エピローグ
翌朝、真と梓はビーチへ向かっていた。
今日はこのバカンスの最終日で、実質何かできる時間はなく、残すものは帰ることのみだった。
二人がビーチへ降り立つと、そこには待ち受けている人物がいた。
真と梓は呼びだしを受けてここにやって来たのだ。
「何だかな。最後までかって感じだよ」
真は先を見据えながら、向かって言った。
視線の先に立っていたのは、シンシア、みちる、そして千佳だった。
「最初から最後まで、ですわ」
千佳を中心として左右にシンシアとみちるが立ち、シンシアが腕を組みながら言う。
真は大きく溜息をつき、三人に順に視線を送る。
「何となくだけど、これでわかった気がするよ。千佳と倉敷さん、二人も最初っから……」
その言葉に飛びつき答えたのが、みちるだった。
「いやー、彼女には感謝してるんだ。私ができなかったことをしてくれたからね。今回の旅も楽しかったことだし」
みちるの口振りに要領を得ない真だったが、気が付いたのは、千佳のしている格好だった。
「今度は何だ? 千佳」
千佳の格好は、オレンジ色のタンクトップに白い短パンという、さながら陸上部のような風貌だった。
ここに真と梓がやって来てから、千佳は力強く二人を見つめていた。決意をたぎらせ、気合いを入れ、気持ちを絶やさないように。
千佳は一つ「ふっ」と小さく息を吐き、固く結ばれていた唇を緩めた。
「先に謝らせて。いろいろとごめんなさい、真、梓ちゃん」
「んあ?」「はい?」
「いろんなこと。二人の邪魔しようとしたこととか。他にも、いろいろ。ごめんなさい。でもやっぱり私、これだけはやっておかなくちゃならないの。遅過ぎたのかもしれないけれど」
「何だよ」
「勝負して欲しいの」
そこで梓が、身を乗り出す。
「受けて立ちます。もう、梓も逃げませんから。短距離ですか? 長距離ですか?」
梓には確固たる自信がついていた。それは昨夜の出来事があったからだ。初めて真の気持ちを聞いた。安心することができた。不安はなくなった。逃げ出す必要なんてない。真っ向勝負なのだ。
「違うよ」
「じゃあ何ですか。ビーチフラッグでも何でも――」
「違う、私が勝負して欲しいのは、真」
「えっ?」「えっ?」
真と梓はお互いに顔を見合わせて小さく驚いた。
これまでの千佳は何かと梓と競い合ってきた。今回も当然、千佳の相手は梓だと思っていたからだ。
「お、俺か?」
「勝負は100m走の一本勝負。真剣勝負で」
「何で俺が」
真は戸惑いを隠せなかった。ある程度の心構えはしてきたつもりだった。あの出来事を起こした千佳から呼びだされたのだ。何かあるものだと思っていた。しかし、こういう勝負だとはまるで思い描いていなかったからだ。
「お願い、真」
千佳は強く真を見つめる。
「……わかった。やるよ、やればいいんだろ。しっかし、準備万端だな」
そこで千佳はようやく表情を綻ばせた。
「陸上部の子に借りてきたの。実はずっと前に部活の勧誘受けてたんだよね。私が陸上部に入る気になったと思わせちゃったみたいで、少し悪かったけど」
これは千佳なりの挑発だった。自分の実力を誇示しているのだ。それを聞いて、真は気を引き締める。だけどそれでも、どこかに余裕があった。自分が千佳に負けるはずがない。男が女に負けるはずがないと思い込んでいたのだ。
勝負の舞台はビーチの脇にある遊歩道。この島においてジョギングコースにもなっている見通しの良い一直線の道だった。
スタートの合図を切るのはみちる。そしてゴールラインにはシンシアと梓が立っていた。
真と千佳は、入念にストレッチを行っていた。
「ったく、朝っぱらから走らせるなよ」
「いいでしょ。運動運動。さっきも言ったけど、真剣勝負だからね」
「はいはい、わかってるよ」
「タイムは計らないから。速かった方が勝ち。それだけだよ」
「わかったわかった」
そして二人はスタートラインについた。
「これって、どういう勝負なんだ?」
「私が勝ったら教えてあげる」
「何だよそれ」
クラウチングスタートの構えを取る。
みちるが、スッと右手を掲げた。
「よーい……」
誰もが、幼い頃から今までに、感銘を受けた言葉や印象に残っている言葉などがあるだろう。そういう出来事があるだろう。何気ない一言が、些細な言葉が、人の人生を左右することすらありえる。バタフライ効果とまで言えば大袈裟かもしれないが、一つの挨拶の言葉だけで救われる人がいるかもしれない。ただの雑談が人の生き方を変えさせるのかもしれない。
千佳にとってはそうなのだ。他人がいかに雑談だと言おうとも、些細な口約束だと言おうとも、その雑談が、小さな約束が、今まで彼女を支えてきたのだ。
「スタートッ!!」
真と千佳はほぼ同時にスタートを切った。スタートダッシュは五分五分で、勝負は均衡するものと見えた。
勝負は一瞬の出来事だった。
少し差がついたと思えば、それからはその差が広がるばかりだった。時間にしてみれば一秒にも満たない差であったろう。しかしその差が思いの差だった。十年間の思いの差だった。この日のために、こういう日が来るときのために、頑張ってきたのだと、胸を張って言える結果だった。
先にゴールラインを割ったのは千佳だった。ゴールラインで待っていたシンシアと梓の前を先に横切ったのは千佳だった。
最後の最後まで駆け抜けて、勝った。
証明した。
千佳は自分が真よりも足が速くなったと、この時に証明したのだ。
息を整えていた千佳のところに、僅かに遅れて真が到着し、肩で息を整える。シンシアと梓も、二人を囲むように歩み寄ってきた。
「ま、まいった……っ!」
「ハァッ……ハァッ……ど、どう? 真」
「ああ、速くなったな、お前」
その瞬間、真の言葉を聞いた瞬間に、千佳の目から涙がぽろぽろとあふれ出した。
「うっ……ひっ……うんっ、うん……っ! 私、速くなった……っ!」
「ちょっ、おまっ、おいっ」
相変わらず、こういうことは慣れない。ここ最近で女子を泣かせることを特技にしてきてしまった。泣かせるだけで、その後どうすればいいのかはわからない。何も成長していない。
特に千佳についてはいつまでもそうだ。真には千佳の涙の理由がわからないのだから。ただ、真だけではなくこの場にいる誰もが、千佳の涙の理由はわからなかった。シンシアですら、この舞台を整えただけだったのだから。
仕方がなく、千佳が落ち着くのを待った。その間にみちるが駆け寄ってきて、事態を把握しようとみなの顔を窺っていた。
「ぐすっ……。ゴメンね」
誰も何も言わなかった。黙って、千佳が話し出すのを待っていたのだ。聞きたいことは同じだった。この勝負は何だったのかと。
「真……」
千佳の視線は、言葉は真だけに向けられたものだった。
「この前さ、小さいころ、梓ちゃんに会ったことがあるって言ったの、覚えてる?」
「あ? あ、ああ」
そこで梓がたまらず、言葉をねじ込んで来た。
「覚えていたのですか? 千佳先輩」
「うん。忘れない。忘れられるわけないよ。梓ちゃん、真のお嫁さんにして欲しいって言ったよね」
「あぅ……、そ、それは……。……はい、言いました」
「忘れないよ。だって、私も真に言ったんだもん。お嫁さんにして欲しいって」
戸惑ってしまうのは梓だけではなかった。真もまた、困惑した表情で千佳を見つめた。
「覚えてないよね?」
「……ああ、悪い」
真は、これから千佳にどういったことを言われるのか想像できていた。それはおそらく、この場に来る前から想像できていた。逃げ出したいと思った。それでも、きちんとけじめはつけるべきだろうと、梓を安心させてやるべきだろうと、この場へやってきて勝負を受けたのだ。
ただ、真が思いもよらなかったこと、それは千佳の思いの大きさだった。
「その時にね、真にフラレちゃったの。私は頭悪くて、足が遅くて、いじめられっこだからって」
「ひ、ひどい奴だな」
「でね、私言ったんだ。私がすっごく頭良くなって、足が速くなったら結婚してくれるのかって。そしたらね、真はしてくれるって言ったの。真よりも頭良くなって足も速くなって、いじめられないくらいに強くなったらって。そんな、そんな――」
「約束、したんだ」
約束。
真はようやく合点がいった。千佳が散々言っていた約束というのがそのことだったのだと。結婚して欲しいと、子供同士のままごとの約束。
真は言われた今でも思い出すことができなかった。ただ、『約束だよ』と誰かが言っているような気がしていた。思い出してきたのはそれだけだった。
「そんな、子供の時の約束なんて……」
「そう。すぐに忘れてしまうような、ただのお喋りの中で交わしたような小さな約束だよ。でも、私には大きな約束だったの。私が真の成績追い越したの、いつだったか覚えてる?」
「いや……」
「中学一年生の時。私がいじめられなくなったのっていつだったか覚えてる?」
「……いや……」
「小学校二年生の時。じゃあ、私が真よりも足が速くなったのって、わかる?」
「…………」
「今だよ。それがわかったのは、今」
「お前……」
「私にはその約束だけだった!!」
千佳は叫んだ。
今まで抱えてきた思いをぶつけるために。
十年間の思いを今ぶつけるために叫んだ。
「私が必死に勉強したのだって、必死に走っていたのだって、人見知りをしないようにしていたことだって、全部、その約束のためなんだよ」
真は初めて知った。
幼馴染が今まで秘めてきた思いを。
ただ頑張る奴だと思っていた。何だか明るくなったと思っていた。しかし千佳をそうさせてきたものは、幼いころに交わした約束だった。
「あの時からずっと今まで私は頑張ってきたんだ。私は変われたよ。それを真に見て欲しかったんだ」
真はもう何も言えなかった。
何も知らずに幼馴染のことを見てきた。だんだん変わっていく幼馴染のことをすごい奴だと、そう思っていただけだった。その幼馴染は十年もの間たゆまぬ努力を続けてきたのだと言う。
それは全部自分のためだった。
何も言えるはずがなかった。
「やっと伝えられる」
千佳はまっすぐに真を見つめた。
長かった思いを、十年間の思いを、ようやく解き放つ時がきたのだ。
涙が込み上げてくる。立っていられないくらいに震えている。
だけど、それでも笑って――
「あなたのことが好きです」
(了)
しゃーむです。
初めましての人も、前作よりお付き合いしてくださっている方も、ここまで読んでくださってありがとうございました。
えーと、何と言えばいいのか、すいません。
いろいろとやっていた結果ぐだぐだになってしまった気がします。
本当に申し訳ないです。お目汚ししてすいません。
とまあ気を取り直して、今回のラストがこういう感じだったので、次回に繋がります。まだまだ三角関係には終止符がつきません。
どうなるんですかねぇ、これから三人はどうなるんですかねぇ。
わかりません。本当にわかりません、ごめんなさい。
ただ次回はいろいろと変なことはやらず、今まで通りの『お嬢様のフーガ』をお届けしようと思っています。
今回は完全に失敗しました。収拾つかなくなりました。
これに懲りずにまたお付き合いいただけると幸いです。
それではまた次回お会いしましょう。




