悪意 ~シンシア・アメルソン~
ああ、退屈ですわ。とてもとても、退屈ですわ。
退屈しのぎに、少しだけ物語を語ってみるというのも悪くないのかもしれませんわね。ご丁寧にも日本語で語って差し上げますわ。ただでも、語るといっても何の味もないエピソード。ただの、暇を持て余した遊び。これは、ストーリーのほんの一部のお話し。わたくしはあくまでも、影ですのよ。決して表舞台には立ちたくありませんの。影から、彼らを、彼女らを、操り、操作し、掻き乱し、それを見て楽しむだけですわ。結果がどんな結果になれ、わたくしが知ったことではありませんの。
先の、アズサとマコトのように。多少のイレギュラーはあったとしても、わたくしの思っていた通りの結果になりましたわ。それはそれで面白くないことかもしれませんけれど、果たしてそれだけだとも言えませんわね。全てが思い通りに行くというのも、それはそれで面白いものですから。
ご紹介が遅れましたわね。わたくしはシンシア。シンシア・アメルソンですわ。
自己紹介はこれだけで結構かしら。これだけでいいでしょう? 好きなだけ、わたくしのことを想像してくれて構いませんのよ。もっとも、あなたたちに推し量れるような人物ではないことだけ、ここに冴やかにしておきませんとね。いずれは、冗談でも偽りでもなく、世界の女王になるわたくしですもの。
「お嬢様」
わたくしのボディーガード、ヘンリーが部屋に現れましたわ。
ただいま、わたくしはアメリカ本土にあるアネソングループ本社ビルにおりますわ。最近は、仕事らしい仕事はなく、暇を持て余している、といったところですわね。それはそれは我がグループが安定して、わたくしの出る幕すらないというのは、喜ばしいことですけれど。ひとえに、我がグループだけでアメリカ経済を牛耳るところまで発展したとは言えないのですけれど。この世界にいて、この世界のことはまるでわかっていないアズサ。の父親、カズナリの恩恵も少なからずありますわね。
「何か? わたくしは暇を持て余しておますのよ。それなりの理由があるのでしょうね」
「……い、いえ」
「はっきりおっしゃいなさいな」
「大統領が、お会いになりたいと」
わたくしは盛大に溜息をつきましたわ。ヘンリーが持ち込んで来た話しは厄介事以外の何物でもありませんでしたわ。つまらない話しですの。
「ヘンリー。本当に、大統領が、わたくしに、会いたいと? それならお母さまがいますわよね。はっきり言いなさい」
しつこい。しつこ過ぎるにも程がありますわ。次の大統領選には考えなければならないかもしれませんわね。
「……申し訳ありません。大統領の、ご子息が……」
「そうでしょうね。言う事は変わりませんわ。息子ではなく、娘を紹介しろと追い返しなさい」
「しかし、大統領に娘など」
「わかっていますわよ。いい加減に諦めろと、釘を刺しておきなさい」
「はっ」
そしてヘンリーは出て行きましたわ。
まったく、見え見えの魂胆ですわね、あの大統領。わたくしと息子を結婚させれば地位が安定とでも思っているのかしら。そうですわね、一度結婚して捨てるというのも面白いかもしれませんわね。ふふふ。
ああ、そうですわ、わたくしはレズですの。男性はわたくしの敵。ヘンリーだって優秀でなければ切り捨てていますわ。ボディーガードとしては、あれほど優秀な人材もそうおりませんもの。アズサの付き人のサイトウほどではありませんけど。アズサなんかに、勿体ない限りですわ、本当に。
アズサ……、アズサとマコトは仲良くしているのかしら。あれから、一月ほど経ちましたわね。
マコトは、わたくしが一目置いている日本男子ですわ。あの若さで、アズサのために体を張ることが、それこそ命を張ることができるなんて、日本男子にしては珍しい種類でしたわ。元々があのような性格なのか、アズサの教育が良いのかはわかりませんけれど。アズサのことを愛してはいないと言っていましたけれど、自分の何を見てどの口がそんなことを言っているのか不思議でたまりませんでしたわ。愛しているなら愛していると言えばいいのに。それをできないのが、日本人ということなのかもしれませんわね。こと自分の表現に関しては、日本人はあまりにも臆病過ぎますもの。
これからあの男がどうなるか、楽しみですわ。カズナリとのわだかまりが解けて、より困難な道に足を踏み入れたことに気付いているのかしら。もしかしたら、すでに別れているのかもしれませんわね。そうなれば、さしあたってわたくしはアズサを手中に収めることになりますけれど。今は、たしかサマーバケーション中でしたわね。あの二人も、暇を持て余しているに違いありませんわ。アズサのことですもの。
そうですわね。行きましょうか。そうすることにしましょうか。暇ですものね。サマーバケーションとまでいかずとも、わたくしにも休暇が必要ですわ。暇ですけれど。暇疲れの休暇が必要ですわ。
今度はどういう方法で、遊んで差し上げましょうか。
ということでやってきましたわ。
日本ですわ。約9,000キロの距離をわずか一行で飛んできましたわ。そんなものでしょう。世界というのは案外狭いものですわ。人間が世界を一周できるほどの距離。所詮、球体の中での話しですもの。無駄にスケールを大きくしてしまいましたけれど、これは日本の話しでしたわね。日本の、小さな島国の、ほんの小さな町での物語ですものね。
たった一行とはいえ、長旅の疲れをホテルで癒そうとやってきましたわ。
我がグループが経営する国際ホテル。
その、プライベートルーム。
散らかした花瓶も、アズサが血で汚したカーペットも、もちろん新調してありますわ。
わたくしの定位置、窓辺から外を眺めましたわ。
「あははっ。人がゴミのようですわ!」
驚かせて申し訳ありませんわね。人がゴミのように見えるほどこのホテルは高くないのですけれど、人間がわらわらと投身自殺をしているわけではないのですけれど、こういうこともやっておかないと。三作目にして、ちょっと全体の色が変わりつつありますもの。こころなしか少しおとなしくなってきていますわ。でも所詮、わたくしには似合わないことでしたわね。
まあ、あのスタジオが作るアニメはわたくしも素晴らしいと思っていますのよ。わたくしも、悪っぽいでしょうし。正義よりも、悪の方が魅力的ですものね。目的のためには手段を選ばないというところが、特にいいですわ。そして、悪には意思がありますもの。断固たる意思が。正義なんて、所詮悪の偽物ですもの。
そんなこと、どうでもいいですわね。こんなどうしようもなく幼稚な物語には、正義だの悪だの関係ありませんわ。ただ、わたくしは悪ですのよ。誤解のないように言いますけれど、わたくしは、善意なる悪ですわ。
「ヘンリー」
アズサの場所を調べるように命令を下しましたわ。連絡してから会いに行くなんて、何の面白みもないでしょう。突然現れるから意味がありますの。突然の悪意に意味がありますのよ。
「例の、マコトという少年の家に訪問中のようです」
ふうん、下がってよろしい。とわたくしはもう一度窓の外を眺めましたわ。
予想通りでつまらない、面白みのない女ですのね、アズサ。だからこそ、掻き乱すことに意味があるのかもしれませんけれど。
それにしても、日本。いつ見ても、何度来ても、わたくしの肌に合いそうにない国ですわね。匂いが、もうダメダメですわ。作られた街に作られた人間。平和な国とも呼べるでしょう。それは同時に不自由な国ということにもなりますわね。
ふふっ。不自由、ですわね。わたくしも、アズサも。同じですわね。比べられる不自由さではないのでしょうけれど。わたくしも、限られた自由ならば、手に入れることもできるでしょう。
「ヘンリー。あなたはここにいなさい。わたくしは、眼下に見える街を歩いてみますわ」
「ですが……」
お嬢様の身にもしものことがあれば、とヘンリーは続けましたわ。
「知りませんの? 日本は世界一安全な国ですのよ?」
もはや何も言えないヘンリーを一瞥し、わたくしはプライベートルームを出て行きましたわ。フロントに「ごきげんよう」と挨拶すると、「行ってらっしゃいませ」と当たり前の返事しか返ってきませんでしたわね。つまらない教育を受けていること。気の利いた一言でも言えないものかしら。
外に出ると、まるで作り物のような熱風が頬をかすめましたわ。それと同時に、周囲の注目まで集めてしまいますわ。もちろん、他所の国の人間が珍しいわけではなく、このわたくしのことを否応なく、それはもう本当に条件反射とも言える動作で、その視界に収めてしまう、人間の性。本来なら、恐れ多くもあなたたちの目に触れることなんてない人物ですもの。見たくなくとも、見ようとしなくとも、それは必然と言えるように、わたくしを視界に収めてしまう。わたくしの美貌に、魅了される。仕方がないこと。抗えないこと。
称えなさい。崇めなさい。ひれ伏しなさい。
それがわたくしに対する礼儀ですわ。
もっとも、向けられるものは気持ち悪い視線ですけれどね。
「うーん」
わたくしは周囲を見渡しましたわ。
国際ホテル。
駅。
人。人。人。人人人。
わたくしと視線を合わせられるようなヒトは誰もおりませんでしたわ。
なんてつまらない街なのかしら。張り合いのない。やはり、早くあの二人のところへ行くべきかしら。
…………あら、あらあらあら。
ちゃんといるじゃありませんの。わたくしから目を逸らさず、直視できる人が。
なるほどどうして、その理由にも納得できてしまいますわ。
わたくしと同じ立場に立てるであろうアズサの友人ならば、それもできるのでしょうね。それも、明らかな嫌悪。嫌悪感。敵意。それが伝わって来るようでしたわ。
「ふふふっ」
あらあらどうして、楽しくなってくるじゃありませんの。微かな喜びを感じて、わたくしはその人物に歩み寄りますわ。もちろん、お相手は女性。わたくしが男性に歩み寄ることなど、それはもう本当に本当に特別な場合だけですもの。
その視線が、そんなに険しく、戸惑いのあるものでしたら、もしかするとあなたはアズサと並び立てる存在なのかもしれませんわね。
「うふっ。うふふふっ。お久しぶりですわね」
「うわひゃあっ!?」
そして彼女は、美しい。もっと美しくなれる存在ですわ。あのとき、あの場所で気になってはいましたけれど、これは運命なのかしらね。そんな大仰なことでもないのでしょうけれど。
さしあたってわたくしは、彼女の胸を揉みしだきましたわ。それはもう思い切り。彼女の羞恥を周囲に晒すように。ほどよい柔らかさ。相手を喜ばせるに適した形。匂いも、そそられますわ。ふふっ、なかなかですわね。どうしましょう。このまま連れ去ってしまおうかしら。
「~~ちょっ! あんっ、や、やめ……っ! ~~~~~~っ!!」
「ふふっ。いかがかしら? 幾人もの女性を唸らせたわたくしのテクニックは。よろしいですわよ。このままわたくしに身を預けて。さらなる快感を与えて差し上げますわ」
「差し上げなくて結構です!」
彼女はわたくしの手を振り解きましたわ。ふふっ、とても残念ですわ。
「あなた、お名前は何とおっしゃいますの?」
「いまさら!? 胸を触る前にそれを聞いて下さい! 私は笹野千佳です!」
「チカ! そういえば、アズサとマコトがそう呼んでいた気がしますわ。ごきげんよう、チカ」
「ごきげんじゃありません! まったくの不愉快です!」
「あらそう? 気持ち良さそうにしていたじゃありませんの」
「きっ……! 気持ちよくなんか……なかったもん……」
ぞわぞわと、わたくしの背筋を快感が走りましたわ。これはこれは、なんとなんとも、可愛らしいじゃありませんの。こんな子こそ、屈服させるとより美しくなれる才能があるのですわ。
チカ。わたくしのお遊びに付き合わされてしまった子。わたくしにとってのイレギュラー。偶然の産物。素敵な出会いだったと、そう思っておきましょう。あのときもう一人いた、黒髪の子も大和撫子のようで素敵でしたけれど、このチカの内に見え隠れしていた、どこか悲観的なところも、また一つの魅力でしたわ。影がある者こそ、本気になればより輝けるというもの。それが、どういう理由であれ、あがく理由があるのなら。
「そ、そんなことより、何してるんですか? シンシアさん。どうして日本にいるんですか?」
「あら、まるでわたくしがここにいたら困るような言い方ですわね」
「そういう意味じゃ、ないですけど。ただ、またあんなこと考えてるのなら……」
「考えているのなら、どうしますの?」
「ど、どうするっていうか、その……や、やめてください。め、迷惑ですから」
ふうん、なかなかどうして……。あまり気が強そうには見えなかったのですけれど。
「あなたに迷惑をかけたのはアズサの方でしょう? わたくしは別に、あなたももう一人の子も、お呼びではありませんでしたわ」
こういうこと、マコトにも話したかしらね。
「その梓ちゃんをそこまで追い詰めたのはシンシアさんじゃないですか。真のことだって、傷だらけにして……」
あら、あらあら、どういうことかしら。
ん、んん、もしかしたらわたくしは勘違いしているのかもしれませんわね。
「あなた、アズサとの付き合いは長いのかしら?」
「え? そんなに長く、ないです。梓ちゃんのことは知ってたけど、話すようになったのは、春からです」
「それなら、マコトとは?」
「真は、小さい頃からずっと……。幼馴染なんです」
ああなるほど。そういうことでしたの。通りでマコトのことを随分と親しげに呼んでいるはずですわね。
「そう。ならあなたとアズサは、マコトが結び合わせたといったところかしら?」
「そうですけど……。とにかく、お願いですから、この前のようなことはしないでください。シンシアさんが何を考えていたかわかりませんけど、もう、真を巻き込まないでください」
「ふふっ。随分と嫌われてしまったものですわ」
「…………」
なんてわかりやすい子。マコトを巻き込むな、ですって。アズサはどうなってもいいのかしら。
なるほどどうして、この子の中に見える悲しげな感情はそういうことですのね。その節は、悪いことをしてしまいましたわ。なんてこと、心にも思いませんの。可哀想だとも思いませんわ。面白い、暇つぶしが目の前に転がってくるとは、日本に来た甲斐があったというものかしら。
迷惑、ね。たしかにこの子にとってはどうしようもなく迷惑なことだったでしょうね。
それならば、善意なる悪を差し上げなければならないのかしらね。お詫びとして。お返しとして。風を。爽やかな、渦巻く竜巻を。
「あなたは何をしてくれるのかしら?」
「え?」
「わたくしがあのようなことをしでかさないように、あなたはわたくしのために何をしてくれるのかしら。どんなことをして、わたくしを楽しませてくれるのかしら」
「そんなこと……」
「あははっ、ごめんなさいね。意地悪なことを言ったようで。所詮、あなたにはアズサのように、マコトのようにわたくしを楽しませてくれるなんて無理なことでしょうね」
「梓ちゃんのように」
「そう。アズサのようにわたくしに向かって来れるかしら? できませんわよね。どうせ、あの時のように、あなたは見ているだけしかできませんのよ」
「あの時の……ように……」
ふふっ。先日はまるで気にしていませんでしたけど、どうしてどうして、この子のことを以前から知っておけば、この前はより楽しめたはずですのに。もったいなかったですわ。さあて、わたくしのことを知られてしまった今、どういう趣向を凝らしてあげるべきかしら。
「な、何だってします!」
「ふうん。あらそう」
精々、楽しませてもらいましょう。人の心を弄ぶことは、おそらくこの世でもっとも楽しい遊びですわね。マネーに群がる欲望の塊たちを相手にするより、よほど高貴な遊びですわ。
「とりあえず、ゆっくりとお話ししましょうか」
行きましょう、とわたくしはチカの手を取りましたわ。
来た道を後戻り。
再びプライベートルームへと舞い戻ります。
ヘンリーに下がるよう伝え、チカを誘い、窓辺に立ちましたわ。
「懐かしいでしょう? この部屋」
「……ええ、そうですね」
緊張しているようにも見えましたけれど、どちらかと言うと、苦い思い出を思い返しているような、そんな顔をチカはしていましたわ。
「それで、わ、私は何をすればいいんですか?」
「そう身構えなくてもよろしくてよ。お話ししましょうと言ったでしょう。ですけど、そうですわね、さしあたってあなたにしてもらうことは――」
こんなことを考えるとは、わたくしもまだまだ子供ということかしらね。
「マコトに愛しているということを伝えていただこうかしら」
「…………はい?」
チカは呆気に取られている様子でしたわ。ふうむ、大体掴めましたわ。
「あら、聞こえませんでしたの? マコトに、愛していると、あなたの気持ちを伝えていただきたいと、そう言ったのですわ」
「ええええええええええええええええぇぇぇぇぇぇっ!?」
頭を抱えて大層な驚き方だこと。ジョークの一つでも返してもらいたいものね。
「えっ、いや、それはちょっと、いやいや、そもそも、どうして私が真に、そんなこと……」
「愛しているのでしょう?」
「そ、そそそそんなこと、ありま、ないです」
まったく、マコトといいこのチカといい、どうして日本人はこう自分に正直になれないのかしら。アズサをもっと見習って欲しいものですわ。
「あなたの態度を見て核心が持てましたわ。職業柄、人の心を覗き込むことは得意としていますのよ。それが欲望であれ、愛情であれ。わたくしからの要求は、たったそれだけ。簡単なことでしょう?」
さあ、わたくしが導いて差し上げますわ。チカ。ヒロインになるか道化になるかは、あなた次第ですのよ。
「何だってしていただけるのでしょう? わたくしに見せてごらんなさいな。滑稽な恋愛ごっことやらを」
「でも、だけど、私、そんな……い、言えません」
「あら、どうして?」
「それは……そ、それはっ! ……シンシアさんだって見てたでしょう? 真と梓ちゃんのこと。あの二人の間になんて、入れるわけがないですよ。それに、真は私のことなんて、ただの友達、幼馴染ってことくらいにしか、思ってませんから」
ふうむ。
「それがどうしましたの?」
「どうしたって……」
「わたくしは、ただ愛していると伝えなさいと言っているだけですわよ? それによってあなたがどうなろうとわたくしの知ったことではありませんの。あなたの事情なんて知りませんわよ。どうせ散るのなら、派手に散って楽しませてごらんなさい」
「……っ!」
ふふっ、憎しみの目。やはり、わたくしは悪ですわね。
「恨むなら、アズサと巡り合わせてしまったマコトを恨みなさい。それがなかったのなら、わたくしにとってあなたなんて大衆の一人でしかなかったのですから」
「ひどい……ひどい人です、シンシアさん」
「あら、心外ですわね。むしろ感謝して欲しいくらいですわ。きっかけを与えて差し上げていますのよ、わたくしは。卑怯者に」
「卑怯者?」
「だってそうでしょう? あなたは見ているだけですもの。おそらく、ずっとそうだったのでしょう? あなたはただの傍観者。マコトとアズサが離れてしまうことを息を潜めて待っている、ハイエナ」
「ち、違います! 私はそんなこと思ってなんかない!」
「そうかもしれませんわね。ですけど、アズサとマコトが疎遠になったら、あなたはどうしますの? それでも、あなたはずっとマコトと今の距離を保っていきますの?」
「ずるいです……そんな言い方……」
「ずるい? ずるいのはですからあなたですのよ。あなたのアズサとの違いはそこですわ。見ているだけか、追いかけるのか。ああもしかして、わたくしの勘違いだったのかしら。あなたはマコトのことをそれほど愛してはいませんのね」
「そんなことない! 私が、私がどれだけ真のことを好きかなんて知らないくせに! 私以外の誰にも、私の気持ちなんてわかるわけないのに! ずっと、ずっと前から好きだったもん!」
良い感じで本音が出て来ましたわね。面白くなってきましたわ。
「ですから所詮、片想いで甘んじるくらいの気持ちでしょう? それはつまり逃げているだけでしょう? 永遠に片想いなら、失恋しなくて済みますものね。ああ、こう言うべきかしら。あなたは失恋すらできないと」
「失恋なんてとっくにしてる! あんな二人を目の前で見せつけられて、私はもう、もう……とっくに……」
「あはっ。あなたもしかして、自分が被害者とでも思っているのではありませんの? 自分のことが可哀想で仕方がないのではありませんの?」
チカは気が付いたように目を丸め、首を振りましたわ。何度も何度も、自分自身を否定でもしているように。
「被害者……。ううん、違う。それは、違います。だけど、でも、そう、聞こえるのかもしれませんね」
……あら、まるでわかっていないというわけでもなさそうですわね。
「傍観者と言われても仕方がないのかもしれません。たしかに私は見ているだけだった。それだけでした。それについては、何も言えない。でも私は、真のことが、本当に好きです」
真っすぐな目ですわね。最初からそういう目をしていられれば、これほど遠回りしなくても済んだかもしれませんのに。
「真のことがずっと好きだったから、私はこうしているんです。振り向いてもらえるように、いろいろ頑張ってきたんです。私は、変われた。少なくとも、シンシアさんとこうやって向き合えるくらいには、強くなれた」
「わたくしと向き合うことがどんな大仰なことかおわかりなのかしら」
もしかしたらこの子は、道なき道を歩いてきたのかもしれませんわね。数年、あるいは十年以上も、一人努力をしてきたと言うのかしら。それはそれは馬鹿な話しではあるけれど。想像を絶する話しではあるけれど。そしてそれはそれは、悔しいことでしょう。悔しくてたまらないでしょう。この子には、ただ見てきたことを責めるより、ただ変わらず見てきたことを褒めてあげるべきかもわかりませんわね。感服に値することかもしれませんわ。
「努力は報われてこそ意味があるもの、価値があるものですわ」
「そう、かもしれません。そうかもしれないけれど、それを認めてしまったら、私は今までの自分を否定してしまうことになっちゃうんです」
「まあ、あなたの努力がどのようなものかわたくしにはわかりませんけど、アズサのような子が現れるとは思いませんでしたの?」
「……思わなかった。真とはいつも一緒だったから。それが、当たり前だったから。当たり前が当たり前じゃなくなったとき、それがどんなに辛くて、どれほど後悔するものかわかっていたのなら、私は――」
「そんなの、誰にもわかりませんわよ。わたくしだって、今の立場こそ生まれてから当たり前のものですけれど、それをいつ失うのかなんてわかりませんもの。失わない自信はありますけれど。自信はあっても、所詮わたくしも人間。人間一人にできることなんて、限られていることも事実ですわ。ですけれど、その事態に対して、心構えができているかにもよって、その後は変わるでしょうね」
「そうですね。私は心構えなんて全く、本当に、なかった。少しも予想も想像もできなかった。近くにはあるんです。真は、近くにいるんです。それでも、昔と今は、まるで違う。梓ちゃんにとって、真にとって、それにきっと私にとっても、真の隣は、梓ちゃんのものになってしまったんです」
「ずっと後悔しているのね」
「ずっと後悔し続けてます。あの二人を見るたび、いつも思います。でもそれは、今だから後悔することで、梓ちゃんが現れる前には、どうやったって私は動いてなかったと思います。それが、私だから」
「なら、動くしかありませんわよね」
「…………」
あらあら、自分のことは饒舌に語るくせに、行動には伴わないのですわね。まあそれが、この結果なのでしょうけれど。
ではでは、けしかけましょう。
爽やかな風をプレゼントしましょう。
「あなたはもちろん、マコトのことはよく知っているはずですわね」
「えっ、それはもちろん。真が何を考えているかなんて、顔を見ればわかります」
「あらそう。それじゃあ、やはりわたくしの勘違いなのかしらね」
「何がです?」
「いえ、マコトですわよ。マコトの性格ですわ。そのことよりもまずは、あなたは美しい」
「へっ? あ、いや、突然そんなこと言われても。シンシアさんに言われたって、からかわれてるとしか思えないし」
「あら、褒め言葉として受け取っておきましょう。そうですわね、わたくしはわたくしの美貌を理解しておりますわ。あなたも、あなたの美しさというものをご自分でおわかりになったらいかが?」
「す、少しは、自信ありますよ。こう見えても、男子には結構モテてますから」
「あらそう。羨ましいですわ。きっとそれは、あなたが魅力的なことに他ならないのでしょうね。アズサ、以上に」
「それは――アズサちゃんは入学してきた時から真にべったりだったから。梓ちゃんがいくら可愛くても誰も言い寄っては来ないんですよ」
「たとえそうだったとしても、あなたは、あなた自身は、他ならぬあなた自身のことを、アズサに魅力で劣っているとでも思うのかしら?」
「…………」
チカは怪訝な顔をしましたわ。それだけで、答えが決まっていることがわかりますわね。
「……そ、そうは、思いません」
「そう。わたくしから見てもそう思いますわ。あなた自身が、アズサに勝っていると思うことが、一つできましたわね」
「えっ……?」
「もう一つ、マコトのことは、あなたが一番良く知っているのでしょう?」
「も、もちろんです!」
「ほら、二つ目」
「うっ……」
「それと、わたくしが思うところ、マコトの性格ですけれど」
「真の性格?」
「一月前のことですわ。この場所での出来事。もし仮に、わたくしの前に立っていたのがアズサではなくあなただったとして、マコトは同じように体を張ったと思うのですけれど、わたくしの思い違いかしら?」
「…………っ!」
「はたして、あなたがアズサのように積極的になれば、マコトはどう動くのかしらね。あなたがアズサに劣っている点と言えば、精々その程度のことくらい。男と女の、間では」
あえて言うなら、マコトの好みのタイプがどういう女性かわからない、といったところかしらね。ここまでチカを美しいと言ってきましたけれど、マコトは外見で惹かれる男じゃなさそうですもの。そうでなくては、わたくしのプライドが許しませんわ。あの男は、わたくしになびくことなんて、なさそうですものね。手の込んだ悪戯でもしない限りは。
足りないものは自信。結局は自信。植え付けられた敗北感を取り去るには、己に対する自信しかありませんわ。
「アズサを言い訳にするのはやめなさい。あなたは自分に負けているだけですわ。これまで努力してきたと言うのなら、これまで愛してきたと言うのなら、あなたの努力の意味を、あなたの愛情の価値を、わたくしに見せてごらんなさい」
「……あ、あの、私……わた――」
そのとき、チカの携帯が鳴りましたわ。誰ですの。いいところでしたのに。
「あっ、真から……」
「ふうん。いい機会ですわね」
「い、いや、その、私にも、わたくしにも心の準備というものが……」
「早く出なさいな」
「あう……」
チカはわたくしから少し距離を取り、電話に出ましたわ。会話が聞こえないのなら、面白くありませんわね。
そうですわね、ここにマコトを呼んでもらいましょう。アズサを呼んでもらいましょう。
そして目の前の嵐を見物させていただきましょう。
それがいいですわ。
ふふっ、楽しみですわあ。アズサの面食らった顔が目に浮かびますわ。
「チカ!」
わたくしが呼んだにも関わらず、チカはこちらを見ようともしませんでしたわ。失礼ですわね。わたくしが電話に出ろと言ったら出る。呼んだら来る。それがわたくしに対する礼儀ですのに。
わたくしが一つ溜息を零す間に、チカは話しを終えて、盛大に溜息をつきましたわ。どうやら、面倒が起きたようですわね。
「浮かない顔ですわね」
「それが、困ったことに梓ちゃんが行方不明らしいです。探してくれって頼まれました。ハァ……」
「行きますの?」
「ええ、はい、まあ。すみませんけど、続きはまた今度っていうことにしてもらえませんか?」
そうですわね。アズサがいなかったら、楽しみも半減ですものね。困った子ですわ。どうせマコトの気を惹こうとでも考えて飛び出したのでしょう。安い考えですわね。
「そういうことでしたらどうぞ。それにしてもあなたは、損な役回りですわね」
「仕方ないんですよ。真にとって、私ってお役立ちキャラみたいなものですから」
「それもあなたが作ってしまった立ち位置でしょう」
「そうですね。えへっ」
チカは笑いましたわ。笑いながら、部屋を出て行こうとして、振り返りましたわ。
「あの、シンシアさん」
「なんですの? 今後のことについては連絡を差し上げますわ」
「いえ、その、ありがとうございました」
「…………」
困ったものですわ。あなたはただわたくしのお遊びに利用されているだけですのよ。
「こちらこそ。ありがとうございました、ですわ」
意味合いの違う、お礼の言葉、かしらね。
チカを見送り、ヘンリーにドリンクを言いつけ、喉を潤しましたわ。
少し、喋り過ぎたかしらね。
さあアズサ、あなたはどんな顔をするのかしら。チカの存在は、あなたも無視できない問題でしょう。あれほどわかり易い彼女の気持ちを、知らなかったとは言わせませんわ。
悪意ですわ。わたくしの、公平なる悪意。善意一%の悪意ですわ。
チカには、遊びに付き合っていただくお礼として、代金として、舞台だけは、整えて差し上げませんと。もちろんわたくしも物語の端の方へ参加させていただきますわ。あくまでも見物人として、見届け人として。影として。
それにしても、今回わたくしがお話しする必要なんてあったのかしら。なかったのかもしれませんわね。ただの繋ぎの物語ですもの。損な役回りですわ。わたくしを、とりあえず出しておけという理由で使うなんて。わたくしのことなんてまるで語られていませんわ。語っていませんわ。ですけどそれはそうでしょうね。わたくし自身のことなんて、誰にも推し量れないのですから。
今回のことも、本当はチカの美しさに見蕩れて差し向けたことですわ。マコトとうまくやって欲しいのですわ。
こういうことを言ったらどう思われるのかしらね。良い人とでも思われるのでしょうか。
わたくしは、悪ですのに。善意を持つ、悪ですのに。
「ヘンリー」
季節は夏だというのに、夏らしいことなんて何一つやっていませんわね、この物語。
わたくしに任せるつもりだったのかしら。とっておきということでしたら、まんまと乗せられてあげましょう。
「バカンスに行きますわよ」
さあて、今度はどんな幼稚なままごとを見せていただけるのか、楽しみですわ。