ユキ
わたしは階段の前で立ち竦んでいる。今私が見ているものが過去のものだということを、わたしは知っている。そっと、まだ真新しい真っ白な手すりに触れる。
声がした。ユキの声だ。…わたしを呼んでいるのだ。
わたしは、目を閉じた。そっと階段を上り始める。
1.箱庭で遊ぶ子供
ぱたぱたぱたと慌てて此方に降りてくる音。小柄な少女が、満面の笑顔で、わたしを迎えてくれた。
笑窪がとても可愛らしい。
黒いチュニックに黒いボトムスを合わせて髪はショートボムとても可愛くてついわたしは髪をもみくちゃにしてしまう。当然彼女はむっとした顔をするが、気にはしない。わたしはいつもこれが楽しみなのだから。
黒目勝ちの目をくるりと輝かせるとユキはわたしに向かって過去何度もされた質問を飽きずに繰り返す。
「見つかったの?」
と。
何が?とはわたしは聞かない。何が見つかったのか彼女も口にしない。
わたしはにこりといたずらっぽく笑った。
「勿論、見つかったよ」
『…今日は、そのためにここに来たようなものなのだから。』
わたしは、心の中でそう呟いた。ユキはびっくりしたように目を見開くと俯いてしまう。
肩が揺れているからきっと泣くのを我慢しているんだ。
遅くなってしまってごめん…とわたしはまた心の中で呟いた。
ぎこちない仕草で彼女が入れてくれたコーヒーは案の定わたしには苦すぎた。わたしは何も言わずにそ知らぬ顔でミルクと砂糖をたっぷり入れる。落ち着かない様子でユキは何度も部屋をうろうろと歩き回っていた。
わたしにはちっとも懐かない愛猫のロビンもいつもとは違う様子のユキに戸惑っているようだ。嫌っているわたしには近づきたくないのにユキが心配で部屋を離れられないでいる。わたしは、ロビンに向かってお前も気苦労が耐えないな…。と、語りかけた。…ロビンは、意地の悪い黄色い目でじろりとわたしをにらみつけただけだったけが。ふんっと、真っ白な自慢の尻尾をくるりと身体に寄せるとロビンは顔を身体に埋めた。…どうやら彼は眠ってしまうつもりらしい。わたしは、苦笑してまだ部屋を落ち着かず歩き回るユキに目を移した。ユキは、わたしがそうしていると根負けすると知っている。けれど、今回だけは、そうするわけにはいかなかった。わたしには、時間が無いのだから。
「…ユキ…? 」
出来るだけ優しく聞こえるようにユキに語り掛ける。ユキはびくっと一瞬ゼンマイが切れてしまったブリキのおもちゃのように身体の動きを止めた。
「話を聞かないの?」
ユキは不安気にわたしを見つめた。既に小さな顔は、泣きそうに歪んでしまっている。わたしは、困ってしまった。…ユキにそんな顔をさせるつもりはこれっぽっちも無いのだから。
「そんな顔をしないで。…私は、見つけたけれど、それはユキが気にすることじゃない」
ユキはうろうろと視線を彷徨わせると根負けしたようでわたしの傍に寄ってきた。その様子が、臆病な黒猫みたいでわたしは、笑ってしまいそうになる。
ユキは、わたしが座っているソファーには座らずにユキが落ち着いたら途端にユキに飛びついた猫のロビンを抱いてふわふわの毛で覆われたクッションの上に座った。
…何処から話し始めようかとわたしは思いを巡らせる。そっと、ユキの方を見たら、ロビンがじろりとわたしをにらみつけた。
ユキの小さな顔がじっとこちらを見つめている。わたしは、ぼんやりユキと初めて会った日のことを思い出していた。
「時々はこちらに来て話をして行って下さい。私は、ここから出ることが出来ないから、けして逃げたりはしませんし、多恵さんの言葉をずっと覚えています。…私、どうやら年を取れない人みたいなんです。この場所から離れることも出来ないし、話し相手には多恵さんにとっても好都合だと思います。私は、貴方に会いに行くことは出来ないのだから、貴方が話したい時に話に来ればいい。」
そう言ってにこりと笑った。初めてユキと会ったのは5年も前だ。それから、ユキとは3度ほどこうして会ったが、彼女は実際全く変わってはいなかった。
初めて会ったのは、夏の暑い日。ふと全く何の前触れも無く、突然私は死にたくなった。ふと、それもいいかもしれないと、思えてしまった。
開け放した窓からは柔らかな風がそっと部屋の中に入り込んでいた。ばさばさと青いカーテンが風に揺れていた。
わたしは、その日から一切食べ物を身体が受け付けなくなった。突然、本当に何の前触れも無く、わたしは、この世界に興味を失った。
失った興味は、簡単には戻っては来なかった。日常生活を全く変わらず続けてはいたが、わたしは、生きる気力を突然なくしてしまった状態だった。食べ物は身体が受け付けず、笑うことも無くなった。友人や、会社の同僚や、家族は、そんな私の様子を見て、首を傾げた。病院に行くことを勧められたが、わたしは、それを拒み続けていた。突然世界は無味乾燥したものになってしまい、友人達の言葉でさえわたしの心には響かなくなってしまっていた。食べ物を全く身体が受け付けなくなった数日後、わたしは、意識を失った。
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次に目を覚ました時、わたしはユキに会ったのだ。目が真っ赤に腫れあがっていて、彼女は何度もわたしの頬を叩いていたらしく彼女の手は痛々しく真っ赤になってしまっていた。叩かれた頬自体に痛みは全く感じられず、わたしは突然見知らぬ少女に痛みを与えてしまったことにちくりと痛みを感じた。罪悪感のようなもの。感情をなくしていたわたしが久しぶりに感じた他人を気遣う気持ちがその時何故芽生えたのか、わたしにはその時分からなかったが、今ならそれが分かる。彼女はわたしにとってとても特別な存在だった。
彼女が、何故私にとって特別な存在になり得るのか。それは、とても簡単な理由。……私をこの世界に引き留めることが出来るのが彼女しかいなかったからだ。初めて彼女に会った時にそれを無意識に感じとった私の心の中のまだ生きたがっている部分がそれに微妙に反応したんだろう。
彼女と過ごした時間はとてもゆるやかで温かなものだった。ふと気がつくと自分が心からリラックスしている。自分にはちっとも懐いてはくれないロビンのイタズラに憤慨したこともあるが(彼は私にとってある意味天敵だった)最後には小憎たらしい彼を憎めないなぁと苦笑いして許してしまう。
彼女と過ごした時間はいつもぶつりと時折誰かが気まぐれに本のページを数枚破ってしまったかのように断片的になることが多かった。さっきまでケーキを食べていた私がいつの間にか湖の木の下に座り込んでいる。何処なのかも分からず途方にくれている私を彼女はいつも簡単に見つけだした。