果たされることのない約束 ~笹野千佳~
「ハァ……」
口から次いで出てくるのは、溜息ばかりだった。憂鬱だった。
まずは、暑い。すごく暑い。肌に張り付く制服が鬱陶しい。手に持つトランペットまで熱を帯びてしまい、逆に楽器から熱が出ているものとまで錯覚してしまう。音だって、夏バテを起こしていた。セミの鳴き声にはまるで太刀打ちできそうにない。
窮屈な練習場を抜け出して、人気のない校舎の影を見つけて忍び込む。今日は自主練だけだから、ここでひっそりと練習していよう。今だけは、あまりみんなと一緒にいたくなかった。
「やあちーちゃん。こんなところで一人で練習かい?」
いたくなかったけれど、どうにもそういうわけにもいかないようだった。
私は、笹野千佳。千佳だから、ちーちゃんってよく呼ばれている。そして、もう一緒に練習する気満々で椅子と楽器を手にしているのは、倉敷みちる。腰まで届く長くて真っ黒のストレートヘアが特徴の、少し不思議な同級生。私がこの吹奏楽部に誘って、それからよく一緒にいる友達だ。今は、親友って呼べる仲だと私は思ってる。
「今ひとりじゃなくなった」
「おや、それは皮肉かい? それとも歓喜の声かな?」
それに対して私が何て言おうとも、隣に来てしまうのがみちるだ。
「じゃあ失礼するよ」
だから何も言わない。黙って、みちるが腰を落ち着かせるのを待った。
「期待の次期部長にしては、寂しい練習風景だね」
みちるはからかうように目を細めて言った。
「もう、そういうこと言われたくないから一人で練習してたのに」
また溜息が一つ出た。吹奏楽コンクールが終わって三年生が引退したあと、部員たちからの推薦で私が部長に選ばれてしまった。これが、私が憂鬱になっている原因だった。
「嫌なら断ればよかったじゃないか」
「私には満場一致の意見に反論する勇気なんてないの」
それもこれも、全部みちるのおかげだ。私を部長に推薦したのは他でもない、目の前でにやにやと笑うみちるだったのだ。そして部員全員が計ったかのように賛成の声を上げた。断るような暇さえ与えてもらってないような気がする。
正直、私には荷が重い。部長といえば、みんなのまとめ役だ。そんな大役、私に務まるはずがないのに。
「ちーちゃんなら適任だよ。いや、ちーちゃんしかいない。もうこの部活の全てはちーちゃんに託された。ちーちゃん万歳」
「やめてったらやめて~~~~」
思わず屈んで、耳を塞ぐ。嫌だ、鬱だ、今初めて部活が嫌いになりそうだ。他にも適任だと思う人はいっぱいいるのに。どうして私なんだろう。
思えば、クラス委員にも同じようにして選ばれた。クラス替えがあったばかりの頃だったのに。クラスの友達からは生徒会長にも立候補したらと言われている。勘弁して欲しい。そういう、みんなの前に出るようなことは苦手なのだ。
「品行方正で成績優秀で面倒見も良いちーちゃんが部長に選ばれるのは何にも不思議じゃないよ~」
「あ~あ~あ~あ~聞こえな~い」
ハァ……。困った。困ったことになってしまった。前部長にはいろいろと頼み事をされていたからどれほど大変なことなのかはわかってる。コンクール前に部員同士でもめ事があった時なんかは、前部長がなんとかまとめていたけれど、私はそんなことできる自信がない。っていうかできない。嫌だ。ああ嫌だ。ただでさえ大きな悩み事があるっていうのに、部活のことまで頭が回らないよ。でも部活のことばっかり考えてる。何だ、何なんだ、私。一つ一つ解決しようにも、どうしようもないことだもんな。
「私でよければ、偉大なる部長様のお手伝いをしてあげよう」
みちる……。
「……うん、そだね。推薦した責任くらい取ってもらわないとね」
「部長をみんなの笑い者に仕立て上げる手伝い」
「……ハァ、嫌だ。憂鬱だ」
本当にそうなりそうで怖い。
もともと、私は引っ込み思案で、人見知りだったんだ。少なからず、今もそういう傾向は残っている。だから、だからこそ、部長とか、生徒会長とか、勘弁してよ。
今日もいじめられた。
わたしは何にもわるいことなんてしていないのに、おとこのこはみんなでわたしをいじめる。
泥だんごをぶつけられて、お気に入りのふくがよごれちゃった。泣いたら、またからかわれるから、いっしょうけんめい泣くのをがまんして、みんながかえるのをただ待ってる。何か言いかえしたら、またいじめられるからがまんする。
「おまえらーっ!!」
待っているけれど、おとこのこたちをいつもおいはらってくれるのが、近くに住んでいるまことくん。今日も、公園でいじめられているところにかけつけてくれた。
まことくんはわたしのおうじさまなんだ。それなら、わたしはおひめさまかな。えへへ。
「ばかっ!」
おとこのこたちをおいはらってくれたまことくんに、あたまをぽかんとたたかれる。これも、いつものことなんだ。
「おまえも少しは言い返せ!」
そう怒られて、いつもわたしはしょんぼりする。だって、こわいから、何も言えない。
「だ、だって、みんなこわい……」
「おまえが何も言わないからいじめられるんだよ」
まことくんに怒られるのが、いちばん泣きそうになる。まことくんに嫌われるのが、わたしはいちばんこわい。
「ふっ……ふぇっ……」
「あーーっ、泣くな泣くな。わかった。おれがわるかった」
「う……うん……」
「ほら、かえるぞ」
そして、まことくんに手を引かれて、家にかえる。まことくんが来てくれるから、いじめられてもがまんする。今日も、まことくんとあそぶやくそくはしていなかったけど、これでいっしょにあそべるんだ。
わたしは、まことくんのことがだいすきなのです。
午前中までの部活が終わり帰る支度をしていると、みちるに呼び止められた。
「午後のご予定は?」
いまさらだけど、その髪で暑くないのかが不思議でたまらない。私は肩くらいでも鬱陶しいのに。みちるは汗ひとつかいていない。細身だからかな。羨ましい。どっちの意味でも。
「図書館で宿題するつもりだよ。家じゃ、なんか集中できなくて」
「へぇー、ほぅーん」
首を傾げながらも、期待の眼差しを向けられる。
「な、何?」
「いや別にー。それじゃあ邪魔しちゃ悪いかな。ちなみに、私は宿題には何一つ手をつけてないんだよー。ほら」
と、白紙のノートと何も手をつけられていないプリントを見せられる。わざわざそれを見せるために持ってきたわけじゃないでしょうに。
「はいはい、行きましょうか」
「いやー、助かるよー」
もしかして私の行動は見透かされているのだろうか。でも、宿題見せてあげるなんて一言も言ってないんだけどね。予定外のことだったけれど、部活さえ終わってしまえばみちるの存在は心強い。
今なら、なおさら。
部員たちに挨拶をして、部室をあとにする。部長と呼ばれて引きつった笑い方しかできなかった。
校外に出ると、より一層の暑さが襲いかかる。日射しを遮るものは何ひとつとしてなかった。車が横を通り過ぎるたびに、息を止めたくなるような熱風が鼻先をかすめる。
「いやー、暑いねー」
全然暑そうにしていないみちるを恨めしく横目で見ながら、そのさらさらの髪に気付いた。真っ黒だから、それはそれは熱を吸収しているものと思って、興味が沸く。
「ね、ちょっと髪の毛触ってもいい?」
「なんだい? 広げたところで日傘としての機能は果たさないよ?」
それもありかも、と一瞬髪の毛に埋もれてみようと思った。すぐに髪の毛が顔に纏わりつく姿が浮かんできて、断念する。下の方から髪の毛を持ち上げてみると、それなりに熱くて、でも驚くほどさらさらで、するすると手の平から逃げ出して行った。
「うわ、何これ」
「人の髪を触っておいて何これとは失礼な。それはキューティクル加工されたタンパク質だよ」
「ふぇ~、タンパク質すごいね~」
「……大丈夫かい? ちーちゃん」
みちるに心配されたことと、みちるが自分の髪の毛で私の鼻をくすぐっていたことで我に返った。
「ちょ、なに……くちゅんっ!」
「うっわ、何そのきゃーわいいくしゃみ。そんなところで男ウケ狙わなくてもいいのに」
「ね、狙ってないし!」
「さて、このちーちゃんの鼻水がついた髪をちーちゃんのファンはいくらで買うかな?」
「頭を丸刈りにしてやる!」
「冗談だよー。私だけの宝物にするよ」
「今すぐ刈ってやる!」
女同士って、案外こういうものなのです。
恥ずかしさで、さらに顔の熱気が増す。早く図書館に行きたくなった。みちるの髪の毛は、無理矢理ハンカチで拭いてやった。ついでに思いっきり引っ張っておしおき。結構本気で引っ張ったのにみちるは笑っていた。うう~、いつもいつもみちるは……。
図書館に行く前に、お昼をどうしようか考える。一人なら、コンビニで済ませようと思っていたけれど。みちるが一緒ならどこかのお店でお昼にしてもいいかもしれない。コンクールが終わるまで、あまりそういう時間はなかったし。
「みちる、お昼食べてく?」
「いいけど、今日はちょっと懐が氷河期でさ」
困ったようで、だけど期待の眼差しを向けられる。だから暑くても平気なんだね、という面白くない返しはしない。
「もう。いいよ、今日は出しといてあげる」
バッグ持ちに志願してきたみちるに苦笑で返事をして、目的地を一時変更する。それほど高いものは奢ってあげられないので、やはり向かう場所はファーストフード店。女子高生の頼もしい味方。道中、バッグはきちんと自分で持った。
某ハンバーガーチェーン店に着くと、さすがの夏休みらしく同世代の子たちで大盛況だった。二人分の商品を注文して、二階の禁煙席へ急ぐ。運良く窓際の二人席が空いていた。注文番号をテーブルに置いて、少し息を落ち着かせる。賑やかな声が飛び交っていて、それが今の気分と真逆なのでどこかいたたまれない気持ちになる。お腹の減り具合いと意見が合致して、注文が届くのをまだかまだかと待った。みちるは周りのことなどまるで気にする様子も見せず、緩い笑みを浮かべて窓から外を眺めていた。それがどこか絵になって、少し嫉妬する。みちるが大人びて見えたのだ。
「ん? どうかしたのかい?」
「あっ、ううん。なんでも」
「そんなに恨めしそうに見られても、今日のお昼代は返さないよ?」
「い、いいってばそんなの」
私の反応を見て、みちるがクククッと笑う。
「鶴になって恩返しでもしてみようかな、と」
逆でしょうそれは。頭の中に自分の髪の毛で織物を織っているみちるの姿が浮かんできて、全然笑えなくてがっかりした。いつも少しずれたことを言って人をからかうことが好きなみちるをからかうのは難しい。的外れなことを言われて必ず返されてしまうから。
「それで、ジョンとは最近どうなんだい?」
「ふぇっ? ど、どうって、何?」
「ちーちゃんが元気なかったのはコンクールの前からさ。はっきりと言えば、あの金髪さんとの一件から。ジョン絡みで悩んでることなんて、すぐにわかるよ」
たまに的の中心を狙って的中させてくるから、困ったものなのだ。
みちるにさえ、私の気持ちをはっきり言ったことはない。だけど、もうわかっているんだろうと、そう思う。だからあえて口に出さなくても通じ合うのだ。
私が真のことを好きだっていうこと。
それでも、それを肯定できないのが私なんだ。
「それはとっても素敵な勘違いだと私は思うのです。今の私の頭の中は宿題をどうしようかと考えを巡らせているのであって、決して真のことを考えているわけではないのです」
「そうかいそうかい。よくわかったよ。家にいるとジョンのことばっかり考えてしまって宿題がはかどらないから図書館に行こうと思い立ったと、そういうことだね」
「ナンノコトダカサッパリデス」
「実に単純な理由じゃないか。そういうところは、ちーちゃんも不器用なんだよね」
「不器用じゃないしっ、何のことだかさっぱりだしっ」
「はは、愛い奴愛い奴」
あ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~う~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~あ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。
「あーーっついなここっ! エアコン効いてないんじゃないの!?」
「すみません。ただいま省エネ中でして……」
ちょうど、スタッフの人が注文した品を持ってきたところだった。。
「……いえ、とっても涼しいです」
スタッフの人は、首を傾げながら少し不思議そうな顔をして戻って行った。
「あ~~う~~」
思わず頭を抱え込んだ。恥ずかしい。すごく恥ずかしい。暑いのに背筋が凍る。何だ、何だこれは。サッパリダ。
「ははっ、遠慮せず、いただきます」
人の気も知れず、みちるはハンバーガーにかじりついた。
「人から奢ってもらったものが一段とおいしく感じるのはどうしてだろうね?」
「知らないよ、そんなの」
「それはせっかく奢ってもらったんだから少しでもおいしそうに食べないとなっていう心理的現象から、実際にもおいしく感じてしまうわけさ」
聞いてないし。そんなわけないし。いや、でもあるのかな、そういうの。やっぱり、せっかくもらってもおいしくなさそうに食べたら失礼だもんね。言われてみるとたしかにそうなのかも。
「何を真面目に考えているんだか。そんなわけないじゃないか」
「んなっ!?」
も、もういい。みちるの話しをまともに聞いてたらダメだ。こうなったらやけ食い。さっさと済ませて図書館に行こう。
「ちーちゃんはね、真面目過ぎるんだよ。部長のことだって、そんなに気負うことなんてないのに」
口をもごもごさせながら、ハンバーガーを持つ手で指を差される。トマトが落ちそうになったので慌てて持ち上げさせた。
「気負うでしょ、普通。私は部長のこと頼りにしてたし、みんなだって、そうだっただろうし」これ、お肉に火通し過ぎー。
「だからって、ちーちゃんが同じように頼られる部長になる必要なんてあるのかい?」
「そりゃあ、部長だもん。しっかりしないとって思うし。やっぱり、なったからには幻滅されたくないし」
「ふーん。ちーちゃんは自分のことに関しては完璧主義者だもんね」
みちるは、手についたソースを舐めながらつまらなさそうに言った。
「何? なんかトゲのある言い方ー」
「いやいや、そういうわけじゃないよ。なるほどって思っただけさ。いや悪かったよ。部長に推薦しちゃって。少しでもちーちゃんのためになればと思ったんだけど」
目を細めて柔和な笑みを浮かべる。これは、みちるが自分の思ってもないことを口にしたときの顔だ。大体そう。この笑顔を見ると、少しだけ身構える。
「私のためって、私は困り果ててるんですけど。でも一応聞いとく。君の目的は、何だ」
虚勢を張った軽い芝居口調で、指差して問いかける。
「いいのかい? これを聞いてしまえばちーちゃんはどん底へ落ちると思うよ」
私のためにしたことでどん底まで落ちるって、一体何をしようとしていたんだろう。
「こ、心して、聞く」
みちるは「ふむ」と顎に手を当てて少し考えたあと、にこやかに言った。
「ちーちゃんの恋の悩みを、部長になるプレッシャーの悩みで上書きしようとしました」
「…………落ちた」
真っ逆さまです。何かと思えば、そういうことか。
「ただ悩みが二つになっただけだった」
「おっ、ということは認めるんだね」
……しまった。
どうにもみちるはその話題に突っ込みたいらしい。ああいいでしょういいでしょう。
「わかった。わかりました。認めます。たしかに最近、真と会ってないです。っていうか会わないようにしてます」
認めた途端に、みちるは優しい笑顔を見せた。急にそんな顔をされると戸惑ってしまう。からかわれているのか、真剣に悩みを聞こうとしているのか、わからない。
「なんとなくだけど、ちーちゃんの考えてることがわかるよ」
そうやってたまに、人を見透かしたようなことを言う。私って奴は、わかり易いのだろうか。
「あずあずには勝てないって思ってるんだろう?」
だからどうして、そう的確に言い当ててくるのだろう。良く言えば、私のことをよく見てくれているのかもしれない。
梓ちゃんは、すごい。とってもすごい。そして、羨ましい。あれほど自分の気持ちを素直に表現できたなら、どれだけ楽なことか。どんなことがあっても前に向かって行ける気持ちがあったなら、どれだけ楽しかったことか。
だけど、そう思うのは、ただのひがみだ。梓ちゃんは梓ちゃんなりの努力をして、それが、少しだけ報われた。何度向かって行っても全然相手にしてもらえないことが、辛くないわけがない。悩まなかったはずがない。自分にできなかったことをあっさりとやってのける梓ちゃんが、ただ羨ましいだけ。
「梓ちゃんって、すごいよね……」
「うん、すごいね」
「どうしてあそこまでできるんだろう」
私があの時、梓ちゃんの代わりにシンシアさんの前に立っていたとしたら、同じようなことができただろうか。
できたよ。
だって真のことが好きだもん。
そう思うのは簡単。実際のところは、自信がない。
あの時、私は動けなかった。どうにかしなきゃと思っていたのに。動けなかった。あの場所に、私は立ってはいけないのだと、そう思ったから。思わされてしまったから。真と、梓ちゃんの二人に。
「ちーちゃんとあずあずは違うよ」
違う。たしかに違う。私は、梓ちゃんのようにはなれない。
もはやハンバーガーを食べることも忘れ、ひたすらに考え始めてしまった。これじゃあ、家にいようと図書館にいようと関係ない。みちるはとんでもないことをしてくれた。恨むぞ親友。
「ちーちゃんはジョンの幼馴染だからね」
幼馴染、か。
「そうゆう違い、なのかなぁ」
「ジョンと一番長い時間を過ごしてきたのは、誰が何と言おうとちーちゃんさ。だから、ジョンとの関係が今と変わってしまうことを一番怖がるのも、ちーちゃんなのさ」
私が素直になれないことをわかってて言ってくれてるのか。
「……もしかして、慰めてくれてる?」
「私がちーちゃんの悩みを増やしてしまったからね。その一つが少しでも軽くなればと。今日はそのためのレクリエーションだよ。みっちーの粋な計らいさ」
何だそれ。私は、一つ小さく笑った。
「宿題のためでしょ?」
「ふっふーん。みちることみっちーを侮ることなかれ」
みちるは、鞄から部室で見せてもらったまっさらのプリントを取り出した。まっさらだったはずだった。だけど、そのプリントの回答欄は、全てきれいに埋められていた。やっていた宿題を、やっていなかったことにしていた。みちるは無理矢理に、私と一緒に図書館に行く理由を作っていた。
「何それ。わざわざそういうことまでする?」
「手の込んだ、ちーちゃんの高感度を上げる作戦」
にんまりと笑ってみちるは言う。
「はいはい。うなぎ登りですよ」
まったく、困った親友だ。
「どうでもいいけど、みっちーとちーちゃんを合わせるとみっちーちゃんだよね」
本当にどうでもよかった。
「前にね、ジョンが言ってたんだ。あずあずは太陽みたいな奴だって」
太陽、か。その通りだな。明るくて、眩しい。眩し過ぎるくらいに。そんな梓ちゃんを見ていると、私の気持ちは溶かされてしまいそうになる。
「ちーちゃんは、言わずもがなチカチカ豆電球」
「ま、またそれ。慰めておいて落とす気か」
「私にはちーちゃんの悩みを解決することはできないよ。でもね、今日は一つだけ言いたかったんだ」
また何かもったいぶった言い方をする。私の親友は、こういう趣向が大好きなのだ。
「太陽ってさ、どれだけ手を伸ばしても届かないよね。でも豆電球はすぐ近くにある。いつでもそばで、照らしてあげることができるんだ」
…………何だ。
「それを言いたかったの?」
「うん」
「それだけのために? わざわざプリント用意して?」
「うん」
「……あっはははっ! 馬ッ鹿みたい!」
私は、声を出して笑った。たった一言を言うために、これだけ回りくどいことをしでかしたみちるのことを、すごく馬鹿で、面白い子だと思った。そして、よく意味がわからないけれど、心に染みた。
「はははっ、面白いだろう? 昨日、寝らずにさっきの台詞を考えたんだ」
「うん。いいよ、それいい。そっか、私は豆電球かー」
みちるはとても満足そうだった。みちるは、どうしようもなく友達思いなんだと、親友としての認識を再確認した。
なんとなく、心のもやが一つ取れたのも、たしかだった。それは、一つの自信と呼べるものかもしれない。小さい、本当に豆粒のような光が、私の自信になる。
私と真くんは、少し大きくなった。二人とも小学生になったんだ。
いろんな保育園やようち園から来たともだちがふえて、いじめられることも少なくなった。でも、真くんとは同じように遊んでいた。今日も、いつもの公園で真くんとふたりで遊んでた。
「ははっ、千佳おっそいぞーっ!」
「ま、まってよーっ!」
今日はおにごっこをしていた。真くんとふたりだけのおにごっこは、いつも私がおに。だから、あんまりたのしくない。たまにおいついても、すぐにタッチされてまたおにになる。
そのうちに、私がつかれちゃって、おにごっこはおしまいになった。
「はぁっ……はぁっ……真くんずるいよー」
地面にすわってきゅうけいしていると、真くんもよこにすわった。
「お前がおそいからだろ?」
「そんなこと言われてもー……」
その日は、もうかえりたいと思ってた。真くんばっかりたのしそうで、つまんないから。もっと、私はブランコとか砂場で遊びたいのに。
「もう私かえるー」
「なんだよ、つまんないなー」
私がつまんないもん。
そうやって、かえろうとしたときに、女の子が公園に入ってきた。私よりも小さい女の子だった。
「なんだ? あいつ?」
真くんもその女の子にきづいて、ふしぎそうなかおをしていた。女の子はひとりぼっちで、泣きながら入ってきたから。
「おともだちとけんかしちゃったのかなー?」
「しっかたねえなー」
そう言いながら、真くんは立ち上がっておしりのすなをはらいおとした。
「えっ、えっ? なにするの?」
「なにって、あいつ一人なんだからいっしょに遊んでやろうぜ」
「えっ? え~~~~っ」
私、知らない人と話すのがにがてなのに。いやだな。知らない子と遊ぶなんて。
「おれたちの方が大人だからな。えすこーとしてやろう」
えす……? なに?
真くんは、一人でその女の子のところに行ってしまった。私も、いやだったけど、あとから真くんのあとをついて行った。
「お前、名前なんていうの?」
すごいな真くん。しょたいめんなのに。真くん、ともだちいっぱいいるもんな。
女の子は、何も言わないで、だまったままだった。泣きやんだけれど、ずっと下をむいている。髪の毛が長くて、お人形さんのような女の子だった。
「ま、いいや。ほら、いっしょにあそぼうぜ」
真くんは、女の子の手をにぎって、ごういんに砂場の方につれて行った。
いいなぁ。
私も砂場で遊びたい。でも、あの子がいっしょだからいやだな。
「千佳ー。お前も来いよー!」
これなら、しかたない。呼ばれたなら行かなくちゃ。知らない女の子がいてもしかたないよね。
砂場に行くと、真くんはおままごとのじゅんびをしているようだった。まだ手はにぎったままで、上手に砂でおだんごを作っていた。女の子は、すわってただ見ているだけだった。
真くんを取られたみたいで、ちょっとだけむっとした。
「わ、私も作るー」
真くんのよこにすわって、おだんごをひとつ、もうひとつ作った。真くんが女の子のまえにならべていたから、私もそこにならべた。
「は、はい、どうぞ。めしあがれ」
私はおままごとのつもりで、女の子にそう言った。すると、女の子は本当に、砂のおだんごをひとつ口にいれてしまった。
「ば、ばかっ! 何やってんだよ!」
真くんがあわてて、女の子の口から吐き出させた。
「……ぺっぺっ。めしあがれって、言ったから」
女の子が、やっとしゃべった。でも私は、そんなことよりも、どうしていいかわからなくておろおろしていた。
「えっ、あ、私、そういうつもりで言ったんじゃ……ご、ごめ、ごめんな、さい……」
女の子は、ぺこりと小さくおじぎをした。
「……いいです。わたくしが、遊び方を知らないだけですから」
「ばか。食べるふりをすんだよ。ははっ。お前おままごとも知らないのか? おっもしれーやつ」
「ま、真くん、そんなこと言ったらだめだよ」
「……いいです。……嬉しいから」
うれしい? やっぱり、ちょっと変わった子。
「来いよ。口の中洗おう」
真くんはまた女の子の手を引いて、水道のところにつれて行った。見ていると、真くんはまるで女の子のお兄ちゃんみたいだった。口を洗って、自分のシャツで口をふいてあげていた。あゆみちゃんがいっしょにいるときも、ああやってお兄ちゃんしてるもんな。ちょっとうらやましい。
砂場でひとりすわっていた私のところに、二人がもどってきた。女の子は、またぺこりとおじぎをする。
「神宮寺……梓。わたくしの、名前です」
名前、あずさちゃんっていうんだ。
「おう。おれは来栖真」
「あ、わ、私は笹野千佳」
そして、またあずさちゃんはぺこりとおじぎをする。あずさちゃんはれいぎ正しい。
「じゃ、お前はもう友達だな!」
真くんは、にっかり笑ってあずさちゃんのあたまをよしよしした。そして、あずさちゃんも少しだけ笑った。
「あ、あの、わたくし、お嫁さんが、いいです。あなたは、すごくいい人、だから……」
そしてびっくりすることを言った。
「お嫁さんか……。じゃあおれがお父さんでお前がお母さんな。いいぞー」
「えっ!? ええええぇっ!?」
「何だよ千佳」
「だ、だってお嫁さんって……!」
それって、将来けっこんしちゃうってことでしょ!?
「だ、だめだよっ」
私は真くんとあずさちゃんを何回も見た。あずさちゃんは、とてもうれしそうだった。
「何で? いいじゃん別に」
「だって……。うっ……ふっ……ふぇっ……」
「なっ!? お、おい、なんで泣くんだよ!?」
真くんのお嫁さんは私なのに。私が真くんのお嫁さんになるのに。
「梓っ!」
泣きそうになっていたら、大人の人が公園に入ってきた。入口のところには大きくて長い車がとまっていた。
「あっ、パパ……」
「お前のお父さん? なんだ、お前迷子だったのか?」
あずさちゃんのお父さん、らしい。なんか、すごくかっこいい人だった。でも、ちょっとこわい。
「探したよ、梓ちゃん」
あずさちゃんのお父さんは走ってきて、あずさちゃんの手をにぎった。
「君たち、梓と遊んでくれてありがとう」
あずさちゃんは、急にムスッとしてしまった。でも、お父さんに手を引かれて、だまってついて行った。お家に帰らないといけないんだ。
「また遊ぼうなーっ!」
真くんは手をふって、あずさちゃんを見送っていた。私も、つられて手をふった。でも、お嫁さんにしてほしいなんて、私はあの子が嫌い。
あずさちゃんは、こっちを見ないままで、車に乗って帰った。
「ま、真くん、あずさちゃんが好きになったの?」
「は? んなわけないじゃん」
「え? だってお嫁さんにするって」
「ばかだなお前。あれはおままごとしようって言ってたんだよ。それくらいわからないと大人になれないぞー」
う、うわぁ……。
「……真くん、おとめ心をもてあそんだね」
真くんが女たらしだっていうことがわかりました。
やっぱり、真くんのお嫁さんは私しかいないよね。
「真くん、私を本当のお嫁さんにしてね」
「え? やだよ」
「な、なんで!?」
「だってお前、足遅いし、頭悪いし。おれのお嫁さんになる人はすっげー美人で頭も良いんだぜ?」
「う~~……じゃ、じゃあ、わ、私が頭すっごく良くなって、足も速くなったら、結婚してくれる?」
「おれより頭良くなって足も速くなったらなー。それに、いじめられないくらいに強くなれたらなー」
「う、うん。が、頑張るもん。絶対だからね!」
そうゆう、約束をした。
結局、みちるは図書館までついてきた。
「やれやれ、何度見直したところで、ちーちゃんは全問正解だよ」
みちるは宿題をする気なんてさらさらなかったようで、暇そうに昆虫図鑑を広げていた。見ているページはカブトムシ。夏休みらしいからと、そういう理由のようだ。
私は宿題のプリントを一枚終わらせて、間違いがないか確認作業に移っていた。
「思い込みで間違いを正解だと思ってる時もあるからね。慎重に」
「いちいち完璧主義だね。だから恋にも慎重なんだよねちーちゃんは」
「邪ー魔ーすーるーなー」
「カブトムシとクワガタ、どっちが好き?」
「邪ー魔ーすぅるぅなぁ」
「自由研究のテーマはちーちゃん観察日記にしよう」
「昆虫採集にでも行ってきなさい」
「嫌だよ。暑いし」
「何なのよもう~~~~」
「暇なんだよ~」
帰ればいいのに。帰って宿題でもしてればいいのにっ。
「学年トップに君臨するのが夢なのかい?」
みちるは、困ったように溜息をつきながら言った。
「そういうのは別に。成績は良い方がいいでしょ?」
「まあ、それには概ね同意するけどね」
それは、みちるにだって秘密の、私が幼い日に交わした約束。
私しか覚えていない、私だけの約束。
何をやっているんだろうと、たまに思う。だけど、あの約束があったから、私は頑張ってこれた。成績は良くなって褒められたし、運動部からの勧誘だっていくつもあった。自分の性格だって直すように頑張ってきた。いじめられないように明るく振る舞って、人見知りもしないようにしてきた。でもそのおかげで友達もできたし、学校が楽しくなったこともたしかなんだ。
私すごい。
とてもすごい、馬鹿。
何のために頑張っているのか、私自身がわかっているのだろうか。
これは、終わりのない努力。
約束は私しか知らない。だから約束が果たされることもない。
私の恋心は、ずっと前から変わっていない。多分ずっと変わらない。いつか、私も梓ちゃんのように報われる時が来るのだろうか。ううん。そんなの、来るわけない。誰にも伝わることのない努力をして、何もしていないのは私だから。わかってもらおうとするだけじゃ、ダメなんだ。
だけど、それは私にとってとても難しいことなんだ。いつも本心を隠してきた。本当は、人と話すことは少し苦手。結構、ネガティブ。罵られるのが、嫌われるのが怖くて、人に気を遣い過ぎる。疲れることもしばしばある。
だから、梓ちゃんはすごく眩しい。私にないものをいくつも持ってるから。
きっと、同じくらい努力している自信はある。そこは同じで、他が負けてるから、きっと、勝てないなんて思ってしまうのだ。
「あ、あの、ちーちゃん。今日のところは私が悪かったよ。だから泣かないでおくれよ」
「えっ!? うそっ!?」
みちるに言われて初めて気がついた。私はそのまま、机に顔を伏せる。泣き顔なんて、かっこ悪い。
でも、どうしてだろう。こうしてると、どんどん泣けてくる。不思議なくらいに、泣けてくる。
「ふっ……ぐすっ……みちるのせいだ……みちるがいろいろ言うから……」
「うん……」
「……ごめん……ごめんね……」
「うん、いいよ……」
それから、すぐに図書館をあとにした。どちらからでもなく、帰ろうと言い出した。
日が少し傾いていた。それでも暑い。まだまだ暑い。日射しが目に染みた。
みちるからいつもの軽口が出るわけでもなく、ただただ無言で歩いた。申し訳ないと思いながらも、何も話すことは思い浮かばずに、自分のことで精一杯だった。
駅前の通りで、二人の影を見つけた。
昔から良く見ていた顔と、少し雰囲気が変わった女の子。
私は、その場に立ち尽くしてしまった。
「ち、ちーちゃん。道変えよう?」
ほんの少しの勇気があれば、あの場所に立っていたのは私かもしれなかった。
どんな努力よりも必要だったのは、勇気。私の、嘘偽りのない気持ち。素直さ。
それがなかったから、私はここにいる。
あんな約束なんてするんじゃなかった。
あの約束があったから今の私がいる。
あの約束のために私は頑張ってきた。
あいつはそんなこと覚えていないのに。
忘れてしまって、仲良さそうに腕を組んで歩いている。
どうして覚えてないの……?
自分よりも頭がよくなったらってあいつは言った。真が言ったんだ。
断然私の方が上だ。
自分よりも足が速くなったらってあいつは言った。真が言ったんだ。
本気で走れば負けない。
なのに、なんであいつはこんな暑い中で所構わずいちゃいちゃしてるんだ。ちょっと相手が違うんじゃないの?
私だって少しは気が強くなったんだ。いじめられるどころか、今やモテモテ。あんたのために頑張ってきたんだ。いや私のためか。どっちでもいいや、そんなこと。
「みちる」
「あ、うん」
「ちょっと真の頭をはたきたくなってきた」
「えっ?」
「行ってくる」
「何か、今日一日でちーちゃん観察日記の大半を埋められそうだよ。ま、行ってらっしゃい」
親友が、私の背中を押す。
素直になれないことは、きっといつまで経っても同じだ。出せるとしても、これくらいの勇気だけ。
私は、二人の影に向かって駆け出した。
そして、大きい方の頭を、思いっきりはたいてやった。
「いっで!?」
「ち、千佳先輩!?」
前につんのめった真と、私を驚いた顔で見る恋のライバル。として勝手に認定した梓ちゃん。
「ち、千佳? いきなり何しやがる!」
真は頭をさすりながら涙目で私を睨んだ。ざまあみろ。いい気味だ。ただの八つ当たりですけどね。
「真こそ、公衆の面前でイチャイチャするんじゃないわよ」
「千佳先輩! 梓の婚約者に何てことするんですか!」
「婚約者~? まだまだ梓ちゃんは子供なのに。こんなとことか」
梓ちゃんの、ささやかな胸を揉みしだく。
「ひっ、ひいいぃ。せ、先輩! 千佳先輩が変です! 大変です! 大変態です!」
言ってやろう。
小さな勇気を振り絞って、精一杯の嫌味を込めて、
「真、私って変わったでしょ?」
夏は、人にいろんなことを思い出させる。