鷹狩学園へようこそ(前編)
world:ハッピーエンド
stage:西暦2041年5月 私立鷹狩学園
personage:鳴無兄眞
image-bgm:ノンフィクションコンパス(UNISON SQUARE GARDEN)
「……ついに来てしまった」
地下鉄から地上に出るや否や、鳴無兄眞は、絶望と苦渋を滲ませた表情で肩を落とした。
季節は桜の散り切った五月も下旬。
青々と茂る街路樹が取り囲む並木道を、兄眞と同じ制服に身を包んだ学生たちが楽しげに語らいながら歩いていく。
新しい環境や友人らとの距離感にもようやく慣れ始めたのだろう。彼らは兄眞と正反対の希望と愉楽に満ちた表情で、立ち止まっている兄眞の脇を通り過ぎる。
その学生たちと比べても、兄眞はそこまで特徴的な外見をしていなかった。
この時代をしてもあまりにも聴き慣れない個性的な名前に反して、むしろ特徴がないと語ってしまっても失礼ではない程度には、兄眞は毒気のない――悪く言えばモブ的な容姿をした少年だった。
平均より若干低い身長とさらりとしたショートヘアのせいでいまだに中学生と間違われてしまうことすらあれ、童顔と呼ぶには喉仏が出ており男の娘と呼ぶには肩幅が開いている。運動が得意と自慢できるほど神経は整っていないが、内向的と言い訳するにはアクティブな性格であることも、兄眞はもう十二分に自覚していた。
しかし、ここで吐いた溜息は、別に己のパーソナリティに向けたものではない。
目を閉じて自分自身を見つめ直していた兄眞は、観念したように顔を上げて並木道の先に目を向けた。
道の先で待ち構えているのは、これと言って特筆することもなさそうな、一般的に『学校』と呼ばれている四階建ての白い校舎で。
兄眞の眼には、それが凶悪な魔物の待ち受けるラストダンジョンの入り口のように映っていた。
校舎の時計が指し示す時間は、八時少し前。
ホームルームは半過ぎからと聞いていたが、その前に多少なりとも学友たちとコミュニケーションを取りたいのだろう。登校していく学生の数はそれなりに多く、地下鉄からも現在進行形でわらわらと同年代の少年少女が顔を出していた。
その中に、明らかに人外めいた蝙蝠の翼を腰から生やした少女を見つけて、兄眞は再度嘆息しながら視線を校舎へ戻す。
日本、どころか世界でも最大規模の学園都市である『私立鷹狩学園』。
街全体が中心部の学園を成立させるためのシステムとして存在しており、街から一歩も出ることなくあらゆる学術活動が可能であると豪語する、学士たちの楽園。誰別け隔てることなく全てを受け入れ教育すると謳うその楽園には、人間だけでなく超獣やディアすらも数多く通っていると。
パンフレットの情報を思い出しながら、それが本当に事実なのだと兄眞は実感する。
これまでの人生で超獣やディアと出会ったことがないわけではないが、こうして当然の顔で道端を歩いていく彼氏彼女らの姿を自然と捉えるには、兄眞はまだまだ人外慣れしていなかった。
「……」
しかしそれも、兄眞の表情を暗くさせている原因ではない。
兄眞は三度嘆息すると、制服のポケットから手の平サイズの黒くて艶やかなガラス状の板を取り出した。その角を人差し指でトントン叩くと、ガラスの表面に最近のアニメを切り貼りした待ち受け画面と、現在時刻が表示される。
デジタルな表示は八時少し前を示していて。
それが校舎の時計と寸分の狂いもないことを確認し、兄眞はその次世代型携帯電話『WINK』をポケットへ戻した。
「……行くしかない、よな」
兄眞は観念したように姿勢を正し、周囲の生徒たちに紛れて校舎に向けた一歩を踏み出す。
「――っぶなあぁぁーい!!」
その瞬間を待っていたかのように、兄眞の頭上から悲鳴のような女性の叫び声が響いた。
そして兄眞が反射的に見上げる時間すら与えず、兄眞のすぐ隣にそびえていた街路樹が爆音を伴なって大爆発を起こす。
「んなあぁぁーっ?!」
衝撃波に吹き飛ばされて兄眞はゴロゴロと地面を転がり、偶然にも街路樹の方へ体を向けた状態で後ろ手を突いて顔を上げた。見ると、直前まで確かに存在していたはずの広葉樹が跡形もなく消し飛び、どころか地面すら軽く抉れて黙々と砂埃を舞い上げている。
その砂埃の中には二人の人影。煙が薄れるとともに、それが万歳した状態で満面の笑みを浮かべている後頭部に巨大で子供っぽすぎる赤いリボンを付けた女子高生と、涙目でその少女の肩に縋り付いているメガネをかけた女子高生であることが見て取れた。
リボンを付けた方の少女は、どうして人生がそんなに楽しいのかと問いたくなるほど幸せそうな表情で、自分の背中にしがみつく少女へ目を向ける。
「音ちゃん音ちゃん、今日こそ大成功だよ♪ 場所もばっちり学校の前だし、うっかり道路にも着地しなかったし♪」
「このアーパー娘がぁっ!!」
リボン少女の言葉を遮るように、“音ちゃん”と呼ばれたメガネのげんこつが少女のつむじを打ち据えた。
少女は「あいたぁ!」と可愛らしい悲鳴を上げると、涙が滲んだ目で“音ちゃん”に体を向ける。
「みゅうぅ~、いきなりなにするの~?」
「なにするの~じゃないわよ、優のバカ! 人や車に被害が出なくても、今度は花壇がメチャクチャでしょうが! ったく、後で頭を下げる私の身にもなりなさいよ!」
「えぇ~。でもでも、そもそも音ちゃんが寝坊しなければあたしが大ジャンプする必要もないのにぃ」
「……それに関しては……私も大変遺憾であると感じているけれどっ!」
明らかに動揺した表情で続く罵声を堪えた“音ちゃん”は、ギリギリと奥歯を噛み締めながら忌々しげに拳を握りしめた。
そしてふと、地面に倒れたまま呆けて二人のやり取りを眺め続けていた兄眞の姿にようやく気が付いて、ゲッと顔を青くして慌てて駆け寄る。
「ごめん、もしかして巻き込まれちゃったの?! どこか痛くしてない!?」
「あ、いや、べつに大丈夫だけど」
リボン少女に対するものとは打って変わって丁寧で優しい声掛けに、兄眞は思わず委縮しながら首を振った。
兄眞の脇でしゃがみ込んだ“音ちゃん”は、スカートのポケットからハンカチを取り出し、兄眞の顔や体に降りかかっていた土や木片を払い落とす。
「本当にごめんなさいね。まず最初に周辺被害を確認しなくちゃいけないのに、私ってば自分たちのことばかり考えちゃって」
「いや、本当に大丈夫だから」
『周辺被害』などという物騒な言い回しがナチュラルに出てきたことに不穏な空気を感じたが、兄眞はツッコミを飲み込んで引き攣った笑顔で言葉を返した。
“音ちゃん”はメガネを揺らしながら、申し訳なさそうに眉をしかめる。
……というか、兄眞にとって、超獣やディアよりも眼鏡を掛けている人類の方が初めて見る存在かもしれなかった。
昔はそういう矯正器具を使用するのが一般的だと聞いたことはあったが。西暦2041年現在、医療技術の進歩とともに失われた文化だと思っていた。
兄眞がポカンとした表情で“音ちゃん”の顔を見つめていると、それを勘違いした“音ちゃん”は全力で頭を下げて両手を合わせる。
「ホントごめん! この埋め合わせは私が必ずするから、どうか優を訴えるのだけは勘弁してもらえないかな?」
「あうぅ~、ごめんなさ~い」
いつの間にか“音ちゃん”の後ろに控えていた優と呼ばれるリボン少女も、一緒になって頭を下げていた。
なんと返したものかと兄眞が悩んでいると、“音ちゃん”はWINKを取り出して表面に自分の学生証を表示させる。
「私、一般教養学科の遠宮美音。二年一組だから、もし後遺症とかあったりしたら遠慮なく訪ねて来て? 私に出来ることならなんでもするから」
「う、うん」
切羽詰まった美音の言葉に押されて、兄眞も思わずWINKを取り出して美音のアドレスを受け取る。
自分の画面に目を落とすと、今の美音とは似ても似つかぬ仏頂面な写真が添付されていた。
「……うふふふふ。朝からなんだか随分と楽しげな状況になってるじゃないですか、美音ちゃん?」
「へ?」
唐突に頭の後ろから声が聞こえて、兄眞は美音たちと共に声の主へと顔を向けた。
それまでそこには人の気配の欠片すら感じなかったというのに。
兄眞のすぐ背後には、自分たちとは若干異なる制服を着こなした、先輩と思わしき少女が頬に手を当て佇んでいた。少女の背にはなぜか黒いマントが羽織られていて、風らしい風も吹いていないのにフワフワと揺らめいている。
一体誰だろう?と小首を傾げていると、その少女の瞳が自分を見下ろし一瞬蒼く光ったような気がして、兄眞は思わずまぶたをこすった。
「みゅ~♪ 都古おばさん、お久しぶりぃ~!」
「ふふふ。久しぶりね、優ちゃん。始業式以来かしら?」
兄眞が視界を戻した時には、少女は優と熱い抱擁を交わしていた。
反対に美音は、心底ウザッたそうに口元を歪めて二人の隣に近づく。
「朝っぱらからいったい何の用ですか? こんな唐突に顔を出されると、せっかくの爽やかな朝の空気が台無しになるんですけど」
「美音ちゃんってば相変わらず開口一番から辛辣ですねぇ。人の顔を『遭遇表の外れ枠』みたいな目で見るのは、あまり褒められたものじゃありませんよ?」
「あんたは実質似たようなもんでしょうが。……ったく、優に変な影響を与える前にとっとと消えてください」
「あらあら、伯母と姪が互いの親睦を温めるのにどんな悪いことがあるかしら?」
「「 ね~? 」」と声を上げながら、抱き合う二人はお互いに小首を傾げた。
それからようやく体を離すと、優の頭を撫でながらドヤ顔で美音に目を向ける。
「何を隠そう、この子にディープキスのテクニックを教えてあげたのはこの私なんですよ?」
「そういうトコだぞ」
「ねえねえ優ちゃん、『男は狼』……?」
「女はめひょう!」
マント少女の問いかけに、優は両手を握りしめて元気よく即答した。何がそこまで楽しいのか、二人は「イエーイ!」と歓声を上げながら勢い任せのハイタッチを行う。
それを見せつけられた美音は頭に手を当て、溜息を吐きつつ首を振った。そして疲れた表情で顔を上げると、なおも少女と絡もうとする優の手を取り強制的に引っ張る。
「ほら優、そろそろ教室に行かないと遅刻するわよ」
「えぇ~。……都古おばさん、またね~!」
ズリズリと美音に引き摺られて遠ざかる優は、名残惜しそうに手を振りながらフェードアウトしていった。
取り残されたマント少女はヤレヤレと吐息を流し――いまだ地面に転がっていた兄眞に流し目を送る。
「っ!?」
てっきり存在を忘れられていたものだと考えていた兄眞は、心臓を鷲掴みにされたような錯覚を感じて体を硬直させた。
少女は含みを持たせた笑みを浮かべると、まるで下着を見せつけるかのように兄眞の正面でしゃがみ込む。
「……それで貴方は……随分と面白い設定を持ってるみたいですね?」
「……へ? ……え?」
何を問われているのかは瞬時に理解できたが、何故それを問われているかがまったく分からなかった。
何故。
どうして。
この少女はこんなにも。
人を見透かしたような瞳で。
心を見透かしたようなセリフを。
疑問が単語となって脳裏に浮かび、思考がまとまらないまま消えていく。
そうこうしているうちに、少女は兄眞に向けて右手を伸ばしていた。その瞳が値踏みをするように兄眞の瞳を刺し貫く。
今度こそ気のせいではない。
少女の瞳は、兄眞の脳髄を掌握し凍らせるかのような、冷たく美しい青色に輝いていた。
コイツはダメだ。
コイツはヤバい。
兄眞の本能が全力で警報を鳴らすが、反して体はピクリとも動いてくれない。
そうこうしている間に、少女の右手が兄眞の頬を優しく撫でさするべく距離を詰め――
「ドワアァァァーッと?!」
「へぶしっ!?」
突然ドリフトしながら突っ込んできた大型自動二輪車の後輪の横殴りを顔面に受けて、少女は格闘ゲームのダメージ表現のような見事なキリモミ回転をしながら、荒れ果てた花壇の向こう側へと吹き飛んでいく。
兄眞が唖然と口を上げながら顔を横に向けると、数メートル先で停止したバイクの上で男子生徒が大慌てでフルフェイスのヘルメットを脱ぐところだった。男はボサボサの天然パーマを掻き揚げると、スタンドを立てながらバイクから降りて手袋のボタンを外す。
「くそっ、とうとうやっちまった。っていうかなんだこの機体、じゃじゃ馬ってレベルじゃないぞ」
「お~い。久留間、大丈夫か~?」
やって来た方角から別な男子の声が聞こえて、久留間はそちらの方に目を向けた。
息を切らせて駆け込んできたのは、薄汚れた水色のツナギを着こなした大柄な男と、それとは正反対に制服を小綺麗に着こなした小柄で半眼な女子の二人で。
大柄な男は軽く息を整えてから眉をしかめ、今しがたはねられたマント少女の影を探す。
「いま、最後に誰かを轢いてなかったか? 無免許かつ車検未申請のバイクで人身事故って、いくら学園内でもさすがに手が後ろに回っちまうぜ?」
「あ~、そっちはきっと大丈夫だろ。あれって確か魔王の人だったし」
手袋で蒸れた手をプラプラと振りながら、久留間は事もなげに言い切った。それより恐ろしいのは、そんな久留間のセリフを聞いたツナギの少年すら「なんだ、それならいっか」と心からの安堵を浮かべていたことだが。
それは置いておいて。と、久留間はバイクのサドルを叩きながらツナギの少年に批難の視線を向ける。
「おい翔太、全然ダメだぞこのバイク。機体が重いだけならともかく、ちょっとでも慣性制御の出力を上げるとタイヤが浮いてハンドリングが利きやしない。……やっぱり、原動機と慣性制御のハイブリット仕様なんて無茶があるんじゃないか?」
「タイヤが浮く? んなバカな。間違ってもそんなことが起きないように、わざわざ牧奈に特注でプログラム組んでもらったっていうのに」
ツナギの少年は寝耳に水と言った表情で目を瞬かせた。
そうしてしばし久留間と見つめ合った後、後ろに控えていた半眼の女子へと恐る恐る振り返る。
「ちょっと牧奈さんや?」
「デウスエクス?」
「……チッ」
翔太と久留間に疑問の目を向けられて、女子は無気力な顔をしかめながらこれ見よがしに舌打ちした。
その反応を受けて、翔太は顔を押さえて嘆息し、久留間は涙目になりながら女子へ詰め寄る。
「おいこらデウスエクス、いったいこれはどういうつもりだ?!」
「いっそ、そのまま宇宙の藻屑にでもなれば良かったのに」
「事故どころかスペースデブリ狙いかよ!? おまえが俺のことを嫌いなのは知ってるけど、嫌がらせにちょっと手加減がなさすぎじゃありませんかねえ?!」
「うるさい、バカ久留間」
女子はまったく反省の色を浮かべず、むしろ逆に殺意を増した半眼で久留間を睨み返した。
あまりにも冷酷な女子の視線に久留間が怯むと、その代わりのように翔太が女子の頭をポカリと叩く。
「牧奈、いいかげんにしろ。冗談にしてもさすがにやりすぎだぞ」
「翔太……でも、ボクは……」
反射的に頭を押さえた牧奈は、モゴモゴと口元を動かしながら翔太の顔を見上げた。
しかし、翔太に蔑みの目で見られることに耐えかねたのか、途端にしおらしく体を縮めて久留間に頭を下げる。
「……久留間、ごめん。……ボクのやりすぎだった」
「いや、いつものことだしもういいけどさ。……ホント、翔太の言うことにだけは素直に従うのな、おまえって」
「……」
久留間に苦笑されて、顔を上げた牧奈は納得いかなそうに口を尖らせ半眼を細めた。
そんな牧奈の頭をポンポンと優しく撫でながら、翔太はニヤリと頬を歪めて空気を切り替える。
「んじゃ、とっととガレージに戻ってソフトを入れ替えようぜ。早くしないと授業が始まっちまうよ」
「お、もうこんな時間か。よっしゃ、急げ急げ!」
「あ、待って翔太……」
翔太と久留間がバイクを引っ張ってバタバタと駆けて行き、その後ろを半眼の牧奈がパタパタと小走りで追いかけた。
そうして見ている間に、三人はまるで幕間を迎えたかのように場面の中から姿を消していく。
「えっと……」
またしても取り残されてしまった兄眞は、とりあえず立ち上がってパンパンとお尻の砂を払う。
時計はいつの間にか八時を過ぎていて、確かにこのままでは約束の時間に遅れてしまいそうだった。
「本当に、この学園は退屈する暇もありませんよね?」
「……っ!?」
耳元でそっと囁かれて、兄眞は大きく飛び退りながら振り返る。登場したときと同じように、黒いマントを羽織った少女は気配も放たず兄眞のすぐ後ろに佇んでいた。
少女はどこか艶めかしく唇に人差し指を添えると、人を食ったように目を細めて笑みを浮かべる。
「どうぞ安心してください。今すぐ貴方をどうこうするつもりなんて、私にはありませんから」
「あ、あんたは、いったい……」
「うふふ。それを知りたいのなら、個別イベントをこなしてもうちょっと私の好感度を上げないといけませんかね~?」
クスクスと楽しげな笑い声を漏らしながら、少女は踊るようにステップを踏んでマントを羽ばたかせた。
兄眞が二の句を接げずにいると、そのまま兄眞の隣に回り込み、道を示すように向こうの校舎を指差す。
「さあ、貴方もそろそろ移動しないと、このままでは遅刻してしまいますよ?」
「……」
少女から逃げるように小走りに、兄眞は昇降口を目指して歩き始めた。
背中に少女の青い視線を感じても、なるべくそれは無視するように努める。
「……それではまたいつか、この学園で」
すぐ耳元で少女の囁きが聞こえた気がしたが、兄眞は絶対に振り返ることをしなかった。