スプリング ハズ カム
「・・・・・・・・・」
長い沈黙が支配する夜
黒く染まった空に、銀色の月と星とが煌めいて咲く
あまり新しくはないこのアパートは、
大学生の下宿先としては、よくできたところだと思う
外から丸見えのベランダ
くしゃみの声が聞こえる薄い壁
トイレバス付きという所だけで満足を強いられるそれは
この見渡す限り田圃に囲まれた土地では
裕福な部類に入るんだろう、なんといったらいいのか
外装は薄い黄緑色で木の板を張り合わせたバンガロー風?
違うな、ともかく、少し古い感じがにじみ出している
街灯の灯りが、うすぼんやりとその色をさらに淡くして
閉鎖した遊園地みたいなものを思い浮かべさせる
「・・・・・・・・・・」
黙ったままの僕は、その下宿前に自転車を止めたところだ
共同の自転車置き場には、大学侵入許可証というか
駐輪許可証が、全てに貼ってある
学校が斡旋してるんじゃないかというくらい、この15部屋全てに
同じ大学へ通う知らない人が住み着いている
でも、バイト帰りの僕はこのアパートの光が全て灯っている日を
未だに見たことがない、でも、満室なのが不思議
今夜は、それに輪を掛けてとても不思議なことになってしまった
おそるおそる、僕は事実を受け入れようと
目の前で起きていることを整理する
いや、そんなにたいそうなことじゃないんだ
別に何一つおかしくはないんだ
僕がいつも駐輪している場所に、猫が一匹いるだけなのだ
「・・・・・えんじ色の猫??」
紅い
いや、なんだ、えんじ色だ
ワインレッドに渋みを加えたような
そんな色の猫がいる
僕はどうかしてる、ぱっと見て、それが地毛だってのがわかったから
ますます混乱する、そんな馬鹿な、赤毛の猫なんて聞いたことがない
「・・・・・・・・」
猫がこちらを見つめ返してきた
キッ、とした目つき、夜だからだろう
瞳孔が開いて丸々とした黒目を晒している
この顔つきだけで、愛くるしさが凄いことになる
なんて可愛い猫なんだろう
思った刹那
シャー
「うわ、」
およよ、そんな具合で後ずさりしてしまう僕
威嚇された、なぜに
ぷい、と音でも立てたように猫はそっぽを向いた
依然としてその場所を明け渡してはくれない様子だ
僕は困る、そこに止めておかないと
近隣住人に嫌がられてしまうじゃないか
「頼む、どいておくれよ」
大学にも入って、猫にお願いするようなことになるとは
夢にも思わなかったけども、あまりのかわいさからだろうか
思わず自分の中の乙女を意識してしまった
違う、僕男だから、やめて、乙女とか入ってこないで
・・・・。
何言ってんだかな、言ってないけども
頭でくだらないことを考える自分を諫めつつ
やれやれと自転車を強引にそこへ
シャーーーーーッッ
「うわぁっ!!!」
大変だ、彼は本気だっ!
フシャアアアアアッッッ
わわっ、彼じゃない、彼女らしい
ケツを見せてシッポを丸々と肥らせたことでようやく解った
見たことがあるというか、身近に感じるあれがついてないのを確認
そんな、人間じゃなくて猫の女性にも嫌われるとは
ぼ、僕がモテたことがないからって馬鹿にしてやがるな
どうにかして自転車を入れようとするが
執拗な攻撃にというか、とうとうひっかく噛み付くなど、タイガージェットシン顔負けの
悪虐攻撃に及んできたので、仕方なくその場所は彼女に一時的にゆずることとした
猫に負けた、事実が重い
翌日
「ちょっと、自転車止める位置違うじゃないですか」
「困るんですよルール守らないと」
「マジきもい」
最後の関係無いだろう・・・思うんだけども
住人がいっせいに僕のことを苛める、どうしてなんだろう
情けなくなりながら、僕は無抵抗主義なのでへこへこと謝るだけにしておいた
えんじ色の猫はいない様子だ、ぽっかりと空いたその場所が憎たらしい
「あと動物飼うのは禁止ですよ」
「え?あっ!エンジっ」
気付かない内に足下にえんじ色の猫がまとわりついている
思わず飛び退いてしまうが、それを器用に跳んで猫もかわす
じっとこちらを見る、やめろ、それじゃ僕が主人みたいじゃないか
「名前までつけて」
「困るんですよルール守らないと」
「マジきもい」
だから、最後のお前、関係無いだろ
思うのだけども、抵抗できず
謝り倒すだけ倒してみる、しかし一向に打開しない
そんな僕をじっと、えんじ色の猫は見たかと思うと
つい
「か」
「かわ」
「かわいい」
わわ、活用した(違う)
三人の隣人はその猫の魅力にやられてしまったらしく
結局この件はうやむやになった
というか、僕の存在は忘れ去られた様子だ
「凄い、超可愛いこの灰色の猫」
「本当、ステキね、灰色の猫」
「マジやばい、灰色すぎ」
多分、最後のやばいは、いい意味なんだろう
というか最後の奴、僕と同じ大学なのか・・・ショックだ、様々に途方もなく
頭を抱えたくなるが、必要以上に強調される「灰色の猫」という表現に
頭がくらくらとする、何度見ても僕にはえんじ色にしか見えない
いかん、脳神経外科か眼科にいこう
相変わらず僕は相手にされないので、ひっそり、くだんの自転車を蹴り出して
眼科へと向かったのであります
眼科
「あー、お酒の飲み過ぎね」
「は?」
「ダメね、ワインかブランデーか、紅い物呑んだでしょ?それが目に入ってんのよ」
目の前には、絵に描いたような女医が診察結果を告げている
この女医のイメージがどんな風に描かれるか、読み手によって
とても興味深いことになるが、それを粉砕するべく描写しよう
眼鏡、年上、やや巨乳
僕にとっては、この眼科は何よりも大切な場所だ、おそらく
ユダヤ人にとってのイェルシャライム、トルコ人におけるメッカ、タケカワユキヒデによるガンダーラのいずれかだ
「いや、先生、僕、酒はウォツカしか」
「じゃぁ、あれね、スミノフの赤だね?」
「いや、まぁ、そうですけど」
「そら見たことか、パッケージ赤じゃない」
「そんな適当な、それにスミノフだけでなくてアブソも呑・・・」
「それもアブソリュート・ペッパーだろ?」
「いや、まぁ、そうですけど」
「そら見たことか、パッケージ赤じゃない」
「で、でも液体自体は・・・」
「ペルツォフカ呑みたいとか思ってるだろ?」
「いや、まぁ、そうですけど」
「そらみたことか」
もう満足
思って、この僕だけが楽しい会話を終了させることにする
カルテをさらさらと書き足すステキな先生
眼鏡でやや巨乳の女医は、手慣れた様子でペンをくるりと回した
「ま、一応、診てあげましょう」
「わ」
と言うやいなや、先生の顔が僕の眼球の目の前にやってくる
顔というか、上と下の瞼はがっちりと指先で固定されて
ペンライトのまぶしさに我慢しないといけない
でも、我慢するほどに、先生の顔が近くなる
ああ、極東にやはりあるのだ、極楽浄土は
先生の香りが鼻をくすぐる、残り香に相応しいSAMOURAI47
梅を連想させる涼しさと紫色を思わせる香り、くんかくんか
安い香水でも気にしない
多分誰か大切な人にもらったんだろうとか、そういういらないバックボーンを想像してしまう
「おだいじにー」
診療費と呼ばれる一種の時間料金を納入して出てくる、とりあえず異常なし
酒を控えるようにの注意と、アランドロンの香水の匂いを持ち帰る
今日は日曜日だから学校は休みだ、バイトも無いから昼寝でもしよう
自転車置き場はすっかり散開している様子で
僕の自転車も、親切な隣人の仕業で、田圃に逆さまに突き刺さっている
もう慣れた、それをしぶしぶ元の場所に戻して部屋へと入った
「・・・・・・・・・」
お酒は呑んでいない
だのになぜ
昨夜と今朝については、酒が残っていたということが考えられるが
今は、もう昼過ぎてる、体中のアルコールが抜けた感じがあるのに
どうして、猫の色がえんじ色なんだ
「というか、なぜ、僕の部屋に入って・・・・は、ベランダっ!」
蹴破られている
そんな馬鹿な、猫がどうしてそんな力を
もしかしたら、隣人が猫を可哀想に思ってとか
そういうことも考えられるな、参ったなぁ思っていると
つかつかと、猫は近づいてきた、すんすん、僕の匂いを嗅ぐ
刹那
フシャアアアアアッッ!!!
「い、いで、いでででででっっ!!!」
いきり立って襲いかかってきた、なんだ、どうしたんだ
はたと、香水の匂いあたりで興奮しているとわかった
動物は、その手の匂いに敏感だと聞いたことがあるしそういうことだろう
たまらず追い払おうと抵抗を見せるが
ひらり、それを巧みにかわして、容赦の無い攻撃が数分続いた
「・・・・・・」
上座を奪われている、なぜだどうして
僕は玄関付近から先へ入ることを許されず
部屋の座布団の上で、じっとこちらをにらみつけている猫
もう仕方ない、なによりも朝早起きしたから眠いし
とりあえずここでもかまわん、寝てしまおう
というか、疲れているんだ、そのうち出ていくだろうし
思って、玄関先というか、台所のあたりで力尽きて寝てしまう
おかしい、なんでこんなに眠いんだろう
ゆさゆさ
うさうさ
「・・・・・・ん」
揺らされる感触、ほんわりとした春の日を思わせるような何か
降りてくる香りが鼻をくすぐる
寝起きのぼんやりが最高潮に達している
ああ、僕は今、幸せの絶頂だ、詳しく説明すると
女医先生に診察されているときの期待にはらんだ何かを認識した数秒後に匹敵する幸せだ
「おきて、起きて」
「え?」
そして僕は体験するのだ、漫画やゲームやいかがわしいインターネットの中でしか
ありえねーとか思ってた、もう、なんていうか、ほら
「ひ、拾ってきた猫が、女の子になって僕にキス・・・」
「しません、何言ってるの」
目の前には女の子がいる
同い年くらいだから、もう「子」というには
ごちんっ
「った!」
「ごめん、そ、そんなつもりじゃ・・・でも」
いきなり殴られてしまったが、とりあえず痛みを知覚しても
なお目がさめないところを見ると、これも現実なんだろう
目の前をもう一度、落ち着いて見てみる
ああ、女の子がいる
「ネコミミ・・・」
にゃー
と聞こえそうな笑顔を見せた
僕は疲れているんだろうかな、でもいいや、
疲れただけでこんな目にあえるなら
僕はいくらでも疲れてやる
「身体は大切にしないとね」
「そう?」
僕は自分でも笑えるほど、この状況になじんでしまっている
おかしい、おかしいとわかっているし、僕は大学生だから
それくらいの良識を持っていると思ったんだが
「良識なんて他人が決めたことよ、あまり気にしない」
「そだね」
納得させられてゆっくりと身体を起こした
月明かりが出てる、昼寝を少しだけのはずが
気づけば夜、まぁそんなことはどうでもいいや
今の状況を僕は楽しまなくてはならない
こんなチャンスはもう絶対にない
「ほら、ご飯作ったよー」
「え、本当?」
一瞬、猫缶とか置いてあんじゃねぇかと
予感がよぎったが、僕は自分の陳腐な心配を鼻で笑った
食卓には、生魚が横たわっている
ああ、死んだ魚のような目をしている(注:死んだ魚だ)
「・・・・・」
「冗談よ」
にゃー、という感じで笑って、ぱんと手を叩いたら
その魚が、するりとカツオのたたきに早変わりした
ああ、もう、どうでもいいや、とりあえず魚なのは確かなんだな
傍らには、いりこだしがとても香ばしいみそ汁まである
ああ、なんだ夕餉なのに、朝餉風だけどいいか別に
女の子は茶色味をきかせたショートヘアーで
えんじ色のセーターをだぼっという感じで着ている
ロングスカートだけど、それほどタイトじゃなくて
ほどよく身体にまとわりついている感じだ
とても好感が持てるステキな装いだと素直に思う
「ありがとう」
ずるるる、思わず瞳をそらしがちにしてみそ汁をすすってみる
ああ、とても美味い、なんだ、どうしてこんなに美味いんだおい
思ったりするけども、まぁ、ともかく現状を楽しむことにしてみる
ご飯を食べるだけだけど、なんだろうこの、圧倒的な幸福感は
「しあわせ?」
「う、うん」
「よかった」
にゃー、またそんな顔をした
猫耳が、ひくりと動いた、うおわ、ホンモノだ、案外見慣れた感じがしてしまう自分が怖い
まじまじと見つめてしまうが、ふとそれを打ち消すでもなく
かすかに鼻をくすぐる芳しい香りを思い出す
「?」
「どうしたの?」
「梅の香りがする」
「・・・・・・そう、残念」
ぐるり、突然目の前は暗転
梅にカツオなんて、なかなかいい取り合わせと
気の利いたことを言おうとした僕だけども
残念という女の子の声しかもう覚えていない
「そりゃそうだよな」
起きあがると目の前にはうち破られた窓と
暗くなった自分の部屋があった
自分から昇ってくる微かな梅の匂い、女医先生の香水だと気付く
疲れているというか、本当、真剣に僕はやばいんだなと
自覚をうながしてから、それはそれとして楽しかったと
少しだけ幸せを胸に抱いて窓に目張りをしたのでありました
ああ、ガラス代っていくらなんだろうか
翌朝です
にゃー
猫に起こされて目を醒ます
相変わらず目の前にいるのはえんじ色の猫
頭がぐったりと重たい
ぐらぐらするけども、頑張って見渡してみると
辞めたはずのウォツカが転がっている
ああ、なぜだ、だからか猫の色は・・・
がちゃり
それでも毎日は過ごさなくてはいけません
言い聞かせて学校へと向かう、頭が重い、でもいいかと思い
自転車からは、サドルが無くなっている、流石に堪える
それでも立ちこぎで大学へ向かい、つとめを終えて、気付いたら、どうしてだろうか
「僕はなぜ猫缶を持ってんだろうかな」
苦笑しながら、自転車を止める
今日は居ない、止めやすい、がちゃり音が立つと
ばたばた、おびき寄せられたように3つの扉が開いた
「可愛くても困るんですけど」
「困るんですよルール守らないと」
「マジきもい」
またか、思ったりしつつも
えへへと笑って、自分のじゃないと説明しようとその機先
「あ、猫缶!本格的に囲ってんじゃない」
「困るんですよルール守らないと」
「マジきもい」
とその後、散々に叱られてというか
いびられて、解放されて部屋へと戻る
そして、期待した通りにえんじ色の猫は
上座に座ってゆうゆうと過ごしている
「ほら、エサ買ってきたんだよ」
なぜ、そこまでしているのかわからないが
とりあえず、缶を空ける、プルタブになってて
カシュっという音で耳がひくりとした
そして、空けて置いてみる
見向きはするが、食べようとはしない
少し硬直状態になったが、猫がおもむろに台所のシンクに飛び乗った
こら、そんなとこ乗られたら僕の衛生管理が
思うものの、白い皿に
たし
と、前脚を置いた
一瞬頭をひねったが、ああ、缶からそのまま食べるとか
しないってことかと理解して、慌ててそれっぽい皿を探すが
たし
とされて、どうやらその皿に盛れと命令していると悟る
馬鹿な、猫の分際で僕のメインディッシュに飯盛るなんて
シャー
わかりましたわかりました、早々に降参して
そちらにあけてやる、むしゃむしゃとかじりだす猫
おお、うまそうに喰うもんだな
思って、僕も自分の飯を喰おうと動こうとしたその時
ああ、また眠気が・・・ある予感にとらわれながら
その眠気に、逆らうことはせず、すぐに身を横たえてしまった
「ありがとう」
「どういたしまして」
僕は挨拶をしている、猫耳は目の前で
にゃー、という顔をして笑った
僕もつられて笑ってしまう
今日はえんじ色のワンピースだ、かなり場違いな感じなんだが
不思議と彼女には似合っている様子だ
ほれぼれとみていると、照れたように、にゃー、なんてまた笑う
「今日はサドルが無くなってて大変だったんだ」
「うん、大丈夫となりの田圃に埋められてるよ」
「そっか、あとは、大学でテストがあったよ」
「そう、大丈夫、きっとうまくいってる、いっぱいいっしょうけんめい勉強してたもの」
「そう?」
「絶対そうだよ」
中途半端な距離をたもって彼女と向かい合う
触れ合うことはなく、他愛のない動作で、なんとなくはにかむ
彼女は、にゃーという笑顔を見せてころころと笑い、僕はなぜか一生懸命
今日あったことを報告してしまう、その度に前向きな、励ましを受ける
そういうのを続けてしまう、ああ、なんという何かが涌いたようなこれは
どうしたものだろうか
「明日も眼科へ行くの?」
「うん、目が治らないからね」
「心配?」
「少しだけ」
僕は、自分のことながらどうして
灰色がえんじに見える色覚を少しだけしか心配しないんだろうか
わからないけど、それを聞いた彼女の切なそうな顔と
瞳に宿るえんじ色がとても好ましい色に見えた
だから一層のこと、少し心配なことが不思議に思えた
いっそ、そのままえんじ色を見られる瞳を僕は持てばいいのにとか
「ねぇ」
「うん?」
「行かないで」
今日は、そこで目が醒めた
すっかりたいらげられた白い皿だけが置かれて
なんだかもぬけのからのように、切ない印象がある部屋だけが横たわる
僕は皿を片づけて、自分のご飯を作り終えてやがて寝るのだ
眼科へ行きます
「疲れ目ね」
「そうなんですか?」
「そう、夢を見るってことは目も休まってないってことよ」
「そうなんですか?」
「ま、薬出しておくからちゃんと呑んでね、お酒はダメよ」
「そうなんですか」
思って今日の診察は終わる
もさもさと、出ていく背中に女医先生が言う
「どこか行くの?」
「え?帰るんですけど」
「そう、着飾ってるように見えるのは気のせい?」
やんわり笑って出て戻ることにする
自転車をふらふら危なげに運転する
僕の横を、灰色の猫が通り過ぎたなんてことはない
もう解っていることだよそんなのは
決まった位置に自転車を止めて
少し考える、そして、自転車をそこから出して
別の場所に止めた、自転車置き場はあけて置いた
部屋に戻り、薬を呑んで、お酒は呑まずに寝ることになる
夢は見なかった、猫も来なかった
翌朝です
「ちょっと、自転車止める位置違うじゃないですか」
「困るんですよルール守らないと」
「マジきもい」
言われるだろうと予測していても
やっぱり叱られることは嫌な物だな、僕は思って
それをへこへこ謝り倒して、また、かなりの時間を浪費してしまった
いったいこの隣人達は、いつ大学へいき、何をしているというのだろうか
疑問を振り払い、ようやく解放されて部屋へと戻る
「わ」
「・・・・・」
彼女は泣いて待っていた、驚いた
僕は倒れた記憶も、寝ている記憶もないのに
気付けば、今僕の部屋の中では
女の子が泣いているのだ
「どうして」
「花粉症なの」
「なんで、そんな嘘を」
「本当よ、アレルギーなの」
言いながら、さめざめと彼女は泣いた
僕は理由がわかるような、わからないような
そういう感じで、決して核心には触れないようにして
ただ、泣いている彼女をなだめることに始終
「仕方ないよ、目が悪いんだよ」
「仕方ないわ、アレルギーなんだもの」
「それに、よく眠れないし」
「それに、最近は花粉が多いし」
「違うんだ、先生に会いに行くためとかじゃ」
「違うのよ、哀しくて泣いているんだとかじゃ」
食卓に、また生魚がいるのが目に入った
彼女は顔を手で覆うようにして泣いている
僕は黙って、その食卓に座った
目の前の生魚を食べようとする
ぱん、また、叩いた音がするとそれが今度は
活き作りになった、すげぇ、ちょっと思ったけど
いつになく美味そうなそれは、どうしようもなく切なくて味がわからない
「行くわ」
「どうして」
「梅の匂いがするから」
「・・・・・・」
「私ね」
振り返る
にゃー、そういう笑顔
だけど目尻に浮かぶ涙
「梅花粉がダメなの、だから、ね」
えんじ色のスカーフを巻いた彼女は
そうやって僕の部屋から出ていった
僕は目の前にある活き作りを全て食べた
食べ終えて初めて気付いた
「そうか、僕も花粉症なんだな」
眼科に行こう
耳鼻科じゃなくて、眼科に行かないといけない
僕はそう思って寝ることにする
涙がどうしても止まらない、これはかなり重症だろうね
そして眼科
「花粉症?ただの疲れ目よ、大丈夫」
「そうですか」
女医のペンがくるりと回った
やや巨乳は、決して誇張されず、主張をせず
それでいて、存在感を発揮して机に押しつけられたり
そうでもなかったりしながら、なんだかどきどきさせてくれる
「やっぱり、この前はデートだったんでしょう」
「え?」
「だって、ほら今日はそんなに気合い入ってないものね」
えへへ、そういう顔をして僕は笑った
今日は今日で気合いを入れたつもりだったのにな
僕は思うけど言わず
「しかし、振られたの?」
「え?」
「なんとなく、シンパシーって奴?私も、そうだから」
女医の告白は、かすかに梅の香りを伴っていた
多分もう、この香りは嗅がないようになるんだろうな
なぜだか知らないけど、それはチャンスのはずなのに
何かが遅かったとか、そういう、不思議な事を覚えさせる
にゃー、という顔で笑って僕は出る、灰色の猫とすれ違う
自転車置き場は相変わらず空いたまま
酒もやめて、薬も呑んで、すっかり全てが元通りになったよ
一度だけそれから、ウォツカを呑んだことがある
窓を見ても、自転車置き場を見ても、食卓を見ても
えんじ色は一つもないし
眠ったところで夢も見ない
僕はどうしてだか、また泣いてしまった
本格的な花粉症なんだな、そうでないと説明がつかない
まったくばかばかしい、大学生にもなって泣くだなんて
眼科に行こう、多分それが、一番いいんだろうからね