第二十五話
応接室にいる誰もがその封筒に注目する。が、差し出されたはずの父親が一向に動こうとしないことに痺れを切らしたイェルハルドが封筒から皺が刻まれた一葉の書状を取り出して父親によく見えるようにと目の前で広げて見せた。
「……で、君はいったい何がいいたいのかな」
書状を受け取ろうともせず視線だけを動かして読み上げた内容は、父親には差し出される以前から解っていたようで、冷めた目線をイェルハルドに向けた。
その非情なまでに冷静な対応を受け、一気に顔を怒気で染め上げたイェルハルドは、手に持っていた書状をテーブルに殴りつけて食って掛かった。
「やはりっ! やはり義父上の差し金か!」
「なんのことだね」
「なんと白々しい。
それは今朝、まだ陽も上り始めない早朝に警察隊が使者を派遣してまで私に持ってこられた書状。内容は書かれている通り、理不尽極まりないもの。 よほど裏に何かないとそのような常識外のことを警察隊がするとは考えられないと思い、急ぎ早馬を掛けさせてこちらまでやってくれば案の定、義父上が関与していたとは。
昨日は少しエーヴァに言いすぎた感はありましたが、まさかその程度で警察隊から内定の取り消しをさせるなど、検察省の長官ともあろう人が娘可愛さに越権行為を犯してまで私に制裁を喰らわせたいと考えるとは恥ずかしくはないのですか?!」
イェルハルドの怒号を受け止めた父親は、まるで仮面を貼り付けたように無表情となった。
動きを見せない唇からは絶対零度の冷気を纏った言葉が吐き出される。
「……ほう?
君は検察省長官である私が私欲のために越権行為をしたと言ったな?」
「そうでしょう?
そうでなければ内定の取り消しなどありえない。
内定を取り消されるほどの行為を私はした覚えなどない!
その上、それを知らせるためにわざわざ誰もが寝静まっている早朝に使者を寄越すなど、私に対する嫌がらせ以外何物でもないと考えるには十分でしょう。
娘も娘なら親も親。
私利私欲に塗れた人間が我が国の検察の頂点にいるとは、」
ぞく、と寒気が一気に背筋を這い上がった。
もちろんそれはエーヴァだけではなく、青ざめたままの男爵にも、そして憤怒に我を忘れかけていたイェルハルドも感じたようだった。
いや、彼はその程度では済まされない。
言葉を紡ぐことができなくなるほどの衝撃的な冷気が直撃し、体が氷結する。一瞬、何が起こっているのかわからないのか視線を彷徨わせたがその正体を理解したイェルハルドは、言い難い恐れと寒さに震えながらひどくゆっくりとその源へ視線を合わせていく。
かちりと合った視線は、逸らすことを許さないほど苛烈だった。
ひ、と喉元から引きつる音を上げたのは、もちろん馬鹿なイェルハルドだ。
彼は激高するあまり言ってはいけない本心を不用意に吐き出してしまったのだから。
「……言いたいことはそれだけか?」
地の底を這う、という表現がこれほど相応しいことはないだろう。
イェルハルドは大蛇に睨まれた矮小なねずみのようにあからさまにがくがくと震えはじめだしたではないか。
「どうした、イェルハルド君。
そこまで言ったのだ、どうせなら不満を全部吐き出してはどうかな?
おや? 震えているね。この部屋が寒いのかい? ……ああ、それとも武者震いというやつか。勇ましいことだね。
まあ、君がいきり立って何を言おうがその書状に書かれているように君の内定取り消しは覆されないことだけ伝えておこう。
だが君は決定的に間違っている。
私は越権行為などしていないし、私利私欲で権力を使うこともない。
その行為は我がヴァストマイステルの矜持に反することで、ヴァストマイステルが大公陛下の信頼を裏切るなどはありえない。
娘の婚約者にするくらいには数年前の君を買っていたんだが、今の君なら頼まれても願い下げだね。
エーヴァと婚姻することでヴァストマイステルとなるはずだった君が我が家をそのようにしかとらえられなかったとすればやはり昨日のことがなくても婚約は破棄しただろう。結婚するまでに君の性根を知り得たことは娘にとっても我がヴァクトマイステルにとっても幸運だったと言っておこう。
君にとって婚約破棄も警察隊への入隊内定取り消しも必然だったということだ」
なるほど、それなら頷ける。
エーヴァは自分に見向きもしなかったはずの元婚約者の不可解な行動にやっと納得することができた。
警察隊入隊への内定の取り消し。
それこそがイェルハルドが訪れる時間を考えることなくやってきた理由だったのだ。
ランドル校卒業生となるイェルハルドが入隊すればヴァクトマイステルの名がなくともエリートの階段を駆け上がっていくだろう。それが取り消されるということは、約束されたはずの将来が崩れ落ちたということだ。真偽を確かめるべく動くだけの理由が彼にはあったのだ。
エーヴァが父親の放つ冷気に押されながらも放たれた言葉に思考を巡らしている間、氷の彫刻の様に動きを見せないでいたイェルハルドは入隊内定取り消しという屈辱の言葉で熱を取り戻したようだった。ぎこちない動きと震える声で対抗する。
誰もが居竦まる検察長官に弱弱しいとはいえ反論するほどの気骨を持ちながら、方向性を間違えてしまった信念に振り回されるイェルハルドにエーヴァは憐れみを覚えた。
「何を…っ!
それこそが義父上の策略に他ならないと言っているのです」
イェルハルドの必死の言葉が終わると同時に父親がさも面白いとでもいうように応接間が揺れるほどの大きな声で笑い始めた。腹を抱えて体を大きく揺らしたかと思えば顔を仰ぎみてたまらないとばかりに顔を手で押えこむ。どこからどう見ても爆笑している姿にしか見えない。
呆気にとられたのはエーヴァと男爵だったが、イェルハルドはそうはいかない。
しばらく続いた笑い声が鎮まった後、応接間には何とも言えない静寂が訪れた。
「な、何がおかしいと!」
今やイェルハルドの顔色は赤を通り越してどす黒くなっている。
これほど目まぐるしく変わる表情はエーヴァにとっては初めて知る一面だったが、今更彼をより知ったとしてももはや婚約破棄は覆せないし覆すこともない。知れば知るほどイェルハルドという人物がヴァクトマイステルにとって相応しくないことを知るだけだ。
「これほど可笑しいと感じることは近頃なかったと思うが、君には理解できないのかな。
いやまったくもって馬鹿馬鹿しい。
小さく愚かな君から教えを頂くとは、私もまだまだ若輩ということだろう」
態とらしく喉を鳴らして嗤う父親にイェルハルドは拳を握りしめた。
もちろんそれは振り下ろされるものではなく、自分の意志を押しとどめようとしている表れだった。
エーヴァはため息を押し殺す。
誰よりも長い時間イェルハルドと勉学を共にしてきたエーヴァだからこそ、彼の度重なる愚かな振る舞いが理解できなかった。
エーヴァの知るイェルハルドはもう少しどころかとても思慮深く、相手が発する言葉の意味を二重三重にと深く掘り下げるため、人よりも半拍ほど会話にずれが生じる、そういう人だった。
ところがどうだ、感情が高ぶっているせいか父親の投げかける言葉にいつもとは真逆に半拍早い段階で強く言葉を放っている。
思慮に欠けるどころか、まさに売り言葉に買い言葉。無謀というほかない。
父親の手のひらに踊らされているように見えるのは決してエーヴァだけではない。
義父になるはずだった男爵など、赤黒いイェルハルドとは対照的に蒼白になって今にも崩れ落ちそうだ。
だけど、止めはしないのよね。
それほど心を痛めているのならそれこそ、上位である伯爵に食ってかかる息子を止めればいいだけの話を、ぴくりとも動こうとしない男爵の心の底が垣間見れてエーヴァは眉をひそめた。
小心な父親の手ごまである小さな針。
男爵である彼が理不尽に伯爵を罵ればそれだけで首が飛ぶ。
まだ社交界に正式にデビューしていないイェルハルドがそれをしても注意だけで済む。
ヴァクトマイステルとの婚約破棄によって未来を閉ざされたに等しいジーグバーンの最後のあがき、もしくは憂さ晴らしなのだろう。
お父様はこんな茶番をわたくしに見せたかったということなの?
胡乱な視線を父親に向けると、態とらしくくるりと目を大きく回した父親がさらに肩を大きくすくめておどけて見せた。




