第十話
「まずは、一つめ」
エーヴァは二人の目の前に手を突き出して、見せつけるように親指を折り曲げる。
「エディエット=マーヤ様の未必の故意による傷害罪を問うことができます。
これはランドル校に限らず、我が国の法律においても裁かれる罪ですのでお二方、特にイェルハルド様にはご承知おきください」
は?と声なき声が重なって聞こえてきたが無視をする。
「そして、二つめ」
人差し指が曲がる。
「風紀委員会よりの警告を受けてもなお、改まることのなかったエディエット=マーヤ様に対する処分が先ほど決定されました」
イェルハルドに縋っていたエディエット=マーヤの血色がざっと音をたてて落ちていく。
上着を握り締めた手が震えているのは先ほどと違った意味に違いない。
「……いったいなんのことだ?」
何を言われているのか全く分からないイェルハルドは、しがみついているエディエット=マーヤを見下ろして尋ねた。
瞳を潤ませながら何のことかわからないと首をゆるゆると横に振る様は、先ほどまでの我の強い彼女からは想像もつかないほどに儚げだ。
見事すぎる早変わりに、男を誑かせるに慣れた女を見た。
「あら。イェルハルド様はご存じありませんでしたか」
微かに頭を横に傾けると、わざとらしく訊いてみる。
もちろんイェルハルドは知らないだろう。
そうでなければ今ここにいるはずなどないのだから。
だがその仕草も恋しい女がすれば愛おしく、憎々しい女がすれば媚び諂いに見えるのだろう、イェルハルドの怒りは凄まじく燃え上がった。
「どういうことだ!
エディが風紀委員会から警告を受けるなど、あるわけないではないか!」
ランドル校の学生であるものが、自分が愛した者が風紀委員会からの警告を受けるなどという最も恥ずべき事実をどうして受け入れられるというというのか。
イェルハルドはエーヴァの言葉を嘘だと思いたかった。
初めて知るのだから疑いの眼差しを向けられることは想定内とはいえ、全く全く信じようとしないというのも考え物ですわね。
それとも本心では疑っているもの信じたくないという心を怒りで抑え込もうとしているのかしら。
どちらにしても随分と毒に侵されたこと。
助けようがないとはこのことかもしれないと、エーヴァは軽く首を振った。
「一つお伺いいたしますが」
拳を震わすイェルハルドの注意を引けるように、わざと一拍をおく。
イェルハルドだとて馬鹿ではない。
学生会会長だった頃、感情ばかりが先走った結果、碌でもない最後を迎えた人間を沢山見てきたのだ。
自分がその馬鹿になるはずはないが、怒りで我を忘れそうになっていることは否めないと、これを好機に溜めていた息をゆっくりと吐き出すことで不要な感情をも吐き出そうとした。
吐ききったタイミングを見計らい、エーヴァはイェルハルドが当然知っている事実を改めて問いかけた。
「貴方が学生会会長という役職にお就きになられていらっしゃったときのわたくしの役職を覚えていらっしゃいますか?」
「……風紀委員長だったな」
さすがにあの勉強会で最後まで残っただけのことはある。
たった数回の深呼吸で怒りのほとんど収めてしまったイェルハルドをエーヴァは見直した。
ほんの少しだけだったが。
「ええ、まさにその通りです。わたくしはランドル校第六十七期前後期学生会、そして翌第六十八期前期学生会において全学生の支援を受け、学生会発足以来初の女性の風紀委員長を歴任させていただいておりました。
さて、もちろん学生会会長でいらした貴方のことですから、風紀委員の存在理由をご存じかと存じますが」
「馬鹿なことを聞くものだ。風紀委員とは学生会会則にあるとおりの規則を守らせるための取り締まりを行うために存在する」
「そうですわね。ですが残念なことにその答えは半分正解で半分不正解です」
「ありえない。
もし貴女がいうように半分正解で半分不正解であれば、学生会会則を熟知していることが必須である学生会会長であった私の沽券に係わる問題となるだろう」
「では残念なことにそうなのでしょう」
あっさりとそうだと肯定したエーヴァに苦々しく感じはするものの、そこまで言うならばその理由を知りたいとイェルハルドが続きを促した。
その姿勢は十分に歓迎されるもので、昨今のイェルハルドには見られなかった昔の彼そのものにも感じられた。
まるで、あの頃のよう。
一瞬だけ遠い過去に思いをやって頬を緩ませたが、目端にはいってきた女の媚びた姿に現実を思い知らされた。
罪。
その言葉が最もふさわしい女だった。
今から、エーヴァはその罪を暴くのだ。
時間が経つにつれ、どんどんと重くなる不自由な体に鞭を打って、エーヴァはイェルハルドに真実を、エディエット=マーヤには罰を与えなければならなかった。
「まず、風紀とはなんでしょうか。
風紀とは道徳と秩序を守らせるための規律を指しますが、ランドル校においては特に交際についての節度を守らせるために存在する規則です。
我が校は国が未来ある若者を身分に関係なく集め、税を用いて教育し、将来国にとって有益な人間になるように育てるための特殊教育機関です。
入学するにはとてつもない努力と知識が必要ですが、入学すれば勉強にかかる費用すべてが無償、その上少々ですが給料まで支給されます。
ランデル校に在籍する期間、いわゆる思春期に該当する期間ですが、抑制された生活の中で本能が異性を求めてしまう年頃の人間が一堂に生活を共にするため、どうしても色恋沙汰に発展して負傷したり精神的に病んでしまう人が毎年少なくない数に上ります。
それだけの人数が不祥事を起こし退学していくとなると、国としては決して少なくはない金額の税を使って育てている人間が潰れてしまわないように監視する組織が必要となりました。
それがランドル校で風紀委員が発足した真実であり、このことは学生会室の金庫にある持ち出し禁止書類に記載されていますが、まさかご存じなかったなどとはおっしゃいませんわよね?」
「もちろんだ。それがどうした」
「ですので、風紀委員会は本来、風紀を取り締まることを目的とし、それ以外の規則を破った人たちを取り締まるために存在するわけではないという事です。
お分かりいただけましたでしょうか」
なるほど、そういうことを言いたかったのかと呟いたイェルハルドにエーヴァは頷くだけに留めておいた。
「では本題ですが。
わたくしは風紀委員の中の長でした。
ランドル校の風紀を乱す人間に注意すべき人間です。
そこはご理解いただけますか?」
「……だが貴女がエディにしてきたことはその役職に反することばかりではなかったか」
元の目的を思い出したのか、顔を顰めて追及しようとするイェルハルドにエーヴァはただ静かに否定する。
「いいえ。わたくしは一度たりとも反してなどおりません。
わたくしの言葉にいら立ちを募らせていらっしゃるようですが、少しの間、話を聞いてくださいませんか。
もちろん、そちらでそわそわと所在無げに座っていらっしゃるエディエット=マーヤ様もです。
華やかなパーティがすぐそばで行われているというのに、なぜこのような場所でぐずぐずしなければならないのかとお考えのようですが、参加したいのはわたくしだとて同じです。
ですが、今の時間になぜ応接室にいるかといえばもともとはあなた方がそのパーティでわたくしを糾弾したためではないでしょうか。
―――――まあそれも虚言であったことは証明されましたが。
貴女方はわたくしを貶めたかったのですから、わたくしの詰まらない話を少しくらい聞いてくださってもよろしいではないですか」
「そんな……貶めたかっただなんて」
「我々は貶めたいなどと下種の考えにとらわれてなどいない」
心外だとばかりの言葉は口に紡いだ途端、するりと床の上に落ちていく。
なんて空々しい。
ころころと転がり落ちる心無い言葉の数々に、形があれば今頃部屋を埋め尽くすだろうと決して狭くはない応接間をぐるりと見回した。
「本当に?
……あら、これは失言でした。そうですわね、高尚なる貴方がたがわたくしごときを貶めるなど、必要のないことでした。
では、話を元に戻しましょう。
わたくしは風紀委員長を務めておりました。
風紀を乱すものを注意、勧告、指導、処罰することは当然の権利であり、義務でもありました。
ところで先ほどから申し上げていますとおり、わたくしにはエディエット=マーヤ様に対する不愉快な感情を持ち合わせたのは階段での事故以降でした。
それより以前には随分とエディエット=マーヤ様からありもしない苦言を頂いておりました。
わたくしは確かにイェルハルド様の婚約者でありますが、家と家との結びつきの為になされたことであり、わたくし個人としての感情はそこには一切ありませんから、嫉妬でエディエット=マーヤ様をどうのこうのとすることなどありえません。
が、イェルハルド様はパーティ会場でおっしゃっていましたわね。
”私と親しくしているというだけでエディに対して嫉妬し、数々の嫌がらせをしていると報告を受けていた"と。
嫉妬という感情のないわたくしがエディエット=マーヤ様を苦々しく思っての行動で嫌がらせなどという稚拙な行為をすることはありえませんが、イェルハルド様はどなたかがされた話を鵜呑みにされ、わたくしがそのような行動をとったとおっしゃいました。
それは一体誰からの忠告でしたか?」
「アンセルム・バックリーン、バルトサール・アグレル、イェオリ・パーシェブラントにメルケル・ノルドランデルが卒業間近の忙しい時間を割いて、穏便になるようにと個々に進言してくれたのだが?」
「ああ、なるほど。
その方々の名は存じ上げております。
その方々ならば事実無根の忠告も納得いたしますわ」
なるほど、どうりで証拠もなく確信をしているはずだわ。
エーヴァは上げられた名の綴りすら間違えずに書くことができる自信があった。
なにせここ一年ほどの間にその名前をどれほどの書類に書き記してきたことだろう。
腱鞘炎になるのではないかと手首を軽く回しながら凝りを解したことは今はもう懐かしい話だが、風紀委員長の職を辞した後でもその名を聞かざるをえないとは因果な職に関わったものだわと、瞼を閉じた。
「なぜ。なぜ彼らの名を聞いて納得する?
彼らの何を知っているというのだ」
どこか焦るイェルハルドの横ではエディエット=マーヤが顔色をどんどん悪くしていっている。
だが、心ここにあらずというか、どこか放心としながらもきょろきょろと目線を彷徨わせている様は、今後の出方を模索しているとしか思えなかった。
今更でしょうけど。
どのような策を思いついたとしても、もう取り返しがつかないということがわからないのか。
今はただ、少しでも己の犯した罪を認めて、情状酌量を狙うしかないと、どうして思えないのか。
もう打つ手はなくてよ?
この事実を知ったならば、"人としてあるまじき行為”をしてもなお傍にいてくれたイェルハルドも愛想をつかすこと間違いはない。
エーヴァはランドル校の風紀を乱し、混乱に陥らせた女狐を許すことはない。
「彼らの何を?
それは簡単な答えです。
わたくしが知っていること、
それは今名前のあがった貴方の友人方全員がエディエット=マーヤ様と交際なさっておいでだという事実ですわ」
ひ、と喉を引きつらせる音が静かな応接室に大きく響き渡った。