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僕しか知らない恋の意味  作者: 久野悠花
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出会い

 僕は恋の仕方を知らない。

 

 よく「初恋はいつ」なんて訊ねたり話したりする人たちがいる。そんな時、大体の答えは「覚えてない」だ。

 それが本当に忘れてしまったのか、照れ隠し故なのか、真相は解らないし深く訊ねようとも思わない。しかし、時々幼少期だと答える人がいるが、僕はそれは恋愛とは言わないと思う。なんせ、小学生程度の人間が愛だの恋だのなど正確に判断できるわけがなく、十中八九憧れや高揚の勘違いだと思うから。だから僕は幼少期の『恋』を恋愛経験には数えない。

 なら中学生は?

 そこが曖昧なところだろう。だって、人によっては達観し大人よりも独り立ちした考えを持ち、人によっては未だに親から離れられずにいる。つまり、人によっては中学の『恋』も恋愛経験で、人によっては中学の『恋』も勘違い、だと思う。

 じゃあ、僕の初恋はどうなんだろう。 

 多分、誰よりも曖昧だ。

 幼少期に憧れたのも高揚したのも女の子が相手。まだ性に目覚めていないような青二才だったから、心の底から女の子が好きだったのかは、正直解らないまま。それでも、仲良くする相手はじっくり考えて、危ない人には近づかず、知らない人とは深くかかわらない。良く言えば慎重で、悪く言えば人見知りだった。

 そんな僕の『恋』はたったひとつだった。


 僕、鴻巣吏結は恋の仕方を知らない、だって、僕の最初で最後の恋は―――


 中学一年生の青二才の時

 学校一の問題児と、それも、


 同性相手に一目惚れだ


 だから僕は『恋』の意味も解らない。









僕しか知らない『恋』の意味


 彼に出会ったのはほんの偶然で、中学一年生の始まりの春のことだった。


 僕の通う京都にある私立の中学校は放課後に掃除があった。そのころにはもう部活も決まっていて、男子生徒の殆どが運動部。当然ながら掃除を嫌がり、サボって部活に行ってしまう。そのつけは同じ班の他の男子と女子に回ってきた。当然、部活に入っていない僕にも。

 僕はそれでよかったし、当然の事だと諦めていた。だけど、

「次サボったら顧問の先生に言うからね!!」

ある女子がそう言った。

 僕のクラスは特別掃除態度が悪く、それはサボる男子の事に限らず、サボって遅くなる位ならと渋々手伝っていた他の男子や一部の女子の態度も含めてだった。サボり率は上級生も含めて全6クラス中二位だそうだ。元から評判の良くはない学校だったが、このクラスは特別悪いと先生が嘆いていた程に、僕のクラスは素行が悪い。

 それを見かねたクラス委員の女子が帰りのSHRの時に言ったのがさっきの一言。

 学年始めだった事も災いして、当然、彼女の支持率は落ちた。

 残念ながら僕からもだ。

 部活に行くのが遅くなり、その上面倒な掃除もやらされる。運動部男子の不満はすぐに溜まっていった。

 普通なら最初のうちに慣れてしまえばどうってことないのに、一部の男子達は異常に順応能力が欠落しているらしかった。なかなか慣れない放課後掃除に辟易して、彼等のストレスは爆発寸前。ついでに件の女子は有頂天。自分の失態に気がついていなかったのだ。

 当然、一年男子が面と向かって本人に復讐などする訳もなく(そもそもこの程度が我慢できない時点でおろかだが)、その矛先は違う場所へと向く。

 例えば、クラス一と言っていいほど大人しい僕のところとか。

 最初は、掃除が終わって直ぐ、掃除用具や片付けを僕に押し付けて帰るだけだった。

 僕はそれで良いと思っていたし、女子も僕が大丈夫だと言えばありがたそうに逃げて行った。

 当たり前。そう思えば何ともなかった。

 面倒なことを人に押し付けるのは子供がよくする防衛手段。

 ついでにやってもらった方が早く終わると、自分の片付けを僕に押し付けて帰る女子もいた位だ。

 気がついたら、自分で最後までやるのは六人班のうち、僕と女子二人だけになっていた。

 ある日の朝のSHR前、実質三人で掃除をしている班の中で一番真面目な少女が僕に言った。

「今日は用事があるから掃除の事たのむね」

僕は大丈夫だと頷いた。

 これを聞いたらあの三人は掃除に来ないだろうと思いながら、僕はショート開始のチャイムを彼女と聞いた。

 申し訳なさそうに宜しくと念を押す彼女に手を振り返す、ちょっとだけ幸せな朝だった。

 

 アレは、そんな日のことだった。


 放課後のチャイムが鳴り、少し目が合った彼女が「ホントにごめんね」と手を振って帰っていく。それを見届けたすぐ後だった。

「鴻巣!!」

振り向くとクラスの問題児五人がいた。生意気にも新品のエナメルバックを肩にかけている。

「何?」

僕が訊ねると、彼等は顎でついてこいと言った。口で言った方が早いのに。

 仕方なくついて行った先は屋上で、そこには掃除用具が置いてあった。

「えっと……」

上目づかいに逡巡する僕に、彼等は吹きだしながら笑い混じりに言う。

「俺等も用があるから掃除宜しく~」

「はっ!?」

僕は思わず驚いた。それなら教室で話せばいい。

 風の吹く屋上は塔屋の影にいる僕には少し寒い。

「用事って、それなら…」

「部活に決まってんじゃん」

「いや、部活は用事って言うか…」

意外に口答えしてくる僕に気が障ったのか、違う班の子が足元のバケツを蹴った。

 それは少しコースを外れて僕のすぐ上の壁に当たって目の前に落ちる。乾ききっていなかったらしく、水滴が少し跳ねた。

 耳障りな音を立てて転がるバケツを見て、一人が笑いながら悪友を叩く。

「この至近距離で外すか?普通」

「いや、弾が悪かったんだよ!」

周りが一緒になって笑う。

 今までも何度かこういう、イジメ?みたいなものはあった。といっても、わざと肩をぶつけられたり、発表の時にいらない(おだ)てをしたりだ。こんなあからさまな事は初めてで、涙がにじむ。

 小学校の時は、もっと陰湿で軽かったのに。

「なに、鴻巣泣いてんの?」

「うっわ、女みてー!!」

元からそういう顔だ、何とでも言ってろ。

 いわれ慣れた言葉とはいえ、面と向かって言われると辛い。

 思わず俯いて唇をかんだ。入学して一カ月、早々にこんな目に遭うとは。

 同じ班の奴が箒を蹴り転がし、

「じゃ、宜しく!!吏結ちゃん!」

仲間と揃って下品に笑う。お前ら本当に中学生か。やる事が幼稚すぎる。

 そもそも、こんな事をやっている間に部活に言った方が早いだろ。

「あ?何か言った?」

 今までどおり心の中で悪態をついていたつもりが、どうやら口をついて漏れていたらしかった。

 何でもないと言おうとして頭を上げると、頬に湿った何かが跳んできた。地味に痛い。ついでに臭い。

「おっ、今度は当たった!!」

「ナイス!」

そうしてまた笑う。

 後ろの壁に当たって肩に落ちたのは、使い始め一カ月足らずの薄汚れた雑巾だった。何時も自分達が使っていた物だから、何かと悔しい。

 また滲んだ涙に調子を良くした一人が、他の雑巾をつかんでこっちに歩いて来る。

 何をする気かは明白で、喉がヒクついた。

 こんな事をするくらいならさっさと部活に行け。その方が絶対いいだろ。


 なんせ、僕らが知らないだけで、此処には第三者がいる。


 あっという間に手の届く距離に来た雑巾に、僕が身を固くすると、少し離れた所から男子の馬鹿笑いが聞こえる。

 悪趣味糞っ垂れ非行少年、この不良!!非行少年なら部活してないで繁華街でも行ってヤクザにケンカ売って臓器提供でもしてこい!!

 悪態を必死にこらえていた僕の耳に、五人の掛け声が聞こえる。

 それが「せーの」だったか「いっせいのーせ」だったか、大差ないけれど忘れた。

 だって、

「そんなことする暇があったらおうちに帰って勉強したら?」

彼が無茶苦茶かっこ良かったから。

 次の瞬間聞こえたのは男子の悲鳴と、「うわっ、汚い声~」という何とも酷い台詞だった。

 目を開けたらそこにはさかさまの黒髪があって、その向こうに汚い雑巾を張り付けた男子がいた。無様に尻餅ついて。

 他の男子が顔を真っ青にして口をパクパクしてる。

 なんせその時の彼はすごい格好だったのだ。

 塔屋の上には給水塔があって、両脇には鉄梯子がある。おそらくはメンテナンス時のためだろうが、誰でも簡単に上れるだろう。

 彼は柵もない塔屋の上に脹脛をひっかけ、僕に背を向ける様にしてさかさまにぶら下がっていた。言うならば鉄棒の技にあるコウモリだ。小学校の時にやった奴だから、技と言うと失礼かもしれないな。懐かしい。おまけに彼は腰と背中を大きく反っていて、それが僕にぶつからないようにだという事に気がつく。

 しばらく彼を見つめていた五人は、ふと我に帰り、顔を真っ赤にして怒りだした。

「テメェ、何しやがる!!!」

「キミ達こそ何してんのさ。こんなくだらない事のために僕の安眠を妨害しないでほしいんやけど?」

安眠妨害、彼が僕を助けた理由はその復讐だった。

 彼はコウモリの体制のまま口を走らせる。

「そもそも、部活部活言うけれど、既に部活開始時刻は過ぎとるよ?今はいかに遅刻時間を減らすかが重要じゃないかい?まあ、本当に部活があるならだけどね」

「んだとぉ!!!馬鹿にしてんのか!!?」

頭にきた一人が足元の箒を足ですくい、右腕で思いっきりスイングする。

 しかし、さかさまの彼は軽い声と共に腹筋の要領で回避した。

「馬鹿だねぇ。僕の逃げ場は上しかないんだから、追尾できるように下から揮うべきだよ。そしたら軌道修正を掛けられる」

そのまま淵に手を掛け、足を外して後転した。足を地面の方に垂らし、最後に捻じれた腕を離すと彼は軽い音と共に地面に着地した。鉄棒のコウモリ状態から地面に降りる時もこんな感じだった。

 つまり、彼は僕向きに着地したことになる。

しかし、僕はその時彼の顔が見えなかった。

 何せ、彼は向うに半身を捻っていたものだから。

「さて、僕はキミ達の立てた騒音と奇声のせいで昼の安眠を奪われたわけだけれども。キミ達はその事が理解できとるんかい?」

いたって穏やかかつ軽い口調。しかし、微妙に不機嫌そうなのは何故だろう。

 そして、あの五人の生徒がみるみる青ざめて行くのは何故だろう。

 ついでに、僕の脈がインフルエンザ以来最高速度になっているのは何でだろう。

 肌寒さが消えたのは?脚が震えてるのは?頬が熱いのは?

 答えは簡単だけど難しかった。

 何かを叫んで横のドアを開け放っていく男子生徒に僕が気がついたのは、彼が小さな溜息をついた時だった。

 そう答えは、

「まったく、近頃の男子はアホだね~」

 そう言って首を鳴らす彼が、馬鹿みたいにかっこ良かったからだ。

「あっ、あの!?」

「ん?なんで疑問形?」

僕の声に彼は冷静に首を傾げる。

 僕は黙って頭を下げた。

 何か言おうと口を開閉するが彼はそれで解ったらしく、適当に手を振って、

「良いよ良いよ、そういうの。僕は陽が当たって暖かいこの時間に安眠貪れれば十分やから」

と、塔屋の上に消えて行った。

 こういうのを何と言うんだっけ?ひとめぼれ?それお米じゃん!じゃあ『あきたこまち』…もお米。じゃあ、yes, fooling love?ずいぶんと古いネタだ。

 そんなこんなテンパりながらあいつ等が散らかした物を片付け始める。

 とりあえず飛んで行かないように軽いバケツを集め、一か所にまとめて置いておく。その次に箒を―――ガシャン―――まとめて立て掛け、とばされかけたバケツを拾いに―――バタン、コロコロ―――行ったその足で屋上から落ちる前に箒を助けに―――

「ああもう、うるさいわ!!!」

関西なまりの叫び声が響き、音もなく彼が跳び下りて来た。

 そして軽快な動きで箒を僕の目の前から救い出し、僕の手からバケツをひったくる。箒を頬と肩で挟み、開いた手で雑巾を拾うと、彼はそのまま塔屋に引っ込もうとする。

「あ、あの!!」

「教室戻るよ!キミうるさくて黙ってらんない!!」

「え?」

それって…… 

 僕が何かを言う前に、彼は塔屋の戸を閉めてしまった。

 僕は慌てて彼の後を追い、彼が上履きを拭くのに使ったと思しき雑巾で自分も上履きを拭き、それを持ったまま自分の教室に駆けこんだ。

 教えていないはずの教室に、彼がいた。

「まったく、とんだ馬鹿だね、キミ。虐められっ子の上ドジっ子とは…」

そう言いながら彼は掃除用具を一式だけ残し、他はすべて掃除用具入れに入れた。

 そして何も言わずに教室から出て行ってしまう。

「あ……」

それもそうか、さすがに手伝ってくれるわけがない。

 運よく自分の掃除場所は教室だし、適当にやって帰るか。

 なんて思っていたら、

「何やってんの?早く椅子と机廊下に出して」

「へっ?」

彼はバケツ片手に戻ってきた。

 僕は呆然として彼を見つめる。

 何を思ったのか、彼は溜息と共にこう言った。

「出せとは言い過ぎたね。まずは前に寄せようか」

「……」

黙って動かない僕に、彼は不思議そうな顔をする。

 改めて見る彼の顔はなかなか整っていた。

 鼻筋の通った端正な顔立ち、細切れで鋭い三白眼、口角の上がった薄い唇に綺麗な柳眉。男にしては白い肌と思ったより細い体躯。身長は170cm近くあり、寝癖なのか少し跳ねた髪は目に掛かるストレート。右寄りに分かれた前髪から覗く額はまだあどけなかったけれど、全体的に中学生とは思えない雰囲気の有る美年子だった。学ランを着ずに黒い羽織を肩に掛け、腕には黒い籠手があった。

 背、高いし、大人びてるし…先輩かな?どうしよう、何か言わないと。

「どうしたの?さっさとやんないと下校時間になっちゃうけど」

「いいえ!何でもないです!ただ、あの……」

 僕は思いっきり深呼吸をして、震える声で精一杯微笑んだ。

「あ、ありがとうございますっ!!!」

それからめちゃくちゃ申し訳ございませんでした。



 家に帰ってから結局、彼の事思い出しては悶えていた。

 我ながらどうしたこっちゃ。

 僕の初恋は男!それも先輩!?しかも一目惚れ!!?

 あ、ひとめぼれ、正解だったな。

 おまけに此処まで悶えているという事は、あの古いネタも正解だ。

 それにしても、同性の上級生に悶えるなんて……。かなり屈辱的だ。

 もう二度と、屋上には行かない。


 

 結局僕は睡眠不足と過労にフラフラで学校まで来た。

 朝ごはんのとき、母親に目のくまを心配されたがそれどころではない。

 足取り悪く教室に行くと、二つしかない一年生の教室の内、僕等の方が大騒ぎになっていた。

 と、言うのも……

「スゲー!!!窓に指紋が一つもねぇ!!」「私のロッカーにあったシール跡もないよ!!?」「掲示物も滅茶苦茶揃ってんじゃん!」「みて!!黒板使いづらい!!」「桟に溜まっていた砂埃まで……」「やべぇ、姑ごっこが出来ねぇ!!」

 

 教室丸ごと大掃除!! 


 二人でね。


 そう、僕は昨日、あの先輩に付き合わされ、この教室を大掃除させられたのだ。

 そりゃ、僕の掃除場所だし、教室だし……良い事には良いんですけど、なかなか綺麗好きの方らしく、ちょっと気に食わないとすぐ掃除しだす。

 先輩は帰って良いというのだが、上級生に下級生の教室を一人で片させるわけにもいかず、結局最後まで付き合わされた。

 完全下校時刻五分前には強制終了させ、どうにか校門をくぐれたが。

「誰がやってくれたの?」

という問いに、背中がこわばる。

 昨日先に帰った彼女がこちらを見るが、僕は首を横に振った。

 間違ってはいない。昨日掃除をしたのは僕というよりもあの先輩なのだ。

 思い出すとみるみる顔が赤くなる。変に思われないうちに席につこうとしたら、後ろから声が掛かる。

「鴻巣君じゃないの?」

彼女だ。

 背中をびっくりさせた僕に謝罪しながら彼女はこういう。

「だって、昨日掃除したの鴻巣君だけでしょ?」

「へっ?」

どうして彼女がそれを知っているんだろう。

 そう思っていたら、彼女は申し訳なさそうに続けた。

「だって、他の人たちがやってくれる気がしなくて…。それともみんなやってくれてた?」

僕は返事に困った。此処で頷けば、間違いなく昨日の二の舞になる。

 ニッコリ笑って僕は、

「みんなやってくれたよ。僕も少し驚いてる」

嘘をついた。

 鐘が鳴り、感嘆の声を上げながら先生が入ってくる。

 先生曰く、この学校に来た時よりも綺麗になったらしい。

 先輩、ありがとうございます。

 斜め前の席の彼女がちらちらとこちらを見る。僕は作り笑いで応えたけど、きっと苦笑いになってしまっただろうな。


 四時間目は移動教室で、給食当番では無い僕はゆっくり廊下を歩いていた。

 おなかすいたなぁ、何て考えている僕に昨日の五人が駆けよってくる。

「おい、鴻巣。お前昨日何したんだよ」

「まさか、あいつに手伝わせたのか!?」

「へっ?」

なかなかの剣幕に僕は肩をすぼめた。そんな顔しなくても良いじゃないか。それもあいつって…。

 疑問が顔に出たのだろう。一人の男子が声を顰めてこう言った。

「いいか、あいつにはぜってぇ関わるなよ!!」

「へっ、何で…!!」

「あ、僕もそれ知りたいな~」

ぎゃぁぁ!!僕も含め男子六名の悲鳴が廊下に響き渡る。先生や他の生徒が怒る前に大変驚いた。申し訳ない。

 声の主は僕のすぐ後ろで、耳元に顔を添える様にして微笑んでいた。

 一瞬で脈が上がる。

 昨日お世話になったあの先輩は、笑うと賢い狐みたいだった。

「やぁ、虐められっ子君」

僕等は口をせわしなく開閉して訴えた。どうしてここに。ちなみに、僕だけ意味合いが違う。

「どうしてって、呼び出しをくらったからだよ、先生に」

貴方は人の心が読める妖怪なんですか!?全力でそう問いたかった。

 それから、耳元で喋られるとかなりヤバい。

 どうやら僕は、本気でこの先輩が好きらしかった。

 彼はゆったりと五人を見渡し(見降ろし?)、僕に訊く。

「仲良いの?」

僕は全力で首を振った。 

 近くで見ると、彼は本当に背が高い。150cmしかない(伸びる予定ならある)僕にはとてもうらやましかった。

「ふぅ~ん」

彼が平坦な声で呟くと、五人は青ざめて逃げていく。

 彼はくすくすと笑った。

「ありゃりゃ、怖がられたもんだねぇ」

「先輩、強いですから」

「ん?そうかな…、って、先輩?」

彼がキョトンと目を丸くする。意外とあどけない表情にキュンと来た。かなり悔しい。

 僕はゆっくりと彼の表情と言葉を吟味し、口を開く。

「僕、一年生だし…」

「僕も一年生だし?」

うそ

 だって、背はとっても高くて、顔は大人びていて、口は達者、僕の隣で(後ろで?)廊下を歩くさまも三年生より堂々としている。

「一年生?」

「んぅ?上級生に見えた?」

僕は必死に頷いた。

 彼は愉快そうに笑う。

「酷いなぁ。僕もピッチピチの十二才だよ?」

信じられるかぁ!!!

 誰がどう見ても高校生くらいある。

 言われてみれば幼い顔をしているし、声も少し落ち着きのない子供の物だ。だけど、この男を初見で中学一年生と見破れるものなどいないだろう!!いたら僕は全力で称賛する。

 慌てる僕を見て、彼はくすくすと笑った。

「おもしろいねぇ、キミ。表情がころころ変わって、飽きがこうへんわ」

僕の顔は今真っ赤だろう。なんせ、かなり恥ずかしい。

 俯いて堪えていると、彼は横に並んで顔を覗き込んできた。

「昨日聞きそびれとったんだけどさ、キミ、名前は?クラスは隣でしょ?」

僕は頷く。

 そこで気がついた。彼が僕の教室に迷わず行けたのは、同じ学年の違うクラスだからだ。一学年二クラスしかないこの学校では、同学年他クラスは一つしかない。

 彼の顔をまじまじと見つめ、僕はぼそりと自己紹介。

「鴻巣、吏結…」

「こうのす君?埼玉県の?」

僕は頷く。ちなみに僕の出身は神奈川で、母の出張で京都に越してきた。埼玉県鴻巣市とは一切関係ない。

 彼はそんなことは知らず、名前の方に注目を移す。

「りゆは?可愛い名前だけど」

「えぇと…りは歴史の史に棒が一本付いたやつ」

「警吏とか官吏とかの吏だね。役人って意味がある」

「たぶん、あってる」

僕は曖昧に頷いた。間違っていたとしても、漢字なら後で書いて教えても良いのだ。

「ゆは?」

「結ぶっていう字」

「こっちは簡単だね」

これにも頷く。自分の漢字の説明が此処まで難しいとは思ってなかった。

 彼は前を見つめ、ぼんやりと呟いた。

「良い名前だねぇ」

「そうかな?女々しくて、僕は好きじゃない」

「いいんじゃない?良く似合ってるよ」

何処がだ。心の中で悪態を吐く。

 でも心の中では名前を褒められ、嬉しくて脈がうるさい。相手は男なのに。

 彼は僕の気も知らずにからかうように続ける。

「発情期前みたいな高くて甘い声とか、小さくて可愛い見目とか、良く似会ってると思うなぁ」

脛を一蹴り。

 さすがの彼もびっくりして涙目だ。

「ヒドイ!褒めとんに!!」

時々出てくる関西訛り。いったい彼は何処の出だろう。

 そもそも、彼の名前は何なのだろう。

 そう思ったのが通じたのか、彼は微笑んで名乗った。

「僕は十戒だよ。烏哭十戒」

「う、こく…」

とても変わった名前だ。そして、どこかで聞いたような…。

「字はね、かなり簡単。十の戒めで十戒。安直だろ?」

「そうかな」

普通、子供に付ける名前じゃない。だって、――――――

 僕は考えるのをやめた。何と無く彼に失礼な気がした。

 横目で見ると、彼は優しく微笑んでいた。

「烏哭はね、烏が哭くって書くんだ」

「なく?こくって読むっけ?」

「読むものもある。『なく』という字はいろいろあるからね」

彼はまた微笑んだ。

 彼は足を止める。

 教室の前だった。

「縁を結ぶ役人、か――――――」

「……へ?」

彼は、静かに目を細めた。

「良い名前だねぇ」

もう一度呟いて、彼は華やかに微笑む。

「じゃあね、吏結君!」

「へ、うん、また、ね……、っ!!?」

頭が沸騰する。

 何故最初から下呼び!?


 強く聡明な狐みたいな少年。

 話しているだけでも彼がどんな人物なのか、少し解る。

 芯が強く、博識で、とても達観した掴みどころのない陽気な性格。

 一目惚れした僕に言わせれば、顔もかなり良い。

 女子の言うところの高物件ではないだろうか。



 それ以来彼はよく話しかけてくるようになった。

 と言っても、廊下で見かけたときとか、雨が降っていて屋上で眠れない放課後とか。そんなに回数は多くなかった。

 彼を見るだけで動揺してしまう僕は自分から話しかけることをしなかったし、廊下で会った時は挨拶をする程度。話す回数も量も、少し寂しいくらいには少なかった。

 僕にとっては話しが出来る数少ない友人―――といって良いのかな―――だし、やっぱり、好き、みたいだから、もっと話しがしたかったけれど。

 彼はそうでないのか、放課後も少し話して帰ってしまう。

 彼と会話した後の雨の帰り路は、とても、寂しかった。むしろ晴れの放課後の方が心が軽いくらいには。

 晴れの日の放課後の屋上に行けば十中八九会えるのだけれど、初めて会った日の事を考えると行くのは気が引ける。

 なんせ、彼が僕を助けた理由は「安眠妨害の逆襲」だ。わざわざ安眠妨害してまで話しかける気にはなれない。

 彼ともっと話しがしたくて、でも会いに行くのは気が引けて…。

 胸がむかむかするある晴れた日のことだった。

 その日の三時限目は体育で、体力テストをやることになっていた。外でやるのはこれが初めてで、今日はハンドボール投げと50m走だそうだ。

 僕等の学校は実に生徒数が少なく、一クラス二十五、六人。一学年六十人足らずだ。一クラスにまとめるには多く、二クラスに分けるには少ない、面倒臭い人数のこの学校は無駄に広いグラウンドを持つ。そのため、体育は一学年二クラスが合同で行い、体育館も一階剣道・二階柔道の武道場もグラウンドも使い放題だ。

 そのため、僕等の学年では男女に分かれて授業をしている。僕等の、と言いつつ、三学年ともそうなのだが。

 昨日までは僕等男子が体育館での測定を、今日からはグラウンドでの測定だ。

 ぽかぽかなお日様のおかげで今日は温かだが、曇りの日は最悪。なんせ、春も終わりの今、ジャージの使用が禁止されている。おかげで半袖短パンで春の体育館を味わう事になった。

「今日は晴れてて良かった…」

思わずそう呟いたのは僕だけではないだろう。

 グラウンドに出て大体の整列位置に行き、登校にも使っているスニーカーの靴ひもを結び直す。僕は指定通り白が基準の色なしの物を使っているが、周りを見ると早々に華やかな物を使っている生徒も多かった。

 実に乱れた一年生。

 こっそり溜息をついた時、始業のチャイムが鳴った。

 僕等の体育教師はなかなか適当で、開始の挨拶をすると、

「各自ストレッチをしたら三週ランして集合」

と言って生徒に行程表を渡し、丸投げする。ランは校庭を三週、しっかりやるのは僕の他に十人もいない。

 とりあえず何時もどおり一人でストレッチをしようと、他の人たちが偶数人で集まるのをよそに端に行く。

 すると、

「なぁに、キミ、クラスでもハブられてんの?」

「ひゃあ!?」

聞き慣れた声に慌てて後ろを向く。

 みんなの注目を集めて彼が昇降口からやってきた。

 しっかりと体育着を着て、しかし籠手はそのままに。

 皆が驚いた顔をする。

 当たり前だ、彼が体育の授業に出るのは初めてなのだから。

「うわ、さむ」

彼はグラウンドに足を踏み入れて第一声をそれにした。

 籠手に包まれた手で外気にさらされた真っ白な腕をさする彼は、僕の方にテトテトと歩いて来て、

「ストレッチって二人でやるもんでしょ?」

と隣に立った。

 瞳を細めて微笑む彼に思わずキュンと来て、頬が赤くなる。

 それにしても寒そうだ。思ったより寒がりなのかも。

「チャチャッとやろう。どうせ三週走るんでしょ?」

「う、うん」

僕の返事を聞いてか聞かないでか、彼は適当に準備運動をすると、僕に座るように指示した。

 長座の姿勢を取った僕の背中を、彼の手がゆっくり押す。彼は間延びした声で十のカウントを取った。

 やっぱり、指、細いんだな。

 そう思っていたら最後の三秒が一瞬で消えた。思いっきり押されて腰が悲鳴を上げる。

「痛いじゃないか!!」

「いや、キミ硬くてさ、つい」

彼は楽しそうに笑った。

 意地悪な笑顔は、何時もの大人びた微笑みとは違い、キタキツネのような愛らしさがあった。

 やはり彼もまだ中坊だ。

 悔しかったので開脚をとばし、彼に前を譲る。

「そう言うキミはどうなのさ!」

「ぅん?」

彼は座るや否や、首を傾げて身体を折った。

 他の男子があっけに取られて彼を指さす。

 彼は大変柔らかかった。

 僕は行き場のなくした手を痙攣するようにヒクつかせる。太腿とくっついたお腹が想像以上に細かった。

 彼は上半身を脚にくっつけた状態から開脚していき、白い体育着を地面にべったりとくっつける。ぴったり?いや、べったりだ。

 そして最後にはその足を180度に、そこから一気に360度まで動かす。

 僕の足元で踝をそろえた細っこい脚に、皆が揃って思う。

「こいつ、男じゃねぇ」

 真っ白でほっそりとした足を片方だけ折り、頬杖をついた彼は僕を見上げた。

「ほら、僕、柔っこいやろ?」

ふんわりと微笑む。

 強くて賢くい彼は、頭も体も柔軟で、あざとかった。

 立ち上がって砂を払いながら、彼はトラックに向かう。

「さっさと走るよ。メンドイから二週ね」

「え、うん」

僕は慌てて彼に並ぶ。

 隣を走る彼は、その細い身体からは想像できないくらいには綺麗なモーションで走った。僕に合わせているとはいえ、かなり軽い調子で800mを走る。

 走り終わると彼の白い肌はほんのり上気していて、それが妙に色っぽい。

 やっぱ、中学生には見えなかった。

 生徒の輪から一歩下がって体育委員の話しを聞く。

 呼ばれた人は50mを走り、それ以外の人はハンドボール投げの練習。

 彼と二人でキャッチボールだ。

「細っこいのに、腕力もあるんだね」

「んぅ?」

 彼の投げたボールは誰よりも遠くへ飛ぶ。まだまだ余力もありそうだ。

 彼と位置を代わり、今度は僕が投げる。ボールの流れは一方通行だ。

 平均飛んだかどうかの僕に、彼は言う。

「投げるのに腕力はいらないよ。この種目、要は技術力だから」

「そうなんだ」

「腕力があって出来るのは、重い物を持ち上げること。筋肉マッチョだからって、投球が早く遠いとは限らない」

彼は僕に球を手渡ししてそう言った。

 手の平より大きなそれを弄ぶ僕に、彼は耳打ちした。

「僕呼ばれたから、なんだったら見てて」

体温が上がる。

 彼の出席番号は二番。本当なら最初から待っているべきなのに、わざわざ僕に付き合ってくれたのかな。ランの時には僕を内側にしていたし、彼は案外紳士的なのかもしれない。

 ハンドボール投げ組から少し離れてトラックにある100mコースを見る。僕だけじゃない、他の男子も見ていた。

 それはそうか。

 問題児達に訊いた。何でも彼は、この学校一の問題児らしいと。

 そんな彼が今まで参加しなかった体育で体力テストの定番、50m走を走る。

 強弱がハッキリわかる競技だし、彼の力量を測るには丁度いいのか。

 体育館からは誰が教えたのか、数人の女子が覗いていた。

 僕のクラスの二番はこのあいだの五人衆の一人。僕とは違う班だが、運動神経が良いのは知っていた。

「お前走れんのかよ」

そう言った相手に、彼はスタブロの調子を確かめながらサラリと言った。

「走れば解るよ」

 そりゃそうだ。

 舌打ちした相手とならんで、彼はスタブロに足を掛け肩を前に出す。

 陸上部じゃないのに、その姿勢だけで速そうに見える。

「位置について、よーい…」

細い腰がスッと上がり、白く長い脚が少し伸びる。

 雷管の音と同時に彼は走った。

 簡潔に言おう、話しにならない。

 だって、

 彼は運動部の相手よりはるかに速かった。

 何人かの女子が頬を赤くしてた。僕もすごく脈が速くて苦しかった。

 やっぱり彼はかっこいいよ。

 走り終わった彼はタイムを聞くでもなく、テトテトと僕の所に来た。

「威張ってるやつほど負けるものなんだよ、この世の中。それに僕としては50mより100mの方がしっかりとした雌雄が出る」

「しゆう…?」

僕は聞き慣れない言葉に首を傾げた。

 彼は微笑んで説明してくれる。

「オスとメスの事。強弱という意味合いもあってね、この場合はそっちだ」

感心する僕に彼はつづけた。

「50mだと加速が入らないし、モーションが完全に立ち上がる前にゴールしてしまう。僕や彼みたいに加速が遅く前傾姿勢期間が長めの選手は100mの方が得意なんだよ」

「へ、へぇ」

そう言いながら、彼は僕からボールを奪った。

「キミは何番?」

「へっ、六番だよ?」

「思ったより遅いね。それともコだとそんなもの?」

僕は頷いた。クラスにもよるが、カ行は大体一桁の後半だ。

 彼は投球ラインに立つと、僕が下がりきるのを待ってからゆっくり球を投げる。軽い調子なのに、彼の記録は府平均を軽く超えていた。

「運動神経良いんだね」

「んぅ?ああ、そりゃまあね」

「?」

彼の家族にアスリートでもいるのだろうか、彼は運動神経が良いことが当たり前だと頷いた。

 しかし、スポーツニュースを確認してから登校する僕は彼と同じ姓を持つ選手は聞いた事がない。

 僕は思い切って訊いてみた。

「御家族にスポーツ選手でもいるの」

彼の放った球が軌道を逸れ、僕の左側を跳ねて飛んでいく。慌てて追いかけて他の子に取ってもらった僕に、彼は曖昧に微笑んで答えなかった。

 家族の話しはきっとタブーだ。僕は一つ学んだ。

 少し悲しいが、何か事情があるなら無理に訊ねるべきではないだろう。僕は黙って彼の横顔を見た。

「吏結君!!」

彼が名前を呼ぶ。

 突然のことにびっくりして肩を跳ねさせる僕に、彼はトラックの端を指さす。

 体育委員の少年が大きな声でこう言った。

「六番!!鴻巣だろ!!」

僕は顔を真っ赤にして大急ぎで走っていった。

 走り終えた僕に彼は笑いながらこう言った。

「キミ、あそこに向かう時の方が早かったんじゃない?」

「………」

僕はそっぽを向いて彼の言葉を無視した。

 僕だってそう思ったさ。

 二人並んでボールも投げずに話しをする。

 事実上のサボりだが、たまにはこういうのも良いだろう。

 ボールを弄んでいた彼が言う。

「キミのところは仲良いのかい?」

「へっ?」

聞き返してから、家族の事だと思いいたった。

 僕は少し悩んで小さく頷く。

「多分、良い方だと思うな。ご飯はみんなで食べるし、会話も顔を合わせればするし」

彼は黙ってボールを弄ぶ。回転をかけて上に放り、そのまま人差指に乗せて重心を維持する。彼は器用だった。

 僕は訊いてみた。

「キミのところは?」

彼は答えなかった。

 もともと気がつかれなかったらそれで良いや位の小さな声だったから、もしかしたら聞こえなかったのかもしれない。なんせ、周りは騒がしい。

 しばらく無言のまま隣に立っていたが、不意に彼が隣からいなくなった。

 機嫌、悪くしちゃったかな。

 チクリと胸が痛む。

 顔をあげて周りを見渡すと、チョイチョイと手招きする彼がいた。

「記録とるよ」

彼の言うとおり、体育委員と先生がハンドボール投げの方に来ていて、メジャーを伸ばしていた。

 トップバッターの子が投げる。

 ウチのクラスの子はそこそこの記録だったけど、彼のクラスの子は横にずれた挙句、記録も低かった。

 一人が二回投げて次の人に回る。

 彼はボールを持ちなおし、僕の顔に口を寄せて囁いた。

「凄いことするから、ちょっと見てて」

息のかかった頬が熱い。

 少し離れた彼はニッと口角を上げた。

 既に彼をライバル視しているウチのクラスの二番が先行してボールを投げる。府平均を優に超え、その子のボールは30m近くでバウンドした。

 彼の視線はそれを認めない。

 何をする気だろう。

 その場で肩廻しやストレッチを始めた彼に、周りがざわめく。

「やけに気合入ってんな」

先生も楽しそうにそう言った。 

 彼は肩と肘と腰を重点に準備を整えると、ボールを弄びながら息を整える。

 みんなの視線の中央に君臨する彼が、僕の瞳を見て微笑んだ。

 そしてその笑顔が消えると同時、彼は綺麗な助走とフォームでボールを放った。

 誰もが息を呑む中、遠くでパスンと音がする。

 彼の放ったボールはグラウンドの向こうの網に引っ掛かり、そのまま地面で大きく跳ねた。

 グラウンドの四方を囲むネットは二階相当の高さを持つ。田舎の学校だからそんなに周りの敷地に配慮する必要はないのに。

 トラックの内側、端の方から投げた彼は、100mは離れているだろう向かい側のネットに見事ボールを届かせた。

 体育館から、グラウンドから、歓声がワッと広がる。

 苦笑いの彼はもう一つのボールを受け取り、高く指さす。

「次は場外ホームラン!!ちゃんとやっちゃる!!」

彼は僕に向かってそう言った。

 そして、本当に彼のボールはネットを越えた。

 湧き上がる歓声の中、彼はボールを追うように駆けだした。僕もそれを追いかけた。

「すごい、凄い凄いよ烏哭君!!!!」

僕が追いつくと、彼は僕に足を合わせる。

 学校を出ると彼は先に走っていき、草原に転がっていたボールを拾った。

 ネット傍まで来ていた連中が興奮して訊く。

「すげぇ、烏哭って運動神経いいんだな!!」

「何かやってた?野球とか」

そう言えばこの子たち、野球部だったな。

 彼はネット際まで行くと、彼等の質問に答えながらボールを真上に放った。

「何にもやって無いよ。天性の物とも言いやしないけど」

彼が全身を使って投げた球はネット際で放物線を描き、グラウンドに落ちて行った。

 僕の方を見て、彼は笑った。

「出来たでしょ、場外ホームラン!!」

 初めて見る笑顔だった。

 元からにゅっと上がっていた口角をズル賢そうに持ち上げて、胡散臭く広がった笑み。まるで作り笑いのような笑みだけど、これが彼の素の笑顔なんじゃないだろうか。

 子供らしく高揚した声と頬が、やたらと可愛く見えた。

 此処にませた子狐がいる。

 校内に戻りながら彼は言う。

「キミ、初めて僕の名前呼んだね~」

「へっ?そう、かな?」

「んぅ」

彼は独特の声で頷いた。

 そう言えばそうかもしれない。

 盗み見た彼の顔は、ほんの少し嬉しそうで、僕も照れくさくなった。


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