第九話
「貴女は大怪我をして意識のないわたくしが横に倒れていることを知りながら、誰かに助けを呼ぶわけでも、簡易的な手当一つすることなく、それどころか声すらかけることなくそのまま校舎から去っていったのです。
このエディエット=マーヤ様の非道な行動で、わたくしは貴女を罪に問わなければと思いました」
淡々と事実だけを述べるエーヴァだったが、エディエット=マーヤにはそうは聞こえなかったようだった。
ぎりと音が聞こえそうなほど歯を食いしばりながらも、怒りに喉が締め付けられて声を出すことも辛そうだというのに燃えるような瞳は諦めることを知らず、エーヴァに食って掛かろうとする。
「……いいえ、いいえ!
わたくしが階段から落ちて意識を取り戻した時には誰も、校舎には誰もいませんでしたわ!
貴女方こそ意識のないわたくしを置き去りにしていったのではありませんか!
薄暗くなり人気もない校舎は階段から落ちたばかりの、心細いわたくしにとってはそれはそれは恐ろしいものでしたのに、貴女方はわたくしを見捨て去られました。
逃げるように校舎から出たその時にイェルハルド様がたまたまいらっしゃらなければ、わたくしは自分がどうなっていたかと思うと恐ろしくて夜も眠れませんでしたわ。
それを言うに事欠いて、わたくしが重傷の貴女を放っておいた……ですって?
ありえませんわ!」
胸に手を当てて、己の身の潔白を証明しようとする。
それに勢いを得たのか、青白い顔を仄かに色づけたイェルハルドが彼女を擁護した。
後にその擁護のはずの言葉が自分の胸に突き刺さることも知らずに。
「貴女はエディを悪者に仕立て上げたいのかもしれないが、いくらなんでもそのようなことはないだろう。
エディはたしかにあの時、校舎から逃げていたように思う。
よほど恐ろしいことがないとあのように怯えはしないだろう。
それに貴女が重傷を負ったことはわかったが、心優しいエディであれば自分を嫌っている人間が怪我をしたなら放っておくはずなどない!
エディが意識を取り戻したときに貴女方がいなかったというのであれば、それは事実だろうし、逆に貴女達こそが倒れているエディを怪我がないようだからとエディを助けることなく放置したに決まっている。
いくら重傷を負っているからといって自分達だけが救護室に行き、意識のないエディを放置するなど、それこそ人としてあるまじき行為だとは思わないのか」
「そうですわね。それが事実であれば確かに”人間としてあるまじき行為”でしょうね」
くす、と笑い声がエーヴァの薄い唇から漏れた。
「何を笑う!」
「あら失礼をいたしました。
笑うつもりなどなかったのですが、心は正直だと見えます。
何をと言うのなら、イェルハルド様とエディエット=マーヤ様には恐るべき虚言癖がおありになると思っただけのこと。
御不快に思われたのならば申し訳ございません」
「思ってもいない詫びなど入れる必要などない」
「わたくしたちは先ほどから真実しか述べておりません。虚言癖などありませんわ。いい加減になさっていただけませんか」
これほど時間をかけ言葉を尽くしても、相変わらず人の話を聞こうとも理解しようともせずにただひたすらに自分達が正当であると思いこめる図々しさに深いため息が出る。
「まあ、いいでしょう。嘘を突きとおすとお決めになられただけの度量をお持ちのようですし。
ただ、わたくしはそれは違うと声を大にして申しましょう。
イェルハルド様。
お伺いしますが、貴方がエディエット=マーヤ様を保護されたとおっしゃる時間を覚えていらっしゃいますか?」
急に変わった話題にいったい何のことだと思いながらもその時を思い起こそうとした。
すると薄暗い情景の中にエディエット=マーヤの逃げまどうシルエットがはっきりと脳裏に浮かび上がった。
「……時間? 正確な時間までは覚えていないが、競技場に夕日が沈む少し前だということは覚えている。薄暗くなったときに校舎から走ってきたのですぐにエディだとはわからいくらいだった。それが?」
「まずあの階段上での出来事がいつのことかと申しますと、その日の授業がすべて終わり、臨時風紀委員会があったために居残った風紀委員を除くすべての学生が下校した午後六時過ぎのことでしたわ。
わたくしも咲綾も風紀委員長より要請を受け、臨時風紀委員会に出席しておりました。
あの時の少し前に閉会して、しばらく風紀委員長と三人で話し合ってから寮に帰る途中で二階の不浄場に立ち寄ったところでした。
そこにエディエット=マーヤ様が三階から駆け下りてこられた。
随分と嬉しそうに頬を緩ませていらっしゃったこと、覚えております。
そしてわたくしを見つけるとそのままやってこられて話をはじめられた。
この後のことは先ほどの記録をご覧になられたのでお分かりになると思います」
いったん言葉を区切って二人を交互に見ると、何をいいたいのかと眉を顰めて考え込む姿が見受けられた。
たしかに事故の前の話など何の意味があるのかと思われても仕方がないが、きちんと順序立てて話すことで理解を深めることができるとエーヴァは考えていた。
「さて、ここからが本題ですわ。
記録にも残っていたように、わたくしとエディエット=マーヤ様が話していた廊下には夕日が地に沈む最後の光が差しておりました。
それからすぐに転落事故が起こったわけですが、わたくしが詠唱を唱え怪我を請け負ってからすぐに記録をとっていた咲綾が駆けつけると、素早くわたくしとエディエット=マーヤ様の状態を確認し、一人では対処できないと判断して人手を求めて別校舎にある事務室に向かいました。
重傷を負ったわたくしと意識のないエディエット=マーヤ様を病院に連れていくために必要な担架や馬車の確保をしつつ、先駆けて救護室の医師に応急処置をしてもらうために落ちた場所の説明をして戻ってくるまでに十分はかからなかったそうですわ。
ですが咲綾がわたくしたちのいる踊り場に戻った時には、わたくししか倒れていなかったそうですわ」
「そんなこと、ありえませんわ!」
話しの途中だというのにエディエット=マーヤが立ち上がって横やりを入れてきた。
その手は怒りにぶるぶると震えていたが、落ち着かせようとしているのかしきりに手袋を触っていた。
「わたくしこそが誰もいない踊り場で倒れていたのであって、わたくしが先に目覚めて怪我をしている貴女を見捨てるなんてこと、あるはずもないではないですか!」
「……いいえ、咲綾が戻る前にあわてて駆け付けた医師もいましたが、医師も貴女の姿がなかったと証言しています。
もちろん、わたくしは意識もなく倒れたままでぴくりとも動きませんでしたから、そこから医師に手当てをされ、遅れてやってきた担架に乗せられてそのまま病院へと向かいました。
咲綾は貴女を随分と心配して先生に脳震盪を起こしていたかもしれないと話したのだそうですが、わたくしに付き添って病院に行ったものですから、説明を受けた先生が貴女をどういう風に扱ったのまでは把握できておりませんでした。
イェルハルド様が動転している貴女を保護されたということを後から聞いて、わたくし、本心より安堵いたしましたのよ?
ですが、その後が大変よろしくないですわね。
貴女はイェルハルド様に保護されてから今まで、このランドル校の教職員のただ一人にもわたくしが怪我を負ったことを話してはいないでしょう?
違いましたか?」
「違いますわ!
わたくしこそ被害者であるのに、まるでわたくしが怪我人を見捨てるような非情な女のようにおっしゃるのはやめて頂きたいですわ」
「貴女はわたくしの話の何を聞いていらっしゃったのかしら。
都合のよろしいところだけを抜き取っていらっしゃるのなら、考えを改めた方がよろしくてよ?
貴女がイェルハルド様に助けられたのはわたくしが担架で運ばれる前、と言ったのですがそのようには聞こえませんでしたか?
つまりは、貴女は意識を取り戻した後、真横で大怪我を負って意識を失っているわたくしを放置して逃げだした揚句、そのことを”故意”に隠してイェルハルド様にご自身のみの保護、治療を求めたと言っているのです。
この時点で貴女はまだ咲綾という存在を知らないはずですので、貴女以外に助けを呼ばなければ誰が一体意識のないわたくしを助けてくれるというのです?
記録を見れば分かる通り、わたくしの怪我は誰が見ても重傷、そして放置すれば死に至るだろうことくらい察せられます。
癒しの手をどうして使わなかったのか、ですか?
癒しの手はその使い手が自身を癒すことができないことを知らないようですわね。
そもそも癒しの手で癒されるのは疲労や軽度の怪我で、骨を折るなどの重度の怪我を治療できるわけではありません。
現にわたくしの怪我は未だに癒えず、長時間立つことも、歩くにも杖が必要です。
体力も随分と衰えてすぐに座り込む有様ですが、それでも咲綾や貴女方以外の学生や教職員が迅速に動いてくださった結果です。
もし咲綾がいなければ、わたくしはこの場にはいなかったかもしれません。
もし教職員やたまたま居合わせた人が協力してくださらなければ、貴女方と二度とお会いすることはなかったでしょう。
貴女は、死に迫る怪我を負ったわたくしを見殺したのです。
この行為は一般でも人道的に許されるものではありませんが、特に今回はこのランドル校校舎内において発生した事故ですから学生や職員に通報義務が生じます。
このことは入学の際に学生全員に配布された『学生心得』にも明記されていますが、成績が優秀な貴女がそれを見落とすなどあり得ないでしょう。
貴女はこの義務をわざと怠った―――――放っておいたら死に至るとわかっていたというのに。
わたくしが貴女に対して不愉快な感情を抱いても、仕方がないとは思いませんか?
ですがわたくしはヴァクトマイステル家の名にかけて、一切の感情を全く挟むことなく、
―――――――貴女の罪を問い質します」
「なっ、何をおっしゃるの!」
悲鳴が上がった。
「違います! 違いますわ!!
イェルハルド様、まさか彼女の戯言を鵜呑みになさるなんてことはございませんわよね?!」
エディエット=マーヤは椅子に倒れるように座ると、絹の手袋をはめた手でイェルハルドの上着を皺になるほど握り締めながら、一心不乱という言葉が相応しい取り乱しようで縋りつく。
違う違うとうわごとのように口から洩らしているが、イェルハルドの彼女を見る目は応接室に入るまでとは明らかに違う色で染められ始めていた。
「エディ……。
貴女に限ってそんなことはないと思うが、まずは一度、エーヴァの話を聞こうではないか。
そして彼女の質問に答えてやるといい。
何を聞かれたとしても貴女が正しいのなら怖れる者はない……違うか?」
震える手の上に剣だこのある大きな手を重ねられたことで、エディエット=マーヤの狼狽は納まりを見せ始めた。
彼女は気づかない。
己の保身に必死になりすぎて、頼みの綱であるはずのイェルハルドの瞳が冷ややかになっていることを。
自分の手に重ねられた温かな手が何の感情もなく単に置かれているだけだということも。
そんな二人を、エーヴァがじっと見ていることも。