不安
「おはよ、真」
千佳といえば、朝から顔を合わせた時にはいつもとなんら変わりのない様子だった。
「お、おう。……よく眠れたか?」
「うん、ばっちり! ベッドがふっかふかだったからねー」
と清々しい笑顔を見せて、あっけらかんとした態度だったのだ。俺の方は朝から千佳の顔を見るなり逃げ出したくなった。
たしかに、キスされたのだ。
夢じゃない。
「ぜ、ぜんばい……」
「あ、おう悪い悪い」
昨晩、部屋に逃げ込んで、俺はそのままベッドに潜り込んだ。何を考えていたのか、何も考えていなかったのかもしれない。寝てしまおうと思ってもなかなか寝付けずに、梓が目を覚ますのを期待して何度も梓の様子を窺っていた。
その梓は、夜中に突然目を覚ましたかと思えば、トイレに駆け込んだ。そして聞こえてきたのは聞きたくもなかった美少女の『おぅえ~~』という苦しげなうめき声だったのだ。つまり、梓は酒に悪酔いしてしまったのだった。トイレで吐くだけ吐いたあとに『キスしましょう』と言われた時には本気で拒んだ。梓からも逃げ出したくなった。
そして梓は現在、絶賛二日酔い真っ最中。俺が肩を貸してやらないと歩けないほどによろよろだった。
どうやら、この二日目は梓の世話でつぶれそうだ。本当に余計なことをしてくれたものだ、シンシアさん。
ただ、今日はプライベートビーチが使用不可能ということなので、ゆっくりとこの島でも見て回ろうと思っている。なんでも、シンシアさんが計画している催しとやらがビーチで開催されるとのことだ。時間は夜で、それの準備のために立ち入らないようにとのこと。何をするつもりかは知らないけれど、過度の期待は持つまいと、それだけは思っていた。
みんなで朝食を済ませ、これからのことを相談する。
「あー、俺はこいつがこの調子だから、梓とその辺をぶらぶらしてるよ」
梓の状態を朝一から見ていたみんなは納得の様子だった。梓は朝食もフルーツだけだったし。
みんなも梓の様子が心配だったようだけれど、せっかくの旅行で気を遣わせることも忍びないので、それぞれ好きなように過ごすように俺は言った。
それに対して一番つまらなさそうにしていたのが優子さんだ。彼女の目的らしきものは梓みたいだったからな。裕也が遊びに誘ってはいたけれど、それを無視するように優子さんは倉敷さんのお供に志願した。あゆみと道寺くんは相変わらず。これについては俺ももう何も文句は言えない。
シンシアさんは今夜の準備があるようで、今朝は姿を見ていない。
そして千佳は、倉敷さん、優子さんと共に島を見て来ると、そう言った。昨日までの様子だとまた絡んできそうだったけれど、俺にとってはありがたいことだった。
『思い出して』
みんなの背中を見送り、昨夜のその言葉を、思い出す。
そう言われて、千佳からキスされたのだ。
中学時代や、一年前、小学生の時にだって、千佳とのキスにまつわるエピソードなんか記憶にない。キスなんて、小学生の時だって衝撃的だと思うし、忘れることなんてないと思う。
思い出させようとしている。千佳は昔のことを俺に思い出して欲しいと思っているのだ。きっと、そうだ。
いろんな思い出がある。千佳との間には数えきれないほどの思い出がある。ただ俺の頭の中に強く残っている思い出なんかは、これといって、今の千佳の様子には関係ないと思う。ひどく怒られたとか、家族で遊びに行ったとか、ケンカして泣かせた時や、千佳がいじめられているのを助けた時、小学生に上がった時や卒業した時、その程度のことだ。ぼんやりと覚えていることも合わせると、もういつの頃の話しだかわからない。一体何を、思い出させようとしているのか。
「先輩、いいんですか?」
俺と同じくみんなを見送った梓が肩にしがみついたまま申し訳なさそうに言う。
「気にすんな。少し部屋で横になるか?」
「そ、添い寝は?」
「調子に乗んな」
梓の頭を小突いて、それでふらついた梓を支えて部屋に戻る。
部屋に戻り、梓をベッドに寝かせると、すぐに心地良さそうな溜息をついた。
「先輩が看病してくれるなんて初めてで、ちょっと嬉しいです」
「お前が体の調子崩してるとこ見るのが初めてだからな」
「健康じゃないと、先輩との元気な赤ちゃんを産めませんから」
「そういうこと言えるなら、随分と調子取り戻してるみたいだな」
「少し、楽になりました」
「水でも飲むか?」
「えへへ。はい」
梓は水を飲んで落ち着いたのか、目を閉じてひとつ寝返りをうった。俺はベッドの横に椅子を引っ張ってきて、そこに座る。寝てはいないだろうけれど、梓は何も喋らずにそのまま横になっていた。
看病と呼べるものじゃなく、俺はただ横に座っているだけだった。それが、俺と梓の午前中の過ごし方だった。せっかくの旅行だけれど、いつもと変わらない俺と梓だったけれど、なんだか落ち着いて、悪くないと思ってしまう。
昼食の約束は特にみんなとしていなかったため、梓のタイミングでレストランに向かった。
レストランにはあゆみと道寺くん、それに裕也がいた。せっかくなので、五人でテーブルを囲む。裕也に何をしていたのか聞くと、すぐに愚痴が返ってきた。
「目が見えなくちゃロクに出歩けもしないんだよ。まったく困ったことをしてくれたものだよ」
可哀想な裕也だった。
眼鏡屋なんてさすがにレジャー目的の島にはないのかな。探してみるのも面白そうだけど。
「具合は大丈夫? 梓お姉ちゃん」
「ええ。だいぶ良くなりました。お二人は何をしていたんですか?」
あゆみの頭を撫でながら、梓が言う。
それは俺も気になるところだ。俺が見ていないところであゆみと道寺くんはどうやって過ごしていたのか。
「遊園地があったから行ってみたんだけどー」
ああ、そういや観覧車とか見えてたな。
「わたしと道寺くんの他には誰もいなくってー、寂しかったから帰ってきちゃった。でもちょっと遊んできたよー」
「あはは、そうですか。遊園地に二人っきりはたしかに寂しいかもしれませんね。でもねあゆみちゃん、たとえばそれが夜なら、素敵なデートスポットになるんですよ? きみのために貸し切ったよ、なんて、ロマンチックじゃないですか?」
それができるのはお前ら金持ちだけだ。
「えー、そうなんだー。じゃあ道寺くん、今度は夜に行こうかー」
あゆみが道寺くんに笑いかける。兄の俺でも和んでしまいそうな笑顔だった。しかしそんな誘いを兄の目の前でするなんて、お兄ちゃんは心配で仕方がないぞあゆみ。デートスポットなんだぞ? デートだぞデート! たしかに部屋の中じゃないけれども。俺が口出しできる範囲じゃないけれども。
「あはは……あ、あゆみちゃん、お兄さんの前でそういうのは言わない方が……」
ふん、良くわかっているじゃないか道寺健介。
しかしな、
「貴様、誰があゆみを名前で呼んでいいと言った?」
「ひあっ、い、いえ、そう呼んで欲しいと、い、言われまして……」
俺があゆみを見ると、あゆみはぷいっと頬を膨らませた。
「だってお兄ちゃんも来栖だもん。わたしも来栖だもん」
「えーっ……」
それはそうだけど。
ふっ、可愛い奴め。それだけで特に深い意味がないのなら、許してやらんでもないか。あゆみは『道寺くん』って呼んでいたしな。
「ああー、羨ましいなー、羨ましい羨ましい。僕はきみが羨ましいよ」
裕也が嫉妬の眼差しを道寺くんに送る。道寺くんは苦笑で返すしかないようだった。
「今からでも三人を探しに行けよ」
と俺は言う。
「そうしたいのはやまやまだけど、どうせ相手してもらえないだろうさ。倉敷さんは千佳にべったりだし。優子さんは彼氏いるし」
「なんだお前、知ってたのか」
「ふふん。聞いたときは僕も驚いたよ。短い時間だったとはいえ、デートしてくれたあとだったからなぁ」
「まっ、お前本当かよ! やるな裕也!」
裕也がデートまでこぎつけるとは、驚いた。思わず声を上げてしまう程には。
「そ、そうかい? ちなみに告白までしたんだよ」
裕也は気分を良くしたのか、胸を張って自慢げにそんなことを言った。
「……ふーん」
「あれ? こっちの方がすごいとは思わないのかい?」
「だってお前、そんなのお前にとって日常茶飯事だろ」
「いやいやいや、わかっちゃいないな真くん。僕ははっきりと好きだって言ったんだよ。あれは紳士の真摯な告白だったね。まあ、結果はごらんの通りだけれど」
「……ふーん」
裕也の武勇伝を聞いて、なんとなくその場面を想像していると、隣からパチパチと拍手が起こった。
拍手をしていたのは梓だった。
「すごいです変態さん! えらいです!」
それに便乗したのが道寺くんだった。
「僕も裕也さんの気持ちわかります。すごく勇気がいることですよね」
あゆみは裕也を褒め称える道寺くんの横顔を見て、恥ずかしそうに顔を伏せた。
裕也が褒められている。
信じ難い光景を俺は目の当たりにしていた。
「い、いやあそれほどでも。でも道寺くん、だったかな。きみはいいじゃないか。僕はフラレたんだから」
「えっ、あ、いや、僕とあゆみちゃんはそういう関係じゃ……」
あゆみと道寺くんは二人とも顔を伏せた。恥ずかしそうに、お互いに顔を見られないように。顔を赤らめて。
「空気が読めない変態さんですね」
梓、お前が言うな。
「でもすごいです。応援しちゃいます。梓がお手伝いしてあげましょうか?」
「い、いやそれは遠慮しておくよ。これは僕の問題だからね、うん」
「えらいです変態さん!」
こいつ、前に裕也にどんなことしたのかまったく覚えてないな。それとも自覚なしか。
そんな雑談を交わしつつ昼食を食べ終え、裕也は梓に乗せられるまま三人を探しに出かけた。
あゆみと道寺くんは土産物でも見に行くようだった。
「梓たちもどこかに出かけましょうか」
「そうだなー。散歩がてら、いろいろ回ってみるか」
少し遅れて、あゆみたちのあとを追ってホテルを出る。
外は日射しが眩しく、気持ちの良い暑さだった。風も爽やかで、絶好の散歩日和だ。
いつも通りに左腕を梓に占領されて、ヤシの木のアーチをくぐる。
長い坂を下ると、そこには軒並みに店やホテルが並んでいた。小さな街。ただやはり人はおらずに少し寂しさを感じるところもあるけれど。
「このどこかにあいつらいるのかな」
「千佳先輩たちはもしかしたら遊園地かもしれませんね」
ギクリ、と体が強張る。梓の口から千佳の名前が出たことで、少しの罪悪感を覚えた。
昨日の夜に何があったのかなんて、こいつは何も知らない。
言えない。
言う必要もないと思うし、言えるはずがない。シンシアさんなら冗談で済ませられることかもしれないけれど、相手が千佳ならそうはいかないだろう。それに、冗談じゃなかった。昨日の千佳は、思いつめたように、真剣だった。
俺が考えなければならないことなのだろう。梓と千佳の問題ではなかったのかもしれない。これは、俺と千佳の問題なのかもしれない。あれは俺に対してのメッセージなのだ。
その意味を単純に考えると、そう考えてしまうと――逃げ出したくなる。
ここから。
梓からも、千佳からも。
「先輩、アイスのお店がありますよ。きっとタダです。いただきましょう」
「金持ちの台詞じゃねえな、それ」
ただ、いますぐにどうにかしないとならないわけでもないと思う。
せめてこのバカンスが終わるまでは、昨日の夜のことは忘れていよう。
千佳に会っても、いつも通りに。あいつが何事もなかったかのように振る舞っていたように。
そんなに簡単なことじゃないけれど。
そのまま俺と梓は誰とも会う事なく、島を散策して回った。
あゆみも、みんなも来ているので土産を買う必要もなく、ちょっとした露店を見て回ったり、自然の動物がいる森林の中に足を踏み入れ、サイクリングに興じたりした。小山の丘の上には島を一望できる展望台があり、モノレールを伝って登り景色を眺めた。山を下りてからは、ホテルに隣接してあるゴルフ場でパターゴルフで梓と勝負。惨敗。こいつとの勝負事は全て俺が負けだ。一応スポーツなもんだから梓に負けたことが悔しかった。
特別なことはない。何気ない、恋人同士のデートのようだった。
楽しかった。
そう思った。
午後からの時間だけではこの島を堪能するには短過ぎた。ゴルフ場でひと勝負終わった頃には、いよいよこの旅の終わりを感じさせる夕焼けが一面に広がっていた。
明日の朝には日本に帰る。あっという間の旅だった。
少しの寂しさを思いながら黄昏を感じていると、ポケットの携帯が鳴った。
シンシアさんからだった。梓に確認してから電話に出る。
『部屋に着替えを用意してありますの。よろしかったらそれに着替えてビーチへいらっしゃって? わたくしから最後のプレゼントですわ』
「ああ、例の催しってやつ? 今度は一体何をやらかすおつもりで?」
期待の無さを前面に押し出して、シンシアさんの言葉に返した。
『来て下さればわかりますわよ。きっと気に入ると思いますわ』
それだけ言って、通話は終わった。
そして梓がさっそく喰らいつく。
「あの女の企ての準備が整ったのですか?」
「すっかり悪者だなシンシアさん」
「どうせろくでもないことですよ。そんなのより、梓と甘ーい一夜を過ごしましょうよ。今日しかないですよ。この旅行の記念としてお互いの貞操をプレゼントしましょう!」
「ははっ、馬鹿だなお前。そんなの帰ったらいつでもできるじゃないか」
「うえっ!? そ、そそそそうですね、そうですよね! いつでもできますよね! う、うん、どうせなら初めてはやっぱり先輩の部屋で――って騙されますか!!」
「おっ、成長したな」
「今夜は逃がしません! パパがいないこの時を逃していつ梓の処女を捧げるのか!!」
「誰もいないからってそういうこと叫ぶなよ……」
どうやら今夜も酒に頼ることになりそうだ。梓が二日酔いにならない程度に飲ませよう。シンシアさんは実に良い方法を教えてくれた。
「とりあえず部屋に戻るか」
着替えがあるらしいし。
「むっ、いつになく素直ですね先輩。どんな手を考えているかわかりませんが今宵の梓の覚悟は本物ですからね」
「わかったわかった。ほら」
俺は左手を差し出す。
「むむっ。むぅ……」
警戒しながらも嬉しそうにその手を取る梓が少し可愛い。
ホテルに戻ると、違和感があった。
「浴衣……」
フロントが浴衣を着ていたのだ。そして、他のスタッフが一切見当たらなかった。
怪訝に思いながらエレベーターに乗り、梓の部屋に戻る。
部屋に入ると、ベッドには真新しい着替えが置いてあった。
「浴衣だ……」
日本の伝統的な衣類である浴衣が置いてあった。ご丁寧に下駄まで置いてある。
昨日の今朝方シンシアさんが言ってたな。企画のテーマは日本だって。まさかこれだけではあるまい。あの人がただ浴衣を用意するだけなんてことはあるまい。ビーチに何かあるのだ。その準備に一日費やしていたようだし。そして、浴衣から連想される企画と言えば、夏の日本と言えば、あれじゃないか。きっとそうだ。
おそらくは俺が着る用に黒い浴衣が一着。そして梓にはピンクが下地の、いくつも小さな花火が描かれている浴衣だった。
「なんですかこれ?」
置かれていた浴衣を広げて、梓が言う。
「シンシアさんがこれに着替えてビーチに来いって言ってた」
「ふん。浴衣ですか」
「なあ、せっかくだから着てみろよ。お前似合いそうだからさ」
「別にいいですけどぉ。……でも、一人で着るの難しいから手伝ってくださいね?」
「ああ。あと俺も着てみたいんだけど、着方わからないから頼むわ」
「はいっ。えっへへ、先輩と着せ合いっこ着せ合いっこ。じゃあまず、梓、脱ぎまーす!」
「ちょっと待てっ!! あっ、おい下着は外すな!」
「何ですか! 浴衣は下着つけないんですぅ! 素肌の上に着るものなんですぅ! 先輩も脱いでー!!」
「きゃーーーーーーっ!!」
とまあこんな感じで、着つけを終わらせるまでたっぷりと一時間半もの時間を費やし、外は暗くなってしまった。
せっかく続きだけど、せっかく着たのだからと、梓を強引に誘ってビーチへ向かった。
シンシアさんの用意した催し。
夏だから。
夏休みだから。
「屋台だ。梓、屋台が出てる!」
ビーチには提灯が飾り付けられた屋台が軒を連ね、そして人がビーチ全体にあふれていた。
夏祭りだ。
お客は俺たちだけしかいないはずのこの島に、夏祭りを楽しんでいる人が大勢いたのだ。それはもう本当に、日本の夏祭り。砂浜を埋め尽くす人。大きな音楽まで鳴って、賑やかな祭りの風景だった。
「すげえじゃん! ははっ、夏祭りだ! 梓、行こうぜ」
「すごいはしゃぎようですね、先輩」
「お前だって、絶対楽しいって」
梓と出会って以来、夏祭りなんてものは行く機会がなかった。子供のころから地元の夏祭りにはよく行っていて、それが夏休みの楽しみでもあったんだ。久しぶりに目の前で見る人の熱気、人がごった返す雰囲気。これぞ夏でしょ。童心に帰って楽しむべきでしょ。
「さすがにあなたたちだけではこの雰囲気は作り出せないでしょう。失礼ながら、わたくしどももエキストラとして参加させていただいておりますわ」
そしてシンシアさんの登場だった。
小さな花がいくつも咲いている黒い浴衣を着こなしていた。金髪と黒い浴衣が異様なほどにマッチしていた。
「出ましたね、諸悪の根源」
俺を盾にするな、梓。しかしそれほどまでに梓はシンシアさんを警戒しているということか。
シンシアさんはそんな梓を見て、目を細めて楽しそうに笑った。
「ふふっ。あなたにとってそれほど間違いではない表現かもしれませんわね。ですけど、この島での最後の夜、あなたにも楽しんでいただきたいと思っていますわ、アズサ」
「そんなこと言って、どうせただの夏祭りじゃないんでしょ!」
「相変わらずですわねアズサ。ご期待に添えられなくて申し訳ありませんけれど、これはただのお祭りですわ。こういう露店程度しかご用意できませんでしたけれど。何の仕掛けもありませんわ。わたくしは舞台を整えてさしあげただけ。それに、面白いものは昨晩、拝見させていただきましたもの」
そこでシンシアさんは俺に流し目を送る。梓も追って、不思議そうに俺を見た。
「梓が寝てる間に何かあったんですか?」
「ん? 別に何もなかったけどな。そんなことより、何か食おうぜ。ほら、たこ焼きとか焼きそばとか、日本にいるみたいじゃねえか」
やめてくれ。
今は夏祭りを楽しませてくれ。
「あら、聞いてませんのねアズサ。まあ、それもそうでしょうね」
「えっ、何? 何なんですか先輩?」
「だから、何もないよ。気にすんな」
「チカにキスをされましたのよ、マコトは」
だから、何で……!
すぐに梓を見た。
血の気が引いた。
祭りの喧噪も、梓の表情にかき消されてしまった。
怒鳴りつけられた方が遥にマシだったかもしれない。殴られた方が痛くなかったかもしれない。
梓は呆けたように立ち尽くして、言葉にできないような悲しい顔で、俺を見つめていた。
「あ、梓、あのな……」
そして梓は、徐々にうつむいて、うつむいたままで黙ってしまって。
「……っ!」
祭りの会場に向かって走り去ってしまった。
「梓ッ!!」
手を伸ばした。手を伸ばしただけで、足が動かなかった。
「シンシアさんっ!」
本気で怒ろうと思っていた。今度こそはしかりつけてやろうと思って振り返った。悪戯が過ぎる。だけどそこで俺は言葉を飲み込んでしまった。
俺を見るシンシアさんの目は、ひどく冷たいものだったから。
「あなたも、そろそろハッキリなさい。だからこういうことになるのよ」
「は?」
「追わなくていいのかしら?」
……くそっ。
「楽しんでもらいたいのかそうじゃないのか、どっちだよ」
俺はそんな捨て台詞を残して、人波に身を投じに向かった。
砂に足を取られながら梓をあとを追う。周りの人はほぼ外人で、ほとんど浴衣を着ていた。珍しい光景ではあったけれど、誰もかれもが紛れてしまって、近くで顔を見ないと誰だかわからない。梓が着ていたピンクの浴衣だって、似たような浴衣を着ている人が何人もいる。外人だらけだから、英会話もまともにできない俺だからそこいらの人に梓のことを尋ねることもできなかった。これほど自分の頭の悪さを恨んだことはなかったかもしれない。
屋台と人の合間をかけずり回って、ようやくこの旅のメンバーを一人見つけた。この祭りの中を一人で行動しているなんて、奴しかいない。
「おいっ、おいっ!」
慣れ親しんでいるそいつの親しみのない顔を強引に振り向かせて、俺は聞いた。
金魚掬いを楽しんでいるご当地美女二人を眺めていた裕也だ。
「梓見なかったか!?」
裕也は一度目を細めて俺を確認したあと、面倒臭そうに言った。
「見てない。見てないよー。僕が見ていたのは彼女たちだけさ」
「そうか、邪魔したな」
もういちいち突っ込んでいられるほどの余裕もなかった。
その場を離れ、周囲の様子を窺う。
人だらけだ。視界を埋めるものは人。
無理だ、と思った。この大勢の中からたった一人を見つけ出すなんて。少し油断すると人の波に流されてしまう。少し離れた場所だと多分、声すら届かない。近くでさえ声を張って会話しないと聞こえない。
梓の名前を叫んだところで、無駄だ。
だけど無駄だろうとも、俺は叫んだ。
「あずさーーーーーーーーーーッ!!!!」
真っ暗な夜空を見上げて叫んだ。
俺の声は、周りの喧噪によってあっさりとかき消された。
周囲の人が僅かな驚きの顔を見せただけだ。
少しずつ、少しずつ移動しながら、人波に逆らいながら梓の名前を叫び続けた。
梓、と。
汗が噴き出して、喉も枯れる。
気に掛けて話しかけてくる人もいたが、俺が逆に構っていられなかった。
そしてそのうちに、またメンバーを見つけた。
三人組だった。
千佳と倉敷さんと優子さん。やはりみんな浴衣姿だった。良く似合っていたが、みとれるわけにもいかない。それぞれが大きな綿菓子を手に持っていた。
射的屋の前で倉敷さんが自慢げに景品を自慢していた。その姿を見てすぐに、俺は三人の元に駆け寄った。
「ん? ああ、ジョンじゃないか」
三人の輪の中に体を潜り込ませ、息を整える。
その俺の前に、倉敷さんがぶらぶらと景品の木彫り人形をちらつかせた。
「ほら見てみなよジョン。一発ゲットだぜ」
「梓ッ!!」
そこで俺はようやく顔を上げて、口にした。
「はっ?」
三人が三人とも、不思議そうに顔を見合わせた。
「そういえば、来栖さん一人なんですか? 神宮寺さんは……?」
「見なかったか!?」
「はい?」
「梓ッ! 見なかったか!?」
俺の剣幕に、優子さんは口籠ってしまった。
悪いとは思う。自分でも焦っているのはわかる。だけどなりふり構っていられなかったのだ。
「ちょ、ちょっと、どうしたのよ?」
千佳が優子さんを庇うように言う。
「見たのか! 見てないのかどっちだ!」
「み、見てない見てない。こっちには来てないと思うよ」
「くそ……っ!」
どうするべきか。このまま闇雲に探しまわったっていつ見つけられるものかわかったもんじゃない。
「梓ちゃんとはぐれたの? だったら私、一緒に探すから」
「ああ、そりゃ助か……」
ちょっと待て。
ダメじゃないか。千佳に探してもらってもダメじゃないか。梓が飛び出した原因は昨日の夜の出来事なのだから。あいつと千佳を今会わせるわけにはいかない。
「悪い。ありがたいけど、一人で探すから」
「こんな人混みの中で真ひとりで見つけられるわけないじゃない。手分けして探そう」
「いやいい。悪かった、邪魔して」
そうして俺はまた走り出そうとした。
そこで、千佳に腕を掴まれた。
「ちょっと待ってよ! 絶対無理だって! 手伝うから!」
「お前じゃダメなんだよ!」
俺は振り返り怒鳴る。きつく睨みつけて。俺は苛立ちを隠せなかった。
「どういう、こと?」
「梓に知られたんだよ、昨日のこと」
焦りから、俺は一刻も早く探しに行かねばと思っていたから、そのままを話した。いろいろと言葉を選ぶことも考えることも面倒だった。
千佳は一度驚いた顔を見せて、目を伏せた。
「そっか、そうなんだ。それで梓ちゃんがいなくなっちゃったんなら、謝る。ゴメン」
「そうかよ。わかったんなら離せよ」
「いいよ、離してあげる。でも……」
そこで千佳は顔を上げて、少し悲しそうに見える目で、俺をまっすぐに見つめた。
「どうして真は、そんなに必死なの?」
俺は、黙ってしまった。
千佳のその問いかけに、すぐに返せる言葉を思い浮かばなかった。
どうして必死なのか。必死に梓を探しているのか。
梓が子供のようにはしゃいで人混みに紛れて行ってしまったのなら、俺だってこんなに必死にはならないだろう。やれやれと嘆息しながら露店を一つ一つ探りながら梓を探すことだろう。
探さないとならない。
俺が今、あいつのそばにいてやらないといけない。
ただ、そう思うのだ。探し当ててどうしようとも考えていない。必死に言い訳を並べるのか。
だけど、傷つけてしまった。
あいつは今、傷ついている。
だから行くんだ。
それしか考えられなかった。
「やっぱり、遅かったのかも。遅過ぎたのかもしれない」
千佳はそう呟いて、力無く俺の腕を離した。
「あっ……」
そして千佳は、不思議なくらいに優しく、笑っていたのだ。
「梓ちゃんが行きそうなところ、心当たりあるんじゃない?」
ようやく、気が付いた。
千佳に言われたからこそ気付けたことかもしれない。
あの場所に俺と行ったのは、千佳と梓だけだ。
「わ、悪い俺行くわ。もし梓を見かけたらホテルに戻るよう言っといてくれ」
そして俺は向かう。
海が見渡せる展望デッキへ。
人混みをかき分け、そこに急いだ。
喧噪が薄れ、露店の明かりも届かなくなったくらいに、その道は姿を現した。この分では展望デッキは真っ暗かもしれない。
足元を照らそうと携帯を取り出したところで、その存在に気が付いた。
何をやっていたんだか。便利な道具がすぐ手元にあったっていうのに。梓が持っていたかどうかまでは確認していなかったけれど。
注意深く足元を見ながら、ゆっくりと進んだ。
そして展望デッキに辿り着く。
携帯から目を離すと、そこは真っ暗闇だった。
夜の海は何も見えないから、こんな時間に人が来ることまでは考えていなかったのだろうか、照明は何もなかった。
ただ、目が暗闇に慣れてくると、淡い月の光が辺りを照らしていることに気付く。
そしてその中に、人影らしきものを見つけた。
「梓……?」
ベンチの仲に浮かぶ人影。そいつは首をゆっくりとこちらに傾けたように見えた。
近づいて行くと、まずはピンクの浴衣が見えた。
そして、夜空の月を見上げている、梓。
見つけた。
何て声をかけようか一瞬迷って、
「探したぞ」
隣に腰掛けながら俺は言った。
次に梓の顔色を窺おうと目を向けると、意外なことに梓は薄く笑っていた。
「ごめんなさい先輩。梓、動揺しちゃって」
そして謝った。こういう梓のことは、少し不気味だと思う。何を考えているのかわからない時の梓なのだ。
「いや……その、なんだ、俺も悪かった、な。だ、だけどな、別に俺の方からじゃないんだぞ? あれは千佳が、あいつが……」
言い訳をする。俺はいつもいつも言い訳してばかりだ。
梓は薄い笑みは崩さないままで言う。
「わかってます。わかってますけど、何て言えばいいのか。あーあって感じです」
「ん?」
「仕方がないこととは思うんですけど。やっぱり、いつまでも許してはくれないのかなって」
「あー、悪い。わかるように言ってくれるか?」
「……不安になるだけです。千佳先輩は可愛いし、何でもできるし、すごく女の子らしいですし」
「あいつが女の子らしいか? すぐ手が出るぞ?」
「それは先輩にだけでしょう? それに梓より胸も大きいし」
「胸は関係ないだろ」
「えーっ、先輩のえっちな本は巨乳ばっかりじゃないですか」
「ばっ、ばかやろ! あれはっ、たまたまっ、たまたまだっつーか今それかよ!」
梓はからかうように笑って、寂しそうにも、悔しそうにも呟いた。
「……敵わないですよねぇ。千佳先輩には」
梓は、目の前の物が欲しくても手が届かなくて、そうしてようやくそれを諦めた時のような、そんな瞳をしていた。
わからない。
まったく、何を考えてるのか全然わからねえよ、梓。
俺は梓の頭にぽんっと手を乗せた。
「何なんだよ? それ」
梓はきょとんとして俺を見上げる。
「敵うとか敵わないとか、何を競い合ってるのか知らないけど人それぞれだろ。女としてってんなら、もしかしたら万が一にもお前の方が女らしいって言う奴がいるかもしれないだろ?」
笑いながら俺が言うと、梓はぶぅっと頬を膨らませた。
「それ、フォローになってないですぅー」
「ははっ。でもな梓、多分俺は、お前に言わなきゃならないことがある」
頭を撫でながら言うと、梓は落ち込んだように「はい……」と小さく返事した。
つくづく、どうして俺なんかを好きなのか不思議に思う。疑問にさえ思う。
そしてつくづく、俺は梓に信用されていないのだろうと思う。
前例はあるのだから無理はないけれど。
「俺の気持ちを勝手に決め付けるな」
言わなければならないことはこういうことだ。
梓が不安になるということはこういうことだ。
だから言う。
梓は小さく笑って、こてんと俺の胸に頭を預けてきた。
「先輩は優しいから、梓は不安になるのです」
梓のその不安は、取り除いてやりたいと、そう思う。
一生懸命な可愛いこいつを、俺は傷つけてばかりで。
だから。
「不安なのは、俺も同じだ」
そのためには。
「えっ?」
素直になるべきなのだろう。
「正直、お前らの暮らす世界のことはよくわからない。不安だ。何を学べばいいのかもわからない。不安だ。今の暮らしがどう変わってしまうのかもわからない。不安だ。なによりも自分に自信がないから、不安だ」
「えっ、先輩? それ……」
だから。
「だから――」
ドーーーーーーン!!
花火だ。
夜空にいくつもの花火が舞い上がった。
次々に上がる花火。
シンシアさんの渾身の演出は、どうしても俺と梓の邪魔をしたがる。
でもな、花火の音にかき消されたとか、そういうベタなオチは懲り懲りだ。
この勢いを逃すと、この機会を逃すと、俺は二度と言えないかもしれない。
だから。
梓の頭を寄せて、肩を寄せて、耳元で。
「待っててくれ」
精一杯の、俺の気持ちだった。
花火が梓の横顔を照らす。
少しだけ潤んだ瞳と、呆けた顔。
そして梓は、嬉しそうに笑った。
「待ちます」
初めて、梓と気持ちが通じ合ったような気がした。
いいだろう。
もういいだろう。
なあ、俺。
梓の目を見つめる。
まだ言い訳だけはさせてもらうけれど、今までとは違う意味だから。
「花火眩しいだろ? 目、閉じろよ」
「はい……」
花火の光に照らされる梓の横顔を愛おしく思いながら、もう何度目になるかわからない、だけど確実に今までとは違う、初めてのキスをした。
展望デッキからの帰り道。
誰かが持っていた、綿菓子が落ちていた。




