第十七話 【エディエット=マーヤ・Ⅵ】
今度は『警告』?
開かれた紙に踊る文字は有無を言わせぬ迫力でエディエット=マーヤの視界に飛び込んできた。
だが『勧告』や『注意』の時と内容はほぼ同じ。
代わり映えのしない文字が目を滑らせる。
自分が婚約者にも見捨てられたつまらない人生を歩んでいるからって、謳歌しているわたくしをどこまで蔑めばいいのかしら。
滑稽ないほど巫山戯た内容に破り捨てたくなる衝動を抑えきれず、びりびりと小気味よい音をわざと立てて小さな紙片となるまで破った。
はらはらと指の間をすり抜けて落ちていく紙片にとどめをさすつもりで踏みつけようとした時、一枚の小さな紙片に書かれていた文字がエディエット=マーヤに天啓を授けた。
なるほど。
忌々しい紙にもこんな使い道があっただなんて。
エディエット=マーヤは早速紙をため込んでいる箱の蓋をあけると、中から使えそうな紙を数枚取りだして丁寧に破いた。
それをいつも使っているポーチの中にそっと忍ばせて、時が来るのを待つことにした。
さあ、いつでもかかってらっしゃいな。
エディエット=マーヤは静かにほくそ笑んだ。
だがその小細工も必要としない事件が起きた。
授業が早くひけて、僕との逢瀬を掛け持ちで持っていた最良の日の午後のこと。
爆発に耐えうるだけの強度を誇る実験室や防音効果を極限まで高めている音楽室は格好の逢引の場だった。
その上この二室は同じ実習棟にありながらも階が違っているために時間帯を多少ずらせばかち合うことなどない、まさに逢引のために作られたと言っても過言でない部屋だとエディエット=マーヤは思っていた。
一人目とは二階にある実験室で、そして二人目とは三階にある音楽室で逢瀬を楽しんでいたエディエット=マーヤは、窓から見える空の色がだんだんと茜がかっていることに気が付くと名残惜し気に抱き合ていた体を離した。
すでに授業が終わり誰もいないと分かっていても万が一のためにタイミングをずらして音楽室をでる。
後から出るのはもちろん身支度に時間のかかるエディエット=マーヤだ。
そうこうしている間にも空はその情景を足早に移り変わらせていく。
もうすぐ夜の帳が降りるだろう。
そろそろいい頃合いね、ともう一度身なりを整えて音楽室を後にした。
どうしているのよ。
気分が高揚したままで駆け下りた階段の下ににっくきエーヴァが夕日を背に佇む姿を見つけた時にはうんざりとした。
だがエーヴァの横にいつもへばりついている黒髪の女もそれ以外の他の誰かもいないことがわかると、エディエット=マーヤは好機を得たとばかりに先制攻撃を仕掛けることにした。
「良いところでお会いしましたわ。
今日こそは良い返事をいただけますわよね。
もはやわたくしの言葉の意味がわからないとは言わせませんわ」
畳みかけるように告げると、エーヴァは口元を隠すように手を当てながらあからさまに顔を顰めていた。
氷の女と心の中で罵るほど普段はまったく表情を動かさないエーヴァの露骨な態度に、脈ありと暗い喜びに震えた。
「どうなさいましたの、そのように顔を醜く歪められて。
誰もいない場所ですと普段の様に取り繕う必要もないということですか?
それともご自身がどれほどイェルハルド様にとって不幸をもたらす存在かやっとご理解されたということでしょうか。
でしたら一秒でも早くイェルハルド様を開放してくださいませ。
そうすれば貴女のその深い皺も綺麗になくなることでしょう」
「出会い頭に立て続けにいったい何をおっしゃいますの?
これまで何度も諌めても貴女は礼儀や作法を学び実践するということを理解なさらない。
それではこの学び舎を卒業された後にいったいどれほどの恥をかかなければならないか、そろそろお分かりにならなければなりません」
寄せていた皺を一瞬で取り去り、いつもの読み取れない表情を見せるエーヴァは、まだうら若いというのにつまらなくて堅苦しい、文句ばかりのオールドミスのようだ。
もちろんオールドミスの話すことなどエディエット=マーヤにとっては至極どうでもいいことだった。
「ところでエディエット=マーヤ様は今まで上の階で何をなさっていたのですか?」
「まあ、わたくしがどこで何をしようが貴女には全く関係のないことだと思いますが」
「ええ、たしかにそうでしょう。ですが貴女はわたくしにイェルハルド様を開放しろとおっしゃる。まるでわたくしがイェルハルド様を束縛し、苦しみを与えているように言われるのは心外です」
「まさにその通りではないですか」
「何を根拠にそのようなことをおっしゃるのかわかりかねますが、一つだけ思い当たることがございます」
「あら。やっとお認めになられるのですね。ご自身がイェルハルド様の苦悩を作っていらっしゃると」
「いいえ、そのことではございません。わたくしが思い当たると言ったのは貴女が随分といろいろな男性に色目を使っていらっしゃる、そのことですわ」
「失礼な! まるでわたくしが色情狂の様に聞こえますわ」
婚約者にすら見捨てられるつまらない女が何を言う。
恋を得られて青春を謳歌しているわたくしを羨ましがっての暴言とわかってはいるものの、度を過ぎれば許されないとなぜわからないのかしら。
そのくせ無関心を装っての無表情。
悔しがるなら表立って悔しがれば可愛いものを。
エディエット=マーヤは色目を使った覚えなどない。
だいたい色目など使わなくても男が勝手に寄ってくるのだ、それをどうしようがこちらの勝手というものだろう。
強いて言えば数名は自分から進んで話しかけた覚えはあるが、それも色目を使うなどという表現ではなく普通の話を振っただけ。
それだけのことで文句を言われる筋合いもない。
「さあ、そのような言葉を私は決して使ってはいなことを申し上げておきますわ。
ですが貴女は風紀委員会より注意をされていますでしょう?
それだというのに貴女という人は一体何人の方とご一緒されておりますの?」
「先ほどから論点がずれているのではなくて? それにいったい何のことをおっしゃっているのかさっぱりわかりませんわ」
「匂いですわ」
「は?匂い……?」
頓狂な答えに、エディエット=マーヤは戸惑った。
わたくしが臭い、ということかしら。
思わず腕を上げて鼻をすんとしそうになったが淑女を自負するエディエット=マーヤには誰が見ていていなくともできる仕草ではない。
目の前の不愉快な女に悟られないように静かに鼻から息を吸いあげ匂いを確かめるが、別段なんの匂いもしない。
無理やり臭うと定義づけるのならば、それこそ不浄場独特の臭いがあるのかもしれないという程度だ。
いったい何がいいたいのか、エーヴァの真意がわからなかった。
首を傾げたエディエット=マーヤにエーヴァはくすりと嗤う。
「ええ。匂いです。わたくしはかなり鼻が利きますのよ? 衣服に焚き染める香は人によって違う事はもちろんご存じでしょうが、ご実家に帰られれば使用人がする仕事もこのランドル校ではご自身がされる方がほとんど。香を炊くことが不慣れなせいか、それとも匂い慣れしすぎて炊きすぎていることに気づかないかたが多いのです。
今、あなたが階段から下りてこられた時に、数種類の香の匂いが降りてきました。
まさかそれがどういう意味かわからない貴女ではないでしょう」
ぎくり、とした。
これ以上ないほどに恐ろしいモノを見たような気がした。
確かに香を焚き込めることは常識で、それが当たり前すぎてすっかり失念していたのだ。
だが焚き込みすぎるのはどの学生もそうで、校舎内は何百種類という匂いが漂っている。
誰もが匂いを嗅ぎすぎて鼻が馬鹿になっている中、数人の匂いをかぎ分けることができるだなんて誰が思うのか。
「わ、わたくしは上の階にある会議室で数人の方とお話をしていただけですわ。その時に匂いが移ったのでしょう。言いがかりを付けないでくださいませんか?」
「言いがかり? まさか。
人の匂いが移るにいたるにはそれ相応の行為が必要でしてよ?
近くにいるだけでは決してここまで匂いが移ることはありません。
移るとすれば……最低限、抱き合うくらいのことはされているかと思いますが。
それも何種類もの香が香るなど、その香の数だけ短期間に抱き合ったとしか考えられないということですわ。
――――――エディエット=マーヤ様。
イェルハルド様をお慕いしていると言いながら、貴女はいったい何人の男性とそのような仲になられているのですか?」
「匂いなどっ! 匂いなど移ってなどいませんわ!
そうやって嘘を並べてたててわたくしを貶めるつもりでしょうが、その手には乗りません」
「嘘……? わたくしが嘘をつくとでも?」
「ええ、ええ! わかっていますわよ。近頃のエーヴァ様は以前に比べてイェルハルド様からのお声がかりが少ないと、誰もがエーヴァ様とイェルハルド様の不和を知っておりましてよ」
「イェルハルド様とわたくしの関係が皆様にどう映ろうが、今この場では全く関係のないことですわね。
エディエット=マーヤ様。
貴女はわたくしに虚言ありとおっしゃいましたが、わたくしはヴァクトマイステル家の者としてそのような行為は恥ずべきものとして身についております。
ですが貴女が匂いがしないとおっしゃる理由はわかりますわ。
なぜなら常日頃から同じ匂いを嗅ぎ続けますとその匂いがわずかであった場合に匂いを感じなくなるのです。
わたくしはわたくしの衣服に香を焚き染めません。
嗜みとして必要とは存じておりますが、わたくしの家では当然のことです。
おかげさまで本当に鼻がききますの。
―――――ええ、本当に」
「っ、寄らないでくだ、」
急に近づいてきたエーヴァに形勢不利を悟ったエディエット=マーヤは慌てて足を後ろに下げたが、下げた場所が悪かった。
下げた足は階段の淵を踏み損ねた上に、もう片方の足では支えきれないほどの力がかかっていた。
え?――――あ、床が、
不注意といえばそれまだだったが、普段であれば近くによることなどないエーヴァが急に体を寄せてきたのだ。何かされると感じて少し後ろに下がっただけのはずだったのが、足を下げた先には床が存在せず、エディエット=マーヤは空を踏んで体を宙へと舞わせてしまった。
「エディエット=マーヤ様?」
エディエット=マーヤの中断された声を不審に思ったエーヴァの低めな声が聞こえてくる。
不思議なほどゆっくりとした時間が流れていく。
エーヴァの顔がだんだんと驚愕に染まっていく。
助けを求めようと両手を突き出しても彼女のところまでは届かない。
ああ、なんてこと。
人は境地に立たされたら持てる記憶をすべて探ってその場に相応しい知恵を導き出そうとするのだとか。
短い間にフル活動する脳は時間をも引き伸ばして知恵を探る。
今まさに起こっていることこそがそうなのだろうと、一瞬で理解した。
なるほど、ではわたくしは今からとてつもない怪我を負うということなのね。
その瞬間、目の前で恐怖に歪むエーヴァの顔がエディエット=マーヤに閃きを与えた。
ああ、なんて面白い。
エディエット=マーヤは落ち行く自分の体がエーヴァを陥れる切り札になることに狂喜した。
「……まーヤ様? エディエット=マーヤ様っ!!」
がこがこと体が階段にぶつかり回る音と恐ろしいまでの痛みで意識がぶれる。
氷のエーヴァが取り乱す声はまさに福音だ。
だが残念なことにエーヴァが何を叫んでいるかまでは遠ざかる意識の中ではわからない。
寒い。
寒くて、暗いわ。
そうしてエディエット=マーヤは闇に落ちた。