腐り鼻の道化師
(念には念を込めての予防線)
全体的に非常に憂鬱な雰囲気なので、明るくてポップなお話が好きな方は読まないことをお薦め致します。仮に「読んで気分が悪くなったので作者には是非とも死んでほしい」とか言われても責任は持てません。題名の段階でポップじゃないのは明白でしょうけれども。
一、
饐えた臭いがします。生物のありとあらゆる箇所が腐り果て、生命の一片も感じられぬような臭いでした。僕の鼻が腐っているのか、それとも、外界の総てが腐っているのか。何れにせよ、小動物の屍体を常に鼻先に突付けられているようだ、と言えば、僕の感ずる不快の具合が伝わるでしょうか。
こののっぴきならない腐臭は、瞬く間に僕の生気を奪いました。元よりそんなものは有ったか怪しい程なのですが、その僅かの生気すらも、件の悪臭は奪い去っていったのです。生気の奪われた僕は、外に出るのが憂くなり、畢竟、自室を出ることが無くなりました。
ただ、何処に居た所で腐臭が収まる訳でも有りません。自室に在っても、臭いの生じるのを止めることは出来ませんでした。僕を悩ます腐臭は、軈て視覚にも異常を与える様になりました。鼻腔の伝える臭気に合わせて、世界は容易に形を変えました。自室の壁は人間の腸管、床は牛の胃壁、窓には薄羽蜉蝣の翅が、それぞれ宛てがわれました。僕が身を横たえる寝台は、ごわごわとした柔毛のようなものが覆っています。
しかし其程に生物的なもので囲まれていても、自室に蠢くのは、真黒い一匹の蜘蛛だけでした。
二、
僕の鼻が腐りだしたのは、つい先日のことです。
その日は煤けた雲が空一面にびっしりと張り付き、辺りは昏く染められていました。反吐が出るほど通った道を、僕は歩いていました。そこは左右を死んだような家が塞ぐ、実に陰気な道です。視界の左右で、黒ずんだ家屋がその消耗しきった躰を晒すさまは、誰彼構わず同情を求めているように思われて、胸糞が悪くて仕方がありませんでした。なにしろ、そんなものは家主にでも要求しておけばいい話であって、偶然通りかかった僕に対して投げかけるべき問題ではないからです。
荒廃しきった建物から視線をひきはがすと、突き当たりの塀に、なにか黒いしみのようなものがこびりついているのが目に留まりました。丁度そこは生ごみが散らばるごみ捨て場でしたから、恐らくはごみから染み出た汚水だったのだろうと思います。ですが、かぴかぴに乾ききったそれは、どこか血のようにも見えました。
まア、たとえそうであったとしても、大方のところ、深夜に酔っ払い同士が諍いでも起こしたのでしょう。泥酔の末の乱闘など、この辺りでは日常に数えられます。怒声が夜通し響き続ける、それが僕の暮らす町なのです。
故に壁にこびりつく血などは、日常茶飯事である筈でした。血というのはそもそも、動物の体内を循環するものですし、たとえそれが躰の外に出されたとしても、僕達に身近なものであるはずです。少くとも、此の街で日々を暮す僕にとっては、身近なものであることに間違いが有りません。
だというのに、黒ずんだしみを目にしただけで、僕はひどい動悸に襲われました。胸の辺りを黒々とした蜘蛛が往来しているような、痛みを伴う蟻走感が止まりませんでした。呼吸は瞬く間に滞り、僕は痩せっぽちの野良犬のように、荒く息をするしかありませんでした。
その場にうつ伏せ、ちっとも肺まで届かないくせに呼吸の真似事をする。苦しくて苦しくて仕方がないのに、どこか冷静な自分がいました。これは恐らく死にはしない、そう思っているのです。ですがそれと同時に、死に体を必死に蠕動させて、生き汚い様を晒す事で、誰かの同情を望む自分もいるのでした。苦しむ姿をダシにして、他人の関心を集める。なんとくだらないナルシズムでしょうか。
だいたいのところ、僕はこういう人間なのです。苦しくもないくせに大げさに振舞って、まるで道化のような真似をして同情を求める。僕はなんとナンセンスな人間なのでしょう。
――だって仕方ないじゃアないですか。
唐突に、頭の中に響くものがありました。
けして僕ではない声が、体を跳ね回ります。
――私はこんな風にしか生きられないんですから。
芝居がかった口調のそれは、生き汚い僕を赦しました。自己嫌悪に押しつぶされそうになっていた心臓が、活気を取り戻していきます。僕は僕のままでしか生きられない。その通りです。
ですから僕は、その日も道化を演じるのでした。
三、
灰色に濁る学び舎につくと、誰も僕を見ようとはしませんでした。挨拶をしたなら存在に気づいてくれるのかもしれませんが、恐らくは無駄な事でしょう。今までもそうやって、淡い期待は濃い絶望へと成り変っていったのですから。おとなしく僕は自分の席まで行き、椅子を引きました。ギギ、と呻くような音がなります。
机によって隠されていた部分が顕わになり、僕はまさかここで、こんなにも色の濃い絶望が現れ出るとは思っていなかったので、少し体がこわばりました。
椅子の、丁度腰を据える場所が、黒くなっていたのです。
それは蜘蛛でした。
胸の中でざわついたのと同じ蜘蛛が、惨めに骸を晒していました。なんとも汚らわしい姿で、体液を滴らせながら、彼は死んでいました。背中の方で、くすくすという笑い声が聞こえました。僕は何の感情も抱きませんでした。
なぜならば、分かりきったことだったからです。
これもやはり、偶然などではなくて、この空間に坐す、悪意をもった神たちが戯れたものだったのです。
黒々としたたくましい蜘蛛。君は死んでしまっただけまだいいと思うよ。あれらは、もっと凶悪な人間性を持っているのだから。
その片鱗を垣間見るだけで済んだのなら、死すらも喜ばしいことだよ。
僕は暫時の鎮魂を捧げ、仮面を顔に貼り付けたまま、黒い塊を払い除けました。背中の方から、舌打ちが聞こえました。
まもなく始業の鐘が鳴ります。
それは、安息の音色でした。
四、
業間、僕は巌のように黙りこくっていました。まるでそこに何もないかのように、誰にも興味を抱かれないように。
そのおかげか、誰も寄ってなどきませんでした。
その方がいい。寄ってくる人間が、善意を抱いている筈がないのですから。
授業は実に楽しいものでした。
クラス全体の悪意が実に緩慢なものに変容し、誰も彼もが、教師が誰を指名するかというだけを気にかけるのです。滑稽ではありませんか。教師の言っていることは大概教科書に書いてあるのですから、いくらでも予習のしようはあるのです。指名されたってどうということはありません。
まぁ、それを理解しようとする努力を、僕への悪意に投じている彼らには、難しいことなのかもしれませんが。
何度も予習した部分を教師に問われ、簡潔に答えを述べると、僕は元の巌に戻ります。座り位置を調節していたその時、ある視線に気がつきました。けしていつも感じ入る憎悪の目ではありませんでした。
どこか自嘲的で、消極的な視線です。
僕がその方向を向くと、細いフレームの眼鏡を掛けた女の子と目が合いました。あれはたしか、このクラスの委員長です。
まったく機能しているようには思えませんでしたが、肩書きとして委員長という立場にいる彼女がこちらを見ているということは、一つの感情が端を発しているに違いありません。
それは同情です。
彼女はクラス委員として――ここが非常に重要なのですが――クラス委員として僕に同情しているのです。
先程も同情を求めていた僕ですが、仕方無しに抱く同情など、抱かれない方がマシというものです。だってそれは、哀れみに他ならないのですから。哀れまれる人間ほど、無価値なものはありません。
僕は内心ひどく憤慨し、目線を黒板の方へと戻しました。
募っていく苛立ちを持て余しながらも、気がつけば昼休みとなっていました。苦痛な時間のはじまりです。
それを告げに来たかのように、陰険な笑みを浮かべた何人かの男子生徒が、僕の席を取り囲みました。
「なぁ、昼飯食いに行かね?」
「コイツ自分の席にお熱なんだよ」
下卑た笑みが木霊します。
耳をつんざくような不快感を覚え、思わず僕は顔をしかめました。それが彼らの怒りを買うことであったとしても、もはや本能的な拒絶でありましたから、止められる筈もありません。
男子生徒たちは総じて眉間に皺を寄せ、こちらを睨みつけてきました。彼らの言葉を用いるならば『メンチを切る』とでも言うのでしょうか。
僕を差別すべき対象であるかのように睥睨する彼らの顔もまた、滑稽なものでした。
「オイ、コラ。お前なにオレらに反発するような顔しちゃってんの?」
「お前自分の立場分かってんのか、ッラァ!」
立場など、学生である以外に何があるでしょうか。ですが僕はそれを口に出しませんでした。『ペンは剣よりも強し』などと言いますが、圧倒的暴力の前ではペンなどあっという間に砕けてしまうだけではありませんか。
弾道ミサイルに説法など聞かせても無駄なのです。
ですから、僕はおとなしく付き従いました。
胸倉を掴まれ、殴られる寸前の人間に、人権などありはしません。
引きずられるようにして校舎を出、校舎の裏側の方へと向かいました。近年、防犯の為に設置されたカメラを、避けようというのです。彼らはそういう所に限って頭が回るのです。
陰鬱で湿った場所まで来ると、校舎の壁に叩きつけられました。壁は所々苔むしているようで、しっとりと湿っています。たたきつけられたことで背中が痛みましたが、痛みを訴える以上に、制服が汚れてしまわないかが心配でした。目に見えて汚れていたら、両親に余計な心配をされるでしょうから。
「さぁて……一緒にお昼ご飯食べましょうよ、っと!」
体重を乗せた蹴りを見舞われました。僕の口からは、悲鳴のような吐息が勝手に漏れ出ます。胃腸を攪拌され、僕は思わずえずきました。倒れ伏した僕に対して慈悲などはある筈もなく、無抵抗な脇腹にこれでもかというほど蹴りが飛んできます。
ニ、三発入った所までは、なんとか弱さを見せずにいられましたが、次第に僕の自尊心は恐怖に押し潰され、意識すらしていない内に口からは命乞いが漏れました。
「ゆ……許して、くださ、い」
なんと情けない事でしょうか。虚脱感が全身に染み渡っていきます。
要するに、僕は、頭の中で彼らを散々罵倒していても、現実では彼らの振るう暴力に怯えるばかりで、舌戦によって反撃しようという度胸もない腑抜けなのでありました。命を請うた時点で僕の総身からは気力が喪われ、彼等の圧倒的な暴力に隷属するだけの奴隷となったのです。
それに、助けを求めるなど、無意味なことに他なりません。彼らに自制心などありはしないのですから。
逆に、彼らとしては僕が何か行動を起こすことで嗜虐心が増長するだけでしょう。
案の定、その暴力性はより強大なものとなっていきました。彼らの顔には歪んだ笑みが浮かべられています。それはどこか、懐かしくもある笑みでした。
そう、幼少の頃よく浮かべていた、あの笑みです。小さな生き物を純粋な好奇心で粉々にしてしまった時に浮かべていた、あの笑みだったのです。
五、
体躯ばかりが育った不安定な彼らに、僕はされるがままでした。脇腹を容赦のない力で蹴られ、嗚咽を漏らして無様にもがくのは、実に滑稽な有様だったでしょう。苦痛に悶えている内は、まだ余裕がありました。苦悶を見せれば相手が少しばかりでも慈悲を与えてくれると、思っていられるからです。
有り得ない希望に縋っているのがいかに惨めであっても、その間は堪えることができるのです。相手も知性があり、そしてこの空間は文明社会なのですから、外部から何らかの救いがあるだろうと確信できるのです。
そんな確信も、勢い衰えぬ暴力に塗り潰されました。無邪気な、それでいて底冷えのする笑みが囲んでいる時点で気がつけばよかったことだったのですが、僕は哀れにも子供に捕らわれてしまった羽虫に過ぎなかったのです。
羽虫に、何の権利があるでしょうか。
ただ脚をばたつかせ、少しずつ体をもぎとられるのを待つほか許されていないのです。
全身が反抗するのを止め、激しい諦念に包まれていきました。ぼんやりと、無感動に彼らの奇行を見つめ、軋みを上げる神経を、素直に、純粋に実感する。この世界全てが、まるで他人事であるかのような感覚でした。何もかもが、どうでもよくなっていました。
六、
気がつけば僕は、ひとりになっていました。周りには誰ひとりとしていません。
ただ、体中ずたぼろになった僕が在るだけでした。
校舎裏は静まり返っていて、遠くの方から響く笑い声が時折聞こえるだけです。まだ昼過ぎだというのに薄暗く、微生物が死滅し腐敗しているのか、湿った腐臭がしました。
ここは、なんとも僕にお似合いの場所ではないですか。
数の暴力に平伏して、ただ頭の中で勝ち誇っているような無力な僕にぴったりの空間でした。
ああ、くだらない。僕はなんとくだらない人間なのでしょうか。現状を打開する術などいくらでもあるだろうに、探す事を厭って何もせず、誰かが助けてくれることを期待している。ああ、本当にくだらない。
腐りきっている。こんな人生、腐りきっているのだ。
そう思うと自然と、周囲を漂う腐臭に親近感が沸きました。
鼻腔を抜ける、えも言われぬ不愉快な香り。それは、校舎裏を出た後も続きました。
こうして、僕の鼻は腐りきっていったのです。
七、
僕は一ヶ月ほど、家から出ていませんでした。
外へ出てしまうと、この臭いが消えてしまう気がしたからです。
それに、外に僕の居場所などありはしませんから。
もう他人に構ってもらわなくともよいのです。
僕はもう、ただひとり腐り落ちていくのですから。
ただぼんやりと、この暗い腐った部屋で生き永らえていくのが、一番なのです。
八、
ふいに、訪問者を告げるインターホンが鳴りました。
時刻は昼。いったい誰が来たというのでしょうか。
最初は無視を決め込もうとしました。
しかし、幾度となく鳴らされるそれに辟易した僕は、仕方なく玄関まで向かい開錠しました。
瞬間、見えたのは見知った顔。
細いフレームの眼鏡が鉄面皮を彩っているその人物は、僕のいたクラスの委員長でした。
彼女の顔を見た途端、このまま扉を閉めて追い出してしまおうと思いましたが、流石に家の前まで来た人間を追い返すような真似はできませんでした。
しかし、このまま彼女を招いた所で面倒なことにしかなりません。どうせまた、クラスをまとめる立場としての哀れみを前面に出してくるにきまっていますから。
もう放っておいてほしいのです。仮初の同情など心が痛むだけで、余計なお世話なのです。
僕はたちこめる腐臭が示す通り、ただただ無意味な日々を過ごして腐り落ちていきたいのですから。もう、面倒くさいのです。
なにもかもがどうでもよいのです。
委員長は一歩前に足を踏み出し、言います。
「最近、学校に来ないですね」
僕は、やはりと思いました。はじめに見た時から、知ったかぶりの同情の顔が見え隠れしているように見えました。
あの時、扉を閉めていたらよかった。渋い顔をする僕を尻目に、彼女は言います。
「別に心配はしていないですけど。……ただ、このままでいいんですか?」
その言葉に、僕は苛立ちを隠せませんでした。
彼女にそのような事を言われる筋合いはないではないですか。委員としての同情ばかり僕に向けているだけで、何もしてくれなかった彼女に、僕をどうこう言う権利などあるはずないのです。
「……あなたにそう言われる筋合はない」
「怒ってますね。人が怒る時は大抵図星な時が多いんですよ。本当は自分でも、このままじゃいけないって思ってるんでしょ」
腐り果てた僕に、いったいどうしろというのでしょう。どうせ、元の生活に戻ったところで苦痛しか残らないではないですか。自分の無力さに打ちひしがれるしか、ないではないですか。
こればかりは予習もなにもしようがないのです。
「まあ、あなたがどうするかは勝手ですけどね。これ、授業で配られたプリントです。どうぞ」
ぐいとプリントを押し付けられ、僕は仕方なく受け取りました。プリントを渡してしまうと、彼女は用を失ったようで、
「それでは、お邪魔だそうなので退散しますね」
と言って踵を返そうとしました。
しかし、途中で何か思い出したように僕の方を振り返り、
「この部屋、なんだかいい香りがします。フローラルというか」
と、呟くように言いました。
こんなにも腐乱臭のする部屋をよい香りだと褒め、
「それでは、お邪魔しました」
と彼女は去っていきました。
九、
そうして、しばらくしてからのことです。
窓から、ふわりと一陣の風が流れてきて、僕の体を花の香りが巡っていきました。
数年前、サークルの部誌に投稿した掌編です。一部改稿の上掲載しました。
今見ると非常に拙いながら(今も十分拙いですが)、当時表現したかった厭世観というのか、アンニュイな感じというのはよく出ているのではないかなあと思います。
今の御時世、兎角明るい話が好まれますが、暗い話というのも、それはそれでオツなものだと思うのです。嗚呼、でも長いものには巻かれて生きてゆきたい。