第十八話 【エディエット=マーヤ・Ⅶ】
ここは、どこ?
エディエット=マーヤは体の内側から感じる寒気で目を覚ました。
ぼんやりと見える世界は、茜色に輝いている。
だんだんと意識がはっきりしてくると、どうして自分がそこにいるのか、どうして倒れていたのかを理解した。
目に映るのは日の沈む直前の強烈な光を宿す夕陽に染まった階段と色濃く映し出される影。
耳を澄ませばしじまが校舎に誰もいないと答えてくれた。
どういうこと?
階段から落とされたというのに、そのままで逃げたということなの?
あれほど聖人ぶっているくせに階段に突き落として怪我をさせた挙句、意識のないわたくしを放置して逃げるなど、本当に氷でできているとしか思えない。
だからこそイェルハルドも見放すのだろうと結論をつけ、起き上がろうと床に置いた手がぬめったことでエディエット=マーヤは自分の考えが間違っていることを知らされた。
「……ひっ、」
口から漏れた小さな悲鳴が冷えた校舎に響き渡る。
エディエット=マーヤの横には、制服を着た何かが横たわっていたのだ。
それは壊れた人形のようにおかしな方向に四肢を曲げ、床に生命の源をじわじわと広げ与えていきながら無造作に転がっていた。
エーヴァ!
ただでさえ白い皮膚がまるで陶器の様に無機質なものに見える。
恐る恐る手を差し出して頬を触るが、返ってきたのは妙に冷たい感触だけ。
エーヴァはぴくりとも動かない。
なぜ? なぜ!!
階段から落ちたのは確かに自分のはずだった。
そうでなければ階段の踊り場で倒れているはずはない。
だが骨から直接伝わったあの不愉快な音も、気を失うほどの体の痛みも、今のエディエット=マーヤにはまったく感じられない。
ただ単に体が寒さで冷えているだけだ。
階段から落ちる前の状況を思い出しても、エーヴァが血を流して倒れることはないだろうし、もし万が一階段から落ちたとしてもこの段数ではここまで酷く怪我をするわけがない。
怖い。
たった一つの感情だけがエディエット=マーヤを支配する。
立ち上がろうとしてもがくがくと足が震えて崩れ落ち、手は何本もあるように見えるほど動きを止めることができない。
それでも必死で恐怖から逃れようと足掻いていた。
体を壁に預け、ずるずると背中を擦りながら階段を下りることに成功すると、今度は血でこびりついた手が恐ろしくてたまらない。
ひ、ひ、と喉をひきつらせながら不浄場で乱暴に血を洗い流すと、そのまま倒れているエーヴァを振り返ることなく駈け出した。
体のどこにも痛みや怪我などないというのに、脚が思うように動かない。
もつれさせてはこけそうになり、こけそうになっても足を前に運ぶことはやめられない。
一度でも立ち止まれば青白い幽霊のようなエーヴァが自分に襲いかかってきそうで走ることをやめられない。
実習棟を転がるように抜け出してそのまま寮まで逃げ切れば、今あったことなど夢としか思えなくなるはずだ。
エディエット=マーヤは恐怖で狂いそうになる自分に必死で言い聞かせて正気を保っていた。
「エディ? どうした」
なりふり構わず走っていたら、誰かに腕を取られた。
ひ、と喉の奥から短い悲鳴を上げると、そこには驚愕に目を見開いたイェルハルドの姿があった。
「エディ!! そんなに怯えてどうしたというのだ!」
「い、イェルハルド、さま」
このありえない偶然が、のちにエディエット=マーヤの心に劇的な変化をもたらした。
だがこのとき彼女はそれに全く気が付く余裕はなく、目の前に現れたイェルハルドを恐怖から救ってくれる救世主としか考えれなかった。
「こ、怖い、怖い、……助けて」
震える手をイェルハルドに伸ばし、流れる涙で濡れ続ける顔を上げて救いを求める。
手の中に握ったのはイェルハルドの制服か、それとも希望か。
ただならない様子のエディエット=マーヤにイェルハルドは急を要すると判断し、安心させるように上着を脱いで彼女の細い肩に掛け、心地よい言葉をかける。
「もう大丈夫、大丈夫だ。誰も追いかけてきてなどいないし、ここには誰もいない。
ああ、震えているな?
むこうで温かい飲み物を用意しよう。
さあ、私に寄りかかれ。そう、そうだ。上手だな。ほら、私の腕を肩にまわすぞ。そんなに怯えるな……怖くはないだろう?」
こくこくと首を上下に動かして、エディエット=マーヤはイェルハルドの胸の中の温もりに包まれた。
背中をさする優しい手と、低く柔らかい声が、悪夢を取り除いてくれるようだ。
だが油断はならない。
エーヴァの予測できない仕掛けがどこで行われるのかわからない。
「こわ、い」
ぼろぼろと涙が止め処無く落ちていく。
人をこれほど怖いと思ったことなどない。
イェルハルドの優しさに触れても止まることのない震えはまさしく本物で、決して演技などではない。
エディエット=マーヤの周りを見ずに怯える様子にイェルハルドの緊張は高まる。
薄暗がり校庭をさりげなく見回して誰もないことを確認すると、怯える肩を引きよせて足早にその場を去った。
「少しは落ち着いたか?」
目の前に湯気がほのかに立ち上るココアを差し出されて、エディエット=マーヤは顔を上げた。
イェルハルドがエディエット=マーヤを庇いながら連れてきた先は役員でなければ入室できない学生会室で、何に怯えているかわからない彼女のために狭い空間で男と二人きりになることを防ぐために少しだけ扉は開かれたままにされている。
エディエット=マーヤは泣きじゃくりながらも進められるがまま椅子に座り、身体を縮こまらせて震えていた。
逃げる様子もないエディエット=マーヤに誰かに襲われたわけではなさそうだとほっと胸をなでおろしたのはここまで連れてきたイェルハルドだった。
もしそうならば会った時点で拒否をされているだろうから大丈夫だとはわかっていたつもりだったが、エディエット=マーヤのあまりの恐慌ぶりに冷静な判断がなされなかったようだった。
事務処理で籠りがちになる役員のために自炊ができるようになっている学生会室で、イェルハルドは震える体が温まるようにと早速ココアを練り始め、熱いミルクを注いだ。
出来立てのココアを目の前に差し出せば、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて両手でカップを受け取った。
「……美味しい」
微かな声でつぶやくと、またぽろりと涙をこぼす。
だが今度は先ほどまでとは明らかに違う安堵からくる涙だった。
「何も、聞かれないのですね」
「エディが落ち着いたら何があるか教えてくれるとわかっていたからな」
「……ふ、そういうものですか?」
「私は学生会会長だから、校内で起こったことはすべて知る必要がある。
明らかに何かあったと分かる姿で校庭を走っていたのだ、貴女から話をしなければ問いたださなければならなかったが。
もちろん、教えてくれるのだろう?」
柔らかな眼差しと口調は、強制ではありつつもその印象を薄くする。
その上イェルハルドはエディエット=マーヤを尊重して、落ち着くまで待ってくれていた。
ぐ、とカップを握る手に力が入り、ココアが波立つ。
意を決してエディエット=マーヤが口にした言葉は彼女から聞かなければ到底信じられないような話だった。
「わたくしは、階段から突き落とされたのです――――エーヴァ・ヴァクトマイステル様に」
うそだ、と喉元まで出そうになった言葉を飲み込んだ。
ヴァクトマイステル家を誇りとしているエーヴァが人を階段から突き落とすなど、一歩間違えれば当たり所が悪く大けがを負うかもしれないようなことをするわけがない。
理性はそう告げていても、先ほどの恐慌状態を見せつけられれば疑う余地はないだろう。
そもそもエディエット=マーヤが嘘をつく必要性がない。
だが、
「なぜ」
エーヴァが彼女にそのような行動をとる理由もない。
エディエット=マーヤが階段から突き落とされたと言えばそうなのだろうが、理由のないエーヴァではく、他の誰かと見間違えた可能性もある。
そうエディエット=マーヤに問うと、信じられないとばかりに目を大きく見開き、その眦にみるみる間に涙を盛り上げ、頬を伝わせ床を湿らせていく。
恐ろしい目にあったばかりの彼女を余計なことで悲しませた罪悪感で胸が苦しくなった。
「イェルハルド様はわたくしが嘘をついたとお疑いですか?
ですが間違いなくわたくしは階段の上で突き落とされたのです。
以前からエーヴァ様はわたくしのことを好ましく思っていらっしゃいませんでした。
特にイェルハルド様と親しくお話をするようになってからは、通りすがりに誰も聞こえないほどの小さな声で心が痛くなるほどの沢山のお言葉をいただくようになりました。
そればかりか最近では小さな紙片に不愉快な言葉を書かれて渡される始末。
よほどわたくしがイェルハルド様の傍にいることがお気に障るのでしょう。
イェルハルド様や他の皆様とお話しているところを遠目で睨みつけられていることなどいつものことですし、後を付けられ日々監視されているような不快感に襲われることなど、それこそ毎日のことなのです。
今まで貴方にご心配をおかけしては申し訳ないと思っておりましたが、もう、もう限界です。
階段を突き落とされた時の、彼女のあの勝ち誇ったような顔が、恐ろしくてたまりません。
もう二度と彼女に会いたくないほどです。
ああ、もうこれからどうやって卒業までを過ごせばいいのでしょうか」
さめざめと泣くエディエット=マーヤは儚く、これ以上この問題を追及することも憚られた。
イェルハルドはエディエット=マーヤにこれからは必ず傍にいると約束をして、落ち着きを見せ始めた彼女を寮まで送っていった。
問題はエーヴァだ。
早速エーヴァを呼び出したが、いつもならばすぐに応じるエーヴァからの返事がまったくやってこない。
しびれを切らして直接会おうと寮までいっても、寮長からは立ち入り禁止だとあっさりと返される。
エーヴァに託を頼んでも、返事がないのできちんと届いたかどうかも怪しい。
学生会会長の権限を使っての呼び出しにも応じない。
それどころかいつの間にか寮を引き上げ、実家に身を寄せているとこちらもいつのまにか代替わりした風紀委員長からの連絡が入った。
仕方なくエーヴァの実家に連絡を入れても、返ってくる答えはただ一つ。
『取り次ぐことはできません』
逃げた、な。
イェルハルドはそう結論を付けた。
エディエット=マーヤは寮にいても校舎にいても森にいてもどこにいても、全く出会わなくなったエーヴァに拍子抜けした。
あのことがあるまでは何かと嫌味を言いにきていたというのに、今はそれが全くない。
イェルハルドが上手く彼女をあしらったのか、それともイェルハルドをあきらめたのか。
後者であれば喜ばしいことだが、直接本人から聞かなければ安心はない。
だがどこを探してもエーヴァの姿は見当たらず、周りの人に話しかけようとしても誰もが彼女を避け、事件をイェルハルドから教えられエディエット=マーヤを守るようにと指示されている僕たちはそれこそ彼女を話題に上らせる愚行をするわけもない。
エディエット=マーヤの周りでは、エーヴァという人間の存在は初めからなかったようになっていた。
それはそれで堂々とできるからよいのだけれど。
害虫がいなくなり勝者となったエディエット=マーヤは人生で一番密度の濃い時間を味わっていた。
―――――油断大敵とはよくいったものだ。
まさか婚約者を取られたことで愛情から来る憤りや痛みを生みだし苦しむのではなく、自尊心だけが傷を受け、学生の鏡といわれる女がその報復に乗り出すとは誰も考え付かないだろう。
エディエット=マーヤが学び舎でふわふわとした時を過ごしている間、いかに彼女を蹴落とすか、その方法を練りに練って仕返しをしようとする恐ろしい女、それがエーヴァなのだ。
胸がむかむかしてどうしようもないわね。
走馬灯を見るようにいくつもの嫌な記憶がエディエット=マーヤを苛んでいた。
「……ット=マーヤ様」
ああ本当にむかつく女。
一度退場したのだから、二度と現れなければいいものを。
「エディエット=マーヤ様?」
強く名前を呼ばれて、エディエット=マーヤは我に返った。
なんてこと、今はこの女を永久に自分たちの前から消さなければならないというのに。
つまらないことで思考の海に沈んだことを悔やんでももう遅かった。
エーヴァは先ほどエディエット=マーヤから受けた攻撃もまったく意に介さない様子で、急に動きの止めたエディエット=マーヤに勝者の余裕を見せつけているだけだった。
「急に黙られてしまわれてどうされましたの?
ご気分でも害されましたか?」
気分など、害されていますわよ。
皮肉に口の端があがった。
心配そうに声を掛けながらもその顔にはひとつも感情がないエーヴァをきっと睨みつけて、二度とこんな失態は犯さないと誓った。
これにてエディエット=マーヤのターンはおしまい。
……長かった……