第一話
ブリスニステ公国唯一の公的学び舎であるランドル校の卒業式後に開かれた卒業パーティ会場の壁際の椅子に腰をかけていたエーヴァ・ヴァクトマイステルは、今日を最後に各領や国へと帰途する友人たちにしばしの別れの挨拶をしていた。
四年間に及ぶ寮生活では入寮した当初こそ小さな衝突があちこちで見受けられたが、時間と共に落ち着きを見せ、次第に寮生間で連帯感のようなものが生まれるようになった。
寮生活で得られた、身分という垣根を越えた気の置けない友人たちは、生涯の宝だと思えるほどだった。
ただ悔やまれるのは卒業をするまでの数週間を実家にいなければいけなかったことで皆とゆっくり語らう最後の時間を失ってしまったことだった。
まあ、自業自得なのですけれど。
エーヴァは次々と現れる友人や同級生たちににこやかにほほ笑みながらも、自分がしてしまった愚かな行為の償いにはなっているのだろうかと自嘲した。
「エーヴァ・ヴァストマイステル。よくも今日この場に姿を現すことができるものだな」
怒りを孕んだ言葉に疲れた顔を上げると、目の前に寄せていた人波がいつのまにか引いていて、ぽっかりと空いたその場所に婚約者であるイェルハルド・シーグバーンがエーヴァを賎しむように、その斜め後ろには数週間実家にいることとなった間接的な原因でもあるエディエット=マーヤ・クリングヴァルが怯えながら震えて立っていた。
なぜイェルハルドが怒りをぶつけてくるのか理解に苦しむエーヴァだったが、内心をちらりとも見せず挨拶をした。
「イェルハルド様。お久しぶりにございます」
「ふん。挨拶するにも座ったままとはさすが厚顔なだけはある」
秀麗な顔を歪ませて、イェルハルドは吐き捨てた。
いきなりの言葉にエーヴァは眉を顰める。
確かに公式の場で座ったまま挨拶をするなどと無礼ととられても致し方ない上、礼儀作法に厳しいランドル校においては処罰対象にもなるが、今回に限ってはすでにランドル校に事情説明と必要書類の提出をすませ受理されている。誰がエーヴァに挨拶をしに来たとしても立ち上がって礼を取る必要などない。
実際、先ほど行われた卒業式でもエーヴァは最後尾で席に座したまま卒業式に臨み、学生会が主催する卒業パーティにおいてもそれは摘要され、運営する学生会の役員がパーティ当日の慌ただしさの中だというのにエーヴァのためにわざわざ会場の出入りが楽な位置に椅子を設けてくれたほどだ。文句の言われる筋合いなどない。
前期学生会会長であったイェルハルドならば、会長を辞めた後に顧問として役職を与えられているのだから特例が発すれば知れることだと思っていたが、彼の不愉快に歪む顔を見ればこのことを知らないのだと窺えた。
思った以上に学生会と顧問との連携が取れていない様子に呆れてため息が出そうになったが、イェルハルドの後ろに控えるエディエット=マーヤを見て、痛む体に鞭を打ちながら立ちあがった。
「エディエット=マーヤ様。お久しぶりにございます。貴女とお話しできる機会を得られましたこと、嬉しく思います」
体の痛みで淑女然とした礼をとることは難しかったが、自分がいまできる最大の礼を彼女にする。
そうしなければエーヴァの気が済まないからだ。
「……わたくしに何の用がおありですか?」
警戒心もあらわにエディエット=マーヤはイェルハルドの背中に隠れ、そのくせ好奇心は旺盛なのか広い背中から少しだけ顔をのぞかせ訊ねてくる。
たしかにエーヴァが彼女に対してしてしまったことで警戒心を持つことは仕方がないとしても誰かを楯にしてまで近くにやってくる必要性があるのかと訝しんだ。
エーヴァは今日この日を首を長くして待っていた。
自分があの時してしまったことに対しての謝罪をどうしても彼女にしたかったからだ。
もちろん罪に問われたとしても甘んじて受けようとは思う。
不可抗力だし、もう十分あなたは苦しんだじゃないとエーヴァの親友は言うけれど、けれども直接顔を合わさない限り彼女があの時のことをどう思っているのか、どう感じているのかわからないではないか。
だからこそ話をしたくて彼女を探していたのだが、卒業式の会場でも、この卒業パーティでも、彼女にはいつも誰がそばに付いていて決して一人にはならなかったし、エーヴァにちらちらと意味ありげな視線を送ってくるくせにエーヴァが声をかけようとするとするりと逃げだしていく。
話したくても話せない状況をわざと作っているとしか思えなかったが、ようやく目の前に現れてくれたのだ、この機会にきちんとした話し合いを持つべきだとエーヴァは思った。
「ええ、もちろんですわ。私は貴女に対してお詫びをしなければなりません」
「……やはり、そうなのか」
エーヴァが謝罪を口にしようとした途端、低く籠った声が二人の間に割って入った。
もちろんそれは、目の前にやってきたときから不快感を隠そうともしない婚約者の声だった。
畳みかけるように続けられた言葉は、エーヴァに残された最後の糸をぶつんと切り落とした。
「エディから聞かされた時はいくらなんでもそれはないだろうと思っていたが、やはりお前は性根が腐っているとみえる。私と親しくしているというだけでエディに対して嫉妬し、数々の嫌がらせをしていると報告を受けていたが、まさかエディを階段から突き落とすまでに至るとは。エディにこれといった怪我が見受けられないから直ぐには公にしなかったものの、さすがに突き落とした揚句わざとらしい謝罪など笑止千万。恥を知れ」
ざわ、とエーヴァと二人を遠巻きに見ていた人たちが色めき立つ。
さざ波のようにざわめきが会場に広がるころには緩やかに流れていた音楽も止み、会場中の人々が固唾を呑んで三人の動向を注目することとなった。
してやったりと口元を歪めたのは誰だったのか。
怒りの炎がめらめらと揺らぐ瞳を向けられて、縮込まずにいられる人がいるのだろうか。
だが、エーヴァは皆の予想を大きくはずし、軽く首を振ると、罵倒されたばかりとは考えられないほどの美しい笑顔であたりを見回し、別れの言葉を口にした。
「皆様、ご歓談中に大変不作法をいたしました。無粋なわたくしどもはこの場を去らせていただきますのでどうぞわたくしどものことは捨て置いて、この素晴らしいパーティを楽しんでくださいませ」
凛とした声が会場を通り響くと、一瞬、時間が止まったかのように誰もが身動きを止めた。
だがそれもパンと手を叩く音に解かれ、それが呼び水となったのか会場のあちこちからパチパチと拍手が上がり始めた。
「勝手なことをいう!」
エーヴァが糾弾の場にいきなり立たされることで理性を無くし無様な様子を見せるだろうと予測していたイェルハルドは予測が見事に外れ、誰一人として己が行動を支援することなく傍観し、それどころか罪人であるエーヴァの言葉に重きを置いていることにしばし茫然とした。
そして我を取り戻したころにはすでに会場は割れるばかりの拍手で埋め尽くされ、怒りに任せて叫んだ言葉はかき消されていた。
「では、参りましょうか」
会場を揺るがすような拍手と向けられる憤怒を前に、エーヴァは静かに笑っていた。