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二人っきりの、空の旅

『お詫びがまだでしたわよね? マコト』

 シンシアさんからの電話だった。いつもいつもシンシアさんからの電話があると俺の携帯をかっさらう梓は今いない。今この時いないのも当たり前なんだけど。

 なんたって今は朝の五時なんだ。誤字じゃなくて、まだお外は真っ暗朝の五時だ。午前五時である。

 無視しても執拗に鳴らされる着信音で、ついにはディスプレイを確認してみると、表示は『シンシアさん』だった。絶対に諦めないことに諦めがついた俺は電話に出て、第一声がこれだったのだ。

「ふぁ……。あわび?」

『お詫びですわ。詫びですわよ。いつまで寝ていますの。もうお昼過ぎですわ』

「日本時間でものを言え!」

『あらあら、今はわたくしも日本にいますのよ?』

「それならなおさらだ!」

『わたくしも人間ですもの。時差ボケくらいしますわよ』

「とりあえず、外の暗さと周りの静けさを感じてください」

『完全防音、特級遮光カーテンですわ』

「時差ボケしそうにない仕様ですね」

『マコトにわたくしの寝室の様子が知られてしまいましたわ』

「寝室って言った! 寝てたんじゃん!」

『お昼寝ですわよ』

「日本にいるの!? アメリカにいるの!? とにかく――」

 いちいちふざけないと話しを進められないのかこの人は。

「何のご用事で?」

『あら、言ったじゃありませんの。お詫びですわよ。この前の一騒動で、随分とご迷惑をおかけしましたものね。あなたとアズサには。カズナリからはあのような形で礼を尽くされていましたけれど、わたくしからは何もして差し上げていないと思いましたの』

「はあ……。だからって、こんな朝っぱらから電話して来なくても……」

『いつアズサがいるのかわかりませんでしたもの』

 ああ、それなら納得できないことはないな。この夏休み、夜中よりも朝方の方が遭遇確率は低いと思うのも当然なのか。梓がいるときにシンシアさんから電話があると、梓はそれに出てしまうのだ。着信履歴の数ほど、俺はシンシアさんと話しをしていない。それにしたって、早過ぎる。こっちには宿題もラジオ体操もないのに。つまりは早起きするする理由なんて何一つないのだ。早ければもうすぐ、梓の奴が押し掛けて来ないとも限らないけど。

『それで、お詫びの話しですけれど』

「はいはい、一体何をしてくれるのでしょうか。どうせ必要ないと言っても何かしらよからぬ事の企てに巻き込むつもりなんだろ。あらかじめ言っておきますけど、お詫びなんていりません。あの話しはあれで終わり、終わったこと。それで結構。俺も梓も」

『相変わらずつれないですわぁ、マコト。そこがわたくしにとってのあなたの魅力なのですけれどね。いえいえ、今回あなたと梓の二人に、ちょっとした旅行というか、バカンスを催して差し上げたいと思っておりましたのよ』

「バカンス、ねぇ……」

 梓と二人でジャングルにでも置き去りにされそうだ。ああ、また無人島の記憶が甦る。せめて文化のある場所がいい。持ち込みの文化で原住民化したくはないし。

『わたくしのグループが所有しているバカンス島へご招待いたしますわ。つい先日オープンしましたのよ。今がちょうど良い季節ですの。海の色がもっとも美しく映える季節ですわ。空でも海でも、お好きな旅を二人っきりでお楽しみくださいな』

「シンシアさんは?」

『あら、わたくしは二人の間に水を差すような真似はいたしませんわよ。ご同行はご遠慮させていただきますわ』

「ふうん……」

『ご心配なさらなくても、ホテルもありますし、レジャー施設もある程度整えてありますわ。その日は本島を貸切にいたしますので、心行くまでお楽しみいただけると思いますわ』

 すっげ、島を貸切かよ。レジャー施設はあまり興味を惹かれないけれど、ホテルもあるなら無人島のときのようにはならないだろう。少なくとも、まともなメシが食える。ベッドがある。梓も俺たち凡人の生活に慣れ親しんでしまって、今年は旅行らしい旅行に拉致……もとい連れ出されることもなかったしな。悪くない話し、かもしれないな。

「梓には?」

『あなたから誘って差し上げなさいな。その方がアズサも喜ぶでしょう』

「そりゃあまあ、そうだろうけど」

『それに、わたくしからあの子にこの話しを持ちかけたところで、アズサは聞き流すに決まっていますもの。そもそも、耳を傾けることすらしないと思いますわよ?』

「でも、梓が行きたくないって言うのなら、俺は別に行かなくてもいいし」

『それならそれで仕方ありませんわ。代わりにまたカズナリとの会食でもセッティングするしかありませんわね』

「行きます行きたいです行かせてくださいお願いします!」

『あらそうですの。嬉しいわあ。精一杯もてなすよう支配人スタッフ一同に伝えておきますわね。わたくし自慢の島をご堪能くださいまし。詳細は追って連絡いたしますわ』

 そこでシンシアさんとの通話は終わった。

 なんだよ、結局は自分の持つ島を自慢したいだけなんじゃないのか。そして俺はおそらくおまけだ。きっとアズサに見せびらかしたいに違いない。俺はまたあの二人のいがみ合いに付き合わされているだけなんだよ、多分。

 俺はそして、二度寝した。

 シンシアさんが自慢したがるような楽園島を夢見ながら。

 少しだけ、梓の喜ぶ顔を思い浮かべながら。

 夏休みなので目覚ましをセットしているわけでもなく、最近は惰性に任せて起きているのだが、そうしてどれくらい寝入っていたのかわからないくらいに瞼にかかる光が眩しくて目を開けると、目の前には梓の顔があった。

 梓の不機嫌そうな顔があった。

「おはようございます」

 横になっている俺に対して、そのお顔は直角に曲がっていたわけではなかったので、どうやら梓は隣で横になっているようだった。

 明らかに不機嫌だった。

「お、おうおはよう」

 横に梓がいたことは俺にしてみればそれほど驚くべきことではなく、それでも決して完全に慣れてしまっているわけでもなく、少しは驚きの声も上げてみたいところだったけれど、梓が眉をひそめていることに対抗して俺も眉をひそめた。

「寝過ごした、か?」

 目覚ましもかけていないし、予定なども別段ないのだから寝過ごしということはないのだけれど、こうやって梓が不機嫌そうにしていることには、俺がいつまでも寝入っていたことが考えられる第一の原因だった。いやでも、梓の奴は寝ている俺に対して何をしてくるかわからないからな、寝ていたことに機嫌をそこねているという考えはあまり妥当ではないのかもしれない。

「携帯からシンシアちゃんの匂いがしますね」

「お前は人の声で匂いがわかるのか!?」

 すげえよお前。もしかして遠くから叫んでもそいつの匂いがわかるのかよ。

「正確には、着信履歴にシンシアちゃんの名前がありました」

「普通で安心した」

 いや携帯を勝手に見られたことは怒るべきなのかもしれないけれど、もはや俺のプライベートはないと言ってもいいくらいにこの神宮寺梓が浸食しているので、見られても困ることなどない。ごく稀に、こうやって梓がいない時に、あんな電話があったりするのだけど、それが千佳や倉敷さんや裕也ならともかく、シンシアさんだったからこそこいつはこうやって不機嫌さを露わにしているのだ。俺共々、梓はシンシアさんに傷つけられたからな。文字通り、体も心も。しかしむしろこの場合、梓が声で人の匂いを判別できないことを安心するべきだろう。そこまで人間離れされるとさすがの俺も梓離れしなくてはならない気がするからな。お金持ちの力で改造人間になっていたらどうしよう。

「何の話しですか? 梓に言えないことですか?」

「お前はシンシアさんに対して反応が過剰過ぎる。わからなくもないけどな。いやでも、今回はお前に聞かせたいことなんだ。なんか、お詫びとして旅行をプレゼントしてくれるらしい。新しくできたレジャー施設っぽいところだそうだ。お前と俺で、行ってこいってさ」

「えーっ、どうせまた何か企んでるんでしょ?」

 予想通りの反応を見せてくれる。

「シンシアさんは一緒に来ないって。二人っきりで行ってこいって言ってたぞ。せっかくだから、行こうぜ。お前と二人で旅行なんて、久しぶりで実は楽しみなんだよ」

 こうでも言わないと、梓は首を縦に振りはしないだろう。断っておくが、決して楽しみではない。むしろやはり面倒だと思ってる。だけどこの話しに乗らないことにはまた一成さんとお食事会の罰ゲームが待っているのだ。それだけは是非とも避けなくてはならない。

「本当ですか? それ」

「ん、まあ、特に俺とお前には興味なさそうだったし。どうやら、島の施設をお前に自慢したそうにしてたしな」

「いえ、そうではなくて。シンシアちゃんの企みなんか今は怖くも何ともないんですけど、先輩が楽しみにしてるって」

 ああ、そっちか。ええと、うん、そうだな。

「ほら、温泉に連れて行ってもらったときもお前のパパさんが一緒だったろ。あんなんじゃ正直、俺は羽を伸ばしたなんてとてもじゃないが言えない。お前と二人って言うのなら、俺だってそれなりに楽しめると思うしさ」

 ここまで言ってダメなら、諦めよう。大人しく神宮寺邸に招かれよう。

「お前の水着、似合ってたしな」

 それが引き金だったのか、梓は嬉しそうに笑った。

「も、もう。そこまで言うのなら、先輩が言う事に乗せられてあげちゃいます。水着はあれがいいですか?」

 水色のビキニだ。見たのは風呂場でだったけど。

「ああうん。あれがいい。他のはいらない」

 本当にいらない。

「一日中水着でいろと!? でも、ベッドの中ではさすがに……」

「寝間着は持って行け」

 シンシアさんにホテルの部屋は最悪でもツインにしてもらえるよう願い倒しすることを胸に誓って、ベッドから梓を蹴落とす俺だった。

 さっそくというか、夏休みももう残り一週間ほどしか残っていなかったので、シンシアさんに旅行に行く旨を伝えるべく連絡した。あの一件以来、俺の携帯からシンシアさんの携帯に電話をするというのは初めてで、多少緊張してしまった。こんな時に頼れる梓は、シンシアさんに恩を感じるのが嫌なのか話しをしたくないらしく、結局俺が話すことになった。

 神宮寺グループの財力ならば、わざわざ今回のような施しを受けなくても世界一周だろうと例え宇宙旅行だろうと可能な気がするけれど、やはりそれには梓の父親である一成さんが同行しかねないので、梓にとっても悪い話しではないようだった。

「空の旅を希望します」

『あらそう。出発は明日でよろしいのですわね? それではこちらもそのように準備いたしますわ。空港にプライベート機を用意させますので、そちらも準備を滞りなく。心の準備を。ふふっ』

 空か海か選べと言われたので、空路を選んだ。それにはやはり夏休みの残り日数が関係している。まああちらも長い間、島を貸切にするわけにもいかないということで、滞在は三日間。つまりは二泊三日の旅行だ。夏休み最後の思い出としては、十分な日数になるだろう。旅の疲れも癒す時間も残ることだし。

 シンシアさんが最後に意味ありげな含み笑いをしていたが、まぁそれほど自慢の島なのだろう。少なくとも、心の準備をしていかなくては、圧倒されてしまうくらいに。

 そんなわけで、その日は旅行の準備に費やした。その内容は概ねショッピングだ。行き先の詳しい場所までは聞いていない。大体の場所は聞かされたけれど、南の島らしい。そこに行く準備として、旅行鞄や服や俺の水着など、全て梓に新調してもらった。新調していただいた。さすがに全てを新しく購入してもらえると俺の頭も上がらない。何か見返りに要求してくることも覚悟していたけれど、梓は今回の旅行に案外乗り気なようで、楽しそうに旅先で何をしようか話していた。

 その日はお互いに明日に備えようと早目に別れ、俺は家に帰ってきた。

 正直なところ、俺も結構楽しみで、思わず風呂場で鼻歌などを口ずさんだり、意味もなく部屋の鏡の前でポーズを取ったりしていた。何のことはない、浮かれていたのだ。

 だから、日常の些細な変化を見逃したりする。

 せめて、この時に異変を感じ取ってさえいれば、俺の夏休みは平穏のまま終われただろうと思う。

 今後の日常生活に大きな変化をもたらすことはなかったと思う。

 ただ、旅行前日の俺はやはり浮かれていたので、おおよそ十五年間、一緒に暮らしてきた妹の態度のおかしさになんて、気がつかなかったのだ。

 妹。来栖あゆみ。中学三年生。ただ見た目はどうやっても小学生らしく、その言動も小学生らしいので、ついつい親心のような感情さえ抱いてしまう、可愛い妹なのだ。

 一学期の終業式の日、妹に衝撃の告白を受け、俺は戦慄を感じ、妹が告白を受けた相手の男の様子を窺ったことなどもあったのだが、斎藤さんの助力もあり、その時はことなきを得た。と言えばまた妹に怒鳴られるかもしれないので口には出さないが、妹に彼氏なんぞまだ早い。俺のこの考えはそうそう覆るものじゃない。梓に過保護と言われたが、俺も過保護だとは多少思うけれど、妹はまだ見た目も、中身も、子供なのだ。幼いと言った方がいいのかもしれない。

 そんな妹に、鏡の前でポージングを決めている兄の姿を目撃された。いつからそこにいたのかわからなかったが、あゆみはまるでずっと昔からその場にさながら建造物のように建っていたように立っていて、じーっと見られていた。観察されていた。自由研究の対象にでもされているようだった。

「何してるの? お兄ちゃん」

 あゆみにしては至極真っ当な質問だった。これが倉敷さんだったら『人間の体に飽きてきたのかい?』とでも冗談交じりで言ってくれそうなものだったけれど、残念ながら俺の妹はそうはいかない。純粋に疑問をぶつけているのである。しかしここは一応俺の部屋だぞ。いくら妹とはいえプライベートな空間だ。それを音もなく侵入してくるとは、梓に影響され過ぎているのかもしれない。悪い影響だ。

「か、かゆいなあ~。手が届きそうで届かないんだよなあ~」

「だ、大丈夫? お兄ちゃん」

 一瞬、頭のことを心配されているのかと思ったがあゆみに限ってそういうことはあるまい。あゆみは単純にかゆみのことを心配してくれているのだ。あゆみがかゆみを心配してくれているのだ。失笑。すいません、いやほんとごめんなさい。

「お、おお大丈夫。急におさまったみたいだ」

 こういう手が通じる相手はあゆみしかいないだろうな。

「それにしてもお兄ちゃん。すごい荷物だねー。どこか行くの?」

「ああ。梓と旅行に行くことになったんだ。土産買ってくるからな」

 シンシアさんの性格だと、土産も何もタダでもらえるような気がするけれど。

「えっ、旅行? あ、明日から?」

「そうだよ。シンシアさんって人のこと、前に話しただろ。そのシンシアさんって外国の人にプレゼントされたんだよ」

「ええっ!? あっ……、ふ、ふうん。そうなんだあ」

 この時のあゆみらしからぬ異常な驚きよう、それに気がついてさえいれば、そのことを追及してさえいれば、俺はこの旅行には行かなかっただろうと思う。

「お前も連れて行ってやりたいところだけどな、今回は梓の誘いじゃないから。悪いな」

「う、ううん。いいよ。行ってらっしゃい、お兄ちゃん。じ、じゃあ、邪魔しちゃ悪いからあ、わたしはもう寝るねー」

「おい、お土産は――」

 あゆみは慌てて部屋を出て行った。

 邪魔したら悪いというのが建前で、変な兄と一緒にいたくないと思われていないことを願うばかりだった。

 まあいい、土産の話しは明日の朝にでもすればいいだろう。

 ポージングを目撃されて、皮肉なことにそれで冷静になった俺は、明日の荷物の再確認をして、寝た。

 寝つきは良かったと思う。目を閉じて、感覚的にはそれほど時間も経たずに眠りに落ちた。

 途中で一度も起きることはなく、目覚ましが鳴るまで寝入っていた。

 時間は、午前十一時。旅行にしては少し遅めの起床、そして遅めの出発だった。

 飛行機の搭乗予定時刻は午後二時。

 約八時間の飛行で、向こうに着くのは現地時刻で午前七時らしい。時差ボケのことも考えて、たっぷり寝ておいた。

 旅行鞄の中身をもう一度チェックして、忘れ物がないことを確認する。それからあゆみに土産の希望でも聞こうとしていたんだけど、あゆみはすでに出掛けたあとだった。

「ふむ……。何か喜びそうなものを適当に買ってくるか」

 父さんと母さんには名産物でも買ってくればそれでいいだろう。あゆみにはご当地キャラクター的な人形でもやろう。シンシア人形とかなら絶対買わないけどな。

 そして身支度を終えた頃に、梓がやってきた。

 梓にしては珍しく、細身のパンツにキャミソールといった風貌だった。それにサングラスも装備されている。少し大人びて見えた。

「おはようございます! 先輩っ、逃げましょう!」

「は?」

 俺は旅行の約束をしていただけであって、かけおちの約束なんぞした覚えはないのだが。

 だけどとにかく、梓は焦っていた。俺の部屋まで駆け上がり、俺の旅行鞄を持ってそれをそのまま斎藤さんが待っている車の中に放り込んだ。そして今度は俺の手を強く引いた。とてつもなく必死だった。

「ちょ、お前、何事だ!」

「説明している暇はないのです! 早く車に乗ってください! 先輩の身が危険です!」

「うぇ?」

「話しは車に乗ってからです! 急いで先輩っ!」

 わけがわからないまま、半ば混乱に近い状態の頭で車に乗り込んだ。

 ドアを閉めると、斎藤さんは勢い良く車を走らせ始める。どこか斎藤さんも焦っているように見えた。梓は顔面蒼白のまま、息を荒く吐いて、それが落ち着く頃に、ようやく俺と向き合うかたちになった。

「どこに行こうってんだ。あんま寄り道してたら空港に間に合わなくなるぞ?」

 他にもいろいろと聞きたいことはあったはずだけど、突然の出来事でろくに頭が回っていなかった俺はそんなことしか言えなかった。

 梓は大きく嘆息して、やれやれと、口にした。

「その空港に向かっているのです」

 車は大通りから高速道路に乗り、どうやら空港方面へと向かい出したらしい。ここから空港までは、およそ一時間弱かかる。

 ますますわけがわからなくなってくる。空港に向かってるんだよな。逃げるとか言っていたけれど、目的地は変わっていないじゃないか。 

「お嬢様。少しスピードを上げますので、おつかまり下さい」

 斎藤さんがそう言った直後、車のスピードがぐんっと上がった。明らかに法定速度違反だ。

「斎藤さん、まさか……」

「ええ、追いつかれたようです」

 梓と斎藤さんは逃亡者らしく逃亡者らしい会話をしていた。

「おい梓、そろそろ説明しろ」

 しっかりと俺の腕に体を固定していた梓に、ようやく問い質す。

 梓は、本当に言いにくそうに、俺の目を見ないようにして、後ろめたさ全開で、言った。

「……旅行のことがパパにバレてしまったのです」

「えっ」

 血の気が引いた。

 同時に、窓の外に、黒塗りのリムジンが張りついた。ぴったりと張りついた。その運転席の窓が、ゆっくりと、開いた。

 にいぃ……。

 そんな笑い方だった。この世でもっとも怖ろしい笑顔がそこにあった。人間がトトロの笑い方をすればこうなるのかと思わされる笑顔だった。

「真くぅん。来栖真くぅん。いけないなぁ。娘とふたりっきりで旅行なんて、いけないなぁ」

 聞こえたわけじゃない。聞こえるわけがない。百キロを軽く越すスピードで走っていてなおかつこちらの窓は閉まっているのだ。でも俺にはそう言っているのがはっきりと聞こえた。耳元でささやかれているようにはっきりと聞こえた。

「梓、逃げてるってお前……!」

「もちろん、パパから逃げてます」

「パパァーーーーーーッ!!」

 ブルブルと、ポケットの中で何かが震える。震えるものでポケットに入っているものなんて、携帯に決まってる。

 恐る恐る、ディスプレイを確認する。

 そこには『梓パパ』と表示されていた。

「ひいいいいいいぃぃぃぃぃっ!?」

 ポケットが恐怖でいっぱい。

『梓パパ』なんてとっても可愛らしく見えるはずなのに、怖い。今俺は自分の携帯が怖い。

 隣を見ると、相変わらずのトトロの笑みで、携帯を耳に当てている一成さんの姿があった。前を見ていない、一切見ていない。俺の方だけを凝視して運転している。

「お前、ちゃんと説明してなかったのかよ!」

「言ったら、絶対ついて来るって言って聞かなくなりますもん。うちのパパ、そういうとこ子供っぽいですから」

「可愛らしく言ってもダメだって! 怖い! 今すぐ謝って許してもらおう!」

「大丈夫です先輩。空に飛び立てばそうそう追って来られませんから。行き先までは知られていませんしね。梓と一緒に国外逃亡し・ま・しょ?」

「永住決定じゃねえか! 日本に帰って来られないの!?」

「住めば都と言いますし」

「住まないって! 誰にも別れの挨拶してないんだ!」

 こんなやりとりの中でも、俺の携帯は絶えず震えていた。それだけでどんどん充電が減っていく。俺の命のカウントダウンが始まっているようだった。

「梓がこの車に乗っている限り、パパは無茶な真似はしてこないはずですから、ひとまず安心ですね」

「お前それ、俺がお前を人質に取ってるみたいじゃないか」

「いっそ電話に出て、退かないなら梓がどうなるかわからないぞって言ってやればいいんですよ」

「俺に自殺願望なんてねえよ!」

 絶対殺される。今を乗り切れたとしてもいずれ絶対殺される。

「大体俺らが無事に逃げられたとしても、残る斎藤さんがひどい目にあっちまうだろ。そうですよね、斎藤さん。だから、車をどこかに停めて……」

「この車を走らせた時点で、覚悟は決めております」

 重い! 

 ただの旅行が一人の人生を奪おうとしている!

「大丈夫ですよ。神宮寺家にとって斎藤さんはなくてはならない存在ですからね」

 そういう問題か? そういう問題だとしても、やってることは完全に裏切り行為だと思うけど。雇い主はあくまでも一成さんだろう。いいよ。いいでしょもう。一成さんも誘ってあげようよ。

「なあ梓。もう一成さんも一緒に――」

「嫌です」

 ばっさり切って捨てられた。

「せっかく先輩と二人っきりで旅行なのに。邪魔者は排除しなければなりません」

 邪魔者。梓お前、自分の父親を邪魔者扱いかよ。

「しかし梓。これからどうするんだよ。あの勢いだと、どこまでだって追ってくると思うぞ。高速道路走ってるんだから撒くこともできないだろうし。空に逃げてもあの人なら追っかけて来る気がする」

「ハァ……。仕方ないですね。この手だけは使いたくなかったのですが……」

 梓は一つ嘆息して、電話をかけた。この状況で電話の相手と言えば、当然ながら一成さんしかいない。

 横を見ると、一成さんはひどく驚いて、慌てた様子で携帯を耳に当てた。そしてすごく泣きそうな顔でこちらを見た。

 なにあの人。いい大人がすっごく面白いんですけど。笑うなよ俺。あとで笑えない状況に陥ってしまうからな。

 ここからは梓のターンだった。

「いい加減にしてください、パパ」

「は? 心配なんていりません。心配されるようなことは何もありません。むしろ今のパパの方が心配です」

「いいから帰って仕事してください」

「うるさいです。何言ってるか全然わかりません」

「あーーーーーーっもう」

「うるさいパパなんて嫌いです」

「おとなしいパパなんて嫌いです」

「どうもしなくていいです。嫌いです」

「そうですね。見逃してくれるパパは好きです」

「あーもうはいはい。はいはい。はいはい。はいはいはいはいはいはいはいはいわかった。わかりました。じゃあこうしましょう」

 なんとなく、一成さんの合いの手が想像できる。みんなも自由に一成さんの言葉を梓の会話の中に入れて想像してくれ。

「帰ったら梓がパパと一緒に寝てあげます」

 ――消えた。

 隣の車が、リムジンが一瞬で消えた。

 正確に言えば、すごい勢いで下がって行った。まさか高速道路で急ブレーキでも踏んだんじゃないだろうな。

「――ふう。これで大丈夫です。邪魔者は消えました」

「消えた、な……」

 単純過ぎるよ梓パパ。

 斎藤さんのことも梓が同じようなことを言えば大丈夫なんだろうな、きっと。

 とこんなハプニングがあったわけだけど、俺と梓は無事に空港へ到着した。

 一般旅客機が並ぶ中、アネソングループのプライベート小型機はすぐに見つかった。堂々と滑走路の中央に陣取っていたのだ。

 やり過ぎだろ、あの人。

 空港内には発着時間遅延のお詫びのテロップまで流れてるし。斎藤さんどころじゃない。もしかして全世界に迷惑かけてるんじゃ? この旅行。

 もちろん俺はそんな中で離陸時間まで待つような気の強さは持ち合わせておらず、ものすごくいたたまれない気持ちでそそくさとその小型機に乗り込んだ。

 中はホテルだった。

 冷蔵庫はもちろんシャワールームにベッドもある。これはこれは、優雅な空の旅を満喫できそうだ。

 ベッドが一つしかないのがネックだったけれども。

 俺と梓が乗り込むと、すぐに離陸した。

 飛び立つ前のちょっとした緊張感も何もなく、慌ただしい出発だった。

 飛行中の俺と梓はというと、普段と何も変わらなかった。いつものお喋りにいつものやり取りに、ゲームなんかしたりして、飽きたら寝た。たっぷりと寝てきたはずだったのに、何もすることがなくなると寝れるもんだ。ベッドで一緒に寝るなんてことはもちろんせずに、俺は座席で、梓はベッドで。

 着陸間近になり、キャビンアテンダントと呼ぶべきだろうか、乗務員さんに「モーニン」と起こされ、ついに島へやってきた。

 シンシアさんが言うところの、バカンス島。

 正式名称は長ったらしい英語だったので忘れた。バカンス島と呼んで差し支えないだろう。

 空港こそそれほどの大きさはなかったものの、空港内から見える島の景観はまさに楽園のようだった。

 空港自体が小さな島になっており、そこから橋が一本伸びて本島に繋がっていた。ここから見えるのは、白い、真っ白い砂浜。常夏と表現できるヤシの木がいくつも並んで、砂浜を囲むようにいくつものビルとホテル、そして遊園地らしきものも見えた。ヨットかクルーザーかも数えきれないほど浮かんでいて、有無を言わさず納得させられた。

 あの人はやはり世界有数の金持ちなんだと。この島全体をアネソングループが所有していると言うのだから驚き、驚愕だ。

 そしてそんな島のことをそんなことよりと言ってしまえるほど、驚いた。

 呆れた。

 俺も、梓も、その場にぶっ倒れそうになった。

「ようこそいらっしゃいました、お二人とも。お待ちしておりましたわ」

 空港出口で出迎えてくれたのは、いないと思っていた、金色の女神だった。ここでなら、楽園の女神とでも呼ぶべきか。

 歓迎の笑み。

 シンシアさんが出迎えたことは、案外、想定内だったのかもしれない。

 ぶっ倒れそうになった理由は、他にある。

 歓迎してくれたのはシンシアさんだけじゃなかったのだ。

 熱烈歓迎。

 笹野千佳、倉敷みちる、高橋裕也、来栖あゆみ、道寺健介、あと、なんとか優子、さん。

 シンシアさんが、にやりと意地の悪い笑みを浮かべる。

「いかがでした? 二人っきりの、空の旅は」

 今後一切、俺はシンシアさんの言葉を素直に聞くまいと、ここに固く誓ったのだった。

 

 




  





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