第二十七話
男爵とイェルハルドが去った応接室には何とも言い難い空気が漂っていた。
しばらくすると窓越しに喧騒が聞こえ始めたため、エーヴァは様子を見にそっと席を立った。
紗のカーテンを細く開けて窓越しに窺っていた玄関先では男爵と元婚約者が馬を跨げずひと騒動起こしたようで、いつまでたっても騎乗できない二人に業を煮やした執事が馬車を用意して強制的に馬車に乗り込ませたところのようだ。
馬車の後ろには男爵たちが乗ってきた馬をヴァクトマイステルの家の者が駆けさせている。これで後日馬を引き取りに来るという口実で我が家にやって来られる心配もない。
最後まで迷惑な方々だことと、ピシンと馬の臀部に鳴る鞭と車輪の軋む音を聴きながら、エーヴァは小さく呟いた。
「やっとお帰り願えたかな」
少し弾んだ声でエーヴァに問いかけたのは、さきほどまで辛辣に客をもてなしていた屋敷の主だ。
その辛辣さはエーヴァにとっては喜びではあったのだが、与えられて者にしてみればたまったものではなかったのだろう、その結果が貴族でありながら焦燥しすぎて馬に跨れなくなるという醜態を晒すほどになったのだから。
「―――――そのようですわね」
エーヴァはわずかに首を縦に振りながら、遠ざかる馬車を眺めた。
車内ではさぞ重苦しい空気が漂っていることだろう。
大公陛下の覚えめでたきヴァクトマイステル家に見放された男爵家の未来を思えば、沈みこまないわけがない。
それとも妙なところに気骨のあるイェルハルドが不評を挽回する奇策を講じているのだろうか。
エーヴァにしてみれば今さらどうでもいいことだったが。
ただ少しだけ、――――ほんの少しだけ良心が咎めることがあるとすれば、それは婚約者であったイェルハルドに対し心の底では寄り添えなかったことだろう。
友人ではあったのだ。
永く共にいた友人のつもりだったが、将来夫婦になるべき人間が育まなければいけない絆を近くにいながらも持つことができなかった。
自分の努力が足りないのだ、もっと彼に添わなければならないと思っていたが、それでも彼に頼るだけの妻で終わりたくなく、自分自身の足で地面を踏んで立っていたかったエーヴァには彼に依存しないようにと自制していた部分もある。
もしかするとイェルハルド様はその部分を敏感に察知されていたのかもしれない。
だとすれば自分に寄り添ってくれる者、甘えてくれる者、褒め称えてくれる者が身近にいたのならばそちらに靡いてしまうのも仕方がないか、といえばそうではない。
婚約という枷があるにもかかわらずその枷の意味を考えようともせず、己の心の弱さを武器に自由気ままに思いを紡いでいくのは卑怯者のすることではないか。
愛している人ができたのならば、さっさと婚約解消をすればよかっただけのこと。
それをせずにエーヴァと結婚することで地位を求め、それとは別に愛する人も手に入れようとするからこのような結末を迎えるのではないだろうか。
二兎を追う者は一兎をも得ず。
そういうことだろう。
それにしてもイェルハルド様は一体何がしたかったというの。
エーヴァはソファに腰かけながら昨日のパーティでの不可解な彼について思い巡らせる。
卒業式ではまったく顔を合わせることなく、そのくせ卒業パーティではエディエット・マーヤを伴い会場の隅にいるエーヴァの元にわざわざやってきて非難を浴びせている。
彼女にいいところを見せつけたかっただけとか?
道理もわからない小さな子供がするような、そんな阿呆な理由だけでエーヴァを貶めようとしていたわけではないだろうが、何度考えてもその理由しか思いつかない。
まさかとは思うが初めて愛する人を手に入れた彼が恋に浮かれて調子に乗り、彼女に自分をよりよく見せるための踏み台に選ばれたのがエーヴァだったということか。
一か月の長期に亘って学校を休学し、人前に出ることのなかったエーヴァのことだ、大勢の人前で学校を休学する真の理由(とはいってもイェルハルドのみが信じるものだが)を問い正せば恥ずかしさに震え、悶え、理不尽な罵倒を繰り返して退場するのは目に見えている。悪役の退場に正義の人が喝采を受けないわけがない。人を平然と傷つけることを良しとする不愉快な人物を公の場で裁くことのできる強い男だと思ってもらえるとでも踏んだのだろう。
糾弾する相手がたとえ自分の婚約者であってもだ。
なにせエーヴァはイェルハルドに対して強く言葉を言ったことがない。そのうえ従順(に見えるだけだが)なエーヴァは正義を判定する一族の出だ。人前で己の所業を裁かれる羞恥は計り知れず、愚かな行動をとるに違いない、というところか。
わたくしから反撃があるとは思いもしなかったのなら、それは彼がわたくしという人物を見損なったということね。
エーヴァのイェルハルドに対する評価は今や地に落ち、父親から婚約破棄を命ぜられても一片の悔いもなくすんなりと受け入れられることができる。思い描いていた輝かしい未来とは異なる明日を彼が受け入れることができずに身を崩していくだろうことは安易に想像できた。そしてそのことを自業自得だと思ってしまう自分はなんて冷たい女なんだろうと、そんな女が婚約者であったことだが少しだけ申し訳なく思えた。ほんの少しだけだが。
「まあ、もう終わったことだ。縁もすっぱりと切れたことだし、お前を煩わすものはなにもないさ。
それよりも考えていたより早くに事が片付いたから、時間が余ってしまった。どうだい? 昼食まで少し休んでいたら」
先ほどまで男爵が座っていたソファに疲れたように腰を掛け、顔を顰めたエーヴァに父親は提案する。
仕方がないとはいえ昨日の今日だというのにまた疲労を募らせてしまったと悔いていたのだ。少しとはいえ休息をとることは気持ちの切り替えや疲労の軽減に役立つだろう。
ところがエーヴァは首を横に振り、躊躇いながら口を開いた。
「お気遣い、ありがとうございます。けれど少しだけ納得できないのでお父様の意見をお聞きしたいのですが」
「納得? あのくだらない話の内の何が納得できなかったのかな」
「今日のことではないのです。婚約破棄に至るまでの経緯は十分に理解しておりますから。
私が知りたいのはなぜイェルハルド様は昨日のパーティ会場であのような行動をとられたのかという点です」
それがどうしてもわからない。
子供じみた言い訳しか思いつかない自分の不甲斐なさに項垂れる思いだった。
「人前での糾弾はその内容が正しければ周りからの支持を得られるでしょうが、それでもその場にいる全員の支持を得られるわけではありません。皆がみな同じ考えではないことぐらい、学生会会長であったイェルアハルド様にはよくご存じのことではないですか。一生に一度しか味わうことのできない卒業パーティを楽しみ、別れを惜しむこと以外の感情を挟んできた彼の行動を疎ましく思う方もいたことでしょうし、茶番だと馬鹿にする方もいらしたでしょう。彼と同じ意見で、その場に相応しくない人を排除しようとして隅とはいえ会場内で騒動を起こし、無関係の他者を味方に付けようとする。そんな考えの方ばかりではなかったことは否めません」
だからこそ、愚行。
十の愉快は、一の不愉快さで塗りつぶされて記憶する。
とすれば、栄えあるランドル校の卒業をお互いに祝い、将来を祝福するための輝かしいパーティが彼の愚行のせいで不愉快でつまらない記憶へと取って代わられる。
あの場にいたほとんどの卒業生が十年後、卒業パーティのことをなんと話し合うのかと思うと、準備に余念のなかった学生会の後輩たちの苦労は無駄になったと同意語だ。
彼の独りよがりの行動の損害は計り知れない。
「そうだね。人というのは十人いれば十通りの考え方がある。まったく同じ考え方の人間が隣にいることなど奇跡に等しい。気の置けない友人ですら一から百まで同じ考えでいるのかといえばそうではない。気に食わないところがあればどこかで落とし所を見つけて納得して付き合いを続けるしかない。
彼はそのことをわかってはいただろうが、それでも会場にいた何割かの人の支持を得られると思っていたのだろう。それこそ学生会会長であったときに指導者として優れていたのならば彼の発言に耳を傾けるはずと踏んだに違いない。
彼の正義感はさておき、私が考えるに彼の思惑は彼よりも上位であるお前を人前でも諌めることのできる立場にいることを知らしめ、お前自身にも結婚すれば身の程をわきまえて彼よりも前に出るべからずと知らせたかったというところか。
だってそうだろう?
確かに彼は学生会会長の職を得られていたが、それはお前が辞していたからこそ、お前が風紀にしか興味がなかったからこその職だったと職員たちからは聞いている。いわゆる繰り上がり当選ってやつかな。お前が是と頷けば学生会会長の徽章はお前の胸に輝いただろう。彼はその事実を十二分に知っていたということさ。校内において誰が最も優れていて誰が最も人望に厚いかということを。だからこそ、彼は賭けに出たのかもしれない。二期に亘り会長を務めあげたという自任があり、か弱い女子学生からも頼りにされる。その上、目の前に自分をよりよく見せることのできる舞台があるのだ、上がらずにどうとする? その舞台の設えがいかにお粗末か、用意された台本がどれほど抜け落ちたものかを理解できずに演じた結果が昨日の三文芝居というわけさ。俳優どころか道化師にもなれない」
なるほど。
エーヴァはゆっくりと頷いた。
彼はそこまでして自分の価値を知らしめたかったのだ。
その行動がどれほどの代償を必要とするか知ろうともしないで。
なんて馬鹿なことを。
半年前の彼ならば、そのようなことをせずとも彼の指導者としての資質を誰も疑ってはいなかっただろう。特定の人物のみに持てる力を注ぎ、周りが見えなくなってしまった彼だからこそ、人が離れていったのだ。支持率が下がったことを理解していたのならなぜ原点に戻って自分自身を見直さなかったのか。その時間は十分あったはずなのになさなかった。いや、なさなかったのではない。なせなかったのだ――――すでに見極めすらできなくなっていたのだから。
「というのは建前で、単純にああいった場を設けることができ、尚且つ収めることのできる男だと好きな女に見せつけたかったのさ。
初めての恋に浮かれた、頭でっかちな人間にありがちな愚を犯したと、つまりはそういうことだ。
男というモノは意外と単純馬鹿なものだよ。
理詰めで考えて出した答えが正解とは限らない」
不作法にも”は?”と発した口をそのままあんぐりと開けて、エーヴァはまじまじと父親を見た。そこにはエーヴァしかいないのをいいことにソファの背もたれに体重を預け肩肘に顎を載せた父親が少し意地悪気ににやにやと笑いながらエーヴァを見ていた。
「まあ、そんなわけだから。彼を完璧に理解しようとすることは難しいだろう。ただ、今回の一連の騒動はお前が怪我さえ追わなければとてもよい勉強にはなっただろうがね」
ええ、なりましたとも。
その為人を知っているつもりであり得ないと外した理由は思い込みとなり、判断を鈍らせるということを。
恋に外聞。
まさかイェルハルドがそうなるなんて、思ってもみなかった。
エーヴァは深いため息をついて、この話を終わらせた。




