香る初恋 ~来栖あゆみ~
わたしは、来栖あゆみっていいます。中学三年生です。
一学期の終業式も終わって、明日から待ちに待った夏休み。でも、あんまり遊べないかもしれないなぁ。今年は受験だから一応受験勉強もしとかなきゃだし、宿題もあるし。でも、お兄ちゃんと一緒の県立西高校志望だからそんなに勉強しなくてもいいかな。そう、お兄ちゃんは言っていた。宿題はお兄ちゃんに手伝ってもらえばいいし。今年も梓お姉ちゃんにどこか連れて行ってもらえないかなぁ。
そんなことを考えながら、下校しようと昇降口に来た時だった。突然、同じクラスの男子に呼び止められて、突然こんなことを言われた。
「来栖さんっ! よ、よかったら僕と付き合わない? いや付き合って下さいっ!」
たしか、今年同じクラスになった道寺くんだった。あんまり、この人と話した記憶はなかった。
初めてのことなので、よくわからないけれど、もしかしたらこれは、告白というものではないのでしょうか。
あまりにも、本当にあまりにも突然の出来事だったので、わたしは何も言うことができずにその場から逃げ出した。一目散に逃げ出した。逃げ出すしかなかった。わたしを呼ぶ声が聞こえたけれど、それでも構わず逃げ出した。無表情を貫き通した自信はありました。
そのまま、夏休み前のうきうきな気分もどこかへ行ってしまったまま、脇目もふらず全力で走って家に帰ってきた。ソフトボール部で鍛えた足は、こんな時に役に立つ。試合での活躍の場は皆無だったけれど。思っていたよりもわたしは速かった。それでもってその勢いで、そのままお兄ちゃんの部屋に駆け込んだ。
「お兄ちゃん!」
「あっ、おかえりなさいです」
お兄ちゃんの部屋には、梓お姉ちゃんがいた。梓お姉ちゃんだけで、お兄ちゃんは部屋の中にいなかった。どこか出掛けてるのかな。高校も今日終業式って言ってたからなぁ。
梓お姉ちゃんが一人でお兄ちゃんの部屋にいることは珍しくない。時々、わざとお兄ちゃんがいない時を見計らって来てる時もある。
梓お姉ちゃんは、わたしにいろんなことを教えてくれる本当のお姉ちゃんみたいな人。わたしは梓お姉ちゃんが大好きなのです。お兄ちゃんとは将来を誓い合った仲みたい。婚約者っていうのかな。最近、髪の毛を短めに切った。その梓お姉ちゃんは、お尻をこっちに向けて、お兄ちゃんのベッドの下からくるりとわたしの方に顔を向けていた。
「梓お姉ちゃーん。来てたんだぁ。お兄ちゃんはー?」
「トイレに行きました。あゆみちゃんも一緒に先輩の秘蔵コレクションに変わりがないか見てみますか?」
梓お姉ちゃんが、にししと笑って手招きする。
秘蔵コレクションっていうのは、お兄ちゃんのえっちな本。大人になれば、こういうことをするんだって梓お姉ちゃんは教えてくれた。だけど、わたしにはよくわからなかった。保健の授業で教えてもらったことより、梓お姉ちゃんの方が詳しくて、いろんなことを知ってて、だけどわからない話しばっかりだったからあんまり覚えてない。
「わたしはいいー。お兄ちゃんに聞きたいことあるのー」
「そうですか。どうやらコレクションは別の場所に保管されているようなのでそれはあとで探すとして、梓にわかることでしたら教えてあげますよ」
梓お姉ちゃんは、ベッドの奥から引っ張り出した箱をまた奥に押し込んで、部屋の真ん中に座って、部屋の中を見回しながら言った。
お兄ちゃんよりも、梓お姉ちゃんの方がこういうことには詳しそうな気がする。
「うーんとねー、じゃあ、あのね、今日、付き合って欲しいって言われたんだー」
「……はい?」
梓お姉ちゃんは怪訝そうな顔をして首を傾げた。
「え、えっと、はい、そうですね。それで、あゆみちゃんはどうしたんですか?」
「うーんとね、逃げてきたぁ」
「ああ……」
梓お姉ちゃんはこめかみを押さえて、何かとても残念そうだった。
「それでねー、どうしたらいいかわからないから、お兄ちゃんに聞いてみようーって」
「ああ、そういうことなんですね。わかりました。そうですね、一言で言えば付き合うってことは彼氏彼女の関係になることなのです。梓がそれはどういうことかを教えてあげます。ちょっとこっちに来て下さい」
わたしは、梓お姉ちゃんに手を引かれて、お兄ちゃんのベッドに寝転がらされた。そして、梓お姉ちゃんがわたしの顔の横に腕を立てて、上から覆い被さるようにしてわたしを見下ろした。
「梓のことをその告白してきた男の子と思ってください」
「う、うん……」
なんだろう。ちょっとドキドキする。
「あゆみちゃん、いいかい?」
梓お姉ちゃんは声色を変えて、ちょっと男の子っぽく言った。
「え? うん」
それから、梓お姉ちゃんがわたしを抱き締めてきて、耳の後ろをぺろりと舐められた。
「ひゃうっ!?」
ちょっと体がびくんってなって、ぞわぞわってして、くすぐったい。
梓お姉ちゃんは、むくりと体を起こしてわたしの顔を覗き込む。
「どうですか?」
「あははっ、くすぐったいよー。梓お姉ちゃーん」
「…………何か、梓はとても悪い事をしているような気がしてきました」
なぜかがっくりとうなだれる梓お姉ちゃんがいた。
「い、いやしかし、純心無垢な笑顔を汚すという背徳感溢れるこの行為は梓の心の奥底をかきたてるものがひゃっ!?」
急に梓お姉ちゃんの体が宙に浮いたように見えた。
「お前は、人の妹に何をしてるんだ」
お兄ちゃんが、梓お姉ちゃんの襟元を掴んで持ち上げていた。猫掴みみたいに。梓お姉ちゃん、時々猫みたいだもんね。お兄ちゃんってすごい力持ちだったんだぁ。
「せ、先輩、見えちゃいますっ。制服がめくれ上がっちゃいますうっ」
「なにゆえスカートが下がっていってるんだ?」
お兄ちゃんが急に手を離すものだから、梓お姉ちゃんは「ぎゃぴっ!」って叫びながら床に倒れ込んだ。
「あゆみ、おかえり」
「お兄ちゃんもー、おかえりなさーい」
「? ただいま?」
首を一度傾げて、お兄ちゃんは座り込む。
「で? お前は何やってたんだ。シンシアさんから趣味が伝染したか? それならそれで結構だが俺の妹にだけは手を出すな」
「うへへ、お兄ちゃんがお相手してくれると言うならあゆみちゃんに手を出すことだけはびゃっ!」
お兄ちゃんが、座ったまま梓お姉ちゃんの背中を踏みつける。これは教えてもらった。たしかSMっていうんだ。お兄ちゃんがSで梓お姉ちゃんはSとM両方だって。意味不明。あっ、責め(S)と守り(M)ってことかな。
この二人の仲良いやり取りを見てるのはいつも面白い。梓お姉ちゃんはいつも楽しそうだからいいなぁって思う。ちょっと寂しいけど、いつだったかお兄ちゃんをくださいって言われたから、あげちゃったんだ。
「あゆみ、大丈夫だったか? 何か変なことされなかったか?」
「変なことー? 耳を舐められたこととかー?」
お兄ちゃんは、目を細めて梓お姉ちゃんを睨みつけた。
「ほう……」
「うふっ、先輩と同じ味がしにゃにゃにゃっ!? せんっぱいっ! つ、つねるならもっと違うところをつねってほしっぴっ! そこなら痛くしてもったたたたたたたたいたいたーーーーいっ!」
あははっ、楽しそうだなぁ梓お姉ちゃん。
「あふぅ……はふぅ……た、大変なんですよ」
「ああ、お前は大変だ」
「そういう冗談はいらないのです」
「お前に言われると無性に腹が立つな」
「あゆみちゃん、どうぞお兄ちゃんにご報告を」
んー、もうちょっと見ておきたかったんだけどなー。忘れないうちに聞いてもらわないとね。
「お兄ちゃん、わたし、彼氏ができましたぁ」
「「な、なんだってーっ!?」」
あ、間違えた。
「告白されたー」
「な、なんだってーっ!?」
う、うちの妹が告白されただと!? たしかにあゆみは世界一可愛いがそういうこととは無縁だと思っていた。いや、生涯そう思っていたかった。思わせておいて欲しかった。来年高校生だとはいっても見た目はどう上に見たところでせいぜい中学一年がいいところ。あゆみはそこで成長が止まってしまっているとしか思えない。どこのロリコン野郎だそいつは。どこの馬の骨、いや馬の糞だそいつは。うちの、俺のあゆみはやらん。あゆみにはそういう話しはまだ早過ぎる。というか一生なくていい。そう、俺は今この時この場で生涯あゆみを守り抜くことを誓う。誓わなければならない、兄として。
「とんだシスコン野郎だったんですね、先輩。こういうケースは初めてなので知りませんでした」
「お兄ちゃん。嬉しいけど、気持ち悪いかもぉ」
「おぉっ?」
「心の声が駄々漏れでした先輩。相当ショックだったんですよね」
お兄ちゃんは「あ゛あ゛~」と断末魔のような声を出してうずくまった。それを、梓お姉ちゃんが可哀想な人を見るような哀れみの笑顔で、とても優しい笑顔で見つめて、お兄ちゃんの肩をぽんぽんと叩いていた。
実際問題、わたしは付き合うということがどういうことなのか知らない。好きな、気になっている男子もこれまでいなかった。友達の中には、彼氏ができたとかいう子もいるけれど、それで喜んでいたりもするけれど、何がそこまで嬉しいことなのかわからない。そもそも、男の子とそれほど話したことも、遊んだこともないから、やっぱりクラスメイトとしての認識の域を出ない。だって、梓お姉ちゃんが耳を舐めてきたようなこと、男子にああいうことされるなんて想像できないし。それって、相当親密な関係っていうことなんじゃないのかな?
だけどもし、付き合うっていうことが、お兄ちゃんと梓お姉ちゃんのような関係になるのなら、それはとてもいいことなんだと思うな。
「ねぇねぇ梓お姉ちゃん。お兄ちゃんと梓お姉ちゃんは付き合ってるっていうんだよねー?」
「もちろんそうですよ」
「違うぞあゆみ」
二人の意見が分かれてしまった。お兄ちゃんはここぞとばかりに過敏に反応した。どういうことだろう。婚約者っていうことを言いたいのかな。
「もー先輩。あゆみちゃんの前だからって照れなくてもいいのにー」
「照れてねえよ。妹に誤解を与えるようなことを言うな」
「誤解なんて。一緒にご飯食べたし、一緒にお風呂に入ったし、一緒に寝たし、キッスだってしましたからね」
「うぐっ……」
「キスかぁ。それじゃあ、お兄ちゃんの持ってるえっちな本に描いてあることもしたのー?」
お兄ちゃんは、まさに驚愕といった表情で梓お姉ちゃんを見た。
「梓っ! お前またあゆみに見せたのか!?」
「また、ということは、やはりこの部屋にはいくつかそれらしい本が存在しているということですね?」
「えっ? あ、いや、お、お前が持ってきたと思ったんだよ」
「先輩、いいのです。梓も少しは男の人の気持ちを理解しているつもりですから」
「そんなに優しく笑って言わないでくれ!」
「梓も、先輩のことを思い浮かべて夜な夜な……って何言わせるんですかもう~っ」
「聞きちゃいねえよっ!」
会話の内容はよくわからないけれど、わたしは思わず笑いが込み上げてしまう。やっぱり、お兄ちゃんと梓お姉ちゃんはいいカップルなんだなぁと改めて思った。
でも、結局わたしはどうしたらいいのだろう。どんどん論点がずれていってしまっているような気がする。実際、目の前のカップルは楽しそうに罵り合いをしているのだから。
「付き合うっていいなぁ……」
口から勝手にそんな言葉が零れ出る。普通の友達じゃ、こういう雰囲気や空気は作り出せないものだと、それだけはわたしでもわかった。二人は特別な関係。だけど、それはお互いのことをよく知っているからだ。もし、わたしがあの道寺くんと付き合うようなことになって、この二人と同じように楽しく笑い合えることができるのだろうか。全然、全く想像ができない。道寺くんとまともに会話した内容を覚えているのは、学校での告白の言葉くらいなのだから。会話と呼べるものじゃなかったかな。わたしは逃げ出したんだし。
「あゆみ!? いくない、よくないぞ!? 付き合うってことは全然良くない! 俺を見てればわかるだろ? いつもいつも相手に振り回されて突然拉致されたり突然命の危険に晒されたり突然相手の親に呼び出されたりするんだ。そんなのちっともよくないだろう?」
必死だ。お兄ちゃんはかなり必死だった。
「ふふっ、先輩、なんでも梓と先輩を基準にするのはよくないと思います」
「こんなときだけまともな意見!?」
「そんなことよりも、先輩の言い分だと梓と付き合ってるということを認めているように聞こえましたよ。素直になれない先輩も萌えますよね」
「燃やしてやりてえ!」
お兄ちゃんの口から物騒な言葉が飛び出した。仲、良いんだよね?
「付き合って、みようかなぁ」
「「えっ!?」」
二人が一緒に、わたしの方を振り向く。お兄ちゃんは今にも泣きそうな顔でわたしを凝視していた。
「あ、あゆみ、よく考えるんだ。よ、よし、よしよし、落ち着いて話しを聞くからな。その、お前に告白してきたって奴は、どういう奴なんだ?」
「え? うーん、あんまり話したことないから、よくわかんないー」
「だ、ダメだダメだ! なおさらダメだ! いいかあゆみ、一億歩譲ってそいつと付き合うようになるとしてもだ、もっと相手のことを知ってからじゃないとダメだ!」
「えーっ? どういうことを知ればいいのー?」
「そ、それは、そいつの性格とか、家柄とか、将来の夢とか、一生愛することができるかとか、とにかくたくさんだ」
「せ、先輩。中学生にそれを求めるのはどうかと思うのですが」
「うるさいぞ梓。もしかしたらこれがあゆみの一生を左右することになるかもしれないんだ。どういう奴かもわからない内にはあゆみに近付けたくない。いやそもそも誰とも付き合わせない」
「……先輩は、まるで梓のパパみたいです」
梓お姉ちゃんがそう言うと、お兄ちゃんの表情が固まった。梓お姉ちゃんは、どこか、少しだけ怒っているように見える。
「か、一成さんみたいだって?」
梓お姉ちゃんはわたしを優しい目で見て、頭の上に手を乗せた。
「そうです。過保護です。梓のパパ以上かもしれません。あゆみちゃんだってそんな子供というわけではないのですから、あゆみちゃんの意見を優先すべきです。そうでないと、可哀想です。あゆみちゃんが可哀想です。梓には、あゆみちゃんの気持ちがよくわかります。行きすぎた愛情は、時に相手を苦しめることになるのです」
「梓、お前……」
梓姉ちゃんは、何かを思い出しているのか、遠い目をして宙を仰いだ。
「ですよね、あゆみちゃん。お兄ちゃんとはいえ、縛られるのは嫌ですよね?」
「え~? わたしはお兄ちゃんがダメって言うならぁ、ダメでいいよー?」
「あ、あれ?」
「ふははははっ。梓、やはりあゆみのことは俺に任せてもらおうか」
「くっ、ここは不本意ながら負けを認めざるを得ないようですね。しかし先輩、あゆみちゃんは一度付き合ってみようと前向きな姿勢を見せたのです。その気持ちを大事にしたいという思いが梓にはあります。これはあゆみちゃんの成長です! 大人になるための一歩なのです! 同じ女として、梓はあゆみちゃんを応援します!」
力説だった。なんだろう、梓お姉ちゃんの言葉を聞いて、頑張ってみようと思ってきた。梓お姉ちゃんはわたしのために言ってくれてるんだ、きっと。わたしは、梓お姉ちゃんに憧れているところがある。いつも明るくて、いつも楽しそうで、いつも優しい。わたしは、梓お姉ちゃんのようになりたい。
道寺くんと付き合ってみたら、付き合うってことがどういうことかわかるかもしれない。梓お姉ちゃんのように明るく楽しくなれるかもしれない。
「梓お姉ちゃん、わたし、頑張ってみる」
「そ、その意気ですあゆみちゃん! 兄妹でダブルデートしましょう!」
梓お姉ちゃんはとっても嬉しそうだった。だから、わたしも嬉しい。
「待て待て待てーい! あゆみ、俺がダメと言ったらダメでいいんだろ? 俺はどこのどいつかも知らん奴と付き合うことなんて認めないからな!」
お兄ちゃんは猛抗議だった。お兄ちゃんがダメって言うのなら、やっぱりやめておくべきなのかなぁ。梓お姉ちゃんは大好きだけど、お兄ちゃんは、わたしのお兄ちゃんなんだし。
「じゃあ先輩、先輩が納得できるような相手だったらいいわけですね?」
「ふんっ、そんな奴、いるわけないだろう」
「それなら確かめてみましょう。梓も、その告白してきたという男の子が女の子を傷つけるような子だとしたら不安ですからね。あゆみちゃん、その男の子の連絡先はわかりますか?」
「え? 知らないけど……」
な、何をしようとしているんだろう。
「確かめるっつったって、連絡先もわからないならしょうがないな。新学期まで何もなかったらそいつもフラレたと思うさ。それで万々歳だ。万事解決。この話しはこれで終わりだ」
「ふふふ、先輩。神宮寺の力を甘く見ないことですね。あゆみちゃん、その子の名前は何というのですか?」
「同じクラスのぉ、道寺健介くん」
だったと思う。
「わかりました」
「お前、何するつもりだ?」
梓お姉ちゃんは、得意気に笑って携帯電話を取り出した。そしてすぐに、誰かに電話をかける。
「斎藤さん。県立西中学校、三年二組、道寺健介という少年の居場所を今すぐ調べてください。……ええ、わかったらすぐに連絡をお願いします」
そして電話を切った。
「梓お姉ちゃん?」
「あゆみちゃん、これであゆみちゃんの悩みも解決できます。これからその道寺くんという子がどういう人なのか確かめに行きましょう」
「えー? でも、どこにいるのか知らないよー?」
「大丈夫です。すぐに梓の信頼している斎藤さんが見つけてきてくれますから」
「斎藤さんに雑用を押しつけるなよ……」
自信満々の梓お姉ちゃんと、それに嘆息するお兄ちゃん。
見つけるなんて、すごいな。梓お姉ちゃんはお金持ちなんだよね。だからそういうこともできるのかな。一回だけだけど、海外旅行にも連れて行ってくれたし。尊敬するなぁ、梓お姉ちゃん。
「すごぉい、梓お姉ちゃん」
わたしは、目を輝かせて梓お姉ちゃんを見た。
「ふ、ふふ、こういうのも、悪くないですね。あゆみちゃん、次のあゆみちゃんの誕生日には、何でも好きなものをあげちゃいます」
「どっかの親父くせえ」
「やったぁ! じゃあ、梓お姉ちゃんが持ってるものが欲しいー」
わたしがそう言うと、梓お姉ちゃんはなぜか一歩たじろいだ。
「あ、梓が持っている権力を欲するとは、あゆみちゃんは見かけによらず腹黒いですね」
ん? わたしは梓お姉ちゃんとお揃いのものが欲しいだけなんだけどな。
「お前は自分に対して向けられる好意に対しては免疫がないのな」
お兄ちゃんが、また一つ溜息をついた。
そして、梓お姉ちゃんの持つ携帯が鳴った。
「もしもし。わかりましたか? ……ええ、そうですか。ありがとうございました。あっ、斎藤さんすみません、もう一つお願いがあるのですが……」
それから少し長めに話しをしたあと電話を切って、梓お姉ちゃんは満面の笑みを浮かべる。
「道寺くんは今一人で帰宅中のようです。行きましょうか、先輩」
「あー、面倒だー。どうせ見たところで結果は変わらないからな」
「あゆみちゃんも、行きましょう。今から道寺くんがどういう人か確かめます」
「え? え?」
何が何だかわからないけれど、そういうことになった。
そして……、
「あいつか……」
「ええ。道寺健介。十五歳。現住所――――――。家族は両親ともに健在で一人息子です。父親は清掃業の会社に勤めていて母親はスーパーのレジでパートをしています。一戸建てを五年前に購入。車は一台所有しています」
梓お姉ちゃんが、車の中で怖いおじさんからもらったレポート用紙を見ながら話す。
「つくづくお前らは敵に回したくないと思うよ」
今現在、道寺くんを追跡中。わたしが帰って来た時間から考えると、随分遅い帰宅だった。家の住所がどこかはわからないけれど、道寺くんはトボトボと一人で歩いていた。現在地は、学校を基点にわたしの家とは反対側の方へ五分くらい歩いたところ。駅前が発展する前は賑わっていた、古い商店街の方だった。車の中から、遠目に道寺くんの姿を三人で見ていた。一応、制服から着替えて、三人とも私服姿。梓お姉ちゃんには、私の服のサイズがぴったりだった。
「普通だな」
「ええ、普通ですね」
お兄ちゃんとお姉ちゃんは目を細めて、道寺くんを見ていた。道寺くんの見た目のことを話しているんだと思う。
「これといって描写する必要のないくらいどこにでもいそうな一般的な男子中学生ですね」
梓お姉ちゃんが「うーん」と唸る。
「ふん、やっぱりこんなことする必要なんてないぜ」
「見た目だけで判断してはいけません。それを言ったら先輩だって……」
「何!? お前人のこと散々かっこいいとか言っておきながら実はまったくそんなこと思ってなかったのか!?」
「梓にとって先輩は誰よりもかっこいいです。一般的に言えば……ノーコメント」
「くっ、くうぅ……!」
「お兄ちゃんはかっこいいよー?」
「……あゆみ、立派に成長したな……」
? わたしは本当のことを言っただけなのに。
「あっ、動きがありましたよ」
梓お姉ちゃんが、道寺くんを指差す。道寺くんは、目の前にあったコンビニに立ち寄った。
「行きましょう。あゆみちゃん、これをかぶって下さい」
麦わら帽子を渡されて、車から飛び出す。そして、コンビニに入った。
雑誌を立ち読みしていた道寺くんの横に、お兄ちゃん、私、梓お姉ちゃんの順に並んで立った。お兄ちゃんは適当に本を一冊取って広げる。読むふりをしながら、横目で必死に道寺くんのことを睨みつけるように見ていた。お兄ちゃん、その顔はかっこよくない。
わたしも、ちらちらと道寺くんの顔を見る。とても元気がなさそうで、落ち込んでいるように見えて、本当に本を読んでいるのかもわからなかった。きっと、わたしが逃げ出したからだ。嫌われたと思っているのかもしれない。わたしも、誰かに嫌われたと思えば、あんな顔をしてしまうと思う。悪い事を、したかな。
「うひっ、うひひっ」
隣で、梓お姉ちゃんの笑い声が聞こえてきた。お兄ちゃんが何かに気がついたように勢い良く梓お姉ちゃんの方を振り向き、ずかずかと向かっていった。お兄ちゃんは、梓お姉ちゃんが持っていた本を無理矢理奪い取って、目の前の棚に戻した。そこは、お兄ちゃんの部屋に置いてあったような、えっちな本がたくさん並んでいる棚だった。わたしはそこをちらりと見て、すぐにお姉ちゃんに視線を移す。それと同時に、お兄ちゃんに腕を引かれた。お兄ちゃんは顔を真っ赤にして、わたしと梓お姉ちゃんの腕を掴んだまま、コンビニから逃げるように出て行ってしまった。そして、また車に乗り込む。
「お、お前っ! あんな場所であんな本読むんじゃねえ! しかも笑いながら読むんじゃねえ!」
「だ、だってぇ、目の前にあったものだからつい……」
「ついじゃねえよ! ったく、せっかくあゆみにも帽子かぶせたってのに、バレたらどうすんだ。目立ってたからな、お前」
「あはは……」
梓お姉ちゃんは申し訳なさそうに苦笑いを浮かべる。いつでもどこでも仲良いなぁお兄ちゃんたち。それで、これはどういうことなんだろう。
「ねぇ梓お姉ちゃん。何をしようとしてるのー?」
「ああ、それはですね、あゆみちゃんに告白してきた道寺くんがどういう人物か見極めようとしているのです。先輩が納得できるような人物であれば、晴れてあゆみちゃんと道寺くんは付き合えるって寸法なんですよ」
「そうなんだー。お兄ちゃん、納得できたのー?」
「いやいや、何もわかってないぞ」
そもそも、コンビニで立ち読みしているところを見て何をわかろうとしたんだろう。読んでいる本を見てどういう人か判断していたのかな。道寺くんが読んでいた雑誌は漫画の週刊誌だったし、そんなのお兄ちゃんも読んでるしね。
「あっ、出て来ましたよ。何も買っていないようです」
「立ち読みだけで何も買わずに出て来るとは。迷惑な客だ。マイナスポイントだな」
人のことは言えないよ、お兄ちゃん。
道寺くんは、またトボトボと歩き出した。
「歩いている人を車でつけるのは目立ち過ぎます。歩いてあとを追いましょう。今日は携帯望遠鏡もありませんし」
「……お前、経験者か?」
「えっ? ……さ、さぁ行きましょう」
「そういえば、お前の部屋に撮られた記憶のない写真がいくつか……」
「さぁ行きましょう!」
梓お姉ちゃんが車を飛び出し、お兄ちゃんがあとに続く。わたしも、梓お姉ちゃんに手を引かれて車から降りた。
道寺くんから少し距離を置いて、お兄ちゃんと梓お姉ちゃんが腕を組んで並んで歩き、わたしが少しずれてその後ろをついて歩く。お兄ちゃんの目は厳しいけれど、梓お姉ちゃんはデートを楽しんでいるようにニコニコしていた。
「こういうのって、何かドキドキして楽しいですね」
わたしも、何かわからないけれどドキドキしている。
「撮られた記憶のない写真がいくつか……」
「梓は先輩の、後輩で、同級生で、ストーカーですから」
「開き直りやがった!」
「先輩、しーっ……」
お兄ちゃんの唇に人差し指を当てる梓お姉ちゃん。気がつくと、道寺くんが後ろを振り返っていた。
「ちっ!」
道寺くんは、恨めしそうにお兄ちゃんと梓お姉ちゃんを見て、こっちに聞こえるくらいにわざとらしく、舌打ちした。そしてまた前を向いて歩き出す。
「……あいつ、今舌打ちしたよな」
「舌打ちしましたね」
「舌打ちしたねー」
梓お姉ちゃんが、「ふむ」と顎に手を当てて言う。
「まぁ、気持ちはわからなくないですね。自分がフラレたと思っている時にラブラブな梓と先輩を見てしまったのですから。梓が彼の立場だったら噛みつきます。梓が持つ全権力を使って制裁を与えます。よってマイナスポイントはなしですね」
「随分と自己中心的なポイント基準だな。まぁ、俺も今回はそれに同意しておく。下手に刺激を与えるのは止めておこう。判断基準が鈍ってくるからな。一応否定するが、ラブラブじゃない」
いつの間にポイント制になったんだろう。何ポイント取れば道寺くんは合格するんだろう。マイナスポイントからだったけれど、何点からスタートしたんだろう。
「そろそろ、第一の仕掛けといきましょうか」
道寺くんが横断歩道に差し掛かったところで、梓お姉ちゃんが携帯を手に取った。
「では、よろしくお願いします」
それだけ言って、電話を切る。
「まったく、何を企んでるんだ」
「今からが本番です。いささかありふれた仕掛けではありますが、もっとも効果的かと思います」
そう言って、梓お姉ちゃんが横断歩道を指差す。その先には、大きな風呂敷を背中に抱えたおばあちゃんが立っていた。腰が曲がって、すごく重そうにしている。どうしよう。持ってあげた方がいいんじゃないかな。あれじゃ横断歩道渡れないよ。
「あゆみちゃん、心配しなくてもあれはうちの使用人なのです。本来はもっと若々しいのですが、無理を言ってあの格好をしてもらいました」
「ええ~?」
「本当にベターだな」
横断歩道には、道寺くんと道路を挟んだ反対側にその見た目おばあちゃんの使用人の人しかいなかった。
信号が変わって、道寺くんが歩き出す。おばあちゃん(偽)はよろよろと歩き出した。あの速さじゃ、信号が変わり切るまでに半分も歩けないかもしれない。
「な、何か緊張するな」
「え、ええ、そうですね」
「うんー。緊張するー」
わたしがそう言うと、二人が揃ってわたしを見た。そして顔を見合わせて苦笑する。
え? 何?
「あゆみちゃんらしいです」
なんだろう?
道寺くんは信号を半分渡り終えて、もうすぐでおばあちゃん(偽)とすれ違う。助けてあげなきゃダメだよ、道寺くん。助けてあげるよね、道寺くん。
そんなわたしの期待とは裏腹に、道寺くんは何事もなかったようにおばあちゃん(偽)の横を通り過ぎた。
「「ああ~っ」」
二人が同時にがっかりしたような声を上げる。二人とも、何だかんだ言っても何かを期待していたのかな。わたしも、ちょっと残念。
とその時、信号を渡り終えようとしていた道寺くんの足が止まった。一瞬うつむいて、振り返って走り始めた。
「おおっ!」
そして、道寺くんは横断歩道の途中でおばあちゃん(偽)に話しかける。そして、背中の荷物を道寺くんが代わりに持ってあげた。そのままおばあちゃん(偽)の足並みに合わせて、渡ってきた横断歩道を戻った。そして、少しおばあちゃん(偽)と話しをして、おばあちゃん(偽)はぺこりと頭を下げて、歩いていった。道寺くんは最後まで荷物を持ってあげようとしていたみたいだけれど、それをおばあちゃん(偽)が断っているようだった。そしてまた、道寺くんは信号待ちを始めた。
「やるじゃないかあいつ」
「最初に横を通り過ぎたのは、思春期ならではの照れ臭さからですかね」
「えへへ~」
なぜか、嬉しい。お兄ちゃんが道寺くんを褒めているようで、それがどうしてか嬉しかった。
ピピピピッと、梓お姉ちゃんの携帯が鳴った。
「はい。…………ええ。…………そうですか、ありがとうございました。特別ボーナスを出すよう手配しておきます」
「さっきのおばあちゃんのふりしてた人からー?」
梓お姉ちゃんは、にっこりと笑って頷いた。
「そうですよ。目的地に着くまで、せめてその近くまで荷物を持ってあげようとしていたみたいですね」
「やっぱり。優しいんだー、道寺くん」
「ま、まだだぞ。あれは言ってしまえば前提だ。あれくらい、少し常識があれば当たり前だ」
梓お姉ちゃんとは逆に、お兄ちゃんは悔しそうに言った。梓お姉ちゃんは、やれやれと溜息をつく。
「ハァ。先輩ならそうでしょうけど、世の中には見て見ぬふりする人だってたくさんいますよ。むしろ、最後まで面倒を請け負おうとしたことは余計に評価されるべきです。そうですよね、先輩?」
「ん……むぅ」
お兄ちゃんもどうにも認めざるを得ないようだった。
「でもまぁ、今のは優しさテストです。次行きますよー」
ま、まだあったの?
急いで、道寺くんを追う。はずだったんだけど、梓お姉ちゃんが一旦車に戻ると言うので、三人でまた車に乗り込んだ。そして、道寺くんを待ち伏せするように車を停めて、少し離れたところから道寺くんを見張る。
「お次は誘惑テストです」
「誘惑って、誰かを指し向ける気か?」
「ご明答。さすが先輩です。一度先輩が罠にハマった手を使わせてもらいます」
梓お姉ちゃんがジトーっとした目をお兄ちゃんに向けると、お兄ちゃんは冷や汗をかきながら視線を逸らした。誘惑ってことはー、
「お兄ちゃん。また浮気したのー?」
「あゆみ!?」
「また!? またとはなんですか先輩!? 驚愕の事実ですよ!? シンシアちゃん以外の誰と逢瀬していたのですか!? 梓の目を掻い潜るとは一体どこの誰ですか!? くっ、くくくくく詳しくお聞かせ願いますっ! 内容次第ではこんなことしているびゃやいでびゃーーーーーーっ!!!!」
これは知ってるー。修羅場だー。
梓お姉ちゃんは、目を血走らせて興奮していた。普段の梓お姉ちゃんからは想像も、できなくもない形相だった。
「ち、違う! あゆみが言ってるのは多分千佳のことだ! あの、お前が外国に行ってた時の話しだよ! パーティーに行ってた時の!」
「…………あ、ああ、その時のことですか。それ以外には浮気していないのですか?」
「浮気なんてしてない。それに浮気じゃねえだろ。そもそもその前提からないってのに」
わからない人は『お嬢様のフーガ~後輩で同級生でストーカーで~』を見て下さいって誰かが言ってますー。
「ま、まあいいでしょう。とにかく、作戦開始です。斎藤さん、用意していたものをお願いします」
梓お姉ちゃんが運転席の怖いおじさんに手を差し出すと、何かスピーカーのようなものを受け取った。「今から向かう者にはマイクを持たせてありますから、これで二人の会話は聞き取れます」
まるでスパイみたいだった。梓お姉ちゃんは何でもできるなぁ。
梓お姉ちゃんはまた電話をかけた。すると、脇道から女の人がするりと歩き出てきた。
「あ、あれって姫川さんじゃないのか?」
「ええそうです。さきほどこの件を伝えたら若い頃を思い出すと彼女はノリノリでした」
「結構おしとやかな人だと思っていたのに」
二人の話題に上がった姫川さんという人は、見た目だと、二十代半ばくらいの、きれいな女の人だった。大人の女性を思わせるような、落ち着いた雰囲気で、少し青みがかった髪を風に揺らして、ゆっくりと道寺くんに近付いて行った。
「なぁ、あれってどう見ても年齢差があると思うんだけど」
「それを姫川さんの前で言わないことです、先輩。彼女は歳を気にしているようでしたから。怒った姫川さんは斎藤さんでも止めるのは難しいですよ?」
「……お前の生活は常に危険と隣り合わせだな」
たしかに、中学生の道寺くんに対してちょっと大人過ぎるかなと思った。その姫川さんは、道寺くんの近くまで歩いて行ったあと、急につまづいてその場にしゃがみ込んだ。
『きゃっ』
「作戦開始ですね。内容は姫川さんにお任せしています」
梓お姉ちゃんはわくわくといった様子で事の成り行きを見ていた。わたしは、やっぱりどこかで道寺くんを応援していた。
『だ、大丈夫ですか!?』
道寺くんが姫川さんに駆け寄る。
『あ、ああごめんなさい。ヒールが折れたみたいなの』
「これもまたベターだな」「年齢ゆえにですね」「……怖ろしいこと言うなお前」
『本当だ。すみません、僕はどうやって直したらいいか知らなくて』
「なかなか紳士的じゃないか」「気遣いはできているようですね」
お兄ちゃんと梓お姉ちゃんは、うんうん頷きながら先の二人のことを眺めていた。道寺くんは優しいからね、姫川さんのことも助けてくれるはずだよ。
『あっ!』
道寺くんが、少し驚いた声を上げて姫川さんから顔を背けた。
『ふふ、見えちゃった? エッチだね、君』
姫川さんは、片膝を立てる格好で座っていた。あの道寺くんの反応は、もしかしたらスカートの中が見えてしまったのかもしれない。
「……ノリノリじゃないか」「……ノリノリですね。しばらくはこれでからかうことができそうです」
『み、見てないです! 見えてないです!』
『可愛いね君。ね、ちょっと、肩を貸してもらえる? このままじゃ歩けないからさ』
姫川さんが、道寺くんに手を差し出す。
「超ノリノリじゃないか」「超ノリノリですね」
車内の二人は、呆れた様子で姫川さんを見ていた。運転席の怖いおじさんも、小さく溜息をついていた。
『は、はい! え、えっと、じゃあ、どうぞ』
道寺くんは姫川さんの手を取って、自分の肩にかけた。どうしてだろう。何か嫌だ。道寺くんはいいことをしてるはずなのに、わたしは今の道寺くんを見ているのが嫌だった。
『ごめんね、ありがとう』
『は、はい。えっと、ど、どうしましょうか?』
『うん。痛っ! あれ? お姉さん、足くじいちゃったみたい』
「べ、ベタベタ過ぎる」「もはや逆に清々しいくらいです」
『えっ、じゃあ病院に行かなくちゃ』
『ううん、大丈夫だよ。少し休めば良くなると思うから。あそこに、連れて行ってくれない?」
姫川さんは、何かの建物を指差す。少し路地を入ったところにある、大きくて黄色い建物だった。ネオン管がやたら派手で、宿泊と休憩ができるホテルのようだった。あそこで休もうとしているつもりらしい。
「中学生相手にあれはどうだろう」「どういう場所かわからないと思いますよ」「え? 休憩できる場所でしょー?」「……あゆみは知らなくていいんだぞ?」
わたしだけ仲間外れにされたー。いいもん、あとで調べるから。
『いっ、ひやっ、あ、あそこはひょっと……!』
道寺くんの声が裏返る。
「知っているのか中学生!?」「おおっ!」
お兄ちゃんが驚愕の表情を見せて、梓お姉ちゃんはなぜかガッツポーズをした。道寺くんは、激しく動揺しているようだった。休ませに連れて行くだけなのに、どうしてあんなに慌ててるんだろう。やっぱり、何か嫌ー。
『ふふっ、あそこがどういうところか知ってるんだ。いけない子だね。動けないお姉さんに、いろんなこと、し・ちゃ・う?』
「犯罪だ!」「大人の誘惑だ!」「うー、わけわかんないよー」
『ごっ、ごごごごめんなさいっ!』
道寺くんは、その場から逃げ出した。けが人の姫川さんを置き去りにして逃げ出した。さっきは優しい道寺くんだったのに。でも、ちょっとほっとしているわたしがいた。悪い子だな、わたし。
『お嬢様』
姫川さんの声だった。さっきまでとは違って、とても凛々しい声だった。
梓お姉ちゃんの携帯が鳴る。
「あ、はい、はいはい、お疲れ様でした、姫川さん。………………ええ、ええ十分でした。いえ、足りないなんてことはありません。本当にありがとうございました」
電話を切って、梓お姉ちゃんが深く溜息をついた。
「判断不可能でしたね」
お兄ちゃんは、何度も深く頷く。
「ああ。あれは逃げ出すに決まっている。姫川さんを置いて行ったが、差し引きプラマイゼロだな。怖ろしい人だ、姫川さん」
「き、気を取り直して次に行きましょう」
梓お姉ちゃん、まだ続ける気なんだ。
もう、もういいよ。道寺くんが可哀想だよ。こそこそ隠れて、道寺くんを観察するみたいで、とても悪いことをしている気がする。
道寺くんは優しい。それだけはわたしにもわかった。とても優しい。女の子を傷つけるような人には全然見えないし、絶対にそんなことをする人じゃないと思う。
わたしはちょっとだけ、道寺くんと話してみたいと思った。もう少し、道寺くんのことを知りたいと思った。いろんなことを聞いてみたいと思った。
「梓お姉ちゃん。もう、やめてあげようよー」
「ふふふ、あゆみちゃん。心配しなくても次で最後です。今度は、あゆみちゃん自身で道寺くんがどういう人か確かめてください。先輩も、それでいいですね?」
「ん、まぁ、うん、悪い奴じゃ、なさそうだからな」
お兄ちゃんは、頬をかきながら梓お姉ちゃんの提案を受け入れた。
これって、道寺くんと話せるってことなんだ。道寺くんと話せる。
わたしは、なぜかそれがとても嬉しかった。
車を走らせる。
走って逃げ出してしまった道寺くんはすぐに見つかった。息を切らして、電柱に手をついて休んでいた。道寺くんの姿を見た瞬間、心臓がバクバクと激しく高鳴る。
なんだろう、なんだろうこれ。すごく、ドキドキする。緊張する。道寺くんの前に立つことが、とても緊張する。
「あゆみちゃん、行ってらっしゃい」
梓お姉ちゃんに背中を押されて、車を降りる。そして、わたしは震える足で、道寺くんの前に立った。
こっちにはまだ気付いていない。どう声をかけようか、頭の中がぐるぐるして、わけがわからなくて、なんとか、道寺くんの名前を絞り出した。
「ど、道寺、くん……!」
「えっ? あっ、く、来栖さん!?」
今日一番の驚いた顔を見せた道寺くんは、すぐにきをつけの姿勢になった。顔が真っ赤で、それを見て、わたしも顔が真っ赤になっていくのがわかる。
「あの、こ、こんにちは……」
「こ、こんにちは」
まともに道寺くんの顔を見れなくて、わたしは下を向いたままでしか話せなかった。
え、えーと、挨拶はしたから、えーと……。
「ど、道寺くん」
「は、はいっ!」
「あの、えっと、その……が、学校では、逃げちゃって……ごめんなさい……」
「う、ううん! いい! いいんだよ全然!」
「あ、ああいうこと言われたの、初めて、で……。びっくりして……」
「ご、ごめんね! そうだよね! いきなりだったもんね! 驚かせちゃったよね! あははっ! あはっ、あはは……」
「…………」
「…………」
ど、どうしよう。何か話さなきゃ。聞きたいことも、いっぱいあるような気がするのに。何も思い浮かばない。話したいのに。道寺くんとお話ししたいのに。
「わ、わたしっ!」
「う、うん! な、なに?」
まだ、顔を見られない。仕方ないよね。こればっかりは、どうしようもないよね。恥ずかしくて死んじゃいそうだもん。
「ど、道寺くんと、お、おは、お話しっ!」
「ひっ!!」
道寺くんが、いきなり悲鳴のような声を上げた。わたしも驚いて、不意に顔を上げてしまう。道寺くんは、わたしの上を見上げて、何かに怯えていた。
「え?」
わたしも、つられて上を見上げる。
「ひゃっ!」
そこには、車を運転していた、あの怖いおじさんが立っていた。たしか、斎藤さん、だったかな。斎藤さんは、顔をゆでダコのように真っ赤にさせて、おでこに血管を浮き出させて、こんなことを言った。
「わ、わたくしは、あゆみさ……あゆみの、ち、父だ。き、君が娘と付き合いたいと言っている道寺くんかな?」
「えっ!?」
思わず声を上げてしまう。この人が何を言ってるのかさっぱりだった。
「ご、ごめんなさーい!!」
「えっ!?」
行ってしまった……。道寺くんが行ってしまった。何? どういうこと? 何がどうしてこうなったの?
呆けているわたしの後ろから、お兄ちゃんと梓お姉ちゃんの話し声が聞こえてきた。
「だから言っただろ。斎藤さん相手じゃ誰でもああなるって。それに斎藤さん可哀想だぞ」
「先輩はそんなことなかったじゃないですか。同じ中学三年生でしたし」
な、何なの? 二人とも何の話しをしているの?
「俺は斎藤さんに父親として名乗られてねえよ」
「関係ないですよそんなの。要は守る気持ちがあるのかどうかですから」
「父親から守る必要なんてないだろうが。むしろ斎藤さんが守ったようなもんだ」
「うーん、また失敗でしたかねえ」
失敗って、また、梓お姉ちゃんは道寺くんに……。
「ばっ、バカーーーーーーーーーーッ!!」
「うえっ!?」
「ひゃっ!」
「お兄ちゃんも、梓お姉ちゃんも、おじさんもバカっ! バカバカバカバカバカッ!! バカーーーーーーッ!!」
わたしはお腹の底から叫んだ。精一杯叫んだ。
「わたしはただ道寺くんのことが知りたかっただけなのにっ! 道寺くんに謝りたかっただけなのにっ! わたしはっ、道寺くんとお話ししたかっただけなのにぃっ! お話しっ、したかったのにっ……! うわああああぁぁあぁぁぁぁああああんっ!!」
わたしは泣いた。泣き叫んだ。道寺くんが行ってしまったことが悲しくて泣いた。道寺くんとお話しできなかったことが悲しくて泣いた。お兄ちゃんと梓お姉ちゃんに怒って泣いた。とにかく泣いた。泣いて泣いて泣いて泣いた。止まらなかった。
「あゆみっ、落ち着けっ、なっ?」
「あうあうあうあうあうどうしましょうどうしましょうどうしましょう」
「バカッ! バカッ! お兄ちゃんも梓お姉ちゃんも大嫌い!」
「ぐはぁっ!」「はぁうっ!」
道寺くんも、学校でこんな気持ちだったのかな。
すごく苦しくて、すごくズキズキして、辛いよ。
「道寺くん……」
「あゆみ……? お前まさか……」
お兄ちゃんが何かを言いかけて、視線を向けると、梓お姉ちゃんが首を横に振ってお兄ちゃんの口を閉じさせる。
「そういうことは、梓たちが言うものではありませんよ」
梓お姉ちゃんは、目を細めてとても優しそうに笑っていた。そんな顔をされてしまうと、わたしは、どこにこの気持ちをぶつけていいのかわからなくなる。
「あゆみちゃん、ごめんなさいです」
そして、梓お姉ちゃんはぺこりと頭を下げて謝った。そのあと、梓お姉ちゃんはちらりとお兄ちゃんに視線を移す。
「あ、ああ。あゆみ、悪かった。俺もどうかしてたとは思う」
「…………うん」
わたしの涙はぴたりと止まった。ちゃんと、二人とも謝ってくれた。でも、二人だけが悪いわけじゃないんだ。わたしだって、最初は道寺くんがどういう人か知りたくて、一緒に道寺くんを見ていたんだから。わたしが一人で、話さないといけなかったんだ。それでも、よかったと思う事もあった。少しでも道寺くんのことがわかったから。優しい人だったから。それは、よかったことだと思う。
「あゆみちゃん」
梓お姉ちゃんが、わたしをぎゅっと抱きしめてきた。お姉ちゃんだ。梓お姉ちゃんは、やっぱり本物のお姉ちゃんみたいだ。
「今の気持ちを、大事にしてくださいね。これがあゆみちゃんの……」
そこまで言って、梓お姉ちゃんは黙ってしまう。
「梓お姉ちゃん?」
「いいえ、何でもないです。どうしますか? これから道寺くんを追いかけますか?」
「えっ!?」
道寺くんを追いかける……。追いかけて、何を話そう。ごめんなさいって、言わなくちゃダメだよね。ちゃんと謝らないとダメだよね。
だけど、だけどやっぱり、恥ずかしい。道寺くんの前に立ったことを思い出すと、顔がぶわ~っと熱くなる。熱い。とっても熱い。
恥ずかしくて恥ずかしくて、梓お姉ちゃんの胸に顔をうずめてしまった。
「う~……いい。学校で話す~」
「ふふっ、そうですか。今から新学期が楽しみですね」
新学期……。学校だと道寺くんに会える。会ってしまう。同じクラスだし、絶対顔を合わせてしまう。ううん、新学期の前に、登校日があるよ。その時会ってしまう。どんな顔して会えばいいんだろう。恥ずかしいよ、恥ずかし過ぎるよ。会いたくない。でも会って話したい。うう~……。
「楽しみじゃ……ないもん」
「あははっ、あゆみちゃんは意地っ張りなんですね」
「うう~……っ!」
お兄ちゃんは、何も言わなかった。何かを言いかけていたけれど、何も言わなかった。わたしを心配してくれているのはわかってるから、だからそれも、そういうことなんだと思う。
梓お姉ちゃんは優しくわたしを押しのけて、お兄ちゃんの方へ向き合わせた。
「あゆみちゃんの方がお兄ちゃんより先輩になりましたね」
「は? 何のことだよ」
「さぁ……。まったく先輩はこれだから梓は困ってしまうのです」
そう言いながらも、梓お姉ちゃんは楽しそうに笑っていた。
こういう二人になれるのなら、わたしはやっぱり、一歩を踏み出してみるべきなんじゃないかなって、そう思ったりした。
そうすれば、この気持ちの正体にも気が付くのかもしれないと、密かに思っていた。
少しだけ新学期の待ち遠しい夏休みが、ここに始まった。