0. 入学式
「早く起きなさい」
「……」
「ティール、早く起きないと、式に遅れるわよ」
「うん……」
朝は苦手だ。それは、すさまじい重力を感じる両目のまぶたのせいもあるが、それだけではない。三日に一度くらい、鮮明な夢を見るからだ。見たことのない景色。角ばった高い建物たち。すごいスピードで移動する乗り物。とてもこの世界にあるとは思えないような、しかし、なぜかやけに現実味を帯びた、鮮明な夢。例えるなら、別の世界の、自分とは全く別の人間の目にする光景をそのまま頭の中に流し込んでいるかのような夢だ。
しかし、今日という今日ばかりはそうは言っていられない。今日は大事な入学式の日だからだ。この孤児院で過ごして来た日々は特にこれといった不自由を感じることもなく、同じ境遇の、同じ年代の友達にも恵まれて、よく外で遊んで泥だらけになって帰ってきたものだった。その今までの「普段」がなくなり、代わりに「学校」が普段の生活に切り替わる日だ。
12歳から15歳までの四年間を過ごし、そこで働きに出るのが普通の人生。もちろん、非常に勉学に優れた人は一つ上の学校にまた数年通うこともあるし、裕福な家庭に生まれた子供は大抵そうする。けれど勉学に優れる予定もなければ、お金がたくさんあるわけでもない、平凡な自分は、この孤児院で自分を育ててくれたマロトートのため、4年間の学校を終えたら、即座に働きに出るつもりだ。
そんな胸に秘めた決意とは裏腹に、やはり睡眠という人間の欲求の中でも一位二位を争う抗いがたい魔力の前には、どんな強い志も屈服したところで文句の一つも言えないだろう。仕方なく、あくまで仕方なく二度寝というすばらしい行為に走り、意識も朦朧としかけたところ、
「早く起きないと、このまま外に放り投げるよ」
と言われたあたりで限界を悟った。これはただの脅しでも何でもないことを知っているからだ。なぜなら昔、流石に布団ごと外に放り投げることまではしないだろうと思っていたら、本当に外に放り投げられていたことがあったからだ。さすがにこれ以上寝続けるとまずい、という感覚を明確に感じ始めたあたりで、未だ睡眠を頑なに主張する体を無理やり動かし、なんとか布団から脱出を果たした。
今日は入学式なので、着る服もいつもと違う。孤児院とはいえ、さすがに普段の服を着させるのは気が引けたのだろう。自分は特に気にしないが、マロトートが言うには、式に行ったときに浮かないようにするためとのことだ。あまり着なれていないためか、服は案外硬く着るのにも一苦労したが、なんとか服を着て、あまり湧かない食欲を言い聞かせてご飯を頬張り、学校へ向かった。
今日から学校だという実感はあまり湧いてこなかったが、整った服装をしている同年代と思しき人たちが皆同じ方向に歩いているのを見ると、日常ではあまり見られない光景に、少しばかり緊張する。
孤児院の中では自分は最年少であり、みんなすでに上級生か卒業した後なので、同じ場所に住んでいる知り合いはいない。上級生は新入生を迎える準備をしているはず。同い年の友達はもっと早くに学校へ向かっているようで、顔見知りは周りにはいなかった。
周囲の様子を観察しつつ、なんとなく群衆と同じ方向に歩いていると、ようやく学校についた。ここへ来るのは初めてではなかったが、今日からここに通うんだという気分で来ると、ちょっと違う感じがする。生徒と思われる人たちが掲示板のようなものに貼られた紙に集まっているのを見て、自分も寄ってみる。どうやらクラス分けらしい。自分の名前を探すと、3組のところにあった。一クラス40人で合計5組。ひとまず自分のクラスは分かったので、友達の名前を探してみる。メルサ、ウェルトン、ロロ、ケーシン、エルド、それから、……。みんな見事にバラけていた。というかこれは多分意図的で、他のところの、あまり接したことのない人たちと交流を持つチャンスを作るためだろう。じゃなかったら悪質な嫌がらせとして早速学校を休むことも視野に入れないといけない。
新入生は校舎前の広場にて式を行うということで、全生徒がそこにクラスごとに集まり、友達と楽しそうに話をしている人の声で覆われていた。あー、あいつらは向こうのクラスだし、わざわざそこまで行くのもちょっと気が引ける。しかたない。きれいにバラバラだもんな。
先生による当たり障りのない挨拶も終わり、クラスの教室に入った。席はすでに決められていて、自分は教室の左斜め後ろ辺りの席だった。特にやることもないので席に座ってからぼーっとして、そろそろ本格的に睡眠に入ろうかと考え始めたとき、隣の席の人から声がかかった。
「ねえキミ、名前は?」
睡眠に入ることの是非を考察しているときは反応が遅れるからというよりは、いきなり話しかけられて戸惑いを覚えてしまって、一瞬何が起きたのかが分からず、疑問を顔に浮かべながらその人の顔を見てしまっていたかもしれない。
「ティール。ティール・ケルニシア」
「わたしはメール・イリナス。よろしくね」
「う、うん」
「どこに住んでるの?」
「孤児院」
この町には、孤児院は一つしかないので、これだけ言えば分かる。孤児院とはいっても、マロトートとその夫ケンザスの少し大きめの家に二人の子供たちと普通に一緒に過ごしているだけで、血が繋がっている・いないで特に待遇の差もなく本物の家族のように暮らしている。
だがそんなことは普通の人は知らないし、あまりいい印象を持たない人が多いのも事実。
「ふーん。私は東の方に住んでるの。市場とか店とかがあるところから歩いてすぐのところね」
ということは、親は商人か何かだろう。自分が住んでいる辺りの子供は買い物なんてする機会はほとんどない、というか主にマロトートが買い物するのに付いて行くのを拒否し続けたため、そっちの方にはほとんど行ったことがないし、ましてやそっちの方に住んでいる人たちと交流もない。こんなところに学校の意図が見え隠れしている気がして、なんとなく友達と別のクラスになったことを思い出した。
なんだかんだしているうちにようやく先生が入ってきた。扉を開ける音に振り向いて、先生らしき人がいるのを見つけ、なんとなく喋ってはいけないような雰囲気を醸し出し、またたく間に教室が静かになっていく。これが先生の力か。
「みなさんこんにちは。このクラスを担当することになった、アーツ・ハミントンです、みなさんこれから四年間よろしくね」
さっき感じた喋ってはいけないような雰囲気はどこかへ霧散し、親しみのある優しい感じのお姉さんっぽい感じがする。早速このクラスがいい感じのクラスになりそうな気がしてきた。
「それじゃ早速、みんな自己紹介を……」
と言ったあたりで、口を抑えつつ、教卓に肘をついて悶え始めた。よく見ると顔色が悪い。
「先生、大丈夫ですか?」
こういうときにこんな感じの言葉が自然にかけられる人がクラスの中心人物になったりするんだろうな。まあ、自分には無理だが。
「ごめんごめん、昨日ちょっと飲み過ぎちゃって……」
二日酔いかよ! そう思いつつ、おそらくクラスにいる全員がそう思っているに違いないだろう雰囲気を肌に染みて感じた。いい感じのクラスになりそうと言ったな。あれは嘘だ。
「大丈夫、ちょっと戻ってるから、もうちょっと待っててね」
きっと多分、戻るんじゃなくて戻すんだろう。というかさっきまで戻していたのでは? 自分は学校初日早々、クラスに一縷の不安を抱いた。
「なんか、面白そうな人でよかったね。怖い先生だったらどうしようかと思ったよ」
「そうか? ちょっとだらしないというか、不安なんだが」
どうやらメールの目には良い先生に映ったようだ。
「皆さんお待たせ。今戻ってきました」
戻してきたのか。やけにすっきりした顔だしな。
「戻す? 戻すって何を?」
「いいや、なんでもない」
まあでも確かにメールの言う通り、面白いクラスにはなりそうだ。良い意味でか悪い意味でかはおいておくが。
「みなさんはこのクラスで四年間過ごすことになります。今日は初対面の人も多いと思うので、自己紹介をしてもらいたいと思います、ではまず私から。名前はさっきも言ったけど、アーツ・ハミントン。魔法科の教師をやっています」