第一歩
需要があるかどうかさっぱりですが、とりあえずイェルハルド視点です。
※蛇足なので歩数換算。
いったい何を間違えたというのか。
イェルハルド・シーグバーンは身に覚えのない糾弾を受け、今まさに後がない崖っぷちの状態だ。
そもそもの事の発端はイェルハルドが卒業したランドル校在籍中まで遡る。
転校や編入学を認めないランドル校において初めて編入学を認めさせるという偉業を成し遂げた少女とかかわったことが始まりだ。
彼女の名は、エディエット=マーヤ・クリングヴァル。
入学試験をほぼ満点で通過した彼女を学長に紹介されたときにどこかで見たことがあるような既視感にとらわれたが、淑女である彼女はイェルハルドの婚約者であるエーヴァ・ヴァクトマイステルのようにこちらを探るような視線を向けることなく、少し目線を下げて挨拶をしてきた。もしどこかで会ったことがあるというのなら「はじめまして」などという挨拶をするはずはない。思いすごしのようだった。
「我が校にようこそ。途中入学でわからないことも多いだろう。遠慮なく聞いてくれたまえ」
よほど緊張しているのか「ありがとうございます」と蚊の鳴くようなか細い声で返答をされた。
途中入学というのは存外に厄介なものだ。みなと歩みが並んでいないせいでランドル校に慣れるためのレクリエーションというものが存在しない。誰かが特別に目をかけてやらなくてはならないだろう。淑女だからといって消極的な態度になられては先に進まない。学生会会長であるイェルハルドを学長室まで呼び出して彼女を紹介したのだ、学長はきっと彼女の面倒を押しつけるつもりだろうと考えると知らずに眉が潜まった。
だが学長はイェルハルドの憂鬱を見て取ったのか、彼女を連れて校内の案内をしようとしたときに耳打ちをしてきた。
「まあ、君は手をださないほうがいいだろうがね」
その一言は余計な仕事を増やしてくれたと勝手に背負っていた肩の荷を少しだけ下ろしてくれた。
学長の言葉にどれほど深い意味が込められていたか、イェルハルドは気が付かなかった。
学生会会長という職は根気と決断力と平常心がなければ務まらない。学業も疎かにせず会長職も手を抜かないイェルハルドは校内一多忙な毎日を過ごしている。そのせいか自分が婚約していてその相手が同じ校内にいることをすっぱりと忘れることがある。
エーヴァ・ヴァクトマイステル。
彼女はイェルハルドと匹敵するほど忙しい毎日を送っている。風紀委員長という学生会会長と同列の役職に就き、学生たちから怖れられつつも信頼されている彼女とイェルハルドはランドル校入学前に婚約をした仲だったがそこに愛情など一片もない、いわゆる政略結婚だ。入学前にヴァクトマイステルが行っていた勉強会で机を並べていたが、イェルハルドの何が良かったのかはわからないがエーヴァの父親に気に入られての婚約となった。イェルハルドの家は男爵で、伯爵であるヴァクトマイステルからの縁談は断れない。それどころか父親からはよくやったと褒められたのは辟易したが、何事もなければ卒業と同時に結婚へ向けての準備が始まることだろう。
何事もなければ、か。
これほど忙しく過ごしているというのにうつつを抜かす暇があるとでもいうのか。笑わせる。
学生会室の一番奥に設えられた椅子に座り、目の前に山積みされている書類に目をやった。このところ書類のはけが悪い。というよりも書類に不備が目立つようになり、会長であるイェルハルドが再チェックや調査をしなければならないことが増えた。本来ならば会長であるイェルハルドは書類の内容を吟味し、決裁するだけのはずだというのにおかしいなことだと考えた時点で室内をぐるりと見回してみてあることに気が付いた。
どうして誰もいないんだ?
学生会運営は会長を代表として、副会長、会計、会計監査、書記、庶務でなされる。もちろん学生会室には各役職の机が並んでいるわけだが、その机の前には誰も座っていない。机の上には彼らの確認サインを必要としている書類が積み上げられているというのに。
どういうことだと考えていると窓の外から誰かの困惑している声と妙に甘ったるい聞きなれた声が聞こえてきた。
転入生が学校に慣れるまで傍につくようにと依頼した会計監査の少年の声と件の転入生に違いない。入学してから二カ月は経つというのにまだ慣れないでいるのかと呆れつつ窓の外を眺めると、驚くことに会計監査の少年だけではなく他の役員たちも転入生の周りにいるではないか。仕事が山積みになっているというのに彼らはいったい何をしているのだと、イェルハルドは手に持っていた書類を机に放り投げると彼らのいる中庭へと足を向けた。
「何をしているんだ?」
不機嫌な声を出さなかった自分を褒めてやりたい。
イェルハルドは普段知る友人たちとは別の生き物になったように呆けている彼らとその真ん中でお姫様のごとく傅かれている転入生に呆れ半分怒り半分で声を掛けた。
すると一斉に振り向かれ、悪戯をして見つかってしまった子供の様にわたわたとしだし、各々に言い訳を話しだす。埒が明かない。
「ようするに彼女が怪我をした、ということかな?」
彼らの言葉をそれぞれに組み立てると大したことはない理由が見えてきた。
真ん中にいる転入生がどうやら何もないところで躓いたようで足を捻ったところに役員の一人が通りかかり、医務室へ連れて行こうとしたところ彼女の世話役を任している会計監査の少年がやってきて、自分が連れていくと言い出した。そこに学生会室にやってこようとしていた他の役員も参戦して、誰が医務室へ彼女を連れていくか話し合っていたのだという。
「そうなんです。ですから、今から医務室に連れて行こうかと」
会計監査がこれは自分の仕事だと胸を張って言えば、
「まだ我が校に不慣れなようですし、足を挫いたのなら付き添いは必要でしょう」
一番初めに通りかかった庶務が言う。
そこからはまた同じことの繰り返しだ。
「だから私が連れていくといっているではないか」
「いや、君はたしかこの後教官に呼ばれているといっていたではないか。私なら十分に時間がとれる。私が送っていこう」
「いや私が」
「ここは私が」
なんて馬鹿らしいことで揉めているのか。
誰が彼女を医務室に連れていくか、たったそれだけのことで仲の良かったはずに彼らが言い争いまで発展させていることにイェルハルドは違和感を覚えた。
原因である彼女に眼をやれば、俯いていて表情は読めないが細い肩を震わせているところを見ると泣いているようにも思える。淑女である彼女が数人の男に囲まれること自体、辛いことかもしれないというのに自分のせいで言い争いまでしているのだ、恐ろしくなって泣き始めても仕方がないか。庇護するべき女性を逆に怖れさせてどうするんだと、ため息をついた。
「医務室へは私が連れて行こう。君たちには仕事が待っている。随分とため込んだ者もいるようだが、至急の決裁が必要な書類もその中に入っていたぞ?期限は確か……今日だったと思うが、今すぐ学生会室へ向かわなくても大丈夫か?」
その言葉に彼らは慌てて、イェルハルドに転入生を頼むと口々に言いながら名残惜し気に中庭を後にしていった。
こういった面倒事は嫌いなんだがな。
天を仰ぎ見たが気が晴れることはなく、目の前にはいまだに俯いている彼女がいる。
イェルハルドはできるだけ優しく声を掛けて彼女にハンカチを差し出した。驚いたように顔を上げた彼女の目にはやはり涙が溜っており、イェルハルドは後から彼らをこってりと叱らなければと心に誓った。
彼女が少し落ち着いたところを見計らうと肩を貸す。
おずおずと置かれた手のなんと小さいこと!
エーヴァという婚約者はいても彼女に触れたことなどほとんどなく、間近で感じる女性らしさにどぎまぎとした。
そもそもイェルハルドに女性に対する免疫はない。
女性を意識しだすころにはヴァクトマイステルの勉強会に参加していて身近な女性はエーヴァだけであったし、そこを卒業したと同時にエーヴァと婚約したのだ。ランドル校に入学してもエーヴァと婚約していることをランドル校に届けている。その方が何かと優遇されるからだ。その上学生たちは皆紳士淑女のため、婚約者のいる人間には異性は近づかない。あからさまなアプローチをすれば風紀が処罰を下す。よくて停学、悪ければ退学の処分はランドル校入学者にとっては屈辱以外の何物でもない。そんな愚行を犯すものは誰もいないだろう。おかげでイェルハルドの周りには勉学を共にする女性という存在はいても同士であって異性ではない。
こんなことでは先が思いやられる。
イェルハルドの目指す将来は警察隊を足掛かりにして検察省へと入省し、エーヴァの生家の家業ともいえる検察省長官職を家の力ではなく己の力で手に入れることだった。誰にも文句など言わせない、自分の力で得る最高の地位。
赤子から死の直前にいる老人までの全年齢対象の仕事をするのだ、同年代の女性一人の仕草でどぎまぎとすることなどあってはならない。
なるほど、とすればこれは。
こちらを潤んだ目で見上げる転入生を見て、面倒だと思っていた案件が実は良案であったことにイェルハルドは気が付いた。
転入生を慣れるまで見ろと言ったのは我らが誉れあるランドル校の学長だ。
歩きながら彼女がぽつりぽつりと話す内容から、転入生はクラスに馴染めずにいるようだ。
そもそも女性というのは派閥を作る。そして一度作った派閥に異端者は入り込む余地はない。
成績上位で転入してきた彼女はこの上なく可愛らしい面立ちで、派閥に入ればよほどのことがない限りカーストの上位に入るだろう。自分の地位を揺るがしかねない不安要素である彼女を誰が好んで招き入れると言うのか。それならば初めから派閥に入ってこれないように無視をするか上位者が彼女を虐めるように仕向ければいいと考えるだろう。そしてそれは実行され、彼女はクラスで浮いた存在となった。同性に話しかけても無言を貫かれるのならば残すは異性の学生しかいない。彼女には寄り添うべき婚約者がいないため、異性に話しかけても問題ない。気がつけば彼女はクラスの男子学生たちが侍るように囲まれ、女子学生たちからは異物を見るような、色狂いの女のレッテルを貼られて蔑まれている。思い込みとは恐ろしいものだ。
ここでイェルハルドは登場する。
学生会会長の自分が間にはいり緩衝材となれば、きっと事態は好転する。
それになにより彼女に付き添う時間が長くなればなるだけ、女性に対する免疫も増えていくだろう。
一石二鳥とはこのことか。
イェルハルドは自分の考えに満足した。




