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匹夫の勇  作者: れんじょう
【本篇】
23/37

第二十二話

 目を覚ますとそこには高い天井と淡い光を浴びながら風にそよぐカーテン。

 ベッドの傍らには喉を潤すための水差しとコップが埃よけのナフキンを掛けられて置かれている。

 狭苦しいランドル校の寮とは違い、広々とした部屋は明るく、華美過ぎず、かといって武骨でもない趣味の良い家具が適所に収まり、アクセントに緑が所々に配置されて心地よさを引き出している。

 エーヴァはぱちぱちと瞬きをしながら、なぜ自分が屋敷の自室にいるのか状況を呑み込めないでいた。

 

 いつの間に帰ってきたのかしら。

 いえ、それよりも今はいったい何時なの?


 エーヴァはむくりと体を起こし、意識をはっきりさせようと軽く頭を振った。

 覚えているのは卒業式の後のパーティでの騒ぎと、応接室でのやり取りだ。

 あの時、打ち合わせ通り校長が登場して、予定にない除籍処分をエディエット=マーヤに言い渡して彼女が取り乱していたことまでは鮮明に覚えている。

 だが今は屋敷にある自分の部屋のベットの上だ。

 服だって夜着であってドレスではない。 

 

 それともあれは、夢?

 これから起こるかもしれない未来を案じて夢に見たということ?


 小鳥が囀る窓辺は明るく、朝の爽やかな気配が漂っている。

 まさか自分が意識を失ったまま夜を過ごしたとは思ってもいないエーヴァは、時刻を確認すると慌てて支度に取り掛かった。

 



 ヴァクトマイステル家の朝は早い。

 父親は職業柄、どうしても帰宅が遅くなりがちとなり、母親は社交に余念がない為、こちらも遅くなる。

 必然、団欒を持とうとすれば朝にしか時間が合わず、長めの朝食の席がその役割を果たすようになる。

 どれだけ夜遅く帰宅したとしても病気でない限り朝食の時間に遅れることはすなわち家族をないがしろにしていると取られても仕方がないほど、家族の誰もが朝食の時間をことのほか大切にしていた。

 だが。


 朝食の席にお父様とお母様が揃っていらっしゃるのは当然としても、いつもよりも寛いだ雰囲気が漂っているのはどういうわけかしら。


 食堂の扉を開いたと同時に笑いかけられたエーヴァは首を傾げた。


「おはよう、エーヴァ。

 どうしたんだい、その格好は。

 まさかまだランドル校に行くつもりじゃないだろうね?」


 本来の年齢よりも随分と若く見える父親は栗色の瞳を大袈裟に見開いていたづらに微笑めば、その横に座っている、これまたエーヴァの少し年の離れた姉としか言いようがないほど若々しい母親がぺしんと父親の腕を叩いて窘める。


「あなた、それよりも少しは体を心配して差し上げて下さいな。

 エーヴァ、体の具合はどうかしら。

 ここに来る前に貴女の部屋を訪ねても貴女はぐっすりと眠っていてぴくりとも動かなかったというのに、もうそのように動いて大丈夫なの?」

「何を言っているだい。もちろん心配はしているさ。

 だが昨日意識を失ったのも疲労からくるものだから大丈夫だよと言っただろう?

 こうやって自分から朝食を食べに来ているんだ、私の見立て通りというところだね」

「あなたこそ何をおっしゃっていらっしゃるの?

 昨日はあれほど焦っていらっしゃったではないですか。

 だいたいお医者様に診察されて”久しぶりの外出で疲労が蓄積されたのでしょう。寝ていれば大丈夫ですよ”なんて言われて大いに胸をなでおろしていらっしゃったのはどなたかしら。

 それをさもご自分の功績のようにおっしゃるなんて、少しは恥ずかしいとお思いにならないのかしら」


 少し辛辣気味の母親とそれを面白そうに眼を細めながら受け流している父親は、この朝食の席ではいつものことだ。

 これが一歩屋敷の外にでたのなら、ブリスニステ公国の官、軍、警察のすべての公務員を捌くことのできる唯一の機関である検察で鬼の長官と恐れられる人と、子供を産んでもなお社交界の大輪の赤薔薇と呼ばれる貴婦人となるのだから、人というものは恐ろしい。

 

「……おはようございます、お父様、お母様。

 今日はいつもより随分とゆったりとお過ごしになられていらっしゃいますが、お急ぎではないのですか?

 それとわたくしの体調はいつも通りですわ。

 ただ今日の卒業式の後のパーティは所用を済ませばすぐにお暇させていただこうかと思っておりますが」


 椅子に腰を掛けて目の前でナフキンを広げていると、不思議そうにエーヴァを見つめる二人の姿が目に留まった。


「え……と、何か……?」

「まあ、エーヴァ。

 卒業式も卒業パーティも昨日のことでしてよ?

 途中で意識を無くして倒れてしまったことは覚えていない?

 やはり随分と無理をして倒れたせいか、記憶が少し曖昧になっているのかしら」


 美しい眉を顰めて、母親がエーヴァの頬に手を添える。

 じんわりとした温もりが伝わってきて心に安らぎを得られたが、それよりも母親の言葉に驚きを隠せず、父親を振り返った。

 もちろん母親の言葉は本当だったのだろう、父親も首を少し傾げながらうんうんと頷いた。

 

 そう、あれは夢ではなかったのね。


 微に入り細に入り夢に見るものなのかと疑問は持っていたが、母親の言うように倒れた記憶がないため話途中で終わってしまっている感が否めない。

 最後がどうなったのかを知らないのであれば夢と勘違いしても仕方がない。

 とは思っては見たものの、羞恥でぶわっと顔に熱が集まる。

 思わず俯いて隠そうとしても、母親の手が許さない。

 

「仕方がないことですわ。

 昨日の貴女はとても、とても素晴らしかったのですから。

 とても正義感に溢れ、私情に流されず公平で、勇敢であったと咲綾から聞きました。

 卒業式に出席することもまだ難しいと考えていたというのに最後だからと卒業パーティにも出席するなど無茶をして。

 件の娘に謝罪をすれば戻ってくるという言葉を信じて待っていれば、暴言を吐かれたとか。

 二つ、三つ先の手を読んでの応接室の対応は流石わたくしの娘と喝采しました。

 ですがやはりその体ではまだ無理だったのです。

 意識の混濁も致し方ないでしょう」

「お母様……」


 慈愛に満ちた瞳を向けられ、火照った頬もゆっくりと落ち着きを取り戻していった。

 その様子をじっと見ていた父親が、少し考えるように手を顎にやりながらぼそりと呟いた。

 

「それとも記憶に残したくないほどの不愉快な目にあった、とかね」

「あ、あの?」


 穏やかな空気が一転し、部屋の温度が一気に下がったようだった。

 戸惑いを見せるエーヴァに対し今度はにっこりと人の好さそうな笑みを向けたかと思うと肩をすくめておどけつつも辛辣な話をし始めた。


「まあ、あの男は失敗だったね。

 あの時の会で最後まで残ったのがあれだったから当初の契約のもと婚約させたが、いつか何かをやらかすだろうと踏んでいたんだよねえ。

 それこそ”見立て通り”だったかな。

 ねえ、エーヴァ。

 私はね、この家がとても大切なんだよ。

 先祖から託された、大公殿下からも信頼の厚いこのヴァクトマイステル家がね、とても大切なんだ。

 だけどね、思い違いをしてはいけないよ。

 私はお前を家のために犠牲になってほしいなんて一度も考えたことはない。

 この家を継がなければならないお前には相応の知識を持ってもらわなければならなくて、小さなころから無理をさせていると分かっていたけれど、だからといってお前がヴァクトマイステル家の駒であればいいなどとこれっぽっちも思っていない。

 申し訳ないことに、ヴァクトマイステル家はこの公国の中でかなり特殊だ。

 身分は伯爵だが、血縁になりたがる者は身分の上下を問わずに沢山いる。

 理由はエーヴァもわかっているだろうけど、我がヴァクトマイステル家が代々引き継いでいる職業のせいさ。

 後ろ暗い人には忌み嫌われるが、そうでない貴族からは殿下との繋がりが強く信頼も厚い我が家と親類関係になり、殿下とのパイプを得ようと躍起になる。

 我が家と縁を結ぼうとすれば相手側の本人はもちろんのこと、三代までさかのぼって不正がないかを調べ上げるし、親類も三親等とその縁者まで調査対象となる。

 つまりヴァクトマイステルの縁者であるということはそれだけで身の潔白の証明されたも同然だし、殿下にも安く近づける手立てともなる。

 不正はなくとも野心はある人間にとって美味しい蜜のようなものだ。

 これからは次代であるお前に取り入ろうとする者が羽虫のごとく現れるだろうね。

 お前は素晴らしい娘だけれど、女だからと侮られることもある。

 私たちの子はお前だけだから随分な重責を与えてしまったことは申し訳なく思っている、だがお前は賢い。私たちの期待に十二分に答えてくれている。

 頑張っているお前に少しでも息抜きになればと、近しい年頃の子供たちと交流関係を持ってもらいたいという私のわがままからあの勉強会を発足させたのだけど……いくら背景を調べてから参加させたといっても相手が子供だからねえ。

 ちょーっとしたお仕置きが必要な子にはさっさと退場願ったんだけれど、子供だ子供だと思っていたら体は大人っていうのかなー、あれ以外の全員が一人の女の子にのぼせ上るなんて誰も予想してなかった。自分の子供の頃ってああも盛っていたのかとかちょっと思い返してみたら……まあ、あれだよね。

 だけど規則は規則だからご退場願ったら、まさか復讐してくるとは」


 父親がつらつらと紡ぐ思いもよらない言葉に、エーヴァは息を飲む。

 復讐を考えるほど、エディエット=マーヤに対してあの当時何をしたのかと自問するが、明確な答えはでてこない。

 同性が二人しかいない状況で決して仲良くしていたわけではないが、お互い嫌悪していたわけでもなく、当たり障りのない付き合いだったはずだ、彼女が復讐を考えるほどのことをいったい何をしたというのだろうか。

 

「復讐、ですか?」

「そうだね。あれは仕返しというより復讐といっても差し支えないんじゃないんじゃないかな。

 ああ、お前があの娘に何をしたという理由ではないから安心して」


 その言葉に少なからず安堵したエーヴァだったが、彼女が復讐を考える理由を思いつけずにいてもやもやとした。

 

「復讐を考える人間の思考なんて、常人にはわからないものだよ。

 自分が規則を破ったからこそ退会させられたとは考えずに自分の悪を誰かに被せて被害者ぶる。

 この場合はあれが他の子供たちと同じように彼女に靡かなかったことで彼女の小さな自尊心が酷く傷ついたんだろうね。

 そのことと素行問題での退会はまったく関係がないことだとは思わない。

 あの後修道院に入れられ矯正を試みられたはずだったんだが、それも上手くいかなかったようだしね。

 それどころか修道院にいる間に唯一靡かなかったあれに対して恨みつらみを膨らませていたんだろう。

 ランドル校であれに出会ったのは運命の導きだと言っていたらしいから今度こそ落としてやると意気込んだに違いない。

 あれを手に入れることで傷つけられた自尊心の回復とあの当時の大人たちの思惑に対する仕返し、復讐を試みたわけだ。

 そこで邪魔なのはあれの婚約者であるお前となる。

 勉強会で席を並べながらも彼女にとってはお前の評価は下だったんだろうね。

 格下の人間が自分の脅威になるなんて不愉快以外何物でもない、排除対象となった瞬間かな。

 とことん見下してお前の評価を地に下げて自分をよく見せようと企てる、よくある手法だけど相手と場所が悪い。

 ランドル校での評価が高いお前と編入生という立場で新参者でしかない彼女では、彼女がどれほどお前を貶めようとしてもよほどの馬鹿でないかぎり彼女の口車には乗せられないとどうしてわからないのか。

 まあ男子学生にその馬鹿が多かったのは、彼女がよほど手練れているのか、抑制された小さな世界で必要とされる優越感にタガが外れてしまったためなのか。

 どちらにしてもお前を貶めようとした時点で結果は見えていたけれど、あの頭の緩い娘のおかげでこちらの懸念が一つ片付きそうだから、お前が怪我さえしなければ今回の騒動は万々歳といってもいいくらいかな。

  ―――――ああ、そういえばお前に肝心なことを聞いていなかったけど、


 お前、あの馬鹿のことが好きなの?」


 そんなことを真顔で聞かないでほしい。

 

 怒涛のごとく言葉を紡ぐ父親に面喰いながらも、無理やり理解されられた現実をかみ砕こうとした途端の爆弾発言は、エーヴァの思考をことごとく停止させ、その分本心がするりと口から零れてしまった。


「別段何とも思っておりませんが」


 その時の父親の驚きに大きく開かれた目と続く破顔にエーヴァこそが驚いて固まった。 


「ばっさり言うねえ。

 小気味いいとはこのことだと思わないかい、ヴィ?

 でもまあこれで、我が家の行く末も安泰ってところかな。

 それにしてもあれには随分と煮え湯を飲まされたものだね。

 あれもそうだけど、あれの親もちょーっとばかりお仕、」

「あなた。アルフォンス。アルフォンス・ヴァクトマイステル」


 父親の横で何食わぬ顔で香り高い紅茶を嗜んでいた母親がかちゃりとティーカップを丁寧にソーサーに置くと、静かに、けれど有無を言わせない声で父親の話を遮った。

 いたずらが見つかった子供のようにびくっと驚く父親に外での威厳はこれっぽっちも見当たらない。


「ヴィ、ヴィルヘルミーナ。どうしたんだい?」

「ちょっとこちらをおむきになって?」


 皺ひとつない細くつるんとした手で父親の頬を挟みこむと、(エーヴァ)の前だというのに恥ずかしげもなくキスをする。

 あわあわと挙動不審な父親と自分の仕事に満足げな母親に、これまたいつものことだとため息をついた。

 

「ヴィ!エーヴァの前で何を!」

「あら。別段おかしなことなどしておりませんわ。

 あなたがエーヴァをとても心配されているのはよくわかりましたから、そろそろその可愛らしいお口を閉じていただかないと、エーヴァが食事をとれないではないですか。

 エーヴァも、いつまでもぽかんと口を開けているなんて、はしたない。

 今日はこれから貴女宛てにお客様がおいでになるようですから、貴女も食事を終えたら制服を着替えていらっしゃい」

「わたくしに来客、ですか?」


 大けがを負って以来医師が時折様子を見に来る他、さしたる用事も予定もないエーヴァは自分宛てにくる来客に首を傾げるしかなかった。


「ヴィルヘルミーナ、それは」

「あなたもそろそろご準備をなさっては?

 今日は他に予定も入れていらっしゃらないのですもの。嫌なことはさっさと済ませて午後は三人で街にでも出かけましょう」


 うふふと両手を合わせて微笑む母親に、父親は気圧され気味になっている。


「そ、そうだね。そうしようか、エーヴァ」

「わたくしはとても嬉しいです……」

「はい、これで午後の予定は決まりましたわ。

 さあ二人とも、準備はよろしくて?」

「かなわないなあ、私のヴィルヘルミーナには」


 立ち上がりながら妻の元に身をかがめると陶磁器の様な頬にキスをして、エーヴァにはぱちんと片目を瞑るおどけた姿に、エーヴァも母親もくすくすと笑いながら退席する父親を見送った。


 なんて、愛情深い。


 父親は憤りを道化にすり替えてエーヴァの痛んだ心をほぐそうとしてくれる。

 目の前には母親がエーヴァの食事をとる姿ににこにこと微笑んで見守っている姿がある。


 わたくしはとても愛されている。


 疲弊した心が安らぎ、活力がどんどんと溢れていく。

 ”家は寛ぎと安らぎを与えてくれる”

 父親がよく使う言葉だが、自分がこのような状況になってみないとその真意はわからなかった。


 家とはすなわち私を愛し愛する両親の元。


 この二人の娘に生まれてよかったと、エーヴァは心の底から感謝した。



 不愉快な昨日の続きが今から始まることは、まだ知らない。

難産。

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