第七歩
イェルハルドは怯える彼女に一つの約束をした。
それはとても単純で簡単なことだ。
いつでもエディエット=マーヤの傍にあること。
一度は彼女から離れようとしたというのに、もうそれは許されない。
昼食の時間はもちろん、講義と講義の間の時間も、寮から校舎、校舎から寮までの短い時間も全てイェルハルドが傍にいれば不愉快な視線に煩わされることもないだろう。彼女との将来を夢見ている友人たちからすれば彼女の横に男性がいることに不愉快を感じるだろうが、その男性が婚約者のいる身であるイェルハルドであるならば杞憂に終わる。さらには彼女を狙う男性への牽制ともなる。
事実として彼女と一緒に過ごすようにしてから、どれほどの怒りに似た視線を浴びるようになったことか。
鋭く冷たい視線や忌々しげに吐き出される舌打ちが、彼女一人が今まで浴びてきた屈辱の数を示している。
イェルハルドは彼女が苦痛から目を逸らすたび、イェルハルドへの感謝の気持ちをその眼差しで表してくれるたび、彼女を守るという思いをいっそう固めるのだった。
「でも、エーヴァ様がどう思われるかと思うと」
自分の身に理不尽に降りかかる火の粉を払うことよりも他者を心配する彼女は、なんと心優しいのか。それに比べて頃全く顔を合わすことのなくなった婚約者を、イェルハルドは苦々しく思い出した。
別段お互い相手を好いての婚約ではなかったが、それでも友としては最高の部類に入る彼女をイェルハルドは尊敬していた。公正明大にして清廉潔白。どれほど多忙でも学業を疎かにすることなく探求心に溢れている。その性格を表すような容姿は人に冷たい印象を与えるが、付き合いの長いイェルハルドは彼女が動物好きの優しい女性だということを知っている。
まさに友人としては非の打ち所がなかった彼女だったが、最近の彼女の行動には眉を顰め、彼女に向かう足は遠のく。
驚くことにエディエット=マーヤを付け回していたのはエーヴァの友人たちだったのだ。
彼女彼らが単独行動でエディエット=マーヤをつけ狙っていたのならイェルハルドもエーヴァの仕業だとは思わなかったことだろう。だが彼らはまるで連携でもしているかのように重複することなくエディエット=マーヤを凍てついた瞳でのぞき見る。こうなると連携しているかのようにではなく、まさしく連携しているのだ。その指揮を執るのは間違いなく、彼らの共通する友人であるエーヴァとなる。イェルハルドの婚約者であるエーヴァ本人が前にでてくることは決してない、非常に用意周到な行動といえよう。
なぜ正義を掲げる彼女が愚行を犯し続け、一人の心優しい女性を苦しめようとするのか。
イェルハルドは何度か諌めようとしたが彼女は聞く耳を持たず、話す前から手で遮られる。それどころか己を正しいと信ずる彼女からいわれのない苦言を受け、蔑んだ目を向けられる。正しいことをしているというのにイェルハルドに向けられる冷え切った眼差しが不愉快極まりなく苦痛だった。
足が遠のくのも無理はないと自分自身を擁護するようになるのに時間はかからなかった。
だからこそ、彼女を守らなければ。
分別のない婚約者から彼女を守ることができるのは、婚約者に唯一対抗できる力のある自分しかいない。
震える肩を抱き寄せるたび、イェルハルドの決意は固くなっていった。
それでも婚約者の嫌がらせは終わらない。
今までは口を閉ざしていた友人たちまでもがイェルハルドに苦言を言うようになったのだ。
ここまでくると鈍いイェルハルドでもわかってしまう。
あの感情のない婚約者は実のところ己の婚約者に対して並々ならぬ執着を見せているのだということを。
なるほどそれで合点がいく。
気の置けない友人くらいには思われていたはずが無表情の下に他者を貶めても平然としていられるほどの感情が、はっきりといえばイェルハルドを愛しているからこそ、そして彼女が持ち合わせていない女らしさ、謙虚さを持つエディエット=マーヤに対して歪んだ行動を起こさせるに至ったのだ。
なんともまあ、普通の女よ。
誰が清廉潔白、何が公正明大。
尊敬していたエーヴァは、実はどこにでもいる嫉妬に狂った浅ましい女だったのだ。
イェルハルドはこの頃よりエーヴァを見るたびあからさまに顔を顰めるようになった。
そうして決定的な事件が起きる。
ある日の夕刻のこと。
その日は午前で講義が終わり、いつものようにエディエット=マーヤを寮まで送り届けるとイェルハルドは独りで図書室に籠っていた。
気が付くと窓から入り込む日差しは色を帯び、図書室にはイェルハルドを除く学生は皆無となっていた。
しかたがない、戻るか。
閉室間際まで居座ってしまっていたようだ。
読んでいた本を持ち抱えると、イェルハルドは図書室を後にした。
誰もいない校庭は夕暮れの陽ざしの中、奇妙な静謐さをはらんでいる。
あともう少しでこの場所ともお別れかと思うと、なにやらしみじみした気持ちになるから不思議なものだ。
思わず立ち止まって感慨深げに立ち並ぶ校舎を見渡した。
すると実習棟から誰かが足をもつれさせながら一心不乱に駆けてきた。
宵の入りは人も獣も樹々でさえ判別しづらい。
イェルハルドは目を凝らしてその人を見ると、驚いたことに寮に送ったはずのエディエット=マーヤだった。
なぜ、と疑問に思いながらもだんだんと近づくにつれ彼女の異様な姿に衝撃を受けた。
彼女は乱れた衣服を両腕に閉じ込め、髪を振り乱し、恐怖に歪めた顔をして必死で何かから逃げているようだった。
どう見ても尋常ではない。
いや、彼女の衣服の乱れで何が起こったか推測に容易いが、衝撃的すぎてイェルハルドは動くことができない。
そうこうしている間にイェルハルドの横をエディエット=マーヤが通り過ぎようとする。
普段の彼女からは考えられないことだが、虚ろな瞳にはイェルハルドどころか何も映してはいないのだろう。
イェルハルドは彼女の腕をなんとか掴んで、声を掛けた。
「エディ? どうした」
ひ、と短い悲鳴が上がり、恐怖に瞳が見開かれた。
イェルハルドは愕然とした。
彼女からそんな目で見られたことはなく、また彼女をこのような目に合わせた誰かがいたことに猛烈な怒りを覚えたからだ。
「エディ!! そんなに怯えてどうしたというのだ!」
「い、イェルハルド、さま」
つい怒鳴ってしまったが、それが効いたのか彼女はイェルハルドを認識して一瞬の安堵を見せた。
優越感に浸っても誰も文句は言えないだろう。
恐怖で我を忘れていた人間が名を呼ばれたことで安堵を覚えるなど、余程頼れる相手にしか見せないのだから。
「こ、怖い、怖い、……助けて」
震える手をイェルハルドに伸ばし、流れる涙で濡れ続ける顔を上げて救いを求める。
その愛らしさといったら。
イェルハルドはこんな非常時に自分は何をと思いつつも下半身に熱が溜るのを自覚した。
だが今はそんな時ではない。
尋常でない精神力を必要としたがイェルハルドは自分の欲望を抑え込み、怯える彼女を安心させようと上着を脱いで細い肩にそっと掛けた。
「もう大丈夫、大丈夫だ。誰も追いかけてきてなどいないし、ここには誰もいない。
ああ、震えているな?
むこうで温かい飲み物を用意しよう。
さあ、私に寄りかかれ。そう、そうだ。上手だな。ほら、私の腕を肩にまわすぞ。そんなに怯えるな……怖くはないだろう?」
ゆっくりと背中をさすりながら心地よく聞こえるようにわざと低めの声で話しかける。
こくこくと首を上下に動かして、エディエット=マーヤがイェルハルドの胸の中に顔を埋めると、イェルハルドはあたりを見回した。
午前中に講義がはけた校庭には、もちろん誰もいるはずもない。
だが彼女が何かから逃げてきたことは明白だ。
イェルハルドは薄暗くなり人の判別がしにくくなる校庭を睨みつけた。
「こわ、い」
泣いているのだろう。
じんわりと胸のあたりが濡れていく。
イェルハルドはぎゅっと肩を抱き寄せて、もう大丈夫だからと声を掛けながら歩き始めた。
向かった先は学生会室だった。
通常であれば救護室に連れていくべきだろうとは思ったが、エディエット=マーヤの乱れた姿を誰にも見せたくなかったことと、見た目の割に怪我をしておらず手当する必要がないこと、そして安心させるには落ち着ける場所のほうがいいだろうという点で学生会室が相応しいだろうと判断したためだ。
何に怯えているかわからない彼女が狭い空間で男と二人きりになることを防ぐために少しだけ扉を開いたままにした。
エディエット=マーヤは泣きじゃくりながらも進められるがまま椅子に座り、身体を縮こまらせて震えていた。
逃げる様子もないエディエット=マーヤに服の乱れはあるものの最悪の事態ではないことにほっと胸をなでおろした。
もしそうならば会った時点で拒否をされているだろうから大丈夫だろうとはわかっていたつもりだったが、エディエット=マーヤのあまりの恐慌ぶりに同調してしまい冷静な判断がなされなかったのだ。
事務処理で籠りがちになる役員のために自炊ができるようになっている学生会室で、イェルハルドは震える体が温まるようにと早速ココアを練り始め、熱いミルクを注いだ。
甘い香りが部屋に立ち込める。
俯く顔の前にカップを差し出すと、彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて両手でカップを受け取った。
熱いカップに恐る恐る唇をつけ、ゆっくりと傾けていく。
まだ指は震えている。
同じ動作が繰り返されるたびに指の震えはなくなっていった。
「少しは落ち着いたか?」
安らぐ言葉を探してみても在り来たりなものしか思い浮かばない。
イェルハルドは己の口下手さを大いに嘆いた。
「……美味しい」
微かだが先ほどまでとは明らかに違う声色でエディエット=マーヤは呟くと、おもむろに顔を上げた。
「何も、聞かれないのですね」
「エディが落ち着いたら何があるか教えてくれるとわかっていたからな」
「……ふ、そういうものですか?」
「私は学生会会長だから、校内で起こったことはすべて知る必要がある。
明らかに何かあったと分かる姿で校庭を走っていたのだ、貴女から話をしなければ問いたださなければならなかったが。
もちろん、教えてくれるのだろう?」
柔らかな眼差しと口調は、強制ではありつつもその印象を薄くする。
聡明な彼女のことだ、小手先の優しさが必要だとは思わないがそれでも心証が違ってくるには違いない。
現に感情が抜け落ちた顔をイェルハルドに向けていた彼女がくしゃりと顔を歪ませて俯き、必死で何かを抑え込むように肩を震わせている。
ああ、なんといじらしい。
そして、なんと彼女の素晴らしいことか。
誰もが挫ける試練をいつも彼女は独りで立ち向かい勝利する。
苦しいと言わず、辛いとも言わず、努力をひけらかさず、それどころか逆に隠そうとさえする。
イェルハルドは感嘆し、敬服するしかなかった。
だが彼女が放った次の言葉はこの状況下でなければ到底信じられないようなものだった。
「わたくしは、階段から突き落とされたのです――――エーヴァ・ヴァクトマイステル様に」
うそだ、と喉元まで出そうになった言葉を飲み込んだ。
いくら嫉妬に狂ったからとはいえヴァクトマイステル家を誇りとしているエーヴァが人を階段から突き落とすという犯罪を、一歩間違えれば当たり所が悪く大けがを負うかもしれないようなことをするわけがない。
理性はそう告げていても、先ほどの恐慌状態を見せつけられれば疑う余地はないだろう。
そもそもエディエット=マーヤが嘘をつく必要性がない。
だが、
「なぜ」
エディエット=マーヤが階段から突き落とされたと言えばそうなのだろうが、エーヴァではなく他の誰かと見間違えた可能性もある。
そうエディエット=マーヤに問うと、信じられないとばかりに目を大きく見開き、その眦にみるみる間に涙を盛り上げ、頬を伝わせ床を湿らせていく。
恐ろしい目にあったばかりの彼女を余計なことで悲しませた罪悪感で胸が苦しくなった。
「イェルハルド様はわたくしが嘘をついたとお疑いですか?
ですが間違いなくわたくしは階段の上で突き落とされたのです。
以前からエーヴァ様はわたくしのことを好ましく思っていらっしゃいませんでした。
特にイェルハルド様と親しくお話をするようになってからは、通りすがりに誰も聞こえないほどの小さな声で心が痛くなるほどの沢山のお言葉をいただくようになりました。
そればかりか最近では小さな紙片に不愉快な言葉を書かれて渡される始末。
よほどわたくしがイェルハルド様の傍にいることがお気に障るのでしょう。
イェルハルド様や他の皆様とお話しているところを遠目で睨みつけられていることなどいつものことですし、後を付けられ日々監視されているような不快感に襲われることなど、それこそ毎日のことなのです。
今まで貴方にご心配をおかけしては申し訳ないと思っておりましたが、もう、もう限界です。
階段を突き落とされた時の、彼女のあの勝ち誇ったような顔が、恐ろしくてたまりません。
もう二度と彼女に会いたくないほどです。
ああ、もうこれからどうやって卒業までを過ごせばいいのでしょうか」
さめざめと泣くエディエット=マーヤは儚く、これ以上この問題を追及することも憚られた。
イェルハルドはエディエット=マーヤにこれからは必ず傍にいると約束をして、落ち着きを見せ始めた彼女を寮まで送っていった。
問題はエーヴァだ。
早速エーヴァを呼び出したが、いつもならばすぐに応じるエーヴァからの返事がまったくやってこない。
しびれを切らして直接会おうと寮までいっても、寮長からは立ち入り禁止だとあっさりと返される。
エーヴァに託を頼んでも、返事がないのできちんと届いたかどうかも怪しい。
学生会会長の権限を使っての呼び出しにも応じない。
それどころかいつの間にか寮を引き上げ実家に身を寄せていると、こちらもいつのまにか代替わりした風紀委員長からの連絡が入った。
仕方なくエーヴァの実家に連絡を入れても、返ってくる答えはただ一つ。
『取り次ぐことはできません』
逃げた、な。
なんとわかりやすい逃亡劇だろうか。
この逃亡劇でエディエット=マーヤの言葉に確信が持てた。
もちろん彼女を疑っていたわけではないが、それでもエーヴァと知り合いともに過ごした日を思えばすべてを信じることはできなかったというのに。
嫉妬は女を狂わす。
あの氷の女王がたった一つの感情に負けて己を貶めるとは笑わせる。
彼女の素晴らしいだろう人生に真黒な汚点を自ら付けてしまったのだ。
これが世間に知られれば、彼女はいったいどうなるのか。
栄えある警察隊への入隊を取り消されることはもとより、彼女を慕う者たちからの軽蔑と蔑みを受けることは必須だろう。
孤高の女王は己の所業で地に這いつくばるのだ。
唐突にイェルハルドは気が付いた。
全くそんなそぶりは見せなかったというのに、あの女王が嫉妬に狂うほど自分が愛されていたことを。
そしてもう一つ。
地に落ちた彼女には、それでもヴァクトマイステルという名がついていることを。
なんということだ。
恐ろしい目にあったエディエット=マーヤには申し訳ないが、これほど素晴らしいことがあるだろうか。
失墜したエーヴァとの結婚は、汚点のある彼女を引き取る形になるすなわち誰もが目を背ける汚れ物を引き受けたイェルハルド自身の評価を上げるということだ。
そして婿入りする夫婦では同権、いやそれ以上の権利があったはずの彼女はもう二度とイェルハルドよりも前に出てくることはないだろう。
漁夫の利とはまさしくこのことだ。
く、と喉の奥が震えはじめ、肩が揺れる。
そのまま高笑いしそうになったイェルハルドは、抑え込もうと鏡の前に立った。
鏡の向こうには醜く顔を歪ませながら爛々と不気味に輝く瞳を持つ自分が「どうだ、嬉しいだろう。そうだろうともさ」と皮肉気に笑っている。
―――――ぞっとした。
この時、イェルハルドは自分の心の奥底にあった強烈な劣等感に初めて気が付いた。
エーヴァは尊敬に値すると思っていたはずが心の奥底で妬ましく、羨ましく、憎んでいたのだ。
だからこそエーヴァを確実に貶めることのできるこの機会を得られたことで、これほどまでに歓喜するのだ。
婚約者となって最低限の交際しかせずともこれが私たちの在り方だからと周りからの助言を退けていたのは、劣等感を持たせる相手とは付き合えないと無意識に拒否していただけだったのだ。
これではエーヴァのことを嗤えない。
イェルハルドは鏡に映る醜い自分自身から目を背けた。
そして嫉妬という感情を初めてもたらしたエーヴァを激しく憎悪した。
卒業式まであと一か月。
イェルハルドはこの後エーヴァに対して何一つ行動を起こさなかった。
彼女と連絡を取ることで嫉妬と憎悪に狂う自分を押さえる自信がなかったからだ。
どうせ羞恥で休んでいるだけの彼女のことだ、卒業式にもその後のパーティにも顔を出すとは思えない。
そう高をくくってしまい、本来婚約者が取るべき行動も、学生会会長がとるべき行動も何もかもを投げ捨てた。
「エディエット=マーヤ・クリングヴァル嬢。
栄えあるランドル校の卒業パーティにどうぞ私をお傍にいさせては頂けまいか」
「……え?ほ、本当に。本当にわたくしでよろしいんですの?」
イェルハルドは卒業パーティの同伴者にエディエット=マーヤを望んだ。
学生会会室に彼女をわざわざ連れ出して、何事かと訝しる彼女の前に跪き、恋焦がれる女に求婚する男のように彼女の細い指にそっと唇を押しつけて懇願した。
すべての言葉が終わると、彼女が声を震わせて問うてきた。
謙虚な彼女は、彼女を恐れさせたイェルハルドの婚約者を気遣って辞退しようとしていたのだ。
もちろん本来であれば卒業パーティに婚約者を同伴しないなどとはありえないが、あんなことをしでかしたエーヴァが、すべてを放棄して逃げているエーヴァが出席などするはずはない。
イェルハルドはエディが頷くまで何度も同じ説明を繰り返し、彼女の憂いを取り除いた。
最後には頬を染めながらこくんと頷いた彼女の、なんと美しいことか。
卒業してしまえば、エーヴァを横に添えなければならない。
その苦痛も卒業パーティで心優しいエディと過ごすことができるのならば、帳消しとは言わないまでも多少の人生の慰めにはなるはずだった。
「有難う、エディ。
きっと素晴らしく最高のパーティになるだろう」
感謝の気持ちを込めて、もう一度指先にキスをした。




