第二十四話
まさか。……いや、でも。
簡単にたどり着いた答えと、エーヴァの衝撃をわかっていながらも姿勢を崩さない父親に目を見張った。
勉強会の終了と同時に婚約をしてから今日まで、イェルハルドは婚約者らしいことなど一つもしたことがない。
それは二人がまだ未成年のため、公的な行事に参加することがないためとも言えるが、ただ単にイェルハルドがエーヴァに対して友人という関係以外の関心を持たなかったせいもある。
婚約により婿入りが決まったイェルハルドに少しでも安らげる居場所をとあれこれ尽くしてきたエーヴァとは対照的に、イェルハルドは最低限の礼儀を示すだけだった。
誕生日にはプレゼントをくれたが心のこもらないありきたりの花束に『おめでとう』と一言書かれたカードが添えられてただけ。病気になっても直接見舞いになど訪れることはなく見舞いに花が届くだけ。何かあるたびに花が届けられるのには苦笑しかなかったが無関心よりはましだろうと随分自分を低い位置に置いて慰めていた。いや、諦めていた。
所詮政略結婚だ。お互い嫌いでなければ上手くいくはず。
両親のような夫婦関係は結べないと事あるごとにありありと見せつけられる度、仄かな期待を打ちのめさせられ表情を無くしていくエーヴァにイェルハルドを婚約者と定めた両親は随分と歯がゆい思いをしていたようだが、それでも決して婚約を解消させようとはしなかった。
それだというのに、
婚約を破棄するだなんて。
婚約破棄をすること自体が寝耳に水。二人の話の流れで婚約破棄を理解しただけで、イェルハルドの言うように了承したしないの話ではない。
頭では状況を理解するが、受けた衝撃に動揺を隠せないエーヴァの目の前では、自分のことしか見えていないイェルハルドが自分の無実を訴えていた。
「私が誰かと交際したとでもおっしゃるのですか?」
そうでないといえる絶対の自信があるのか、イェルハルドは恐ろしいほどまっすぐな視線を向けて父親に迫る。
「交際、ねえ。
その言葉にはいろいろな意味が含まれているが、その曖昧さを盾に使うとは流石だと言っておくべきか?
私は貞操観念と言ったのだ、男女交際のことだと明言しておこうか」
目の前に組まれた指をイェルハルドに見せ付けるようにゆっくりと組み直し、ソファに深々と座りなおす。
上手く口元を隠しているが、横にいるエーヴァにはその口が皮肉に歪んでいるのが見て取れた。
身に覚えのない侮辱ととったイェルハルドの顔色は朱色に染まったままだ。
喉の奥に引っ掛かった言葉を無理やり紡ぎ出そうとして言葉がスムーズに出てこないようで、時折詰まりながら父親に言い返していた。
「……っ、エーヴァという素晴らしい婚約者がいるというのに、どうして他の誰かを恋人にする必要があるというのですか」
「一般的に恋人とは相思相愛の間柄をいうが、お互いに思いのたけを言葉にし、心が結ばれ会った者同士にしか使わない言葉だ。
そうすると君には確かに公には恋人という存在はいないのかもしれない。 公には、だが。
だが君には本当に身に覚えがないというのか? 恋人とは言わないがそれに匹敵するほどの愛情をもって話しかけたことがある少女の存在を忘れてはいないか? そしてその少女からも愛情を返されていただろう。
否定しても無駄だよ。
学生会会長であった君の顔はランドル校で知れ渡っている。その君の彼女がエーヴァではなく彼の少女であることは在校するすべての学生に醜聞と共に知れ渡っていることだったからね」
淡々と紡がれる言葉にイェルハルドは一瞬呆けたが、みるみる間に眉間の皺が深まった。
仮にも義父になる人物であり検察の長が発する言葉だからと考慮しないでもないが、それでも身に覚えがないと言わんばかりに首を振る。
「いいえ、そのような人などいません」
ある意味期待通りの回答に、ため息しかでない。
「否定しても無駄だと言ったんだがね。
……まあいい。
君と我が娘の婚約が愛情の上に成り立っていないことなど、君たちに婚約をさせた私たちこそが承知している。
だが、我が後継者であるならば愛情は不可欠だ。
矛盾しているか?
幼いうちに婚約をし、お互いを知る時間を持たせれば、二人の間に愛情が育まれるかもしれない。
勉強会で育んだ友情を下地にし、熱烈とはいかなくても友愛から親愛、そして本当の愛に目覚めるかもしれないと期待していたのだが、残念なことに期待は大きく裏切られたようだ」
「確かに私はエーヴァとは恋人がお互いに育てる愛情を持ち合わせてはおりませんが、義父上のおっしゃる通り、勉強会で培った友情は確かなものだと自負しております」
たしかに、とエーヴァも思う。
イェルハルドとは随分と論議を交わし、他愛のない話で花を咲かせ、価値観を確かめ合った。
だからこそ手を取り合ったのではなかったのか。
まさか手を取った瞬間から友情以外のものを受け取れなくなるなど、誰も思わなかったに違いない。
「確かな友情?
その確かな友情はとうの昔に消え失せたように見受けられるが?」
「まさか。
エーヴァは私のよき友人であり理解者でもあります。
その証拠にわたしがランドル校で学生会会長を拝命しておりました折にはエーヴァは同列の権限を持つ風紀委員長として私の傍におりましたし、勉学においても勉強会の時のように二人でお互いの知識を高め合いました。好んで討論に持ち込むこともあったくらいです。友情が消え失せたなどありえません」
「学生会会長を務めただけのことはある。口だけは立つようだ。
たしかに二人の間にはそのような過去はあっただろう。だが今、問題にしているのは現在進行形の話だ。
君が言う友情は過去にあったもので今では友情があったことすらわからなくなっているのはなぜか。
勉強会の修了式の日、君は親の意向とはいえこの婚約がどのような意味があるのか理解した上でエーヴァの手を取ったことは確かだ。
だというのに、君は今まで何をした?
いや、違うな。
君は今まで何をしなかった?」
感情が一切感じられない淡々とした物言いだったが、明らかにイェルハルドを凶弾し、真実を語れと迫っている。
それでなくても張っていた空気の糸がぎちぎちと限界まで巻き締められて、少しの振動を与えようものなら簡単に弾け切れそうだった。
だが残念なことにイェルハルドには空気の糸は見えなかったらしい。
「何を、ですか?
不快になるようなことは何もしなかったはずですが」
「そうだ。
不快になるならない以前に君はエーヴァに対して何もしていない。
ランドル校に入学してもそれは変わらず、友人ではあるのだろうがそれ以外の何物でもなかった。
お互いを知るためにエーヴァが一歩踏み込んでも、君はその分後ろに下がる。
その状態で付かず離れず良い関係を築いていたとでもいえるのか?
二人は卒業後には夫婦になるはずではなかったのか。
婚約者とは友人関係を崩さない態度をとっていた君は、どこがよかったのかぽっと出の女の甘言に乗り、友人の位置づけから動かないエーヴァを否定して女の傍に侍っていた。
この時点でその女に対して明らかな好意があるとどうして考えない?」
「義父上が誰のことをおっしゃっているのかわかりかねます。
私は在学中、私の職務を全うすることに精力を注いでおりました。
そのなかでもし私が誰かと共にいるのであればそれはその必要があったためで、決して特定の人物に好意を抱いたからという理由ではありえません」
「まだいうか。
では昨日の茶番劇はいったいなんだったのかな?
エディエット=マーヤ・クリングヴァルに対して君はどれほどの時間を与え、隣にいることを許し、エーヴァには向けない感情を彼女に見せ続けたのか。
卒業パーティという社交の場において婚約者としれわたるエーヴァを差し置き、彼女を連れ歩いたのはなぜか。
これだけでも君の誠意はわが娘に対して一片の持ち合わせもないことが知れる」
「エーヴァが休学をしているこの一か月の間、私は再三エーヴァに対して面会を求めましたが一度たりともかなうことはなく、また手紙を認めても返信をいただくことはありませんでした。
何かあったのだろうとは察しましたが、しばらく期間を置きたいことでもあったのだろうと考え、本日に至ります」
「それはなにか?
我が娘が君に対して連絡を滞らせたために卒業パーティへの同伴をはじめから考えていなかった、ということか?
笑わせる。
なぜエーヴァが休学をしなければいけなかったか、その理由すら確かめようとはせず、再三の面会要求といいながら実際に君がこの屋敷に来たことなど一度もない。手紙など、休学をしてから一度しか届いていないことは確認済みだ。
最低限だ。一か月の間、最低限の方法でしか連絡を寄越さなかった君が、卒業パーティの同伴をしなかったのは我が娘の落ち度だと巫山戯た言葉を私の前で堂々と言ってのけるのかね。
そのくせ昨日の今日で、取り付けた約束の時間すら守らずにこのような早朝から父上の必死の静止を振り切って早馬で我が家に押し掛ける。君を追ってきた父上の蒼白な面持ちを理解しようともせず、こうしてずかずかと我が家に上がり込み、平然と我が娘を蔑む。
……君は、馬鹿か?」
今まさに真横で静かな激高を見せる父親に、エーヴァは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
婚約している二人の成長を信じて見守っていたはずの両親はその実、全く進展しない二人に歯がゆい思いをしているどころか心を痛めていたのだ。
家族以外の前では常に沈着冷静であり非情ともとれる行動を見せる父親が、家の中とはいえここまで相手に対して感情を見せる。そのことがどれほどのことかわからないエーヴァではない。
イェルハルドに吐かれた暴言はすなわち、エーヴァに対する愛情だった。
「ば……っ!
い、いくらなんでもそのような言葉をかけられる謂われはありません!
確かに予定時間よりも早くに訪問することとなりましたが、遅刻するよりは早めのほうがよろしいではないですか。
それに、自分の仕出かしたことを恥ずかしく思っての休学と理解していたために、授業を休んでまでわざわざ足を運ぶほどのことではないと判断したまでですし、返信はないとわかっている手紙を認めるほど暇ではありません」
「予定時間の前に到着することは、確かに君がい言うように遅刻するよりは遥かによいだろう。
だがそれも限度があるのではないか?
十分、二十分前なら許容範囲といえるが、三十分前なら早すぎと言われても仕方がない。一時間前なら約束をしていた時間を誤って記憶したのだろうと理解する。
さて男爵と君は我が家に訪問する時間をいったい何時だと思っていたのかね」
「……十時、です」
「十時! そう、十時だ。
まさしくその通り、約束をした時間は十時に間違いない。
君の言う遅刻するよりも早めの訪問のほうがいいという時間は、予定時刻よりも二時間以上前の事を指すのか?
君の家から我が家まで早馬でかけてきたら三十分もあれば到着できるというのに、わざわざ二時間以上前に家を出てここに来るなど正気の沙汰ではないとは思わないのか。
それとも他に何か理由でもあるというのかな?」
「ありますとも!
今朝がた、私宛に届いたこの書状を義父上もご覧になれば、私が約束の時間を違えてまで早馬で駆けてきた理由を理解されることでしょう!」
イェルハルドはその言葉をまっていたかのように懐から開封済みの封筒を取り出した。
黒のインクで書かれた文字がわずかに判別できるほどの濃い紺色の封筒は、ヴァクトマイステル家では見慣れたものだが一般には手にすることも厭われる。
非がないと分かっていても紺色の封筒を手にした瞬間に疑心暗鬼となり不安に陥らせるほどの威力を持つ、その封筒の発信元は。
―――――警察隊?
どうしてこの時期の、それも配達時間外にわざわざ警察隊からの書状が届けられるの?
昨日の時点でイェルハルドには警察隊に捕まるほどの罪はなかったはずだった。もしあったとしたらエディエット=マーヤと共に彼らに連れていかれただろうから。
だが一夜明けての警察隊からの書状は召喚にしては早朝過ぎ、罪を問うなら書状などではなく警察隊が直接扉まで出向くだろう。
わざわざ特別処置をとってまで届けられた警察隊からの書状は今、イェルハルドの手の中で小刻みに揺れていた。




