第二十八話 エピローグ
二年後―――――
エーヴァは咲綾とともにブリスニステ公国最大にして唯一の港であるミルドラルド港の埠頭に降り立った。
たった一週間海上で過ごしただけだというのに、随分と波に体が慣れていたようだ。体がふわふわと揺れ動く。後ろに続いて降りてきた咲綾もそれは同じようで、お互い不安定な足元にくすっと顔を見合わせて笑った。
「エーヴァ。もういい?」
船内から掛けられた覗うような声に咲綾は視線を巡らせて微かに頷くと、エーヴァはくるりと後ろを振り返ってまだ船内に残っている少女に声を返す。
「いいわよ。でてきても」
きゃあと子供らしい甲高い歓声を上げて船から出てきたのは、クラーラ・シェシュティン・ブリスニステ。御年十歳の少しお転婆なブリスニステ公国第二公女だった。
大公そっくりの見事なまでの銀髪が晴れ上がることのないブリスニステの空の下でもきらきらと光り輝き、紫石英に金粉をまき散らしたような不思議な瞳はくりくりと興味深げに辺りを見回して、彼女の好奇心の強さを物語っている。とても愛らしい公女と国民の皆から慕われる、まだ成人していない公女が最小の伴で一ヶ月、単身隣国に赴いていたのは隣国の王子たちとの顔合わせ―――いわゆる非公式のお見合いのためだ。政略的に有効なこととはいえ、愛情あふれるブリスニステ公一家は本人の意思なしに結婚相手を決めることはない。十歳という年齢ならば本人の意思でどうするかを決めれるだろうと笑って送り出したのだ。その上、せっかくだからと国内の視察を含んだ行程を組みんだあげく貴族階級ではなく治められる側、つまりは平民の視点で物事を見ておいでと城から出されたものだから、公女に相応しく整えられた一行ではなく平民に紛れるようなお忍びの体だ。あからさまに護衛と分かる人間を傍付けするわけにもいかない。そこで選ばれたのが警察隊でもその名が認められつつあるエーヴァと咲綾だった。エーヴァはもともとヴァクトマイステルの出であり、大公からの信頼も厚い。咲綾にしても異界からの客人で身元こそは絶対的に不明だがその性質はヴァクトマイステルが保障している。能力も非常に高い。それになにより護衛対象であるクラーラ公女が二人を慕い、どうしてもと大公に願ったのが決め手となっての抜擢だった。
「姉さま、姉さま。体がゆらゆらとしますわ」
久しぶりの揺れない地面だというのに体が揺らぐ感覚に、公女は楽しげだ。両手を大に広げてわざとらしく揺らしている。
「あら、クラーラ。それってこの前の上陸の時も同じことをしていなかったかしら?」
咲綾が人差し指でちょんと公女の額を突く。あわあわと揺れてバランスを崩し、尻もちをつきそうになる公女の手をエーヴァはさっと掴んで立ちあがらせた。
「ほらほら、二人とも。そのくらいにして。
それとクラーラ。迎えは夕方の予定だから、時間がぽっかり空いてしまったの。せっかくだから街を少し巡ってみましょうか?ずっと海の上だったからつまらなかったでしょう?」
嬉しい!と満面の笑みの公女とは対照的に咲綾は渋い顔だ。思わずエーヴァの肩を掴んで顔を近づけた。囁く声で話してきたのは間近にいる楽し気な公女に水を差さないためだ。
「どうして宿をとらないの?泊まるわけではないけれど半日近い休憩をするならその方がよほど合理的だわ。公女を連れて街を歩くなんて余計な面倒事を背負うようなものじゃない」
まあ確かにと頷くエーヴァだったが、でも、と付け加える。
「こんな朝早くから宿をとって籠るなんて、よい噂話になると思うのよ。それに公女はまだ子供。子供が病気以外で宿の部屋にい続ける理由はなに?」
船旅が順調すぎたせいでエーヴァたち一行を乗せた船は到着予定時刻よりも半日以上早く港についてしまった。桟橋に停泊している船もないことから沖合で待機することなく入港となったのだ。到着時刻のずれはそのまま迎えが来るまでの空き時間となる。この時間をどう過ごすかがネックになった。
「そうね。公女は礼儀作法は完璧だけれど、さすがに病人のふりをしてねなんて突然言われてもできないでしょうし。
じゃあ私は他の護衛に話を通してくるから、少しここで待っていてくれる?」
言うが早いか咲綾はさっと体を翻して船内に戻っていった。手持無沙汰になる前どころか、あっという間に戻ってきた咲綾はにやけながらずっしりと重みのある皮袋をエーヴァに手渡した。どう考えてもちょっと街をぶらつく程度に必要な金額ではなさそうだ。思わずじと目になってしまったが、咲綾は素知らぬ顔をして公女と手を繋いだ。
「じゃあどこに向かう?」
護衛についてから一番輝かしい笑みを公女は浮かべた。
うーん、写メ撮りたーいと悶えた咲綾に公女は意味がわからずきょとんとしている。
そんな二人を微笑ましく見守るエーヴァの視界に妙にひっかかるモノがあった。他に気取られている風を装って歩みを遅らせ何気なさを装って振り向いたとたん、そのモノはどこかへと消え失せてしまった。用心に用心を重ねて調べようかと思ったが、姿を隠している他の護衛も誰も動かず、咲綾も反応をしていない。気付いたのはエーヴァ一人かそれとも単なる気のせいか。
「姉さま!早く!」
「エーヴァ。何をしているの。置いてくわよ?」
数歩前を行く二人に急かされて思考を中断する。後で咲綾に確認すればいいことだ。それにアレは公女に向かっていたわけでもないのだからと、笑顔を作って二人を追いかけた。
露店が立ち並ぶ場所はまるで城下町のように人で溢れ活気に満ちていた。港町だけあって露店を見回しても品揃えも城下町に匹敵する。もちろん大公陛下の食卓に並ぶような高級食材があるわけではないが、色とりどりで不思議な形をした食材や見事な刺繍をされた布で作られた箱、どうやって使っていいか見当もつかない道具などが所せましと並んでいる。眺めているだけでも異国を訪れたような気分になる。警らで城下をあちこち歩き回るエーヴァや咲綾ですら珍しさに驚くのだ、公女のそれは跳びぬけている。手を繋いでいる咲綾を必死で引っ張ってあっちの店、こっちの店へと連れまわす。その度にきゃあきゃあと子供らしい歓声を上げて「綺麗!欲しい!」とおねだりをする。初めのうちは真面目に対応していた咲綾も途中からは苦笑しながら諌めている。歩きにくくなる手荷物を増やすことはない。
「手のひらに収まるほどのものだったら、一つだけ買ってもいいわよ」
あまりに残念そうな公女にエーヴァは声を掛けた。ぱああと晴れやかな擬音が聞こえそうなほどの笑顔が返ってくる。「ずるい」と咲綾が小声で呟いたのをエーヴァは聞きのがさなかった。
「あら?貴女もお土産を買いたかったの?」
いいわよ、一つなら買っても。
その言葉をすべて口にする前に、ばんっと結構な力が入った手で背中を叩かれた。
露店を隅々まで堪能した頃には陽は頂点まであと少しとなり、あれほど元気に溢れていた公女もそろそろと歩みが鈍り始めた。
「クラーラ。少し早いけれど昼食にしましょうか」
えーっと不満の声を上げつつも、随分と疲れていたのだろう、店に入って椅子に腰かけた途端にうつらうつらと舟を漕ぎ始める。可哀想だが横になる場所がない今は起すほかない。早く食事が運ばれないかとやきもきしていると、給仕の声がかかった。
「お待たせいたしました」
かた、と小さな音をたててお目の前に静かに置かれた皿にエーヴァは驚いた。たいていの場合、大衆食堂では皿が割れるのではないかと思いたくなるほど大きな音を立てて置く店が多いからだ。もちろんそうなると皿の中のものも飛びはねてソースが零れ落ちることなんてざらだ。もったいないとは思うが丁寧よりも粗野を好む、というよりそういった教育がなされていないからだろうと口を噤むことが多い。ここで下手に口出ししてしまうと妙に平民意識を刺激してしまい騒ぎになりかねない。そんな愚行は犯すわけもなかった。ただ給仕に声を掛けようとしたのは、彼のわずかに震えている口調と指先が気になったからだ。慣れているだろう給仕になぜ声や手を振るわす必要があるのかと疑った。それに下船したときのあのひっかかりに似た何かを店に入った途端感じたせいもある。顔を上げて礼を述べるふりをして給仕の彼を観察した。
「ありがとう。美味しそうね」
「……ごゆっくりなさってください」
なるほど、感情を抑えているせいで声が震えているわけね。
公女を狙う誰かに脅されていうことを聞かされているのではないかという考えは杞憂に終わった。
不承不承の声はよほどの驚きと複雑な感情の表れだろう。
まあそれはこちらにも言えることだけれど。
エーヴァは笑顔を貼りつけたまま心の中で呟くにとどめたが。
――――エーヴァ。
声にならない声で咲綾が問いかける。その音だけで何を伝えたいかは瞭然だった。エーヴァ自身同じ考えでいたせいもある。だが今は。
「クラーラ、クラーラ?ほら、起きて。食事が来たから冷めないうちに食べましょう」
名を呼ばれてびくんと飛び跳ねた公女は、寝ていないわとむくれたがどう見ても明らかな嘘にエーヴァと咲綾がくすくす笑う。それを受けてさらにむくれるあたりまだまだ子供ねと公女の美しい銀髪を撫でた。
その間に給仕は踵を返して去っていく。
後姿は見慣れたそれよりも随分と細くなっていた。
頬の肉は削げ、微かに生やした無精ひげは過去を知られたくないせいか。それとも港町に相応しい風貌を手に入れようとしているだけかはわからない。
背中越しに聴こえる談笑は、彼がこの場所で受け入れられている証だろう。
「本当に美味しいわね」
「ブイヤベースってこの世界でもあるものなのね。とても懐かしいわ」
ごちそうさまと咲綾を見習って覚えた言葉をかけて店を後にした。
外に出ると北国特有の暗い真昼の太陽の光が辺りを照らし、その下で行き交う人々の喧騒が耳の中で爆ぜている。
エーヴァは少し立ち止まって振り返った。
店のスイングドアがキィキィと悲しげな音を立てて軋んでいるが、店の中にいる人々の楽しげな声がここまで届いている。今頃彼は大忙しで動き回っているに違いない。エーヴァには見せたことのない笑みと肩の力を抜いた自然体な姿で。
「エーヴァ。次はどこに行く?」
咲綾の手はエーヴァの華奢な肩の上に置かれ、公女は少し不安げにエーヴァを見上げている。
そうね、次に行かなくては。
エーヴァは二人に微笑むと雑踏の中に体を泳がせ、二度と振り返ることはなかった。




