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夏の逃亡 ~神宮寺梓~

 みなさんこんにちは! こんばんは! おはようございます! 

 みんなのアイドル、お馴染み神宮寺梓ですよ!

 梓ちゃんですよ!

 でもごめんなさい。みんな梓のこと大好きだと思うんですけど、梓は真先輩の婚約者なのです。ごめんんなさい。真先輩の婚約者、婚約者、婚約者、婚約者、婚約者、婚約者になったのです。

 婚約者になったはずなのに、先輩の態度は今までとあまり変わりません。それが梓は悲しいのです。

 でもでも、聞いてください。梓が髪型変えた時に先輩ったら、あっ、ちょっと暑かったから思いきって切っちゃったんですよ。美容コンテストで優勝したアーティストさんを招いてですね、先輩の写真を見せてこの人をうならせる髪型にして下さいって言ったらボブにされちゃいました。あ、それでですね、先輩なんですけどね、梓が髪型変えて初めて会ったとき、『か、かわぃ……い、いや、似合ってるぞ』ぬぁーーーーーーんて言っちゃったんですよ! 本人は否定しますけどね、可愛いなんて言っちゃったもんだから梓はその場で先輩を押し倒してしまいました。路上だったんでおばさんの悲鳴で我に返ったんですけど。美容師さん恐るべしです。お礼に店舗資金を差し上げました。

 それはいいんですけどね、髪型はあっという間にお気に入りになりましたからそれはいいんですけど、先輩の煮え切らない様子をどうにかしたいのです。もはや今まで壁となっていたパパの影響もそれほどないんですから、先輩ももっと梓の体をむさぼり……いえいえ、梓のことを求めてきてもいいと思うのです。パパとの約束が延びたとはいえ、有限なのは変わりないのですから。でも面倒になったこともあります。パパがしゃしゃり出て来るようになったのです。うざいです。あの親馬鹿。あ、悪い梓が出ちゃいました。

 梓がもっともっと積極的になるべきなのでしょうか。いっそ先輩に薬を飲ませて貞操を……。いえいえ、梓は先輩の心が欲しいのです。体もですけど、先輩の心が欲しいのです。買えるものなら買います。お金ならありますから。物騒な話し、人一人を買えるくらいのお金は十分にありますから。一度先輩に『百億あげるから結婚してください』と言ったら『嫌だ』と即答されました。それはそれは安心したようなばっさり切って捨てられたような複雑な気持ちでした。

 やっぱり胸、ですかね。シンシアちゃんは別次元だとしても、千佳先輩もそれなりですし、梓は……あゆみちゃんと一緒なのです。先輩の妹さんと一緒なのです。そこでしょうか。先輩が気にしているのはそこなのでしょうか。道徳観を盾にしているのでしょうか。でも梓の感度はいいです。胸だけで精一杯喘げます。いやん。貧乳はステータスだ! って言った人がいますけど、先輩に対してそのパラメーターが役に立ちません。先輩の部屋のえっちな本には貧乳はいないのです。ぷるんぷるんです。ぶるんぶるんもいました。

 ……いけません、いけませんね。どうしても梓はそっちの方に話しが行ってしまって、面目ないです。いいのです。体のことで悩んでも仕方ありませんから。まだ発展途上だと信じていますし。

 そんな梓の小さな抵抗をしてみました。

 プチ家出です。家出ではないですね、プチ先輩出です。

 押してダメなら引いてみろ。そういう言葉があります。梓は藁にもすがる思いでそれを実行に移しました。以前、斎藤さんに嘘の理由として話していたそれを実行に移したのです。

 それはそれは心苦しいものです。本当なら一時として先輩のそばを離れたくはないんですけど、先輩の意識を梓に向けさせるためにはこれも一つの策なのです。苦肉の策なのです。もし先輩が梓のことを探してくれなかったら、梓はそこで一人寂しく死んでしまうかもしれません。ただの反抗期として捉えられてしまえばそれまでですが、梓にもそれなりの覚悟があってのことなのです。

 まずは先輩の家に普通に出かけました。とは言っても、決して一人では行動させてくれないパパと斎藤さんなので、当然のように車で先輩の家まで送ってもらいました。

 それから先輩宅の玄関の鍵を開けて――あ、もちろん合鍵です。先輩の家族で先輩以外の合意のもとでの作成です。違法ではありません。決して鍵屋さんに頼んで内緒で作ってもらったものではありません。そうだったとしても、先輩のお父様にもお母様にもあゆみちゃんにも何も言われませんから。

 そうして忍び込……訪ねたあと、梓は真っすぐに廊下を進みました。そしてリビングに辿り着きます。リビングにはもちろんダイニングテーブルや冷蔵庫があるわけですけど、リビングにはもう一つ、ドアがあるんですよ。いわゆる裏口ってやつですね。この時点で携帯の電源を切ります。これで梓の所在は掴めません。GPS機能ももちろん切ってあります。発信器でもつけられていない限りは梓の居所はわかりません。そして梓は裏口の戸を開けます。そこをくぐり、もう一つの合鍵を使って鍵を閉めます。

「よしっ」

 これでミッションコンプリートです。梓の姿は消えました。梓は先輩のことが大好きだから絶対に先輩のもとを離れないといった、もはや当然である認識を逆手にとった行動です。

 名残惜しさを感じつつも、そそくさとその場をあとにします。

 先輩が、斎藤さんが気付くまでにどれくらいの時間がかかるかわかりません。あるいは斎藤さんならもう異変に気がついているかもしれません。梓は走りました。出来るだけ遠くに、逃げるように走りました。実際逃げているんですけど、梓の心は置き去りで体だけが走っているような感覚です。ちょっとえっちな表現に聞こえたのは梓だけでしょうか。想像力豊かな女の子なのです。でも逆ですかね。ちゃんと心で感じなきゃっ。とまあ、こういうことも言っておかなければ梓じゃないと思いますので、そういう気分じゃないんですけど、やっぱり梓なら織り交ぜていかなくちゃと、自責の念を感じるのです。別に普段からテンション高めではないのです。ご了承してください。

 特に向かうあてもないまま、ある程度の距離を置いて走ることをやめ、息を整えながら歩き始めました。汗だくです、一本線を消して汁だくです。ここまでいくとちょっと危ないです。規制されかねません。だって梓は梓ですから。認めます。変態です。それにしてもこの物語には変態という言葉がよく出てきます。いいですよね、これを読んで楽しんでいるあなたも変態なのですから。嘘です。言い過ぎました。気を悪くしないで下さい。久しぶりに話しているのですからこれくらい大目に見てくれてもいいですよね。だって梓ちゃんなのです。

 いけませんね。走っていたところからまたこんな話しになってしまいました。

 とにかく気持ち悪かったので、目についたブティックに入りました。レジにクレジットカードOKということが書いてあったので安心です。基本的に現金は持ち歩いていないのです。

「上から下から中まで一式みつくろってください」

 梓は店員さんにそう言いました。店員さんから見れば相手はたかが女子高生なのですから怪訝そうな目を向けられたことも仕方ありません。しかも汁だ……汗だくなんですから。ですけどブラックカードを見せれば一発です。便利な世の中です。

 サイズを測ってもらっている時、汗が気になったのか、店員さんの一人がウエットティッシュとデオドラントスプレーを貸してくれました。むしろくれました。荷物になるので使ったあとはお返しして、新しい梓に変身完了です。Tシャツに一枚羽織り、ホットパンツにブーツ。大変身です。これなら街中でも紛れそうでした。顔がわからないようにキャスケットもいただき、店をあとにしました。それまで着ていた服は処分してくれるように頼みました。「こんな高級なものいただけません」とか言われましたけど。あくまで処分を頼んだんですけどね。着てもらっても構わないのですけど、下着まで使われるとさすがの梓もちょっと嫌です。先輩の下着をたまに穿いている梓でも嫌です。ちなみに先輩はトランクス派です。

 ともあれ、これで変装完了です。

「うん、こういう格好も悪くないな」

 行く場所は相変わらず決まらずに、梓は歩き出しました。もっとも、梓の行動範囲なんて先輩と一緒に行ったことがある場所だけなのでそれなりに狭いんですけど。

 一つがアーケードです。何でもあります。もう一つは駅ビルです。アーケードと比べると割とトレンドなものが多いです。それとその近くにある喫茶店です。あとは普通に先輩とその辺りをお散歩したり、梓が先輩を遠くに連れて行ったりするので、この街において梓の行動範囲は広くありません。自分の足では限度があります。とはいえ、あまりにも距離を置いてしまったら見つけてもらうにも見つけてもらえませんので、どうしても行き先は決まってしまいます。

 駅ビルです。神宮寺グループも一枚噛んでいます。

 というわけでやってきました。とことこ歩いてやってきました。今のところ尾行されている気配はありません。まだ梓がいなくなったことはバレていないようです。梓を探そうとそれらしい人物も俳諧していませんし。

「あっ」

 駅ビル前の広場に着いたとき、思わず声を上げてしまいました。そして踵を返します。

 どうしてでしょう。どういうことでしょう。

「うわぁ、嫌なもの見ちゃった」

 見間違いであって欲しいのですが、梓が彼女を見間違うわけがありません。たとえ後ろ姿だけでも誰かはわかります。さらっさらの金髪。すれ違う人の誰もが男女問わず振り向いています。先輩は女神なんてことを言ってましたが、梓にとっては悪魔です。

 シンシアちゃんです。シンシアちゃんが駅ビル前の広場にいたのです。たしかに隣接している国際ホテルはアネソングループ経営ですが、どうして日本にいるのでしょう。人のことは言えませんが、こんなところを一人で出歩いてていい人物ではないはずです。見なかったことにしました。梓は一目散に逃げ出しました。顔を合わせてしまえばロクな目に遭いません。シンシアちゃんは梓の天敵です。

 一つ目の目的地、じゃないですけど行き当てが早くもつぶれてしまいました。前途多難です。

「しょうがないよね。しょうがないしょうがない」

 仕方なく、アーケードに足を向けました。怖い人たちに絡まれた苦い思い出のある場所でもあります。でも、そのおかげで先輩と再会できたのでむしろ感謝するべきかもしれませんね。

 梓がこうやって一人で行動するのは実に三回目です。最初は小さい時、パパとちょっとした口論になって家を抜け出しました。そして二回目は先輩と再会した時です。偶然にも、運命的にもどちらとも先輩に会っているんですね。まさに梓の中では運命の出会いでした。でも今回は先輩から距離を置くかたちで抜け出しました。初体験です。この言葉で連想されることは、言わなくてもいいですよね。梓の夢です。イメトレはバッチリです。

「げへへ……」

 思わず出てきた涎を拭きます。想像してしまいました。突如始まったイメトレに集中し過ぎてしまいました。間違っても初めての時にこんな笑い方をしてはいけません。初々しい乙女を演じ切ってみせます。先輩に主導権を譲ります。梓の本領発揮は二回目からです。

「やあ。花のように美しいとよく言うけれど、それはきみにとって失礼だよね。だってきみは花よりも美しいんだから」

 突然でした。背後から突然目の前に人が回り込んできました。全く気配を感じませんでした。怖ろしいストーキング……スニーキング技術です。梓も見習わなければなりません。

 しかしこれは、ナンパでしょうか。梓はナンパされているのでしょうか。そういう台詞に聞こえました。台詞自体は最低ですが、純粋なナンパというのは初めてのことです。しかもこんな道端でナンパされるとは思ってもいませんでした。ちょっと驚いて、ちょっと嬉しいです。

 さてさて、どんな人が梓の魅力に気が付いたのかと顔を上げてみました。お金持ちという理由ではないでしょう。だって梓の格好は一般的なファッションなんですから。

「…………がっかりです」

 素直な感想でした。期待していた分、ひどく落ち込みました。

「あ、あれ? きみは? ん、んん? 神宮寺、さん?」

 変態でした。真摯に紳士を演じている変態さんでした。よりにもよって、梓の初ナンパの相手を変態さんに奪われてしまいました。初めての会話シーンを変態さんに奪われてしまいました。梓一生の不覚です。変態さんに一生罪を償わせてあげたくなりました。

「苗字で呼ばないでください。気持ち悪いです」

「あれ、あれあれ? 誰かにも全く同じこと言われた気がするなあ」

「梓のおかげで仲良くなれた優子さんのことを誰かなんて言わないでください。気持ち悪いです」

「あれあれ、どうしてきみがそれを知ってるのかな?」

「細かいことにこだわないでください。気持ち悪い」

「すごいシンクロ率だよ、神宮寺さん」

 ナンパされた相手が変態さんだったということは梓の汚点です。黒歴史になりそうです。ともあれ、いくら変態さんとはいえ、知り合いに出会ったことは今の一人ぼっちの梓にとって多少なりとも心強いものになったことは否めません。まあ、変態さんですけど。梓も変態ですけど。って一緒にしないでください。ノリツッコミです。初めての試みです。

「一話語り部になったからってちょっと調子に乗っていませんか?」

「おっと、それは神宮寺さんも同じじゃないのかなあ?」

「何をおっしゃいますかこの変態は。あなたとは多分、期待度が違います。梓のことを待っていた人もいるはずです」

「ふふふ、しかし読者は当たり前のことなんて望んでいないかもしれないよ?」

「変態脇役のくせに生意気です。言っておきますけど、当然ながら梓はヒロインですからね。不動の地位です」

「ふっふっふ、それはどうかな? 僕の情報によるとその立場は危ういかもしれないよ?」

「ど、どういう意味です!?」

 梓がヒロインじゃなくなったらタイトルを変えなきゃならなくなるじゃないですか。い、いや、シンシアちゃんもお嬢様です。もしかしたら梓の座を狙っているのかもしれません。やたら名前が出てきている気もしますし。まさか、そんなことはあるはずもないです。思い過ごしに違いありません。

「まあまあまあ、そんなことは今はいいじゃないか。あとのお楽しみさ。今日は真は一緒じゃないみたいだね。格好も神宮寺さんらしくないし。僕の女子ノートの中身を更新して欲しいのかな?」

「……やはり調子に乗っていますね。殺してやりたいです」

「ぶ、物騒な言い方はやめようね? きみが言ったら冗談じゃなくなりそうだから。それで、真はどうしたんだい?」

「……待ち合わせ場所に向かっているのです。新しい服を見せようと思って」

「ふーん。お嬢様らしからぬ発言だね。服なんて好きなものを着放題だろうに。おっと、睨まないでおくれ。待ち合わせね。さっき真が慌てて家を飛び出していたのはそういうことか。女の子とのデートに遅刻はいけないよね」

「えっ!? 真先輩が?」

「うん、そうだよ。いつもの追走劇かと思ったら、神宮寺さんに会って驚いたよ」

 探してくれているのでしょうか。斎藤さんからの進言でしょうか。もしかしたらメールが何件か入っているのかもしれません。ですが携帯を開いた瞬間、着信というのもあるかもしれないので、梓は携帯の電源はオフのままにしておきました。気になりましたけど、とっても気になりましたけど、うまく抜け出せたのですから間抜けな結果にはなりたくありません。先輩はただの用事で出掛けたのかもしれませんし。でも先輩が一人で家を出てきたら斎藤さんが気付くはずです。もはやバレたと思っておいていいでしょう。少なくとも斎藤さんには。

「有益な情報をありがとうございます。これであなたは用済みです」

「悪役の台詞だ!」

「ならあなたは正義の味方ですか。はっ!」

「鼻で笑われた!」

「花で笑ってあげます」

「いいことのように聞こえてきた!」

「それでは変態さん、ごきげんよう」

 こんなところで話し込んでいる場合ではありませんでした。一刻も早く人に紛れなくてはなりません。先輩ならともかく、こんな変装をしていたところで、斎藤さんには梓の歩き方や仕草でバレてしまいます。ですが人の多いところなら斎藤さんでも見つけ出すことはおおよそ不可能でしょう。斎藤さんに見つかってしまえばあまり意味がないのです。あくまでも、これは先輩の気を引くための作戦なのですから。

 そうしてアーケードにやってきました。

 二年前、ここに逃げ出して来たときも姿をくらますためだったのですが、今日はさらに効果的です。同じような格好をした人が何人もいます。もちろんのことですが、誰も梓のことを気にする様子はありません。ここで初めて、梓は解放されたような気分になりました。完全に一人です。一人ぼっち、孤独、とは違います。何でもできるような、そんな感覚さえ湧いてきます。

 散歩に興じてみたくなりました。目的もなく、散策するだけです。人の波をよけながら、両側に軒並み並ぶお店をちらちら覗きながら、おいしそうな匂いに誘われながら、歩きました。

 ちょっとドキドキしながら、ゲームセンターに立ち寄ってみました。一人で入るというものはやはり緊張を隠せません。一通り見回ってみます。置いてあるゲーム機械は家にあるものと大差ないものでしたが、やはり雰囲気が違います。匂いが違います。否応なくわくわくさせるものがありました。

 特技になったクレーンゲームに挑戦してみることにしました。アームの力が弱くても、梓にかかればどんな景品もいちころです。取れないものはありません。もはやプロフェッショナルと公言して良いほどまでに梓の腕前は上がりました。

「あっ……」

 取れないものがありました。それ以前の問題でした。

 迂闊でした。基本的なことでした。

 梓はお金を持ち歩いていないのです。カードが通用しないものの前では梓はただの子供です。何の力も持たないお子様だったのです。己の無力さにクレーンゲームを前にひれ伏すしかありませんでした。

 仕方なく、ゲームセンターを出て行きました。ただ眺めるだけでは何も面白いことはありません。

 次は書店に足を踏み入れました。以前みっちー先輩と一緒に来たところです。ここで本来の梓なら、真っすぐ十八禁コーナーに向かうところですが、今日の梓は一味違います。今の梓は『普通』なのです。

 同じ年代らしいお客さんに並んで、目の前の雑誌を手に取ります。ファッション誌です。正直、みっちー先輩と眺めていたときも、内容の程はよくわかりませんでした。流行りというものはなんとなくわかるのですが、あまり自分で服を選んだことはありません。先輩と会うときは制服か、露出の面を考えてワンピースが多いのですが、その他は大体家の者が用意してくれるからです。今は、ただ隣の人を真似しているだけです。なんとなく、眺めてみます。パラパラとページをめくり、すぐに飽きて、十八禁コーナーに向かいました。梓がそこに行くと、男性のお客さんがそそくさとどこかへ行ってしまいました。申し訳ないことをしました。ですが梓は声を大にして言いたいのです。恥ずかしいなら買わなきゃいいじゃないですか! まぁ、そういうわけにもいかないのが男性の方なんですよね。

 宝の山を目の前にして、思わず頬が緩みます。頬が緩むとは微笑ましい表現ですが、適切な表現なら、にやけてしまうと言った方がいいでしょうか。想像します。イメトレします。表紙だけで十分です。その文字だけで内容は頭に入ってきます。写真があろうが漫画があろうが、頭の中で絡み合うのは先輩と梓なのです。あふう……先輩の誕生日にはこういう本を梓と先輩の写真でプレゼントしましょうか。

 気が付くと、店員さんが睨むような視線を向けていたので、梓は退散しました。あまり目立ち過ぎてしまうのもよくありません。ですけど、やはり名残惜しいです。

「きゃっ」

 誰かにぶつかってしましました。最後まで十八禁コーナーを眺めていたら誰かにぶつかってしまいました。女の子のようです。バッグを落としてしまったようなので、梓が拾ってあげました。書店の出入り口での出来事でした。

「すみません。よそ見をしていました。はい、どうぞ」

「あ、いいえ。こちらこそ」

 ちらりと相手の方の顔を見て、驚きました。慌てました。思わず声が出てしまうのを必死で抑えました。

「ん? んん? あれ?」

 なんてことでしょう。千佳先輩です。私服姿の千佳先輩です。一瞬目が合ってしまいました。まだ梓だとはバレてはいないようです。

「あなた……」

「すみません。失礼しますね」

 逃げました。なるべく怪しまれないように、急がないように逃げ出しました。

 危なかった。今日はやたら知り合いを目にします。変装しているのに知り合いに見つかってしまえばあまり意味がありません。変態さんならまだしも、千佳先輩なら真先輩に連絡が行ってしまわないとは限りませんから。

 先輩の家を出て来てから、どれくらいの時間が経ったのでしょう。詳しく時間は見ていなかったのですが、服を買って、駅前を経由してここに来たのですから、二時間か、経っていても三時間といったところでしょうか。さすがに疲れてきました。ただでさえ暑いのですし、ほとんど歩きっぱなしでしたから。そろそろどこかで休憩でもしてみましょうか。

「ふう……」

 アーケード内に小さな公園を見つけて、ベンチに座り一息つきます。公園というか、何かのイベント広場のようでしたけど、公園という名前がついていました。

 先輩はどうしているでしょうか。梓を探してくれているのでしょうか。いつも梓が何の連絡もなしに押し掛けているのですから、そもそも探そうともしないかもしれません。たまたま、今日は梓に用事があって来てないだけかもと思うのかもしれません。変態さんが先輩を見かけたとき、すでに梓を探しに飛び出しているとしたら、もしかしたら必死に探してくれているのかもしれません。そう考えると、申し訳ない気がしてきます。

 もし探してくれているのなら、それでもう、梓の目的は達成されていると言ってもいいのです。

「ねえ、あなた……」

 ベンチに座った矢先です。息もつかせぬとはこのことでしょうか。いえ、一息つきました。

 声をかけられて振り向きました。またも千佳先輩です。またしても千佳先輩です。梓のことを追ってきたのでしょうか。梓はすぐに顔を伏せました。焦ります。ここで逃げたら変に思われます。

「梓ちゃん?」

「へっ? ふぇ? あ、梓は梓なんか知りませんよ?」

「……まったく、何してるの。真が探してるみたいだよ」

 ……本当に焦ってしまっていたようです。可愛く言うとおっちょこちょいです。でも、気になる一言が聞こえました。

 千佳先輩を見上げます。少し、怒っているようにも見えました。

「あはは、バレちゃいました?」

「気付いてないかもしれないけど、着こなせてないよ。なんか不自然。ぶつかったのは偶然だったけど、梓ちゃんを探してたから」

「そ、そうですか……」

 浮かれていたのかもしれません。もっと周りに気を遣うべきでした。梓が紛れるということは、他の人も大衆に紛れてしまうのです。絶対に見つけられないと思っていた梓の慢心からの注意不足です。ずっと気に掛けていればぶつかることもなかったでしょう。

「梓を探してたんですか?」

「……そう。真から電話があってさ。かなり必死だったよ。あとで謝っておくように」

「あ……は、はい……」

 申し訳ないと思う反面、嬉しく思いました。どうやら真先輩は必死で探してくれているようでした。もうこんなことしている理由はありません。早く真先輩に会いに行かないと。

「ちょっと待ってて。真に電話するから」

 千佳先輩は携帯を耳に当てました。

「あれ?」

 しかし、すぐに怪訝そうな顔をして携帯を納めます。

「どうしたんですか?」

「電源が入ってないみたい。ずっと電話かけてるって言ってたから、もしかしたら充電切れしちゃってるのかも」

 なんということでしょう。それでは、今度は真先輩が行方不明です。

「ま、いいか。折角だから、そこらで何か飲んでこうか」

「えっ、でも真先輩は……?」

 千佳先輩は、肩をすくめて言いました。

「いいんじゃない? たまには走らせて。梓ちゃんを見つけて、梓ちゃんが何をしようとしていたかなんとなくわかるし。乙女の敵、真の日頃の行いへの報いでしょ」

 先程の怒っている様子はどこへやら。千佳先輩は悪戯っぽく笑いました。話しがわかりそうでした。

 さすが、恋敵です。

 恋のライバル。恋敵。真先輩の幼馴染、千佳先輩は、梓にとって一番の恋敵です。いい人です。いい先輩です。可愛いです。性格だって、可愛いし、しっかりしてます。学園アイドルと呼ばれる理由もわかります。そんな千佳先輩は、真先輩のことが好きです。聞いていなくても、わかります。同じ人を好きな人のことは、わかります。

 怖いです。梓は千佳先輩のことが怖いのです。千佳先輩が本気になったら、正直勝てる気がしません。唯一の救いは、真先輩が千佳先輩のことをそんな恋愛対象として全く意識していないということです。それだけが梓の救いです。それが千佳先輩が踏み出せない理由にもなっています。その鎖が解かれたらと思うと、梓はぞっとします。真先輩と千佳先輩は、お互いのことはよくわかっている、まがいない幼馴染なのです。それゆえの絆もあります。積み重ねてきた時間があります。梓とは、比べ物にならないくらいの。

 そんな千佳先輩と、ミセスドーナツにやってきました。無理矢理に連れて来られた形になりました。梓は早く先輩に会いたいのです。でも千佳先輩が帰してくれません。「どうせどこにいるかわからないんだし」とのことです。

 注文して、テーブル席につきます。梓の前にはヤングファッション。千佳先輩の前にはボンドリングがあります。

「あーっ、涼しいー」

 千佳先輩はそう言いながら背伸びをしました。やはり梓よりも豊満です。挑戦的です。挑発的です。梓が絶対に勝てないところで勝負をしかけてきました。

「えいっ」

 つついてみました。千佳先輩の胸をつついてみました。大事なことなのでもう一度、千佳先輩の胸をつついてみました。指が埋もれました。負けました。完全に敗北しました。

「ひゃうっ!? な、なに!?」

 胸を隠す仕草が女の子らしくて羨ましいです。一つ学びました。今度から梓も使いましょう。でもそれには胸をつついてくれる人が必要です。自分から胸を突き出せば今までとなんら変わりません。胸をつついてもらえるように作戦を考えなくてはなりません。

「いえ、なんとなく」

「も、もうっ。お金持ちっていうのはみんなそうなのかな」

「みんな?」

「あー、うん、あのね、駅前でシンシアさんに会っちゃって。出会い頭に、その、胸を揉まれて……」

「シンシアちゃんが千佳先輩に手を出すとは多少なりとも驚きです。ですけど、千佳先輩だってこの前、梓の胸を好き放題に揉みまくっていたじゃないですか。形が変わってしまうくらいに揉みまくっていたじゃないですか。目覚めてしまいそうでした」

「そ、それは……憂さ晴らし! 八つ当たり!」

「少なくとも梓が知っている千佳先輩は、そんなことで人の胸を揉みしだいたりする人じゃなかったはずなのですが」

「もう、いいじゃないの。引っ張るなあ」

 しかしながら、千佳先輩と二人っきりというのは、さすがの梓でも緊張してしまいます。それはもう、胸をつついていないといられないくらいに緊張してしまいます。なんとか、梓のペースに持っていけたような気がするのですが。

「それにしても、案外子供っぽいことするんだね、梓ちゃん。駆け引きなんてあんまり似合わないよ」

「子供っぽい、でしょうか? むしろ大人の駆け引きのような気がするのですが。それを言うなら普段の方がよっぽど子供っぽいと梓は思います」

「うーん。ま、そうかもね」

 子供っぽさの中にも性的交渉を織り交ぜることで大人っぽくしているのです。嘘です。梓の煩悩です。己に正直なのです。それならやっぱり、梓は子供なのでしょうね。

「真先輩から、連絡があったのですか?」

「うん? うん、そう。梓ちゃんがいなくなったから探して欲しいって。他にも、みちるにも裕也にもあゆみちゃんにも頼んでるみたいだよ。真だけならまだしも、他の人に迷惑をかけたらダメだよ」

 返す言葉がありません。たしかに浅はかでした。変態さんは梓と出会ったあとに連絡を受けたのでしょう。

「……すみません」

「真以外にはメールしておいたから。斎藤さん、の方は梓ちゃんから連絡しておいてね」

「そうですね」

 携帯の電源を入れました。それと同時に着信です。斎藤さんからでした。

 今は千佳先輩と一緒にいること。心配しなくていいということを伝えました。それと、真先輩を探してくれるように頼みました。斎藤さんもいろいろ言いたい事はあったのでしょうが、ひとまず聞いてくれるようでした。

「斎藤さんたちが真先輩を見つけてくれると思います」

「そう。それじゃあそれまで時間潰してようか」

 千佳先輩と二人で時間潰し。一体何を話せばいいのでしょう。共通の話題といえば、やはり真先輩のことになってしまうのですが、その話題は避けた方がよさそうな気がします。千佳先輩は恋敵なのですが、気を遣わないわけにはいかないでしょう。千佳先輩が真先輩のことをどれくらい好きかなんてわかりませんが、今は、梓の方が真先輩を一人占めしていますから。千佳先輩としては面白くないはずです。それでも、こうやって梓を探してくれるのだから、やっぱり千佳先輩は良い人です。

「あの、えっと、シンシアちゃんとは何をしていたんですか?」

 思いついたかのように、シンシアちゃんの話題を振ってみました。

「あー……うん、ちょっとお話ししてただけだよ」

「へーっ。どんなことを?」

「大したことじゃないよ。うん、全然大したことじゃない」

 言いにくいことなのでしょうか。シンシアちゃんに何かされてしまったのでしょうか。

「あの、シンシアちゃんに関してお困りなら梓が何とかできると思うのです」

「ううん、そんな、困ってるとかはないよ。むしろ、ありがたいというか……」

 うーん、気になります。あのシンシアちゃんですからね。よからぬことを企んでいなければいいのですが。日本に来ることも聞いていなかったし、この前の二の舞だけはごめんです。ですけど、アネソングループとの力関係もわかりましたからね。同じヘマはしません。相手がシンシアちゃんだろうとどんとこいです。

「真……」

 千佳先輩が呟きました。思いつめたように、真先輩の名前を口にしました。

「梓ちゃんは、どれくらい真のこと好きなの?」

 避けていた話題が向こうから出てしまいました。

「どうしたんですか? 急に」

 とりあえずは答えずにはぐらかすことにします。

「ううん、別に。……そうだね、究極な話し、梓ちゃんはさ、もし、真が目も見えなくなって、耳も聞こえなくなって、梓ちゃんがそばにいるのに真にそれがわかってもらえなくても、真のことが好きでいられる?」

「えっ?」

 ……重い話しでした。

 梓は考えてしまいました。梓のことが全然わからなくなってしまった真先輩。そんなの、梓は嫌です。とてつもなく怖ろしい話しです。

「梓が持つ、全ての力を使って真先輩を治します。有能な医者を世界中から呼び寄せます。何としてでも先輩を元に戻してあげます。梓の一生を賭けてでも」

「……そっか。いいなあ梓ちゃんは。それができる側だもんね。私にはそんなことはできない。私は、真がそうなってしまったら、梓ちゃんに泣きつくかもしれないなあ」

「一体何の話しです?」

「何でもないよ。ただ、そうなんだって思うだけ。私なら、一生を賭けられるのかなあ」

 ひどく寂しい笑い顔でした。

「羨ましいよ、梓ちゃんが」

「羨ましい、ですか」

「どうしようもなく真っすぐで、どうしようもなく自分に素直で。何よりも、それが羨ましい」

 本音、なのでしょうか。

「梓ちゃんはさ、怖いとか思ったことはない?」

「怖い? 何がです?」

「真と離れてしまうこと」

「千佳先輩にしては愚問ですね。怖いに決まってるじゃないですか。そんなこと考えたくありません。それに、たとえ真先輩が離れていったとしても、梓はその背中を追い続けます。梓、こう見えてどうしようもなく諦めが悪いですから。今までそうだったように、どんなことがあっても、真先輩の背中は見失いません」

「……ふふ、あははっ。さすが梓ちゃんだね。そこが、私と梓ちゃんで一番違うところなのかな。そうだよね、梓ちゃんは追いかけてるんだもんね。私とは全然違うよ。言われた通りだ」

 言われた通り……?

「あ、気にしないで。こっちの話し。ところでさ、梓ちゃん。私って実はこう見えて男子から人気あるんだよね」

 むっ。何なんでしょう。いきなり自慢話しが始まりました。千佳先輩のことは真先輩から聞いています。ファンクラブまであるとかないとか。何度も告白されるシーンを見てきたとか。怖ろしい人です。

「私って可愛いでしょ?」

「むっ。な、何なんですか。それは、認めますけど」

「成績優秀、運動神経抜群、容姿端麗、才色兼備な私。頑張ったんだー。ずっと頑張ってきたんだー」

「自分のことをそこまで言うことができるなんて、千佳先輩って実は相当な自信家だったのですね」

 言うと、千佳先輩は、少し自虐的にも見える笑みを零しました。

「ううん、まったくの逆。自信なんてまるでないよ。とても梓ちゃんみたいには自分を出せない。だから、頑張ってきた。いや、違うかな。いつまでもそんなこと言ってちゃダメなんだよね。私は真のために頑張ってきたんだ」

 ぞわぞわと悪寒が走りました。これは、単純な恐怖です。千佳先輩に感じていた、あの恐怖です。

「いまや学園アイドルみたいな私。そんな私が、真に好きだって告白したらどうなるんだろう」

「えっ!? あ、あの、千佳先輩?」

「はっきりしてなかったもんね」

 千佳先輩は、てへっと舌を出して悪戯っぽく笑いました。梓から見れば、とてもじゃありませんが可愛い笑顔には見えませんでした。

「宣戦布告だよ、梓ちゃん」

 どくんと、心臓が跳ねます。焦り、焦燥感が体中を駆け巡ります。どこからともなく嫌な汗が噴き出してきました。

 今日の千佳先輩はどこかおかしかったのです。いきなり思いつめたことろ言ったかと思えば、急に笑ったり、自分のことを話しだしたり。何がきっかけだったのかはわかりません。ですけど、これは、これは確実に、梓人生最大のピンチです。

「しっ、失礼します!」

 梓は逃げ出しました。怖くなって逃げ出しました。

 店を飛び出し、アーケードを飛び出し、何から逃げているのかもわかりませんが、とにかく走りました。いてもたってもいられなくなりました。

 携帯を手に取り、真先輩に電話します。ですけど、千佳先輩の言っていた通り、電源が入っていないようでした。斎藤さんからの連絡もありません。

 先輩に会いたい。

 このどうしようもない不安を、先輩に会うことで消し去りたかったのです。

 先輩の家を目指して走りました。

 暑くて暑くて、汗が止まりません。汁が、とか冗談を言っている余裕もありません。

「あっ」

 ふと、梓の足が止まりました。

 先輩を見つけたのではありません。梓が立ち止まった場所は、いつかの、先輩に最初に出会った公園です。道順なんて考えずに走っていたら、ここに来てしまいました。先輩の家のすぐ近くなのです。

 公園には誰もいませんでした。最近は公園で遊ぶ子供も少なくなってきているのでしょう。少し休みたくなって、ブランコに腰掛けました。

 キーコキーコ。

 すっかり錆びてしまっている鎖が、そんな音を立てていました。

 先輩と最初に出会った場所。梓が初めて恋をした場所。そのときも一緒にいた、千佳先輩。千佳先輩が覚えているかわかりませんが、梓にとって二人は印象的でしたから、よく覚えています。

 千佳先輩に、宣戦布告をされてしまいました。それはもちろん、真先輩を巡って。大きな油断でした。とても、大きな、命取りとも言えそうな、大きな油断でした。

 だからこそ、千佳先輩の言葉を聞いて、自分でも驚くほど動揺してしまいました。敵前逃亡です。とても強大な恋敵を前に、梓は逃げ出してしまったのです。負けを認めたようなものでした。勝てないと、思わされてしまったのです。

 ひどく、泣きたい気分でした。

 先輩を取られたわけではありません。先輩がどこかへ行ってしまったわけではありません。それでも、もう梓の手の届かないところへ行ってしまったような、嫌な感覚が、ずっと梓を襲っています。

 嫌です。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だやだやだやだやだやだやだやだっ!

 先輩を失ってしまうなんて、そんなの嫌だっ!


「梓っ!!」


 呼ばれた方を振り向きます。誰の声かなんて、梓ならすぐにわかりました。

 何を考えることもなく、梓は動き出していました。ブランコに足をもつれされても、一度転びそうになっても、梓はがむしゃらで走りました。

 その人の胸に、飛び込みたい一心で。

「梓! 馬鹿やろ――う、うわ待てっ!」

「先輩っ!」

 先輩の胸に飛び込みます。思いっきり抱き締めました。ぎゅっと、力いっぱい抱き締めました。

「先輩……っ! 先輩先輩先輩……っ!!」

 そんな梓の頭に、ぽんっと先輩の手が乗りました。

「……馬鹿かお前は。泣くくらいなら勝手にどっか行ってんじゃねえよ。いくら俺でも心配しちまうんだからな」

「は、はい……! ずびばぜん……っ!」

「な、何だよ。何かあったのか?」

 梓は、ゆっくりと顔を起こしました。涙だらけ鼻水だらけでも気にしません。

「先輩、好きです!」

「はぁっ? ど、どうしたんだよ急に」

「好きなんですっ! 先輩のこと好きなんですっ!」

 先輩は困ったように頭を押さえます。そして、また困ったように、笑って溜息をつきました。

「知ってるよ。知ってるから、お前が一人でどっか行ったら何かあったんじゃないかって心配するんだよ。だから、もう黙ってどっかに行ったりするんじゃないぞ。ほら」

 先輩は笑って、左腕を伸ばしてきました。

「ここがお前の定位置なんだろ?」

 また泣きそうになりました。

 梓は黙って、その手を握り締めました。

「お、おい。その、手を繋ぐのはちっと、恥ずかしいっていうか」

「……汗かいてるから、こっちでいいですよね」

「あ……うん……汗かいてるなら、仕方ない、な」

 ちらりと、先輩の横顔を見ます。梓と目を合わせないようにしている先輩が、すごく可愛くて、面白くて、好きでした。

「先輩、梓のこと、好きですか?」

「な、何言い出すんだ突然」

「好き、ですか?」

「す、好きなんかじゃねえよ。ただまぁ、た、た、たたた、大切だとは、思ってる」

「特別に?」

「と、特別だ! 何か悪いか!」

 梓はやっと、笑うことができました。

「いーえ。それで十分ですよ、先輩」

 不安がないわけではありません。

 ただ、梓は心の中で、千佳先輩に向かってほくそ笑んでいたのでした。

 梓と先輩の間に入れますか? と。




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