとコートを降り、体育館のステージ下まで離れて腰を下ろした。
先にその場所で体育座りしていた遠宮美音は、ウザッたそうな目で眼鏡を曇らせる。
「なんでこっちに来るのよ。ここは見学者席なんだから、あんたは向こう行きなさい」
「どうせ自習時間なんだし、堅苦しいことは言いっこなしっスよ」
美音の眼力を笑って受け流しながら、双葉も体育座りになってマフラーをモフモフ動かした。
元気馬鹿系のキャラクターが基本苦手な美音は、双葉の扱いを決めかねて眉をしかめる。
美音の言う通り、現在体育教師は席を外しており自習扱いとなっていた。
というのも、クラスメイトの古茅嬢織が、準備体操中にいつもの通り吐血して倒れたからだ。
だから教師はいつも通り嬢織を保健室へと連行し、取り残された残り15人の女子生徒たちはいつも通り交指揮の下、いつも通り体操していつも通り用具を準備しいつも通り好き勝手に体育の授業に興じていたわけだったのだが。
超獣と人間が普通に入り混じってもなんだかんだでゲームが成立してしまうあたり、ひどいレベルでバランスは取れているらしかった。
「――ふふ、それでは真打登場と行きましょうか?」
コートの中では、双葉と入れ替わりでコートに入った櫻井サラ・カーライルが、ウェーブのかかった長い金髪をなびかせながら悠々と優雅に名乗りを上げていた。
透き通るような白い肌に、キラキラと輝く美しい碧眼。とても金髪とは思えない艶々の髪質に、とても高校生とは思えないボンキュッボンのナイスバディ。パツパツの体操着を着ているせいでどこかコスプレ臭くありながらも、逆にそれすら含めてむしろ美しいと感じさせてしまう絶世のオーラ。
一見してハーフだとは信じがたい絵に描いたような金髪白人美少女が、そこにはいた。
双葉はうらやましそうにサラの肢体に目を向け、美音はむしろ蔑みに近い目でサラの肢体に舌打ちする。
「いやー、サラはいつ見ても絵になるっスよねえ」
「まあ絵になるのは認めるわ。あれだけランクの高い西洋人は、日本国中探しても見つからないでしょうしね」
「おまけに頭脳明晰運動神経抜群とくれば、生徒会長や“四葉”を差し置いてファンクラブができるのも無理がないってもんっスよねえ」
「この間、学園公認の写真集が発売されたらしいわよ。内外から多量の注文が殺到して即日完売したらしいけど」
……。
二人は褒めるだけ褒めてから、サラの美少女っぷりに唯一釘を刺している部位へと目を向けた。
サラの左肩にはホルスターが括りつけられており、その懐には黒光りする大型拳銃がためらいもなく突き刺さっていて。
「ちょっと櫻井さん! 授業中の拳銃の携帯は禁止ですってば」
「え~。お堅いこと言わないでよ、委員長。これは私にとっての標準装備。宵闇さんの首輪とか八柳さんのマフラーみたいなものなんだから」
「そう言っておいて宮越さんの顔面に速攻ぶっ放した過去をもうお忘れですか。ダメです、絶対に禁止です」
「大丈夫よ、引き金を引く相手はちゃんと選んでるから」
「なんかハードボイルドっぽく言ってもダメなものはダメです」
「じゃあ賄賂あげるから」
「なおさらダメですよ!? むしろなんでそれが通ると思っちゃったんですか?!」
交がツッコミを入れる度に、銜えている笛がピューヒュルルと情けない音色を奏でた。
そのやり取りを遠目に眺めていた双葉と美音が、先ほどと打って変わった白い目でサラを見据える。
「ホント、アレさえなきゃ完璧な美少女なんっスけどねー……」
「本当に、アレさえなければねぇ……」
やはり天は人に二物を与えないのだ。
視線の先では、笑顔のサラと真顔の杜綱きさらが貫き手合戦を繰り広げ、きさらが僅差でサラからホルスターを奪い取っていたところで。
肩を落として嘆息した双葉は、膝の上で頬杖を突きながら美音に目を向ける。
「サラの実家ってギャングなんだっけか。……あれ、ヤクザだっけ?」
「両方よ。サラのお母さんがアメリカマフィアの一人娘で、お父さんが関西のヤクザを束ねる大総長の一人息子」
「それ、なんで結婚できたのかまったく想像できない組み合わせなんスけど」
「サラが言うには、父親が熱狂的なマフィア映画マニアで、母親が生粋のVシネオタクらしいわよ」
「……あー出会っちゃったかー」
『混ぜるな危険』の警告文を思い出しながら、双葉はロマンスの神様にガッデムした。
そうこうしているうちに第二試合が開始され、ものの数十秒で反則の笛が鳴る。
「はい、宮越さんトラベリングー」
「んみゅ?」
指を指された宮越優は、何を言われているか理解できておらず、後頭部のリボンを揺らして小首を傾げていた。
美音は眼鏡ごと頭を抱え、双葉が困ったように苦笑する。
「ミューミューがバスケのルールを覚えられる日は来るんスかねー」
「私に聞かないでよ……」
あと訂正するなら、彼女は論理的な思考が一切行えないというだけで、特別記憶力が悪いわけではないのだ。
だったら失敗から何か学習してくれと思わなくもないのだが、そもそも彼女が失敗を失敗と認識していないのだからもう手の施しようがない。
「ところで、美音って陸上とかプールとかは別にサボんないのに、球技のときだけはいつも必ず休んでるよね。それってなんか理由でもあるんスか?」
と、美音が優と出会ってからの五年間を振り返りながら黄昏ているところで、双葉が脈絡もなくズバッと切り込んできた。
……なんか急に距離を詰めてきたと思ったらそういうことか。
美音は面倒臭そうに溜息を吐くと、眼鏡を直しながら双葉を睨む。
「あんたの投げたボールでこのメガネが壊れたとして。あんた、弁償できるの?」
「へ? 私よく知らないんだけど、メガネってそんな高いもんなの?」
「もろもろセットで一千万くらいかな」
美音が真顔で答えると、双葉はキョトンと見つめ返してきた。そしてしばらく会話が途切れてから、一転して爆笑しながら美音の肩をバンバン叩く。
「またまたー。もー美音ったら、突拍子なさすぎて私ツッコミ入れるタイミング逃しちゃったじゃないっスかー」
「アーハイハイソウデスネー」
なんかもうゼロから説明するのもかったるくなって、美音は風化した笑みを浮かべながら双葉のテンションに合わせた。
視線をバスケの試合に戻すと、優の投げたボールが鳥井巫女子の頭部を直撃し、とうとう委員長による「おまえはこっちで大人しくしてろ」の処分が下される。優は交に咎められるままその隣で正座させられるが、結局のところ自分のどこがイケなかったのかは何一つ理解できずに疑問符を浮かべていた。
ゲーム開始から180秒という、ギネスに認定されかねない早業である。
一方。
失神した巫女子の遺体が巨大なグリーンスライムの背中で運び出される中で、金髪をポニーテールに結わえていたサラが子供っぽい怒声を上げた。
「あーもー! チーム分けの時点でこうなる予感はしてたけど、私たち見事にボロ負けしてるじゃないの!」
「そりゃあ、あの核弾頭が何かする度にぼぅるを奪われていては、わたくしたちが点を取るどころではないでありますからねぇ」
「それもあるけど……それよりも問題はデウスエクスの方よ!」
和服姿でゲームに参加していた乱崎桜子の言葉に頷きながらも、サラは自分の後ろにいる人物をキッと睨みつける。
“デウスエクス”と呼ばれた葉月牧奈は、やる気がないその半眼をサラに向け、「何か文句でもあるのか」と逆切れ的に目を細めた。
その態度が逆鱗を一層刺激したのか、サラは腰に手を当て牧奈へ詰め寄る。
「あんた、さっきから一歩も動かないってどういうつもり?!」
「……点を取られたのは“学園の核弾頭”の仕業でしょ。ボクが非難される謂れなんてない」
「謂れオオアリクイよ! 結果はどうあれ、宮越さんは自分の出来る限りを尽くしていたわ。それなのにあんたは誤魔化すでも手を抜くでもなく、コートの隅でぼんやりサボってるだけで。……この私が負けるなんて勿論許されないことだけどね。それ以上に私は、自分に出来ることをやろうともしない人間がイッチバン頭に来るのよ!!」
「それこそボクの知ったことか」
『謂れオオアリクイ』で大爆笑している瑠璃色奏を尻目に、牧奈は面倒臭そうに片眉を吊り上げた。
それに反応して、胸を強調するように腕を組んだサラが毒気のまったくない無垢な笑顔で牧奈を見下す。
「ねえデウスエクス? あなた、私様に逆らってタダで済むと本気で思ってるわけ?」
「なに、自分の思い通りにならなかったら今度は脅迫? さすが“紅の黄金”と呼ばれるだけはあるね。そのド三一な物言い、とてもじゃないけどボクには真似できそうにないよ」
「ちょ、ちょっと葉月さん、その辺にしておいた方が……」
脇にいた宵闇遊佐は、牧奈がサラに負けじと眼力に殺気を込め始めたのを見て、引き攣った顔で体操着の裾を引っ張った。
“紅の黄金”に噛みついた人間が、商業区の噴水で公開処刑されていたのは一度や二度ではないのだ。
しかしそれを知っていても、牧奈は遊佐の手を乱暴に振り払うと、金田一上等とばかりに両手を腰に当てて仁王立ちに構える。
なまじサラが長身かつ牧奈が小柄なせいで、“無謀な駆け出し冒険者を高笑いしながら見下ろす大魔王”みたいな図が完成されつつあった。
このボクっ娘が偏屈で毒舌な上にとんでもなく頑固なのも、別に今に始まった話ではない。
基本誰に対しても無関心極まる彼女は、一方で沸点が恐ろしく低く、煽り耐性が皆無であることでも有名なのだ。
いつもであれば、こうなる前に幼馴染み兼恋人の五木翔太が緩衝材として間に割り込んでくれるはずなのだが。
遊佐は冷や汗を垂らしながら、男子らが授業しているだろう校庭の方へ目を向ける。
さすがの牧奈一直線男も、感応能力や第六波動までは有していないようだった。
「とにかく、ボクに命令していいのは翔太だけだ。何があろうとキミの指図は受けない。……報復したいのなら勝手にするがいいさ。キミにそれが出来るのなら、ね」
「あら面白い冗談。あなた、こないだ沈したチンピラよりよっぽどお笑いの才能があるわよ?」
牧奈が挑発するように鼻を鳴らすと、サラは頬に掛かった前髪を弄りながらニコニコと微笑んだ。
(……デウス様、何気に今めっちゃノロケてなかったっスか?)
(……いいからあんたは黙ってなさい)
カメラの後ろでなんか雰囲気をぶち壊す囁き合いが聞こえたが、場の全員がそれを聞かなかったことにした。
サラは笑みを崩さないまま立ち位置を変え、床に転がっていたバスケットボールを手に取った。
それを投げつけるつもりか、と牧奈は腰を落として身構える。
「デウスエクス、はいパス♪」
しかし、サラはボールを牧奈に向けて軽く放っただけだった。
勢いも回転もないその球は、ゆっくり山なりに浮き上がって牧奈の胸元にスポッと収まる。
「……?」
「十万出すわ」
牧奈が疑問符を浮かべていると、サラは優雅に微笑みながら右手の親指・人差し指・中指を立てた。そしてなおさら意味が分からず困惑する牧奈に、ニヤァと奥歯を覗かせ大魔王すら凌駕するような嘲笑を見せつける。
「それに見合う報酬さえ用意できるのなら、“電気羊の夢”はどんな依頼もこなしてくれるんでしょう? だから十万円で、私がこの試合のあなたを買うわ。……まさか足りないとは言わないわよね?」
「……」
牧奈は顔から感情を消すと、手の中のバスケットボールを見下ろす。
そのまま十秒ほど考えてから、観念したように視線を戻して嘆息した。
「……千円でいい」
◇ ◇ ◇
ドリブルしながら華麗なステップを刻むサラの前に、唯守乃若七が立ち塞がった。
サラは一瞬だけシュートのフェイントを入れると、若七の体が浮きあがる寸前に腕を引き戻し、右下に向けてボールを押し出す。直後に外側から駆け込んできた牧奈がワンバウンドしたボールを受け取り、ゴールを飛び越しながらのバックレイアップシュートを放った。
一回転だけボールがリングを回り、そのままストンと網の下へ落ちると、周囲から歓声と拍手が起こる。
「これで四連続トライだよ! 葉月さんスゴイスゴイ!」
「嘘でしょ、デウスエクスって電脳少女じゃなかったっけ?」
「たしかに驚いた。いくらサラがアシストしてるとはいえ、あれは完全に経験者の動きだぞ」
外野どころか敵味方からも称賛の声が届く中、汗だくで息を切らせた牧奈は我関せずといった表情で額の雫を拭っていた。
先にセンターラインまで下がっていたサラは、牧奈が戻ってくると足並みを揃えてゲスい笑みを浮かべる。
「うんうん、いい働きよデウスエクス。その調子で私様に尽くし続けなさい」
「……チッ」
牧奈は不機嫌な顔を一切隠すことなく、舌打ちしながらサラから離れた。
顔を上げると、ボールを持った夜嶋鴉が迫って来るところで。息を絞って素早くスティールに回るが、バックターンからレッグスルーへとボールを左右に振られ、それに反応する前に人外の加速力ですり抜けられた。
「はい、待ってましたー♪」
そんな鴉の手から、前もって進路上で待ち構えていたサラがスルリとボールを盗んだ。
コート上の誰もが「え、いつの間にそこに?」と考えている間に、牧奈はセンターラインを踏み出し、サラは予測地点に向かってボールを投げる。
「――悪いが、それは認めん!」
振り返った鴉が宣言し、同時に恥じらいもなく床に両手を着いた。その姿勢のままズザァ!と擬音を発すると、走るというよりは滑るような勢いでコートを駆け、左手を軸に回転しながら牧奈に体を向けて立ち塞がる。
真実獣のような姿勢で顔を上げると、ちょうどボールをキャッチした牧奈が足を止めたところで。
「……っ」
鴉の青い目に射抜かれて、牧奈は即座にドリブルを諦めた。代わりに大きくバックステップすると、スリーポイントラインの外側に出て思いっきりしゃがみ込む。
鴉は動かなかった。伏せの状態を維持したまま、両手を床から離して牧奈の動きをじっと見つめる。
「……な?!」
直後に鴉は声を上げて姿勢を乱した。
鴉の視線の先。牧奈は軽く息を吐き出し、まるでバレーでジャンピングボレーするかのように大きく横っ飛びに跳ねていた。
我に返った鴉も急いで飛び出すが、バスケットボールはその手をすり抜けて宙を舞う。
スポンと。
どう見ても不自然な姿勢からフックシュートされたはずのボールは、映像編集されたような不条理さでゴールの中に納まっていた。
「……ふぅ」
立ち上がった牧奈は乱れる呼吸を必死に押し隠しながら、床に擦った上腕をパンパン払う。
今度はどよめきすら上がらなかった。
牧奈と共に体を起こした鴉がかすかに悔しそうな顔をしたが、すぐに満足気な吐息を漏らして床に落ちたボールを回収しに向かう。
「なにさなにさ。デウスエクスってば意外とやるじゃん。なんだかあたし、面白くなってきちゃったわよー」
「……唯守乃、おまえは櫻井の相手をするんじゃなかったのか?」
先にボールのところに辿り着いていた唯守乃若七に対して、鴉はジトーッと物言いたげな目で見つめた。
若七は人差し指の上でボールを回すと、牙を覗かせ「くししっ」と楽しげに笑う。
「いいじゃんいいじゃん。トリさんも最後はわりと本気出してたんだし、あたしも交ぜてよ」
「それでもしてやられたから鴉は言うのだ。だいたいデウスエクスはもうスタミナ切れだ。おまえは櫻井の相手をしておけ」
「どうせ次のプレーくらいで時間切れなんだから同じだって。……点数もちょうど一点差。これで燃えるなって方がウソっしょ」
両手でボールを掴んだ若七は、新しい玩具を買ってもらった子供のようにウキウキと口元を歪めていた。
鴉はやれやれと肩を竦めて若七に背を向ける。
「おまえはまだ吸血鬼の能力を使いこなせていないんだ。せいぜい気をつけることだな」
「リハビリリハビリ。力だって実際使わなきゃ加減を覚えられないってもんでしょ」
若七は遠くの牧奈に視線を移し、持っていたボールをポーンと投げつけた。牧奈がそれを受け取ると、楽しげに手をクイクイ揺らして「かかって来い」のジェスチャーを繰り返す。
若七の意図を察した牧奈は面倒臭そうに眉をしかめた。
「……分かってるわよね、デウスエクス?」
そんな牧奈に釘を刺すように、サラがそっと後ろに回り込んで囁いた。
牧奈はじろりとサラを睨んでから、諦めてボールを弾ませ始める。
「よっしゃよっしゃ。どーんと来ーい!」
その叫びを合図にして、若七と牧奈はスタートを切った。
二人の間はおおよそ十メートル。そこに他の女子は存在しない。
フリースローライン付近でかち合った二人は足を止め、一秒未満の時間だけ相手の出方を見る。
若七の右手がピクリと動き、それに反応した牧奈がくるりと背を向けバックターン。それに気づいた若七が強引に手を止めて左側に回り込もうとすると、今度は自分の足の間にボールを通して反対側へと切り返す。
先ほど鴉が見せた左右へのフェイントを、牧奈はまるっきりそのままコピーして若七の脇を通り抜けた。
そのままシュートの態勢を取ると、基本に忠実なフォームで床から跳ね上がる。
「まだまだぁ!」
若七の輪郭がぐにゃっと歪んだ瞬間、その肉体が着ている体操着ごと黒い霧と化して拡散した。
霧は個々に蝙蝠や虫のような形を取りながらも、物理法則を無視した軌道を描いて牧奈の眼前に集まり集う。
それは本当に瞬きするほど一瞬の出来事で。
牧奈のシュートコースを完全に塞ぐようにして、そこにはしたり顔の若七が再構築されていた。
「くししっ、あたしってば卑怯者っしょ?」
「……べつに」
空中で笑う若七に対して、牧奈は眉一つ動かさずに淡々と呟きを返した。
そして「はい?」と呆ける若七を放置して、構えていたボールを引き戻して自分の背中にひょいっと隠す。
「……ボクたちの方がよっぽど卑怯だと思うから」
牧奈が返答を終えたときには、その体の裏側からバスケットボールを抱えたサラが飛び出していた。
本日一番邪悪な笑みで口角を吊り上げたサラは、小刻みにドリブルしながら二人の足元を通過し、着地より早くゴールの眼前まで歩を進める。
「くっ!?」
それを見送った若七は、再度己の体を霧化してサラの前に高速移動した。
素早く肉体を復元しながら、突撃してくるサラを捉えて牙を剥く。
「そう簡単に入れさせるとでも――」
「そこ、ノーチャージの内側よ?」
「へ?」
ねっとりとした警告よりも早く、両手でしっかりとボールを抱えたサラのタックルが若七の胸元に突き刺さった。
中途半端に実体化していた若七の肉体はその一撃で文字通り霧散し、悠々と地面を蹴り上げたサラはバスケットの中へと豪快なダンクシュートを決める。
「はーい、時間でーす!」
同時に委員長の笛が高鳴った。
地面に転がった状態で元の姿に戻った若七は呆然とゴールを見上げ、優雅に着地したサラがそんな若七をニヤニヤと蔑む。
「さて唯守乃さん。この勝負は私の勝ちで、よろしいかしら?」
「だから気をつけろと鴉は言ったんだ」
「……ううぅ~」
文句や反論は山のようにあった。しかし、サラリとポニーテールを解くサラの美少女っぷりと、その美少女にたったいま無様に吹っ飛ばされたという事実が、若七の言葉の全てを喉元でせき止める。おまけで鴉からも無慈悲に駄目だしされて、若七は床を叩いて本気で悔しがった。
その表情すら小気味良く見下ろしてから、サラは牧奈へ視線を向ける。
「よくも私の考えを正確に理解してくれたものね。ありがとう、まずまずの働きだったわ」
「……ボクは“キミが勝つ”ために雇われたんだ。……報酬分の仕事をしただけだよ」
咳き込むように荒い呼吸を繰り返しつつも、牧奈はサラを一瞥してコートの外へと出て行った。
それを見送ったサラは、満足気に微笑みながら肩越しに後ろを振り返る。
サラの背後には、いつの間にかメイド姿の女性が忍者のように現れ控えていた。
そのメイドから拳銃入りのホルスターを受け取りながら、サラはニヤニヤと意地が悪そうなアルカイックスマイスを浮かべる。
「わかってるわね、サクヤ。今日中にあの娘の口座を調べて十万円振り込んでおきなさい」
「お言葉ですがお嬢様。報酬は千円という約束ではなかったでしょうか?」
「だから、千円を100回連続で振り込んで差し上げるに決まってるでしょうが。あんたは本当にどんくさいわね」
「……左様で」
さすがお嬢様、相手が嫌がることであれば余念が微塵もない。
そう呟きながら、メイドはスタスタと歩いて体育館から出て行く。
「ええ?! 出るときはニュッとテレポートで登場したくせに、帰るのはなんか普通に徒歩なんスか!?」
それまでずっと蚊帳の外だった八柳双葉が、去っていくメイドの後姿にツッコミを入れた。
その隣で体育座りを維持していた遠宮美音は、先にツッコんでくれて助かったと言わんばかりに嘆息する。
「……本当に、アレさえなければあの子はわりかし一般人の範疇なんだけどなぁ」
「クラスのツッコミ役としては気苦労が絶えないところっスねー」
「やかましいわ」
美音の平手が双葉の顔面を叩くが、心労からか“拳の調停者”の面影は微塵もなかった。
と。
鼻先を赤くしながら笑っていた双葉は、ふと思い至って美音の方を向く。
「ところで美音」
「あによ」
「サラってナチュラルに拳銃持ち歩いてるけど、っていうかときどきパンパン撃ちまくっちゃってるけど。どうして警察に捕まったりしないんスか?」
「……賄賂じゃねぇの?」
厳密な理由を想像することすら苦痛に感じて、美音は眼鏡を弄りながら脊髄反射で答えを返した。
/ベヌクの時間 完