第十六話 【エディエット=マーヤ・Ⅴ】
それからのエディエット=マーヤの行動は以前とは明らかに違っていた。
盲目のイェルハルドという後ろ盾を得て、遠慮ない浅はかな行動をとるようになったのだ。
例えばそれは僕たちと過ごしているとき。
二人きりであれば各々がエディエット=マーヤの愛おしい恋人だが、公的な場所では誰もが気の置けない友人に装っているはずで、その扱いは平等であるはずだった。
だがいつの間にかエディエット=マーヤの横にはイェルハルドが並び立ち、外では決して見せない甘えを人前でも見せるようになったこと。
これにより僕たちの心情がわずかばかり揺れ動いたことをエディエット=マーヤは気付いていたが、彼らと二人きりで過ごす甘い時間を今まで以上により深く持つことで彼らの苦情を相殺させたつもりだった。
だが彼らにしてみれば二人きりとなる短い時間よりも長い時間をイェルハルドに甘えているエディエット=マーヤを見ることで心は澱んでいく一方になった。
例えばエディエト=マーヤ達の横をエーヴァが通り過ぎようとしているとき。
今までであれば見知らぬ誰かが横を通り過ぎるだけだったものが、イェルハルドの横にエディエット=マーヤがいることでエーヴァの弓の様な眉がぴくりと動き、エディエット=マーヤは怯えに体を震わせる。
そんな彼女の異変に気付くのはもちろんイェルハルドで、一瞬で状況を察するとエーヴァから庇うようにエディエット=マーヤの前に立ち、婚約者であるエーヴァを睨みつけて注意をするようになった。
そしてエディエット=マーヤが一人でいるときにエーヴァが姿を見せようものなら。
エーヴァの横に友人がいたとしても、エディエット=マーヤは彼女の傍にやってきて大袈裟に懇願するのだ。
『もっとイェルハルド様に優しくなさってください。婚約者であるのなら、彼を労わって差し上げてください』
『どうしてわかってくださらないのですか。わたくしはイェルハルド様の苦しそうに歪む顔を見ることすら心痛いく感じますのに』
『貴女という存在がイェルハルド様の苦しみに鞭を打つのです』
『もう解放して差し上げてくださいませ』
エディエット=マーヤは自分こそがイェルハルドの苦しみを知り憂いている存在でイェルハルドからも信頼を得ているのだと、懇願という名の攻撃をエーヴァに仕掛けていた。
だがエーヴァは、感情の高ぶりで涙ぐむエディエット=マーヤを一瞥するといつも決まったように一言だけを返してくる。
『少しスカートの丈が短すぎるのではないですか?』
『廊下を走られては他の方々の迷惑ですわよ』
『ここは大声を上げるにふさわしい場所ではありませんわ』
『もう少し淑女らしく落ち着きを持たれたらいかがでしょう』
忌々しいことに、どれほどイェルハルドのことで感情を揺さぶろうとしても一片の動きも見せることがない。
それどころか口を開くも億劫だとばかりにゆったりとした口調で返してくるのだ。
はなっから相手になどされないことなど馬鹿でもわかるというものだ。
『そういえば貴女は随分と楽し気なご友人がいらっしゃるようですが、ほどほどになさいませ』
関係ないことでしょう!
彼女の言う”随分と楽し気なご友人”の中には自分の婚約者も含まれているというのに、まったく意に介さずに平然と言ってのける。
氷の女とは彼女のことに違いない。
ほどほどになんて、よくも言える。
それとも感情を殺さなければ罵詈雑言を浴びせてしまうとでも恐れているのか。
いや、そうに決まっている。
仮にも自分の婚約者のことを他人からあれこれと言われているのだ、愛情がなくとも矜持がそれを許すまい。
なんてこと。
彼女のほうが、私よりも感情の制御に長けているということなの?
そんなばかなことがあるわけないわ!
事がうまく運ばない苛つきに親指の爪を噛みながら歩いていると、寮の手前の小路の脇に僕の一人がきょろきょろと辺りを見回し誰かを探していた。
そしてエディエット=マーヤが歩いてくる姿を見つけると、ぱっと顔をほころばせて近づいてくる。
小心者。
だけれどそれすら愛おしい。
彼が誰にも悟られないようにしているのは一目瞭然で、それを強要しているのは他らなぬエディエット=マーヤだ。
小心者なんて考えることすら間違っているが、苛立ちでささくれた心には深く考えるだけの余裕はない。
反面、約束もなしにやってくるこど焦がれられていると考えるだけで気持ちが高揚していくのだから現金なものだと、強張りに固まった顔になんとか笑みを浮かべて僕に手を差し出した。
恭しく手を取ってキスをする僕の、さらさらと流れ落ちる絹の様な白金の髪をじっと見る。
彼の紫水晶に似た瞳をエディエット=マーヤは愛していた。
気が付くと小路の奥のそのまた奥に連れ去られ、誰もやってこない森の小さな小屋の中へと導かれた。
これから始まる逢瀬に苦しくなるほどの期待をして、閉めた扉に背を預けた。
すぐさま彼は体を押しつけてきてエディエット=マーヤを閉じ込めて逃がさない。
どくどくと信じれないほど熱く脈打つ心臓が制服越しでも感じとれて眩暈を起こしそうだ。
もう世界にはお互いの存在しか感じ取れなくなっていた。
「卒業したら私の元に来ないか」
絞り出すように告げられた言葉に、エディエット=マーヤは凍り付いた。
まさか僕がそのような大それたことを考えていたなどと、思いもしなかったからだ。
エディエット=マーヤの中では僕とのひとときはつまらない学生生活の簡単な娯楽の内の一つだった。
彼らからの献身や愛情はどれほど注がれても足りないと感じるが、自分の心を明け渡すことはない。
彼らは正しく僕であり、彼女の夫候補ではありえなかった。
「……わたくしは、もちろん、アンセルム様をお慕いしております。ですが、将来のことはわたくしの一存では決められないのです」
「なぜだ。
……いや、本当は貴女はイェルハルドを愛しているのだろう?だからそのような言い訳を」
まさか、それはない。
声を大にして叫びたかったが、それをしたら元も子もない。
もともとはイェルハルドの友人だからという理由で落とした僕だ、下手のことをしゃべれば筒抜けになるだろう。
「違いますわ!
違うのです。彼は、イェルハルド様はわたくしをエーヴァ様から守ってくださっているのです。
お忙しいアンセルム様にわたくし事でご心痛を与えてしまっては申し訳ないと黙っておりましたが、なぜかエーヴァ様から執拗な嫌がらせを受けているのです。
口にするのも不愉快になるようなことばかりをされているものですから、エーヴァ様の婚約者であるイェルハルド様がわたくしを不憫に思い、助けてくださっているのです。
いくらわたくしが彼と親しく話していたとしてもそれは理由があってしていることで、彼に対してアンセルム様に感じる愛情以上のものがあるわけではないのです。
信じてくださいませ。
わたくしが愛しているのはアンセルム様ただおひとりですわ」
「エディ……すまない。
貴女を愛するあまり、気が狂いそうになる。
他の男に優しい言葉をかけている姿を見るだけで相手の男を殴りたくなるし、身体を触ろうものなら絞殺しても殺したりないと考えてしまうほど、貴女に溺れているのだ。
私の愛は随分と重いと思うが、それでも貴女を愛することをやめられない。
だからどうか、卒業したら私と共に人生を歩くと言ってほしい。
口約束だけでもかまわない。
その言葉があるだけで、私は嫉妬に狂わなくて済むだろうから」
「ああ、アンセルム様。
全身全霊をかけて愛していますわ。
ですからどうかわたくしを信じてくださいませ。
わたくしの愛は貴方以外の誰のものでもないのですから」
頬を両手に挟まれて、幸福に瞼を閉じる。
ばくばくと早鐘を打つ心臓が僕のそれと合わさって、狂おしく鳴り響く。
ああ、たまらなく、美味しいわ。
何度も熱い口づけを交わしながらも、エディエット=マーヤは一歩離れた位置から逢瀬を楽しんでいた。
そしてまた、扉の下に紙が差し込まれる。
今度は「警告」という文字を記されて。