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匹夫の勇  作者: れんじょう
【本篇】
21/37

第二十話

「イ、イェルハルド、さま?」


 エディエット=マーヤはあからさまに狼狽えた。

 初めて心から愛した男が、生まれてから一度も向けられたことのない冷淡な目を自分に向けているからだ。

 今まで当たり前のように向けられていた、柔らかで温かな、気づかわし気で愛おしい視線はどこにもなく、まるで異物を……いや、そんな生ぬるいものではない、異臭をあたりにまき散らす腐った生ごみか糞尿を見るような嫌悪と不快しか感じられない瞳でエディエット=マーヤを睨んでいる。

 

 どうし、て。

 そんな目でわたくしをご覧になるの?


 エディエット=マーヤはわからなかった。

 アンセルムから求婚されたとしていてもそれを受けて婚約が成立したわけではないし、彼に婚約者がいることも今初めて知り得たことだ、エディエット=マーヤに非があるわけではない。

 ついさきほどまではあれほど慈愛に溢れた眼差しでエディエット=マーヤを見ていたというのに今は軽蔑と文字では生ぬるい色をした瞳の中に自分が映っている。

 イェルハルドの恐ろしいまでの変わりように、戸惑いと恐怖で体が震えた。

 恐る恐るイェルハルドの腕に手をやろうとしても、さっと腕を退かされて触れることも許されない。


 どうして。


 エーヴァにどれほど馬鹿にされても、脅されても、これほどの痛手には決してならない。

 愛するイェルハルドだからこそ、その冷たい視線は鋭い矢になってエディエット=マーヤに突き刺さるのだ。

 演技ではない涙がぽろぽろと雫となって頬を伝っていくが、イェルハルドは意に介さない。

 それどころか不愉快気に眉を顰めてから顔をそらされた。


 どうして、イェルハルド様。

 あれほど優しかったではないですか。


 動揺で声を失いながらも泣き続けるエディエット=マーヤの前に、綺麗に折りたたまれたハンカチが差しだされた。

 無垢の白が不安を一気に消し去ってくれる。

  

 ああ、やはりイェルハルド様はわたくしのことを考えてくださっている。

 嫌そうな顔をなさっていながらもこうやってハンカチをお渡しくださるのだから。


 エディエット=マーヤは涙に濡れながらも微笑んで顔を上げた。

 だがハンカチの先に居たのはエディエット=マーヤが期待した人ではなく、絶望の境地に陥れようとしているエーヴァ、その人だった。

 

「折角のお化粧が崩れますわよ?」


 か、と体が熱く燃え滾ったような気がした。

 馬鹿にされた、と思った。

 いつだって上位であることをひけらかして、いつだって人を見下す女に今また、それも愛おしいイェルハルドの前で馬鹿にされた。

 羞恥で増幅された怒りが、エディエット=マーヤを意識を支配する。

 

 ぱしんっ


 軽くはない音が室内に鳴り響くと同時に真っ白なハンカチが足元に落ちる。

 息を飲む音とエーヴァを気遣う声がどこか遠いところから聞こえてくるが、エディエット=マーヤは気に掛けることなく繊細なレースと刺繍が施された汚れの一切ない美しいハンカチを小さな足でゴミの様に踏みにじった。

 見咎めたのは横にいるイェルハルドではなく、手を叩かれた反動で治りかけていた骨に鋭い痛みが走って苦悶するエーヴァを介抱していた咲綾だった。


「貴女、いったい何をしているの」


 容赦ない非難の声が上がる。


「エディ。やめるんだ」


 愛するイェルハルドの声すらも、猛烈な怒りで歪んで聴こえない。

 

 許さない、許さない、許さない。


 想いはそのまま足に伝わり、ぴしっとアイロンのかけられたハンカチを無残な姿に変貌させた。

 

「エディ!やめろ!」


 握り締めていた拳をとられて初めてエディエット=マーヤは自分が何をしているのか気が付いた。

 足元には元の形が思い出せないほど歪んだハンカチが、今だエディエット=マーヤの小さな足の下敷きとなっている。

 慌てて足を退かしても、もう二度と元の姿には戻らないだろう。

 

「き……急に目の前に手が出てきたものですから、驚いてしまって……」


 ぼそぼそと弁解を口にすれば、今までほとんど口を挟まなかった咲綾が怒りの炎を立ち上らせながらエディエット=マーヤを睨みつけ、遮ることを許さないとばかりに畳みかけた。


「確かに急に目の前に何かを差し出されたら驚くことは理解するけど、貴女、はらい落としたハンカチを拾うどころかわざと踏みつけたわよね?

 貴女が涙を流しているからと親切に差し出されたハンカチを。

 それに、折れた骨が完全に治りきっていないエーヴァを叩いておいて謝罪すらないなんて人間としてどうなの。

 貴方(イェルハルド)もよくこんな女の言いなりになってエーヴァを貶めてくれたものだわ」


 最後にイェルハルドに向かった言葉を彼は真摯に受け止めて謝罪した。

 

「……すまないとしかいいようがない」


「本当にわかっているの?」


 イェルハルドなりに心を込めた言葉だったが、咲綾にしてみれば今までが今までだけに信頼に値しない。

 嫌味の一つや二つでは済まされないほどの苦痛を味わってきたのだからそれ相応の態度で挑んでもらわなければやっていられない。

 熱り立つ思いをぶつけようと口を開こうとしたその時、彼女が誰よりも敬愛しているエーヴァが弱弱しく手を上げて咲綾の腕を掴んで止めた。

 

「咲綾、もう大丈夫だから」


「だけど、エーヴァ!」


 エーヴァの横でずっと見てきた咲綾は、エディエット=マーヤがどれほどエーヴァを貶めてきたかを知っている。

 そしてイェルハルドがエーヴァの婚約者でありながら咲綾の知る限り一度もエーヴァに寄り添おうとしなかったことも。

 だからこそこの機会を逃しては決して本心をさらけ出さないだろう二人に言いたいことは沢山あった。

 それを察しながらも首を横に振って咲綾を止めようとするエーヴァに、余計なことをしてしまったのかと顔を顰めてしまう。

 

「そうじゃないわ。

 でも本当にもういいのよ」


 ぽんぽんと腕を力なく叩かれて、弱っているエーヴァにこれ以上の負担はかけられないと頷くしかなかった。


「……貴女がそういうのなら」


「わかってもらえて嬉しいわ」

 

 エーヴァは咲綾に儚げにほほ笑むと一転、エディには決意を新たにしたような凛とした声で話しかけた。

 改まった声に反応したのはイェルハルドで、何も言わず椅子に座りなおしたが、エディエット=マーヤといえばそうはいかない。

 咲綾からの反撃に戸惑い、イェルハルドが”こんな女の言いなりになって”しまったことへの謝罪を口にしたことで立ち直りが効かないほどの衝撃を受けていたのだ。

 短期間で体制を立て直すことなどできるはずがない。

 

「申し訳ないですが、この通りわたくしの体はまだ本調子ではありません。

 できれば今すぐにでも退室させていただきたいところですが、話が途中ではこの後の処分に不服もあるでしょうから、簡潔に話させていただきます。

 先ほども申し上げた通り、婚約者のいる者からの求婚を受けたことにより風紀委員会からの”警告”を受けておきながら改善されることなどなく警告自体を無視、その上その警告文の上下に細工して嘘の証拠を作られた公文書偽造をされた。

 さらに死に至る重度の怪我を負った学生がいることを知りながら、自分が言わなければ誰も知ることのできない場所で倒れていることを知りながら放置したこと。

 風紀委員会は以上の件をもって、エディエット=マーヤ・クリングヴァル様が退学処分に値するとランドル校に関連書類を提出し、……先ほど受理されました。


 エディット=マーヤ様。

 貴女は本日付で退学処分となりました」



本日中にもう一話追加予定です。(9/22)

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