素敵な夜に、乾杯
ビーチへ戻ると、みんなが夕食の相談をしていた。
その結果。
夜はバーベキューをしようということになり、着替えと材料を調達にホテルに戻ることになった。
少し日が落ちかけてきて、夕陽を眺めながらのバーベキューとなりそうだった。心躍る。夏らしいじゃないか。
部屋に戻ると、いた。
先送りにしていた問題のシンシアさんである。
スーツ姿のままベッドにうつ伏せになり、俺が部屋に入ってきたことに何も反応を見せない。寝ているのかと思い、物音を立てぬよう静かに移動する。
並んでいる手前のベッドで寝ていて、横を通り過ぎる時にその寝顔が窺えた。
幼い。
口元が僅かに開いていて、普段の印象からはかけ離れているあどけない表情だった。
そろ~っと荷物を置き、少しだけその寝顔を眺めてみようとベッドの脇に寄る。
透き通るようなきめ細やかな白い肌。艶々の髪。眠っていても全く崩れない、まるで造形美。――眠り姫。白雪姫がこれほど美人だったのなら、王子もそれは心を奪われたことだろう。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまいましたわね」
「えっ」
驚いた。
シンシアさんが目を閉じたままで薄く笑って、いきなりそんなことを言ったから。
「ご、ごめん。ちょっと無神経だったかも」
「構いませんわ。今、何時ですの?」
「えーと……」
部屋の中を見回して時計を探す。俺の時計代わりの携帯の時間は日本時間のままだった。
「五時を過ぎたところ」
それを聞いたシンシアさんはゆっくりと瞼を開け、体を起こした。少しだけボサついた髪がどこか色気があって魅力的だった。
せっかくだから、これからのことを誘っておこう。さっきは俺たちだけで遊んでしまったからな。
「これからバーベキューをやろうってことになったんだけど、一緒には?」
「まあ、それは楽しそうですわね。よろしいのかしら、わたくしが行っても」
「そりゃあもちろん。歓迎するよ」
「どこでなさるおつもりかしら?」
「ビーチでやろうって話してたけど」
「そうですの。それでは、準備をしておくように伝えておきますわね」
わお。思わぬところからグッドな提案があった。それは甘えておきましょう。
「悪いな、ほんとに」
「いえいえ。夕食にお招きいただきましたので、これくらいはさせていただきませんとね」
髪をかき上げて、にっこりと笑う。
「わたくしは後ほど向かいますわ。ここで夕陽を眺めてから」
ここからの景色が好きだって言ってたな。だからこの部屋だって。そういえば、本当にこのままここに居座るつもりだろうか。出て行ってもらいたい。けれど、ここまで至れり尽くせりな待遇をさせてもらっておいて、いまさら出て行けと言うのはさすがに。ならば、やはり俺が部屋を変わるべきなのだろう。行き先は、あゆみの部屋にでも行かせてもらおう。兄妹だから構わないだろう。
そう思い、俺は自分の荷物を整理して、手に持った。
「あら、どこに行くおつもり?」
「やっぱり同じ部屋にはいられないから。ここは譲るよ。俺は妹のとこにでもお世話になるから」
「それは困りましたわ」
「え?」
「いえ、こちらの話しです。お客様にご迷惑をおかけしてしまっていると思いましたの」
「いや、まあ」
そう思うなら最初っからこの部屋に来ないで欲しかった。とも今さら言えない俺だった。
「もう十分堪能させてもらってるから、贅沢は言わないよ」
「ふうむ。それでは、お言葉に甘えさせていただきますわね」
それにやりようはいくらでもありますもの、と呟いた。
「じゃあ、そういうことで。荷物を置いたら俺たちは行くから」
シンシアさんからそれに肯定の返事をもらい、俺は部屋をあとにした。
さて、あゆみの部屋は隣だったな。
俺はすぐ横のドアをノックする。
二回ノックして少し待ち、中からあゆみが顔を覗かせた。
「お、お兄ちゃん!?」
「おう。あゆみ、悪いけどお前の部屋に一緒に……」
そこで俺は言葉を詰まらせてしまった。荷物を落としてしまいそうだった。
部屋の中に道寺くんがいたのだ。彼も驚いたようで慌てている。
どうやら、テーブルに飲み物が二つ置いてあるところから察するに、仲良くお喋りしていたらしい。あゆみが、道寺くんを部屋に連れ込んで。
驚愕した。忌々しき事態だこれは。どういうことだ。
いつの間にこれほど仲良くなりやがった。いや、いくらでもそんな機会はあった。こいつらはここに来てからずっと二人で行動していた。
「な、何の用ー?」
「おいあゆみ、こ、これはどういうことだ?」
「ど、どういうことってー、何かなぁ?」
「なぜあいつがここにいるんだ。部屋に男を入れるんじゃない。お喋りなら外でしなさい」
道寺くんを睨みつけながら、あゆみに言う。
「あっ、お、お兄さん、僕は帰りますから」
急いで席を立ち、部屋を出て行こうとする道寺くん。その道寺くんをあゆみが片手で止めた。
「道寺くんはいていいよー。お兄ちゃん、用事がないならもういいー?」
「用事ならある! たった今できた! まずは道寺くんに出て行ってもらえ! そしてじっくり話し合うぞ! 旅行だからって男と二人っきりで部屋にいるなんてことは――」
「ば、ばいばーい」
パタンと、ドアが閉められた……。
おう?
「お、おいあゆみ! 開けろ! 頼む! 開けてくれ!」
うあうあうあ、ど、どうする、どうしようどうしよう。あゆみが男を部屋に連れ込んだ。兄である俺を追い出して男を連れ込んだ。反抗期か? 反抗期なのか? 今まで俺の言う事を良く聞くいい妹だったのに。あいつだ、あいつのせいだ。あのやろう……。
「おいこらっ! 早く開けろ!」
ドンドンドンドン激しくノックして叫ぶ。中からは何の反応もなかった。
このままだと、このままだとあゆみが大人の階段を上ってしまう! 兄である俺より先に大人になってしまう! 父さんと母さんに何て言い訳すればいいんだ!
そのまま部屋をノックし続けていると、さらに横のドアが開いた。
「うるさいな! 何してんのよ真!」
千佳の部屋だった。機嫌悪そうに俺を睨みつける。
「千佳……千佳ッ! き、聞いてくれ! あゆみが道寺くんを部屋に連れ込んでいたんだ! それで俺を追い出しやがった!」
「はあ? そんなことで騒いでたの? まったく、あゆみちゃんのこととなるとこうなんだから」
「そ、そんなことじゃねえだろ! 大変だ大変だ、今頃あゆみと道寺くんは……うああ……!」
「もう、とにかく入って。こんなとこで騒いでたらみんなに迷惑」
そうして千佳の部屋に連れ込まれる。
ソファーに座らされ、ペットボトルの水を手渡された。
「これ飲んで落ち着いたら?」
「こ、こんなことしている場合じゃ……」
「……あのねえ真」
千佳が頭に手を当てて、やれやれと言う。
「梓ちゃんじゃないんだから、二人で部屋にいたところで何もあるわけないでしょ?」
「で、でもあゆみは俺を追い出したんだぞ!?」
「真にお説教されるとでも思ったんじゃないの? 真、あの道寺くんって子にちょっかい出すし」
「……あいつはあゆみに好きだって告白したんだよ。これが兄として黙ってられるか。あゆみだって、何か、まんざらでもなさそうだし」
「じゃあいいじゃない、好きにさせて。いくらお兄ちゃんだからって妹の恋愛事情にまで口出すものじゃないよ」
なんだよなんだよ、やっぱりみんなあゆみの味方かよ。
「ま、まだあいつらは中学生だ」
「それが何? 人のこと言えないじゃない」
「いやお前、俺の場合は梓が一方的だったし」
「その当時になし崩し的にも梓ちゃんを受け入れちゃってるから今があるんじゃない。そんな真にあゆみちゃんのことをとやかく言う資格はありません」
「うっ……」
ひどく正しい事を言われているようで反論できない。俺が一番弱いところを言われちゃな。
確かに今に至ったのは俺が原因だと言えるんだよな。あの時に梓を突き離しておけば付きまとわれることにもならなかっただろうし。
今は、それが悪かったことだとも思えないところが、俺が一番変わったところかもしれないな。
「それで、その荷物はどうしたの?」
あゆみの件は終わったかのように、千佳がそう切り出す。そういえば、これからどうしよう。
「シンシアさんが部屋に押し掛けてきてな。あの部屋が好きだからと。まあ朝の騒動の続きなんだけど。そのままずっと居座るつもりみたいだったから、俺が出てきた。さすがにシンシアさんと同室はまずいから」
「そしてあゆみちゃんの部屋に行こうとして、道寺くんがいるのを見ちゃったわけだ」
「そういうこと」
「その様子だと、もうあゆみちゃんの部屋には行けないね」
「いや、さすがにあいつも夜までは一緒にいないだろ。それこそ問題だし」
「行けないよね?」
「ん、ん? いや、だから――」
「仕方ないから、この部屋に泊まっていいよ」
「…………」
仕方なくないよな、全然仕方なくないよな。
「何言ってる。それこそ無理だ」
「どうして? 私たちって、兄妹みたいなものでしょ? あゆみちゃんの部屋に泊まるのと変わりないよ」
「お前はそう思ってるかもしれないけどなあ、俺は……」
「何?」
「いや……」
俺が口籠ると、千佳はにやあっと口端を吊り上げてにししと笑った。
「あーっ、もしかして今朝のことで私のこと女だって意識しちゃった?」
またこいつ、そんなことを言ってからかおうとしてやがる。何がしたい。梓に対しての嫌がらせのつもりなのか? やっぱりあいつとの間に何かあって、梓に仕返しか何かしているつもりなのだろうか。あいつを挑発するようなことばかり。だったら、こういうことは、もうやめさせないといけない。
「どういうつもりだ、お前」
俺は一度息を吐いて、真剣に言った。千佳は目を丸くさせて、言葉に詰まる。
「えっ、ど、どういうつもりって……」
「俺にやたら絡みたがるっつーか、梓と俺を引き離そうとしているように見えるぞ。あいつと何かあったんなら話してみろ。俺が間取り持ってやるから。そうじゃなくて、あいつに対してただの嫌がらせのつもりなら、もうやめろ」
「…………嫌がらせに見える?」
「そうじゃないなら、何なんだよ」
「もしそう見えるなら、それは真に対しての嫌がらせ。真って、嘘つきだもん」
「あ? 俺がいつ嘘ついたって言うんだよ」
「今だって、ずっと嘘ついてるよ」
「は? お前何言って――」
「出てって」
俺の言葉を遮り、千佳は強く言った。
「今すぐ出てって」
「な、何だよ突然」
「いいから出てってよ! 早く出てけっ! このっ!」
「おわっ!?」
飲みかけのペットボトルを投げつけられて、中の水が飛び散った。
「お、おい落ち着けって」
「このっ、このっ!」
そこいらに置いてあるものを次々と投げつけられる。バッグとか、ポーチとか、お菓子とか、枕とか、受け止めたり避けたりしながら、俺はついにドアノブに手をかけた。
「わかった! わかったから出てくから!」
そして、千佳からも追い出された。
妹に追い出され、千佳に追い出され、一体どうなってるんだ。
特に千佳は意味がわからない。怒っていたのは間違いないけれど、言いたいことがあるならはっきりと言って欲しい。
嘘つき、なんて。
何だ、何のことを言ってるんだあいつ。今だって嘘をついてるって、何のことだ。現在進行形で約束してることなんて、ないはずだ。旅行のことだって、梓と二人のはずだったんだから。千佳とは会ってなかったから。あいつ、いつの話しをしてるんだ。
バーベキューの時にでも、千佳と話してみる必要があるよな。それまで、少し思い出す努力でもしてみよう。
そう思って、俺はもう一度あゆみの部屋をノックした。
「お兄ちゃんならお断りー!」
中からそんな声が聞こえた。地味に泣きそうだった。
そして今度は裕也の部屋に向かう。
俺に残された道は親友に頼ることだけだった。
「お断りだね」
眼鏡を失くして睨みつける裕也は、俺が今までのことを説明するとすぐにそう言った。
「な、なんでだよ。別にいいだろ」
裕也は首を横に振りつつも小さな溜息を三回ついて、やれやれと口にする。
「わかってないなあ真くん。もしかして、万が一にも僕に夜這いをかけようとしてくる女子がいるかもしれないじゃないか。そこにきみがいたらどうなる。もう二度と来ないかもしれないチャンスをきみのせいで逃してしまうことになっちゃうじゃないか。真は神宮寺さんの部屋にでも行くといいよ。きっと彼女も喜ぶだろう」
「ねえよお前にそんな機会なんて」
ドアを閉められた。
くそっ、くそくそくそっ!
部屋にはいられずに妹に追い出され、幼馴染二人に追い出された。倉敷さんは何となく受け入れてくれそうだけどいろいろと無理だ。道寺くんに頼るわけにはいかない。一晩中説教し続けそうだし。優子さんの部屋はありえない。
結局は、結局はこうなるのか。行き先が決められたRPGじゃねえんだぞ。
俺は溜息をつきながら梓の部屋に向かった。
向かう途中で、手前のドアが急に開いた。
「ん~? もう故郷が恋しくなったのかい?」
倉敷さんの部屋の前だった。俺の手荷物を見て、柔和な笑みを浮かべて言う。
「いや、そうじゃなくてこれにはいろいろと事情があって」
説明するのが面倒くさい。部屋を巡るたびに説明事項が増えていってるもんな。
倉敷さんは俺が向かおうとしていた方と荷物を交互に見て、にやあと薄気味悪い笑みを見せた。
「ほう。ほうほうなるほどなるほど。ジョン、初めては優しくするんだよ」
「ごめんなさい説明させて下さい」
そして部屋を出て三部屋経由してきたことを倉敷さんに説明した。疲れた。
「俺って、千佳に何か嘘ついてるかな?」
そして倉敷さんに一番尋ねたかったことを聞いた。
「あっははは、私が知るわけないじゃないか」
何言ってるんだよー、と軽く肘で小突かれる。
「でもちーちゃんが怒ってたのなら、きっとそうなんだろうね」
そう言って、俺の横を通り過ぎた。
「あ、千佳のとこに行くなら――」
「わかってるってー。みっちーにお任せあれ」
手をひらひらと振りながら、倉敷さんは千佳の部屋に向かって行った。
裕也と違って、千佳の親友は友達想いの良い奴だよな。
さて、と。
梓の部屋は端部屋だったよな。そういやあいつ何してるんだ? 荷物置いたらバーベキューって話しだったから、てっきり俺の部屋に来ると思っていたのに。部屋からも出て来てない。準備をしているのだろうか。
コンコン。
…………出ない。
コンコンコンコンッ。
再度強めに梓の部屋のドアをノックすると、予想外の人物が中から顔を覗かせた。
「あっ……」
「えっ?」
優子さんだった。天根優子さん。学校は違えど梓と唯一の同級生となる、裕也が誘った女の子。清楚な感じの、可愛らしい女の子。
「ど、どうも。来栖さん」
にこりと笑顔を作ってお辞儀をする。そう呼ばれるのがどこかくすぐったかった。
「えっと、梓は?」
「神宮寺さんなら用事を済ませてくるとかで出掛けて行きましたよ? 会いませんでしたか?」
「会ってないけど……」
用事? そんなこと一言も言ってなかったけれど。急用? 日本で神宮寺家絡みの事件があったとか? ん、いや待て、そうだとしても、どうして梓の部屋にこの子がいるんだ。梓が不在の部屋に。
「んーーーーーーっ!!」
部屋の奥から何やらうめき声のようなものが聞こえた。
「ご、ごめんなさいっ!」
優子さんが慌ててドアを閉めようとしたので、反射的に荷物を滑り込ませてそれを阻止する。それでも無理矢理にドアを閉めようとしたので、俺も無理矢理にドアをこじ開けた。
そのままの勢いで突入し、さっきの声の主を探すと、そいつは口元をタオルで塞がれて両手をベッドに縛られていた。
「梓っ!?」
半裸だった。
驚く俺。
振り返る俺。
目を逸らす優子さん。
「そっちの人だったの!?」
「ち、違います! 神宮寺さんだけです!」
縛られた梓を助けてやることよりも、この状況を作り出した優子さんにただただ驚いた。
「んーーーーっ!!」
梓がじたばたと暴れるので、そこでようやく梓を解放した。
「ぷはっ! ひーん、先輩! 怖かったですぅっ!」
ほぼ下着姿のままで抱きつかれる。
「おう。よしよし」
まさかの展開だった。もう少し来るのが遅れていたら梓は今頃優子さんに……。
優子さんに目をやると、羨ましそうにこちらを見ていた。
「あの、さ……」
「ハッ……。ご、ごめんなさいごめんなさい! ちょっとお話ししようとするつもりが、神宮寺さんが着替えてるところだったから、つい」
抑えきれなくなって、と何度も謝りながら言う。優子さんも優子さんだけど、梓も着替えながら呼び出しに答えるなよ。
「優子ちゃん」
梓が真剣な眼差しを向けて言う。
「梓は真先輩のことを愛しているのです。ですから、あなたの思いに答えることはできないのです。すみません」
「神宮寺さん……」
目元を潤ませる優子さん。
ここに、小さな恋が、幕を閉じた――ってなんだこれ。
まったく油断していた事態だ。優子さんはとんでもない人だった。突発的に行動するところなんてある意味シンシアさん以上の強引さだ。百合だなんて、裕也ダメじゃん。
……ん?
「あの、優子さん」
「……はい」
「そっちの趣味なら、いい人紹介できるけど」
「わ、私は神宮寺さんだけです! それに私、彼氏いますからー!」
と叫びながら出て行った。
「えっ、そうなの?」
俺は開いたドアを茫然と見つめながら、自然と呟いていた。
裕也、さらにダメじゃん。
「先輩」
呼ばれて振り向く。
梓は目を細めてとても嬉しそうに笑っていた。ほんのりと、頬が赤い。そのまま、梓は目を閉じる。そして求めるように、唇を少しだけ尖らせた。
――ヤバイ。
可愛い。可愛いけれど、このシチュエーションはヤバイ。
ベッドの上。
梓は下着。
梓にとって今の俺は、さしずめピンチを救ったヒーローか王子様。
そしてこいつはお姫様。
王子様は、お姫様に口づけを。お決まりだ。
だけどこれはおとぎ話じゃない、現実なんだ。
そして、俺にはやはりまだ、言い訳が必要なんだ。
「あれは詫びだ。服着ろよ」
梓の肩にそっと両手をかけて、押し戻す。梓は残念そうな、悲しそうな顔をした。だけどすぐにおどけた様子で「ちぇーっ」と愚痴をこぼしながらいそいそと服を着た。
「じゃあ、行きましょうか。バーベキュー、ってあれ?」
部屋の入り口に置いてある荷物を見て、梓は首を傾げる。
「ああ、あのな、お前の部屋に泊まらせてもらおうと思って」
「きょえっ!?」
「ああー、勘違いするなよ。シンシアさんがいたから仕方なくだな」
「そ、そういうことだったんですね先輩! そ、そうですよね、お楽しみは夜に取っておかないといけないですよね。まだお風呂にも入ってないですしっ!」
説明不要だった。
やはり追い出される心配よりも夜のことを気にした方が良さそうだ。かくなるうえは、さっき優子さんがしていたようにベッドに縛ってやろう。
「とりあえず、行こうぜ。シンシアさんが準備の手配してくれてるから」
「むっ、そうですか。あの女にしては殊勝な心がけですね」
「あの女て」
そうして、俺と梓は部屋を出た。
道中はいろんなことを割愛して、バーベキュー会場へひとっ飛び。
飛んできたからとかいう理由じゃなく、ビーチには俺と梓が一番乗りだった。
そこにはバッチリとバーベキューセットが用意されてあった。食材も綺麗に切りそろえてあり、美しく盛り付けてある。テーブルと椅子も完備。あとは焼くだけ。みんなが来るだけだった。いつでも始められる。
とりあえず椅子に座って待っていると、次にやってきたのは裕也だった。注意深く足元を確認しながらの登場だった。
その次が優子さん。俺と梓の顔を見て申し訳なさそうにお辞儀した。
そしてその次があゆみと道寺くんだ。あゆみを見ると、んべーと舌を出して俺から一番遠い席に座った。道寺くんは俺とあゆみを交互に見ながら、おろおろしながらあゆみの隣に座る。言いたいことはあるが、まあいい。食べながらでもゆっくり話そうじゃないか。
そして、意外だったのが倉敷さんだった。てっきり千佳と一緒にやって来るものと思っていたけれど、一人だった。
「いやー、ちーちゃん無理だったよ」
到着してすぐに、快活に笑ってそんなことを言った。
「えっ、無理って」
「うん、夕飯は一人で済ませるってさ。付き合うって言ったんだけど、行って来いってうるさかったから」
「いや、いやいや、そういうわけにはいかないだろ。みんないるんだから、千佳だけ一人なんて。俺、行って来るから」
「ジョンー。自由行動でいいんだから、自由にさせてあげればいいじゃないか。修学旅行じゃないんだから」
「俺が言ってるのはそういうことじゃ――」
倉敷さんは、やれやれと両手をひらひらさせて嘆息した。
「わかってるよ。だから、一人になりたいんだってさ。そう言われちゃ、みっちーだってお手上げだよ。ジョンも余計なお世話なんてするもんじゃないよ」
「でも……」
みんないるのに千佳だけ一人だなんて、そんなの寂し過ぎるだろ。
俺が原因、なのか? きっとそう、なんだろうな。
追い返されるだけかもしれないけれど、俺はやっぱり、千佳を呼びに行くべきなんだと思う。
「千佳先輩と、何かあったんですか?」
倉敷さんとの話しを聞いていた梓が心配そうに見上げる。
「あったと言えばあったけれど、何があったのかは俺にもよくわからん」
首を傾げる梓を一瞥して、倉敷さんを見やる。
「おっとー。ちーちゃんのところに行こうって言うんならそうはさせないよ。どうしても行くのならこのみっちーを倒してから行くんだね」
自分を親指で指差し、男気を見せる倉敷さんだった。
おどけてはいるけれど、何かあるのだろう。千佳の親友である倉敷さんが、いつも千佳のそばにいる倉敷さんが、千佳を一人にしてここに来たのだ。あいつは本当に一人でいたいのだろう。おそらくは俺と顔を合わせたくないのだろう。その千佳のことを思って、倉敷さんは一人で来たのだと。
だけどそれでも俺は――
「頼むよ、ジョン」
俺は、折れた。
――まいった。
倉敷さんは真剣だった。目がマジだった。本気で俺を行かせたくないようだった。
この倉敷さんがこれほど真剣に話す姿を見せられて、その親友の気持ちをむげにできるほど俺は悪人になれなかった。
「……りょーかい。今回は俺の負けってことで」
「いえーい。ジョンに勝ったぜ。ブイッ」
敵う気がしない。
それから千佳が来ないこととあとでシンシアさんが来ることをみんなに伝えて、バーベキューは始まった。
それぞれが雑談に興じ、肉を焼き、野菜を焼き、親睦が深まる。
俺はあゆみと少し話をして、間に梓が入ったこともあり、お互いの言い分を少しずつ聞き合うことにした。俺はあゆみと道寺くんが二人でいることに口出ししない。あゆみは部屋には誰もいれないということだ。つまり、俺も入れない。仕方がない。仕方がなかった。
梓と優子さんもやんわりと和解した。
裕也の相手をしていたのは倉敷さんだった。とは言っても、裕也に食材を焼かせているだけだったけれど。途中で優子さんがそれに参加し、倉敷さんと優子さんは仲良くなったようだった。裕也には次に焼く食材だけを伝えていた。
腹が少し落ち着いてまったり気分になった時に、梓がふと口にした。
「こういうのも、いいものですね」
「ははっ、だろ? 二人じゃ味わえないぜ?」
「ぶぅ。梓は先輩と二人っきりがいいんですぅ」
もうすでに、辺りは一面オレンジ色に染まっていた。水平線には半分だけ顔を残した太陽がまた明日と語りかけていた。
「また明日な」
「はい?」
それを眺めながら、梓の頭を撫でる。
「独り言だ」
「えっ、ちょ、先輩は梓の部屋に泊まるんですよね?」
……そうだった。いらんことを思い出してしまった。
「それならおやすみのキスの時に言ってくれなくちゃあ」
「しねぇよバーカ」
結局、シンシアさんは来なかった。
きっとあの部屋で夕陽が沈むまで眺めていたんだと思う。
辺りが暗くなってから、バーベキューはお開きになった。
火の始末だけをして、ホテルに戻る。
戻ってエレベーターを降りた先に、シンシアさんはいた。
バーカウンターの中に立ち、バーテンダーの格好をしていた。ベストを着て髪を結って、どんな格好をさせても様になる。
「みなさま、おかえりなさいませ。今宵はわたくしの腕を振るわせていただきますわ」
アクロバティックにボトルで遊び、シャカシャカシャカとシェーカーを振り、カクテルグラスに中身を注ぐ。まだエレベーターを降りたばかりの俺たちの目はその格好良さに釘付けになった。
感嘆の声を上げながら、カウンターに座る俺たち。梓だけは忌々しそうに「けっ」という悪態をついていたけれども。
そして俺たちの前にそれぞれグラスを置いていく。グラスの形も様々で、それを見ているだけで楽しくなった。そのグラスにシンシアさんがパフォーマンスを披露しつつそれぞれにドリンクを注いでいく。一人として同じものではなく、それぞれに違う色のドリンクだった。俺には青色の、梓は透明、倉敷さんは赤、あゆみは黄色、道寺くんは緑、優子さんは白、そして裕也にはピンクだった。
「わたくしのイメージで恐縮ですけれど、みなさまに合わせて作らせていただきましたわ」
そう言いながら、自分のグラスにはワインを注いでいた。裕也がピンクって……なるほどなるほど。
格好良かったし、楽しませてもらったけれど、みんな目の前のドリンクを見て戸惑っていた。
「あの、俺たちって未成年で酒飲めないんだけど」
この島でそれが当てはまるのかはわからないけれど、いくらなんでもあゆみと道寺くんにはまずい。
「ご安心なさって。ノンアルコールカクテルですわ。言ってしまえばミックスジュースですわね」
その言葉を聞いた途端、みんなの表情が明るくなった。特にあゆみ。倉敷さんは何故か残念そうだったけれど。
ただ、一人抗議の声を上げた奴がいた。
そもそも、このシンシアさんのパフォーマンスこそが、シンシアさんの仕掛けだったのだ。
「梓のにはアルコールが入ってるみたいなんですけどー?」
ジト目でシンシアさんを見上げながら梓が言う。
シンシアさんはクスクスと笑って、
「あら、わたくしたちにとってこれくらいのお酒、嗜んで当然でしょう? 社交の場でもそういう機会はあるでしょうに」
「そ、それはそうだけど……梓、お酒あんまり好きじゃない」
「あらあら、そんなことだからいつまでもマコトを落とせませんのよ。まだまだ子供ですものね、アズサ」
梓がカチンときたのがわかった。相変わらずシンシアさんの安い挑発にはすぐ乗る奴だった。
「ふ、ふんっ! 梓が子供じゃないってところを見せてあげます!」
「おいおいお前……」
と言いつつも、梓が酒を飲んだらどうなるのか少しの興味があった。だから、梓を止めようとはしなかったのだ。
「それではみなさん。この素敵な夜に、乾杯」
チリンとグラスを合わせあって、乾杯。
一口飲むと、おいしいという声がどこからも上がった。
そして梓は、一気飲みしていた。ぐびぐびと、勢いで流し込むようだった。嫌なら飲まなくてもいいのに、シンシアさんには対抗するもんな。
梓は飲み終えて、うつむいた。うつむいたまま、動かなくなった。
「お、おい、梓?」
「ふふふ、ご心配なく。この子はいつもこうなりますのよ。これから面白いものが見れますわ、きっと」
楽しそうに目を細めるシンシアさん。面白いものって、まさか梓って酒癖がものすごく悪いんじゃ……。暴れ出したりしないだろうな。脱いだりしないだろうな。こいつならありえる。酒のおかげでタガが外れまくるってことも。
少し梓の肩を揺さぶってみると、急にがばっと顔を上げた。少しうつろな目をしていて、頬がほんのりと赤い。
梓の顔を覗き込むと、梓は俺を見てにこーっと優しそうに笑った。
「だ、大丈夫なのか? 梓」
「はい。わたくしは大丈夫ですよ。先輩」
「そっか。なんだ、お前酒なんて飲め…………はぁ!?」
「うふふ、そんなに驚いて、急にどうしたんですか? 先輩」
こいつ、今自分のことを『わたくし』なんて言ったか? それに、なんだかしおらしくなった気がする。今だって「ふぅ」なんて気持ち良さそうな溜息つきながら頬に手を当ててるし。
俺はそのままの表情で首を回してシンシアさんを見る。するとシンシアさんは面白そうに笑って、
「お味はどうでしたの? アズサ」
とワイングラスを回しながら言った。
「見事な腕前です。さすがはシンシアですね。おみそれしましたわ」
うっとりとした顔で、シンシアさんを見上げながら梓は言った。
これが、こいつが、梓の酒に『酔う』ということなのか。
梓はまた俺の方を向いて、優しい笑みを作ったままで言う。
「先輩、いつも迷惑ばかりかけてすみません。でも、甘えさせてくださいね。わたくしは先輩のことが好きで仕方がないのです」
そして腕を絡め取ってきた。といつもの梓なら俺はそう表現するだろう。しかし今の梓は、優しく、そっと俺の腕を取り、頬を寄せる。寄り添うように、頬を寄せる。
「お、おい、梓?」
「あ、すみません。わたくしったら、みなさまの前でみっともない姿をお見せしてしまって」
特に慌てる様子もなくそう言って俺の腕から離れ、みんなの方を向いて言った。
「わたくしは、この度みなさんと旅をご一緒できてとても幸せに思います。かけがえのないこの時を、共に楽しみましょう」
開いた口が塞がらない。
裕也も優子さんも、そして倉敷さんも。梓を良く知るあゆみも。それほど知らない道寺くんでさえも。
そして俺も。
端的に言えば、梓が良い子になった。
酒を飲んで良い子になった。
この中で唯一驚いていないのが、こうなることを知っていたシンシアさんだけだ。
「社交の場、ですわね」
シンシアさんが突然口にした言葉で、みんなが振り向く。
「普段は聞き分けのない我が儘なアズサでも、社交の場、たとえばパーティーなどに参加した場合はわきまえた態度を取りますわ。そしてそこにはお酒がつきもの。いつしかそれがスイッチになるようになった。アズサはれっきとした貴婦人。幼い頃からの習癖ですわね」
そしてみんなの目がまた梓に向く。
今俺の目の前にいるのは、みんなの目の前にいるのは、まごうことなきお嬢様の梓だったのだ。
梓にとって、ここが、今この場がパーティー会場になっているのだ。
「この素敵な夜に、みなさんとの出会いに感謝をして、改めて乾杯をしましょう。シンシア、もう一杯いただいてもよろしいですか?」
「ええ、もちろんですわ」
梓の纏う空気が違う。俺たちとは一線を画する、違う世界の住人だった。
本物。
これが、神宮寺梓なのだ。
シンシアさんが用意したドリンクを、梓は片手に掲げた。作り込まれた完璧な笑顔。そしてただグラスを掲げただけなのに、何故かこっちが圧倒されるような仕草だった。
「それでは、みなさんとの素晴らしい出会いに、そしてみなさんと過ごすこの素敵な夜に、かん――」
そこで堕ちた。
カクッと、糸の切れてしまった操り人形のように、梓の体が崩れ落ちた。
「あ、梓!?」
「まぁ、電池切れは早いのですけれど」
シンシアさんはカウンターに突っ伏してしまった梓を見下ろしながらクスクスと笑う。
「アズサ、お酒には弱いのよ」
俺は釈然としないまま、梓の様子を窺う。梓は、すやすやと気持ち良さそうに寝入っていた。
「ちょ、これどうすんの」
「お部屋に運んであげてはいかが? 鍵はお持ちでしょう? マコト」
はあん、なんだよ、つまりこういうことか。
シンシアさんは梓が酒に弱いことを知ってて酒を飲ませて、厄介者払いをしたかっただけじゃないのかよ。
「意地悪だな、相変わらず」
「ふふっ、何とでも」
このまま梓をカウンターで寝かせておくのは忍びないので、仕方なく運ぶことにした。みんなには「悪い」と一言告げて、梓を背負い部屋に戻る。
二つ並ぶ手前のベッドに梓を寝転がし、一息つく。
それから何度か肩を揺さぶってみたものの、全く目を覚ます気配がなかった。
「ったく、気持ち良さそうに寝やがって」
梓の寝顔を見ながら、一人ごちる。
みんなのところへ戻ろうと思ったけれど、梓が起きたときに俺がいなかったら騒ぎそうなので、このまま部屋に居る事にした。あとで聞いたことだけど、シンシアさんはこのあとみんなにマジックショーを披露し、大いに楽しませていたそうだ。しっかりとエンターティナーの役割を請け負っていた。
窓から外を眺めると、遠くに見える空港の明かりが幻想的で綺麗だった。
梓の新しい一面を垣間見た。だけど、酒を飲んでお嬢様モードの変身時間があの程度なら、やはりいつもの梓が本当の梓なのだろう。
俺はやはり卑怯者なのだと思う。
こんな小さなことでも、寝ている梓を前にしないと口に出せないのだ。
「つまんねーだろうが。お前が寝ちまったら」
梓が小さく、寝言で返事をした。
そのまましばらく時間が経ち、俺はシャワーを浴び終わったところだった。梓は相変わらず寝入っている。
風呂上がりの一杯を喉に流し込むべく、冷蔵庫を開ける。
「何もないじゃん」
冷蔵庫は空っぽだった。
千佳の部屋にはペットボトルとかあったけれど、あれは部屋にあったものじゃないのか? それとも完全なルームサービス? それ用のメニューらしきものもあるけれど、英語で書かれてあるので内容がわからない。梓が起きたら読んでもらおう。
とにかく、喉が渇いた。
梓のことが心配ではあるけれど、俺は一旦部屋を出ることにした。さっきのバーカウンターまで行けば飲み物はあるだろう。
部屋を出ると、騒ぎ声や話し声は聞こえなかった。どうやらみんなはもう部屋に戻っているらしい。それほど遅い時間じゃないから、まだ寝ていないとは思うけれど。それとも今日は遊び疲れて寝てしまっているのかもしれない。あゆみはとっくに寝てるかもな。
そんな静かなホールの空気を少し寂しく思いながら、俺は飲み物を求めてバーカウンターに向かう。
誰もいないと思っていたそこに、まだシンシアさんはいた。
そして、カウンターに座る人物が一人。
「千佳……」
思わず声を上げてしまう。シャワーを浴びたあとなのか、ラフな服装で僅かに髪が濡れていた。
千佳は俺に気がついて、曖昧な笑顔を作り出し「やっ」と小さく片手を上げた。
「ちょうど、そっち行こうとしてたんだよね」
そしてこんなことを言ってきた。そっちとは、梓の部屋のことを言っているのだろう。おおよそのことについては、シンシアさんが話しているんだろうと、そう思えた。
「お前……」
「お座りになったら? マコト」
俺の言葉を遮り、シンシアさんが千佳の隣にドリンクを置く。その誘いに一度躊躇いを見せると、
「アズサなら朝まで起きませんわよ。それなりに強いお酒でしたもの」
シンシアさんは何から何まで見透かしたようなことを言った。
観念して、俺は千佳の隣に座った。とりあえずは、目の前に置かれたドリンクを飲む。オレンジとパインのノンアルコールカクテルだった。
「あの、ね、今日はごめんね」
目の前のグラスを見つめたまま千佳が言う。
「……何がどうなってるのか、そろそろ話してくれてもいいんじゃないか? 正直、わけわかんねーんだよ」
「まだ……言えない」
思いつめた顔をする。聞かれたくないように。
それでも俺は聞いておきたかった。こんなもやもやした気持ちで過ごすことが嫌だったから。千佳にだっていろいろな事情があるのだろう。一人で過ごしたくなるような事情があるのだろう。
俺のせいなら。
俺のせいならどうにかしたいと思う。だけどそれがわからないから、今の俺にはどうしようもできないのだ。幼馴染のことがわからないから。千佳のことがわからないから。
「言えよ。俺が悪いのなら、どうにかするから」
「…………」
千佳はグラスを見つめたまま何も言わなかった。
「じゃあ、嘘って何だ。俺がお前についてる嘘って、何なんだよ」
「……嘘っていうのが、嘘」
「あ?」
「真が嘘をついてるっていうのが、嘘。私がついた嘘。真は嘘をついてるんじゃなくて、忘れてるだけ。覚えてないだけ。でもやっぱり、嘘ついてるのかも」
「なんだよ、それ」
そんなこと言われても、ますますわからなくなるだけじゃないか。混乱するだけじゃないか。
忘れてるだけ。覚えていないだけ。
だったら、やはり忘れてしまった約束があるっていうのか。いつのころの、どういう約束なんだ。
「それは、謝るよ。だから、教えてくれ」
「やだ。まだ教えない」
「お前なぁ……」
これでこの旅の一日目は終わりだ。
俺にとっての終わりだというだけなんだけれど。
この後のことは正直、あまりよく覚えていないのだ。何も考えられなかったと言うべきなのか。
「思い出して」
初めてではなかったのだろう。
おそらくは、小さな頃にこういうことはあったのだろう。
カタンと椅子から立ち上がる音が聞こえて――
千佳にキスをされた。
幼馴染に唇を奪われてしまった。
何も言葉にはならず、千佳の表情もよくわからないまま、後ろから聞こえてきたドアの開く音で我に返り――
俺は逃げ出した。




