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少しだけ、勇気

 まだ朝も早かったので、みんなで集まって一階にあるオープンレストランで朝食をとることにした。

 梓とシンシアさんのことだけど、できれば聞かないで欲しい。今現在、俺のほっぺには絆創膏が貼ってある。つまりそういうことだ。

「まったく、まったくもう。先輩はどうしてシンシアちゃんに対してガードが甘いんですか」

 ぶつぶつぶつぶつと文句を言い、俺の左腕を絡め取ったままテーブルについていた。シンシアさんはここには同席しなかった。

 ややややあったのちに、みんなが騒ぎに集まって来て、結局シンシアさんの問題は置いたままでここに来てしまった。夜には追い出すさ。追い出せるさ。うん、きっと。

 こんな少人数のために用意された豪勢なバイキングで朝食を済ませ、テーブルを囲んで一息つきながら、みんなで今後の予定を話し合う。

「見物かな」

「お散歩でもいいかなあ」

「とりあえず水着に着替えるっていうのはどうかな」

「気持ち悪い」

「森もあったし、ここは森林浴」

「あ、僕は、いえ、なんでもありません」

 誰が何を言ったのかは想像にお任せする。

「先輩。水着、用意してきてますからねっ」

 梓は、海をご希望のようだ。

 俺は何だっていい。ここに来たことで満足していることもある。どうせ二泊三日じゃ全てを満喫できるわけはないんだし。ってみんなで行動するような流れになっているけれど、別に自由でいいんだよな。でもどうせならみんなで遊んだ方が楽しいだろうし。かと言って個人の自由を制限することはできないだろうし。じゃあやっぱりしたいことをするべきだよな。食事くらいは、みんなで一緒になるとして。

「じゃあ、これからはみんな好きなようにして、正午にはまたみんなでメシを食うってのでどうだ?」

 若干、考える素振りをみせたが、みんなはそれに同意してくれた。

 俺は梓が海海海海とうるさかったので、海に行くことにした。

 どうやらホテルの裏手から浜辺に下りられて、そこがホテルのプライベートビーチになっているようだった。島が貸切状態なんだからプライベートビーチも関係ないだろうけれど、まあ、近いし。

 一緒に海に行くことになったのは、あゆみと道寺くん以外。二人は散歩でもするそうだ。いろいろと話したいことでもあるのだろう。もちろん、もちろんあゆみには一緒に来るように言ったけれど、周りから好きなようにさせろとやかましく言われたので、渋々二人で行かせることにした。

 一旦部屋に戻り、海へ行く支度をする。

 部屋に戻ると、シンシアさんがいた。

「あら、プールか海にでも行きますのね?」

 俺の手荷物を見て、微笑む。

「うん。妹とそのお友達以外で」

 シンシアさんも誘った方がいいのかなあ。誘わなくちゃいけないんだろうなあ。一人だけのけものにするわけにもいかないだろうし。誘わなくても来そうだけど。

「そうですの。行ってらっしゃいまし」

 意外にも、シンシアさんはそれっきり窓から景色を眺めるように外を見た。

「一緒に、どう?」

「遠慮しておきますわ。水着にはあまり良いイメージがありませんのよ」

 ああ、水着のモデルをしたときのことを言っているのか。嫌だったって、苦い顔をして言ってたもんな。梓や千佳、女だけならよかったんだろうけれど、俺も、裕也もいるし。男の目に自らをあまり晒したくはないのかな。

「別に水着にならなくても」

「ビーチにいるだけでは、結局は一人でみなさんの遊ぶ姿を眺めるだけになるでしょう? わたくしのことはお気になさらずに。存分に遊んでらっしゃいな」

 軽くこちらを一瞥して、言った。

「じゃ、じゃあ、海に入らなくても砂浜でできることでも」

 シンシアさんは、くるりと振り返って、にっこりと笑った。

「ふふっ、マコトのそういうところ、好きですわよ」

「なっ!?」 

「ですけど、やはりわたくしはご遠慮しますわね」

 ま、まあ本人が遠慮するというのなら仕方ない。仕方ない仕方ない。

 それにしても……うん、まあ。やっぱ、ずるいよなこの人。少し笑っただけで、何もかも許されてしまうような、そんな美しさを持っているなんて。それに、なんか自然だった。初めて見たかもしれない、自然な笑い顔だった。

「じゃあ、行ってきます」

「ふふ、行ってらっしゃいまし。ごゆるりと」

 調子狂うな。何なんだよ。普段からそんななら、あるいは……いや、何でもない。

 部屋を出ると、エレベーターの前にメンバーが集合していた。

 梓、千佳、倉敷さん、裕也、優子さん。一番楽しそうだったのが、もちろん裕也だった。

 エレベーターの中でも、移動中でも、一人でテンション上げまくって喋りまくり。女子たちはそんな裕也を心底うざったそうな顔で見ていた。お前が女子に好かれない原因はそれだよ。空気読めよ。今ではあまり聞かなくなったKYってやつだよ。

 ホテルの裏手にある階段を下りると、そこはもうビーチだった。

 細かく手触りの良い砂が俺たちを出迎える。薄い青色の海。空と海との境界線がわからなくなるような透き通った海だった。

 更衣室とシャワールームを見つけ、さっそく着替える。

「た、楽しいね楽しいね。楽しみだね。みんなどんな水着なのかな。あっ、くそ、くそくそくそ! カメラ持って来るの忘れた。忘れちゃったよ。でもいいか。いいよね。この目に焼き付けておかないと。いやーほんと楽しみだね、真」

「うるせえよ」

 と男二人でこんなやり取りがあり、外で女子が着替え終わるのを待つことにした。

 楽しみじゃないと言えば、そりゃあ嘘になるよ? 俺だって年頃の男の子なんだし。梓のは一度見てるからわかるけど、千佳も昔からすれば随分成長したしなぁ、倉敷さんだってスレンダーな体でどんなプロポーションを披露してくれるのか。優子さんも、かなり可愛い女の子だったし、期待できそうだ。

 口には出さないけどね。

 一足先に、砂浜に降り立つ。

 そして、女子陣の登場だった。

「ブラボー!! 最ッッ高!! 来て良かった! 生まれて来てよかった!」

 ほえ~、ほえーほえーほえ~……。

 裕也がこれほどテンションが上がるわけがわかる。

 梓は、想像通りの怖ろしく良く似合う水色のビキニ。千佳は花柄の白いビキニで、やはり、成長が著しい。恥ずかしそうに体の前で腕をモジモジさせているのが逆にバストを持ち上げて、いや、感服です。倉敷さんは髪をポニーテールに結っていて、水着は赤いタンクトップだった。スレンダーで、トップはほどよく膨れていて、普段の倉敷さんの印象とは全く違う、堂々としている様子もあってスポーツ少女のような印象を受ける。優子さんはピンクボーダーのビキニでパレオをつけていた。女の子らしくてすごく可愛い。体型は梓に似ていて小柄な身長で細身。でもしっかりと梓より膨れていた。

 比べるところは、やはり比べてしまうのが男の子なのだ。そんな描写ばかりで申し訳ないけれど。いろいろあるよ、いろいろあるんだよ。可愛いサンダル履いてるとか、ワンポイントのアクセサリーがオシャレだねとか、でもね、やっぱそこがわかり易いでしょ。

「いいねいいねいいねいいねいいねーーーーーー!! じゃあ何する? みんな何しよっか? ビーチバレー、ビーチバレーなんていいんじゃないかな! ちょっとネット高くした方が面白いよ!」

 すげえな裕也。みえみえの魂胆だぞ。でもその方法で視覚効果がてき面なのは千佳だけのような気がするけれど。でも、ほんとに飛んだらすごそうだ。

 そんなはしゃぐ裕也のところに、とことこと歩み寄ってくる人物がいた。

 優子さんである。にこにこと機嫌良さそうだった。

「裕也さん。あれから、コンタクトって買いました?」

 唐突な質問に、俺も裕也も首を傾げる。

「いや、買ってないよ。あ、そうだね。きみは僕の素顔が好きだったん――」

「安心しました」

 裕也が言い終わる前に、優子さんは素早い動きで裕也の眼鏡をかすめ取った。

「ちょ、ちょっと! いきなり何――」

 バキッと、裕也の眼鏡が逝った。

 優子さんが、そのおみ足で踏みつぶした。さらにフレームをぐちゃぐちゃに曲げて、海へポイした。

「あ……あれぇ……?」

 裕也は茫然と唖然として、眼鏡の亡骸を見つめる。

 そこで梓が、

「みんなで相談して決めたんですよ。変態さんにはしかるべき対処をしましょうと。安心してください。眼鏡はきちんと弁償しますから」

 勝ち誇った顔で言った。

「べっ、弁償なんてどうでもいいんだよ! いやどうでもよくないけど! これじゃ見えないけど! それか! それが狙いなのか!? 弁償してくれるなら今すぐおくれ! 僕の眼鏡を今すぐ返しておくれ!」

「しょうがないですねー。これで我慢して下さい」

 そうして梓はサングラスを手渡した。見るからに高そうな、ブランド物の一品のようだった。

「装ッ着! って見えないし! 度が入ってないし! これじゃ目視三十センチだし!」

 裕也は言いながらサングラスを放り投げた。それがあれば眼鏡なんていくらでも買えそうなのに。

「…………」

 やべえ、テンパってる裕也が面白過ぎる。しかしここは親友として笑いを堪えておこう。いや必死だから。こいつはこれで相当マジだから。唯一の楽しみを奪われたと思ってしまえば可哀想だし。

「男前になりましたよっ。裕也さんっ」

 この優子さんとやら、梓といいコンビが組めそうじゃないか。

「ふっ……ふふふふふっ……」

「な、なんですか?」

「ええーい! こうなったら仕方ない、仕方ないよね! 僕の目視できる距離は三十センチメートル! それはつまりその距離内にきみたちの水着姿を捉えておかないといけないってことだよね! 行くぞー、行くぞ行くぞ行くぞーっ!」

「ちょっ、うわっ、きゃーーーーーーっ!!」

 吹っ切れた裕也はそのまま目の前の優子さんに襲い掛かった。本気の変態が開花してしまった。

「神宮寺さん! ここは危険です! 逃げましょう!」

「えっ、あれ、あれーーーーーーっ!!」

「ぐへへへへーーーーーーっ!!」

 梓を連れて逃げた優子さんとそれを追いかける変態。一応、どっちがどっちかくらいは見分けはつくと思うけれど。もし梓に襲い掛かった場合は俺が黙っちゃいないぜ。っとまあ、ともかく俺は、割れた眼鏡のレンズを片付けるのだった。

「ったく、このままじゃ誰か踏んじまうかもしれないだろ」

 指を切らないように気をつけながら、レンズを拾う。

「あの裕也が相手だからね。これくらいしとかなくちゃ」

 と、千佳もその場に座り込んで一緒にレンズを拾い始めた。

 自然な動作で千佳に目をやると、飛び込んできたのは、膝小僧でふにゅっと形を変えたお胸。

 うわ、うわうわうわ~。

「あっ……」

 千佳が俺の視線に気付いて、ジト目を向ける。

「じゃ、片付けはお二人に任せて、私はあの子らを助けにでも行こうかな」

 傍観者となっていた倉敷さんが、「ははははーっ、待てよ~」と言いながら先の三人を追いかける。海辺で戯れる若者グループが一つ出来上がった。

 倉敷さんを見送った視線を千佳に戻すと、

「えっち」

 すれ違い際にからかうような目で言われた。

「ま、待て待て千佳。それは誤解だと思うぞ。たまたま、ほんとたまたま、胸に目がいった時にお前が俺を見ただけだ。決してまじまじと見ていたわけじゃないぞ」

「そう。私、えっちって言っただけで胸を見てたからとか言ってないんだけどね」

 うっ……! やぶへびだった。

「い、いやーしかしあっついなここ。さすが南の島だ。はっはー」

「じゃあ、飲み物でももらいに行こう。みんなも走りまわって喉が渇くと思うし。ついでにレンズも捨てといてもらおうよ」

 千佳は立ち上がり「レンズ持ってね」と割れたレンズを俺の両手の平に乗せる。

 どうやら、お咎めはなしってところだな。よかったよかった。千佳相手だと右ストレートとか飛んできそうだからな。

 俺もレンズを落とさないように立ち上がり、その足をホテルに向ける。

 と、左腕に柔らかい感触が伝わってきた。

「なっ、なにしてんだよ……!」

「梓ちゃんの場所、どんなところなのかなって思ってさ」

 千佳が腕を組んできたのだ。俺は両手が塞がっているためにそれを振り払うこともできない。こんなとこ、梓の奴に見られたら……。

「ちょっとサービス」

「うおっ!」 

 肘の辺りに、千佳の胸が押し付けられる。ぐいぐいと、執拗に押し付けられる。

「馬鹿お前やめろって!」

「いいじゃない。気になってたんでしょ? こんなところまで来たんだから、非日常的なことがあってもいいと思わない?」

「非日常的過ぎる!」

 なに、なんですかこのシチュエーション! 怖過ぎて後ろを振り返れない。梓がこっちを見ていないことだけを祈ろう。

 ……それにしても千佳の奴、やっぱり育ったな。いろんな意味で。女って奴はわからない。昔はあんなにぺちゃんこだったのに。子供だから当たり前だけど。もう子供じゃないから、これも当たり前かもしれないけれど。

 お互いに高校生になったのだから。それも、もう半分を過ぎようとしているのだから。

 変わったな、こいつ。

 俺が変わっていないのか。

「それに、やっぱり居心地、いいし……」

「はあ?」

 ったく、俺の左腕は憩いの場じゃないってのに。

「ほ、ほらっ、早く行こっ」

 さらに腕が柔らかい未知の園に埋まり込み、千佳に連行される。

 ホテルまでの道のり、と言っても歩いて一分足らずの距離だけど、左腕はガッチリとホールドされ続けた。きめられていたと言ってもいい。

 ホテルに着くとまずフロントにレンズを捨てるように頼み(千佳が英語で話してくれた。ここだけは千佳がいてくれてよかったと思った)、レストランで飲み物を頼んだ。どうやら持ってきてくれるらしい。どこにとも誰にとも聞かれなかった。俺たちしかいないから。ほんとすいません。

 用事が済んだので戻ろうとしたところで、千佳からこんな提案があった。

「ビーチに下りて右側に岩場があったでしょ? つい今聞いたんだけど、そこに海を眺められる展望スペースがあるんだって。行ってみようよ」

 岩場なんて、あったっけ。右側にはヨットだかクルーザーだかが所狭しと並べられていただけだと思ったけれど。裕也の件があってよく見てなかったしな。

「いいけど、一度戻ろうぜ。梓の奴にも声かけないと」

「えーっ、いいじゃない。飲み物持って行ってくれる時に伝えておくように頼んでおくから」

「いやそれは……」

 マズイだろ。黙ってここまで来たから、今だってもしかしたら梓が騒いでるかもしれないのに。裕也が逆にとばっちりを喰らってるかもしれない。

 それに、千佳と二人っきりってわかったらあとで何て言われるか。

「心配?」

 とビーチを指差しながら言う千佳。

「主に自分の身を心配してるんだけどな」

 深く嘆息しながら俺は言う。

「ふーん。じゃあいいじゃない。真があとで梓ちゃんに怒られるだけだもん」

「お前、あいつがどれだけしつこいか知らないからそんなこと言えるんだよ」

「……しつこさなんて、知ってるよ。きっと、簡単には引き下がってくれないよね」

「うん、うん? ああ、引き下がらないな」

 微妙に会話が噛み合っていないような気もするけれど。

「大丈夫。私も一緒に怒られてあげるから」

「母さんに謝るんじゃないんだから……」

「あははっ、真がいたずらした時はよく一緒に怒られてたよね」

 そうだ、そうだったな。俺がいじめっ子から千佳を助けてやって、千佳は母さんから俺をかばってくれたりしてた。

「ああ、そうだっ――」


(――るから、約束だからね!)


「――あれ?」

「どうかした?」

 えっと、あれ、何だっけ……。

「いや、何か……」

「何か?」

 約束、してたっけ? 千佳と? 小さい頃に? いや、約束なんて、いくらでもしてきたし、いくらでも守ってきたし破ってきたし、ただの、断片的な記憶だろう。もしかしたらあゆみとの約束の記憶かもしれないし。昔の話しなんかしたから、ふと思い出そうとしただけだ。最近のことかもしれないし。

「何でもない。とにかく、戻るぞ。あとが大変なんだ。せっかくの旅行をベッドの上で過ごしたくない」

「え、えっち!」

「病院のベッドって意味だ!」

「わかってるわよそのくらい。それに、真が梓ちゃんに手を出せないこともね」

「出さなくても、出されるから怖いんだよ」

 そして結局は、やはりビーチに戻ることにした。

 条件付きで。

 ビーチまでの道、今度は右腕を千佳に明け渡すことになったのだ。

「いたずらいたずらっ。梓ちゃん気付いてくれるといいなぁ」

 気付かれたが最後、まずは飛び蹴りでもかまされそうだ。

 千佳が楽しそうにリズム良く歩くものだから、腕と胸とがおしくらまんじゅう。水着なもんだからさらに始末が悪い。直だから、一部肌と肌が触れ合ってますから。千佳とのこの時間だけで今までの梓とのボディーコミュニケーションを凌駕してしまってるような気がする。気を散らせ。煩悩を散らすのだ。

 そうしてようやくビーチまで戻って来てみると、

「何しとんじゃぁあああああああああああっ!!」

 梓が走ってきてライ○ーキックを放ってきた。

 千佳が俺をぽんっと押して、梓が割れた二人の間を通過する。見事なキックだった。

 梓はずしゃあと砂を巻き上げて着地して、すぐにこちらを振り返りギラギラと猛獣の目で牙をむいて叫んだ。

「〇Ξ☓γωξ◎△Π¢@Ω☆§☆Θ¶▼!?」

 ごめんなさい、訳せませんでした。

「ふふん、危ないなぁ梓ちゃん」

 勝ち誇り胸を張る千佳。おおう、挑戦的。一緒に怒られるどころか、どこか挑戦的。

「なっ、なっ、なっ……!!」

 梓の奴はさっきからもはや言葉にもなっていない。

 この隙に逃げ出せないものかなあ。

「この前、ちゃんと言ったよね。梓ちゃん」

 千佳の言葉に、梓は急に顔を青ざめさせた。

 今までの勢いはどこへ行ったのか、全身から力が抜けたようだった。それでも、その目だけは、鋭く千佳を睨みつけている。

「せ、先輩、行きましょう」

 千佳に背を向け、俺の手を取る。

「また逃げるんだ」

「…………」

「ずるいよね梓ちゃん。そうやって、ずっと一人占めにしてきたんだもんね。でも、私だって、今までのように見ているだけじゃないから。追いついて、追い越してみせるから」

 人のことずるいなんて言えないんだけどね、と小さく続けた。

 梓は千佳に背を向けたままで、無言で立ち尽くしていた。

 何だこの空気。

 気まずい、いたたまれない空気。

「お、おいおいどうしたんだよお前ら。何かあったのか?」

「何もないよ。私、みちるのところに行って来るね。海、見に行こうね」

 逃げるように、ではなかった。俺に対して少しだけ強気な、いつもの千佳だったろうけれど、それでも、余計なことは聞かれたくないような、そんな去り際だった。

「……梓?」

「も、もう! 先輩ったら、千佳先輩と何してたんですか!? 急にどこか行っちゃうし、探したんですからね!」

「わ、悪い。割れたレンズを処理するついでに飲み物頼んできたんだよ」

 梓はしきりに、二人っきりの旅行だったのに、と忌々しそうに呟いていた。

 気になっていたはずの、千佳と梓の様子も、この後の梓をなだめることに必死ですっかり忘れてしまっていた。追及しても、話してくれないような感じだったとも思う。

 梓の頭を撫でながらみんなに合流すると、裕也は縛られていた。

 端に生えていた木に、本当に身動きが取れないようにしっかりと縛られていた。哀れな奴と思ったけれど、それがどこか嬉しそうだったので同情するのを止めた。

 それからは、裕也がいなくなったからなのかビーチバレーを始めた。

 チームは千佳と倉敷さん。梓と優子さんだ。

 俺は審判。ルールは詳しく知らないけれど。いわゆるただのスコアラーだ。

「来なさい。豆電球の底光を見せてあげるから」

「ふんっ。ブレーカーを落としてあげます!」

 これが千佳と梓の試合開始の挨拶だった。

 結果を言えば、千佳と倉敷さんチームの勝ち。と言うか千佳の勝ち。

 内容の程は、千佳と梓の一騎打ちのようなゲームだった。千佳が拾い、倉敷さんがトスを上げ、千佳がスパイクを打つ。梓が拾い、優子さんがトスを上げ、梓がスパイクを打つ。倉敷さんと優子さんはほとんど動いちゃいなかった。

 二人の実力は拮抗していたけれど、体力的に千佳が上だったのか、梓は後半ボロボロだった。

「ぜはぁーっ! ぜはぁーっ! ま、まだです、まだ梓はいけます」

「ほ、ほら神宮寺さん。ちょっと休憩しよ」

 チームメイトの優子さんが梓に肩を貸す。

 朝から飛ばし過ぎだろ。一生懸命なのはいいけれど、遊びなんだから。どれだけ本気でやってたんだよ梓。

 梓は支えられながら、ふらつく足でドリンクを持ってきてくれた際にホテルの人が設置してくれたパラソルの下まで行き、腰を落ち着かせた。

「どう? 見てた真?」

 梓が行ったあと、千佳が誇らしげに言う。

「ああ、もちろん見てたぞ」

 審判ですから。

 いろんなところを見てました。いろんなところを見てました。いろんなところを見てました。

「いやー、うちのチームは強いだろう? ジョン」

「倉敷さんほとんど何もしてなかったじゃん」

「まあね。私はジョンを見てたんだよ」

「うん?」

「ジョンが何を見ていたのかを見ていたんだよ」

 わぁお。何をおっしゃるつもりでしょうか。

「そ、そりゃあ審判だし? ちゃんとゲームは見てたよ」

「ジョンが見ていたのはほら、あれだろう。ボールはボールでも……」

 そう言って倉敷さんは千佳の後に回り込み、

「このボールだぁ!」

「きゃあああああああああああああっ!! み、みちるちょっ……!!」

 ぐねぐねっつーか、うねうねっつーか、ぐにゃぐにゃっつーか、変幻自在な千佳のお胸様であった。

「うっわ、すげっ……」

 いや、口から素直に出てしまいましたよ。

「まっ、真……っ!! みっ、見るな馬鹿ぁっ!!」

「ぎゃあああああああっ!!」

 真っ赤っかな顔の千佳が足で砂を巻き上げ、それが俺の目にクリーンヒットした。思わず目を押さえて砂の上を転がり回る。裕也と同じレベルの被害にあったように思って、少し悲しくなった。

 でも、すごかった。梓じゃああはなるまい。

 この涙は、勝利の涙なのだ。

 涙で砂が流れ出て、痛みも治まりようやく目を開けると、にんまり笑った倉敷さんの顔があった。そして、ぼそっと呟いた。

「……すっごく、柔らかかったよ」

「倉敷さん……グッジョブ」

「じゃないわよ! みちる、そ、そういうのはお風呂でしてよね!」

 ……風呂でならいいのかよ。風呂って、個室にあったけれど、大浴場もあるのかな。どうでもいいけれど。

「ふうむ……」

 ま、そのイベントには参加できないな。ともかく、梓が心配だ。

 その梓はパラソルの下でぐったりとしてドリンクを飲んでいた。優子さんの手うちわ付きだった。斎藤さんの後釜が見つかりそうだった。

 梓のところへ行こうとすると、ぎゅっと手を引っ張られる。

「ねっ、真。海、海見に行こうよ。さっき言ってたところ」

「あーはいはい。あとで行くから」

「今! 今がいいな! 今じゃないとダメだと思う!」

 ぐいぐいぐいぐい、俺の手を引く千佳。

 どうしたってんだこいつ。やけにかまってもらいたがるな。

「んだよもう。あとで行くって言ってるだろ。もう梓ほっとけないって。行くなら一緒に行けばいいじゃないか。どうせなら、倉敷さんと優子さんも。良い場所なんだろ?」

 そう言うと、千佳はふくれっ面で俺を睨む。それだけで、反論はできないでいるようだった。だけど、今日の千佳はやはり違った。

「ふっ、二人で行きたいのっ!」

「はあっ?」

「い、いいじゃないたまには! いっつもいつもいつもいつも梓ちゃん梓ちゃんって! たまには私の相手してくれたっていいじゃない!」

「お前、何言って……」

 当然のように、俺は戸惑う。千佳が何を求めているのかがさっぱりだった。この間まで俺を避けていたっていうのに。涙目にまでなって。寂しかったとでも言うのだろうか。千佳の相手をするべきなのだろうか。千佳の目を見て、考えた。

 だけど。

 俺は梓が心配だった。

 元々は梓と二人だけの旅行のはずだったんだ。あいつはこの旅行を楽しみにしていた。羽を伸ばせると。二人っきりだからと。それなのに、いざ着いてみればあいつにとって良いことなんて何もなかったような気がする。梓が疲れきっているから心配。それもある。それよりも俺はあいつの気持ちが心配だった。

「悪いな。あとで二人で行く時間作るから。約束する」

 千佳はしばらく黙りこんだ後、掴んだ手を力無く離した。

「……約束なんて、どうせ守ってくれないくせに」

 そういう台詞を残して、千佳はホテルへ向かって歩き始めた。

「お、おい、どこに行くんだよ」

「ちょっと用事思い出した。すぐ戻って来るから」

 用事って、一人で用事なんてあるのかよ。

 俺のせい、か?

 呼び止めればよかったのだろうけれど、俺には情けなくも千佳の背中を見送ることしかできなかった。千佳を一度突き放しておいて、呼び止める言葉を俺は持ち合わせていなかったのだ。

 倉敷さんも珍しく千佳を追うことはしなかった。こういう時は決まって千佳を追いかけるものだったのに。

「倉敷さん、あいつ何かあったの? 何か今日は少し様子が変だから」

「さあね。ちーちゃんはジョンの幼馴染だからね。取られたようで、ただ寂しかったんじゃないかい?」

 知っているようにも、知らないようにも見える素振りだった。知っていたとしても、言わないってことなのかな。千佳だって、いまさら取られたなんか思ってないだろ。それなら二年前の話しなんだ。

「それにそんなこと、私よりも幼馴染のジョンの方がわかるんじゃないのかい?」

「いや、ははは……」

 痛いところをつかれた。今朝方、千佳に言われたばかりのことだ。

 何にも知らない。

 幼馴染でもわからないことくらいある。実際、わからないんだから。言い訳もできやしない。

 とにかく、どうすることもできないし、梓の様子でも見てみるか。

 倉敷さんも、それに同行するようだった。

 梓のところへ行ってみると、

「あ、先輩。同世代の子に慕われるっていうのはなかなか良い気分になりますね」

 まったくもって心配無用だった。

「神宮寺さん。はい、ドリンク」

 即席メイドが誕生していた。

「ああ、はい、ありがとうございます。でももういいですよ。三杯目ですし」

「遠慮なんてしなくていいんだよ。どんどん飲んで」

「はい、どうも。……げふっ。はい、ごちそうさまでした」

「まだまだあるよ」

「いえさすがにもうお腹いっぱいです。あっ、も、もうほんとに。うぷっ……。うはっ、も、もう無理。うっ、うぅん。はっ……も、もう入らない、んっ、んっ、んっ……んあっ、あっ、あふれちゃうぅ先輩っ!」

「うるせえよ」

 どうやら調子を取り戻した様子の梓だった。

「その様子だと、さっきの疲れも取れたみたいだな」

「う、ううん……。だるいです。きついです。ベッドで横になりたいです」

「そうか。じゃあ優子さん、梓を部屋に連れて行ってくれないかな。また喉も渇くと思うし」

「全ッ然元気ですよぉ! 先輩!」

「うん。よかったよかった」

 といつものやり取りである。心配なさそうだな。

「はっはっは、相変わらずだねあずあず」

「むっ、みっちー先輩。千佳先輩はどうしたんですか?」

「さてね。ホテルに向かったけれど」

 そこで梓は、何か考えるように宙を仰いで、手をポンっと叩いた。

「先輩、泳ぎましょう」

 何だ、考えて出た結果がそれか。

「そうだな、せっかくだし」

「日焼け止めお願いしまっす!」

「倉敷さん、優子さん、お願いするよ」

「はいよー」

「わかりましたっ」

「いやんっ、やっぱりですかー!」

 わかりきったオチだった。

 女子三人はキャッキャウフフな日焼け止め塗り合いっこをしてから、海に飛び込んだ。

 俺もあとに続いて、それに便乗する。

 立っている足元が透けて見えるほどに澄んだ海だった。少し向こうで木に吊るされた裕也が見えたが気にしない。女子三人もあの距離なら裕也の魔眼から逃れられて安心だろう。

 水をかけあったり、海に浮かんでみたり、波に揺られてみたり。とても楽しくて、気持ち良くて、すっごく、夏だった。

 しばらく遊んでいると、あゆみと道寺くんがやってきた。

 ずっとホテルの敷地内を散歩していたようだ。二人の様子から特別に仲が進展したような痕跡は見受けられない。とても良いことだ。

 そしてちょうど昼食時だと言うので、ホテルに一旦戻ることになった。

 そこでようやく、裕也が解放された。

「ふっ……ふふっ……たとえ見えなかったとしても、一度目に焼き付けたきみたちの水着姿は忘れないよ。聞こえてきた楽しそうな声だけでそれはもう僕のイメージはフルスロットルだったさ。……いいなぁ、僕も一緒に遊びたかったなぁ」

 ご愁傷様です。

 レストランへ行くと、シンシアさんと千佳がいた。

 用事って、シンシアさん絡みだったのか?

「あっ、みんな。もうお昼? 戻るつもりだったんだけど、シンシアさんに会って話し込んじゃって」

 と舌を出しながら笑う千佳。どうやら俺の思惑は違ったようだ。

 昼食もまたバイキング。

 良い陽気で気持ちが良いからと、テラスを勧められてそこで食べることになった。

 今度はシンシアさんも一緒だった。

「それでマコト。どなたが一番素敵でしたの?」

 意地悪くそんなことを聞いてくる。立場上、立場なんて何もないけれど、梓と答えておくべきか少し迷って、

「梓」

 やはりそう答えたのだった。梓は「えへへ」としがみついてきた。ない胸を押しつけてきた。やめろ、何だか悲しくなってくる。

「あらあら、残念でしたわね。チカ」

 どうしてそこで千佳に話しを振る。そして落ち込むな千佳。口には出さないが、お前が一番魅力的だったぞ。口には出せないけれど。ほんと、また絆創膏が増えますから。

「いえ実は、さきほどチカから相談を受けていましたのよ。自分に女性としての魅力がないのかと嘆いておりましたわ。散々バストでアピールしていたそうですのに」

「シンシアさんっ!!」

 テーブルをバンッと叩いて千佳は立ち上がる。怒っているのか恥ずかしいのか、耳まで真っ赤だった。

「でもマコトはそのあたりには興味がないのかもしれませんわね。今朝わたくしの胸に触れた時もそれほどリアクションがありませんでしたもの」

「「「はっ!?」」」

 うわお。三人揃っちゃった。俺と千佳と梓。

 リアクションしてたじゃん。ちゃんと驚いてたじゃん。ちゃんと手を引っ込めたじゃん。

「どういうこと真!?」

「どういうことですか先輩!?」

 ナイスコンビ復活!

 そうか、一つわかったぞ。この二人が仲良くするには俺を敵にすればいいんだね。

 おかしいね、ナイフとフォークが凶器に見えてきたよ。向けるな向けるな。シャレにならん。

 ここで慌てるからダメなのだ。俺は無実だと信じてもらえるには真摯に話しをしなければならない。

「聞いてくれ、二人とも」

 ただ事実を伝えるのだ。

「俺はただ、自分の胸に手を当てて今までのことを思い返してみろって言っただけなんだ。そしたら、手を取られた」

 伝えた。

 真剣に無実を訴えた。

「んっ」

「んっ」

 そうすると、二人とも自分の胸に俺の手を当てた。

「馬ッッッ鹿じゃねえのお前ら!!」

 すぐに両手を引くと目の前でバッテンができた。

 どうして、どうしてそうなるの? 俺が間違ってる?

「うふふっ、楽しいわあ」

 全然楽しくねえ。

 でも、二人が照れてしまったおかげで俺自身は事なきを得たのだけれど。

 梓はわかるとして千佳の奴まで何してやがる。

 俺の幼馴染が梓に毒されていっている。よくない傾向だ。非常によくない傾向だ。梓みたいなのが増えたら大変だ。

 梓みたいなのが……?

 千佳がそうなるわけないか。梓は俺のこと大好きッ子だからな。きっと千佳はこの現実離れした旅行でおかしくなっているだけだ。微妙に周りにノリを合わせてるだけだ。ハメが外れているだけだ。

 そうじゃないとなあ。

 千佳が梓と同じって……ないだろ。

 たとえそうだとして、俺が千佳とずっと一緒にいたとして……

「ジョン。手が止まってるけど、余韻に浸っているのかい?」

「えっ、いや何を馬鹿な」

 何考えてるんだ俺。

 馬鹿馬鹿しい。

 梓で、手一杯だっつーの。

 そうだ、手一杯だ。

 昼食を終え、シンシアさんはまたどこかへ行ってしまった。それも、また俺たちが海へ行こうと決めたからだ。だけどそれはシンシアさんの「マリンスポーツでもいかが?」という一言がきっかけだった。

 しばらくレストランでだらっとして過ごしたあと、フロントにマリンスポーツをしたいと伝え、また海へ向かう。

 準備されたものは、サーフィンボード関係と、マリンジェット。あとはヨットにも乗せてくれるそうだった。

 俺が選んだものは、パラセーリング。ジェットスキーに引っ張られて舞い上がるパラシュートのやつだ。前々から一度やってみたかったものだったから、すぐにそれを選んだ。

 みんなもそれぞれ、やりたいものを選んでいるようだった。インストラクターはそれぞれのスポーツにつき、片言だけれど日本語で説明してくれるので安心だった。梓も俺と並んで飛ぶようだ。

 さっそく装備を固め、ジェットスキーは走り出し、空に舞い上がる。

「かーーーーっ! 思ったより怖い! でも気持ち良い!」

 思わず叫びたくなって叫んだ。海が遠くまで見渡せる。どこまでも透き通る海を空から眺めると、本当に別世界にいるかのように思えた。

「せんぱーーーーいっ!」

「おーーーーいっ!」

 梓が手を振って、俺も手を振り返す。

 はっはははっ! 最高ッ! 

 下を見下ろすと、千佳と倉敷さんはドーナツボートで遊んでいた。ジェットスキーに引っ張られるドーナツ型のボートだ。ちょうどひっくり返ったところだった。笑い声が聞こえる。あれも楽しそうだ。

 あゆみと道寺くんは水中が覗けるボートに乗って海上遊覧を楽しんでいるようだった。あっ、おいあんまりくっつくな。

 優子さんはボディーボードをうまく乗りこなしている。裕也もそれを真似しようとしているみたいだったけれど、ずっと転覆を繰り返している。

 やっぱ、こういうのだよな。

 こういう楽しみ方こそ、旅行ってもんだ。

 パラセーリングを堪能して、次は千佳と倉敷さんがやっていたドーナツチューブボートに乗ることにした。否応なく、梓と一緒。だけどまあ、二人だからこそ面白いんだろうな。

 いざやってみると、しっかり掴まっていないとすぐに振り落とされそうで、それに梓がわーわーきゃーきゃー騒ぐもんだから俺も一緒になって笑った。これは楽しい。疲れたけれど。

 それぞれがいろいろと堪能したところで、ビーチで休憩。

 いつの間にかパラソルとテーブルセットが用意されていて至れり尽くせり。ドリンクは標準装備だった。

 まったりする。

 通り抜ける風が気持ちよかった。

「楽しかったですね先輩」

 ドリンク片手に満足そうな梓だった。

 やっぱり、なんとなく、こういう風景に似合う奴だと思った。綺麗なビーチで羽を伸ばすお嬢様。先入観かもしれないけどな、そういうイメージが沸いた。

「ああ、楽しかったなぁ」

 悪くない。

 こいつと、たまにはこういうのも悪くない。

 そう思った矢先。

「は~い、真」

 千佳が陽気に現れた。

「ま、また来やがったです」

 梓は心底嫌そうな顔をする。ズズズとなくなってしまったドリンクをすすり、千佳を恨めしそうに睨みつける。

「梓ちゃん、真借りてくね」

 そんな梓に笑いかけながらそういうことを言ってのける千佳。

「は? ダメです」

「そう言うとは思ってたけど、約束してるんだ、真と」

 ……ああ、そういやしたっけ。海を見に行く約束。でも千佳だってパラセイリングやってたんだから海なんて十分に眺められただろうに。

「ああ……いや、まあ……」

「何? あとで二人で海を見に行くって言ってたでしょ?」

「たしかに、そうなんだが……」

 おお痛い痛い。梓の視線が突き刺さる。

「先輩、そんな約束してたんですか?」

「いやその、なんだ、これには理由があって……」

「やっぱり、約束守ってくれないの?」

 うっ……そんな言い方はずるいぜ千佳。俺から約束するって言ったんだよな、たしか。言ったなぁ、たしかに言ったよなぁ。嘘つき。ここで約束守らなかったら嘘つきか。そう思われても構わないっちゃ構わないけれど、また千佳の機嫌が悪くなるかもしれないしなぁ。うーん、でも梓がなぁ。睨んでるんだよなぁ。でもやっぱり約束だったからなぁ。ハァ……。

「わかった、わかったよ。行くよ。梓、少し待っててくれ」

「うんっ」「嫌です」

 ……うん、だよねぇ。

 さっきは千佳に悪いことしたから、ここは梓に我慢してもらうことにしよう。うん、そうしよう。このままだといつまでも千佳に同じことを言われ続けられそうだし。

「さっきさ、梓のところに急いでたからそんな約束しちまったんだよ。だから勘弁な。な?」

 お願いポーズを披露して、俺は言う。

「で、でも……」

「ねっ、いいでしょ梓ちゃん。真には何もしないから。約束」

 何も言わないから、と千佳は続けた。千佳に弱みでも握られてんのか? 梓の奴。

「少しくらい、慈悲をくれたっていいんじゃない?」

 梓相手にえらく下手に出るな。珍しい。

「……わかりました。少しだけ、ですよ?」

「わかってるわかってる。じゃあ真、行こっ」

「あ、ああ」

 千佳はさっさと歩き出した。手を頭の後ろに組んで、機嫌良さそうに歩く。俺は一度そのあとに続くか躊躇したあと、追って歩き出した。梓はこちらを見ようとはしないで、強気に優子さんにドリンクをねだっていた。

 それを一瞥して、今度は千佳の背中を追う。その先にあるのは、木製の船舶所と、さらにその先には崖と岩場。そこを目指して歩く。

 千佳は連れ出すだけ連れ出して、俺の姿を何度か確認しながら特に何も話すことなく歩いていた。

 そして岩場までやって来ると、そこには木で作られてある遊歩道のような通路があった。

「あっ、きっとあそこだよ」

 そこを指差し、千佳が手招きする。

 その通路は階段を上がり、崖を囲むように奥へ続いていた。人ふたりが並んで歩ける程度の広さを通路を進む。小さな階段を一つ二つほど上がり、少し進むと、ちょうどビーチが見えなくなった辺りにバルコニーのようなスペースがあった。

 岩場の上に作られた展望スペースで、ベンチが二つ。岩場から乗り出すように作られていて、ひょっとすれば海の上に作られているのではないだろうかと錯覚してしまいそうだった。

 海だった。

 目の前に広がるのは、薄い水色の海。

 それだけだった。

 それだけで十分だった。

「いい景色ー。ねっ、来てよかったでしょ?」

 ベンチに座り、満足そうに千佳は言う。

「たしかに。こりゃ絶景だ」

 千佳に隣を催促され、千佳の隣に腰掛ける。すると千佳はもう一つ小さく笑って海の方を向いた。

 観光客もいないから、聞こえてくる音は波の音だけだった。

 静かで、時間を忘れてしまいそうになる。

 まるで別世界だった。

「静かだね。違う世界にいるみたい」

「ははっ、同じこと考えてた」

「ふふっ、そう」

 千佳の最近では、一番穏やかな顔だった。

 最近では、だな。こいつ、どうも様子がおかしい。夏休みの件といい、やたら梓にからむし、今だって二人で来たいなんて。もしかして倉敷さんが言ってたように本当に寂しいとでも思っているのだろうか。

 梓に俺を取られて。

 幼馴染を取られてしまって。

 いつもどこでも一緒だったから。

 兄妹を取られたような、家族を取られたような、そんな感覚なのだろうか。

 返して欲しいとでも思っているのだろうか。

「梓ちゃんのこと考えてるでしょ」

 千佳が唐突にこちらを見て言ってきた。

「……まあ、梓のことでもあるし、お前のことでもあるし。何かお前の様子が変だから。梓と何かあったのかって、やっぱり気になって」

「ふーん、そっ」

 今度はそっけなく、視線を外す。

「そってお前、本当に何もないのか?」

「何もないよ。梓ちゃん、真とずっと一緒だったでしょ?」

 うん、言われてみればそうだ。夏休み中べったりだったからな。それにここまで来るのにも二人だけの飛行機だったし。千佳と梓の接点がない。何もあるはずがないのか。だったら、いつもの千佳なりの意地悪ってことなのか。

「そういえば、一度梓ちゃん行方不明になったんだっけ」

「ああ、そういうこともあったな。あんときゃ大変だったぜ。ありがとな、探してくれて」

「うん、いいよ。結局、一人で公園にいるところを見つけたんでしょ?」

「そうなんだよ、ったくあいつはほんとに人に迷惑ばっかかけるから」

 千佳は一度小さく笑って、遠くを見つめながら言った。

「でもそれってさ、梓ちゃんなりの努力なんだよ。真に振り向いて欲しい一心だったんだと思うよ」

「んー、まあ、そう、なのかもなあ」

「私がどこか行っても、真は探してくれる?」

「そんなの当たり前だろ。何言ってんだよ」

「そっか。じゃあ、私も行方不明になってみようかなあ」

「いや、やめろ。マジでしんどいから」

「あっははっ。じょーだん」

 そして千佳は立ち上がり、柵に手をつき、呟くように口にした。

「彼氏、作ってみようかなあ……」

「はっ?」

「って言ったらどうする?」

 くるり、振り返っていたずらっぽく笑う。

「……言ってんじゃん」

 どうするって、俺にどうしろって言うんだ。

 千佳に彼氏……千佳に彼氏、ねえ……。

 やべえ、まったく想像できない。こいつと付き合う奴がどんな相手かまるで浮かんでこない。

 そんな時は、祝福してやるべきなんだろうな。

 そう、祝福してやるべきなんだろうけれど、何だろう、実際こいつに彼氏ができたことがないからはっきり言えないけれど、素直に祝ってやれない気がする。

 現に今も、俺は何も言えないでいるのだ。

 言葉を選んでいるわけでもない。

 ただ、何も言うことが思いつかない。

「なーんて、何本気で考えてるの?」

「ばっ、お、お前っ! そ、そりゃお前に彼氏ができるとなれば、お、俺だっていろいろ考えるところがあるんだよ」

「へーっ、たとえば?」

「ん、んん……いやほら、いろいろな?」

「はぐらかさないで。言ってよ」

「だ、だからいろいろだよ」

「言って」

「う、うん?」

「ちゃんと言って」

 何だよ、急に真剣な顔になって。何て言うんだ。何て言って欲しいんだ。わからねえよ。俺は幼馴染のことが何もわからない。

「……何て言えばいいのか、わからねえよ」

「そっ。わからないなら、それでいいや」

 また少し、笑った。

 変な奴。

 結局は何も言っていないのに、それでどうして満足そうな顔ができるんだか。

「もう少しだけ、真借りててもいいのかなあ?」

「ん、いいんじゃないか? このまま海眺めてるだけならあいつだって文句は言わないだろ」

「じゃ、どういうことしたら梓ちゃん怒ると思う?」

「お前わかってて言ってるだろ。やめとけよ?」

「ふふっ、何もしないよ。梓ちゃんと約束したからね。真も、約束は守らなきゃ、ね」

 それっきりだった。

 それっきりで俺と千佳の会話は終わり、静かに海を眺める。

 満天の星空だって見飽きてしまうものだから、景色の変わらない海をずっと眺めているだけでも飽きてくる。夕焼けの雰囲気もまだ見て取れない。

 だから必然的に俺の眺める対象は千佳になる。

 海に向かい、手すりに肘をつき、もうすっかり乾いてしまった髪を揺らしながら海を眺めている。それを俺はベンチに座って眺める。

 青々とした海と空。それに白いビキニがいいコントラストになって、絵になった。

 いい女がそこにいた。

 いいなあと思う。見れば見るほど、そう思ってしまう。

 思って、思いつめたところで、思うことをやめた。

「そろそろ戻ろうぜ」

 日が少し傾いたと思っただけで、どれくらい時間が経ったのかはもうわからなかった。

「ここで待っていれば、梓ちゃん心配になって来ちゃうんじゃない?」

 顔だけを向けて、千佳は言う。

「来ないよ」

 俺は言う。

「あいつ、こういうことって案外律儀だからな」

 千佳のことは友達と思っているはずだから。だから来ないと思う。戻って来るまで待っていると思う。そういう約束をしていたから。

 千佳は一つ溜息をついて、

「あーあ。やっぱりかぁ。一緒にいた時間は、私の方が長いはずなのになぁ」

 残念そうに呟いた。

「何の話しだよ」

「梓ちゃんのことはわかるんだねって話し」

 嫌味っぽく、呆れた目を向ける。

「わかり易い奴だからだろ、ただ単純に。あいつがストレート過ぎるから」

「だねー。いーよ、真はここにいて。私が梓ちゃんを呼びに行ってあげるから」

「は?」

「梓ちゃんにお返し。良い場所だったでしょ? あんまり意地悪すると恨まれそうだから、二人っきりの時間を提供してあげよっかなって」

「俺の気苦労なんて何も考えてないだろ」

「あれ? 迷惑?」

「……いや、頼むわ。ご機嫌取りもしておかないと、な」

「はいはい。婚約者も大変ですねっと」

 そして千佳はビーチへと足を向ける。

「おまっ、俺はあいつの婚約者ってわけじゃねえよ。あっちが勝手に言ってるだけで、大体俺はあいつのことなんて……」

 言うと、千佳は振り返って不機嫌そうな眼差しを向けた。

「何言い訳してんの? 真がそんなんだから、私はいつまで経っても……」

 言いかけて、首を横に振って、またビーチの方へ向き直った。

「婚約って、結婚を約束してることなんだよ」

「ああん? んなことわかってるさ」

「……約束は、守らないとダメだよ……」

 行ってしまった。

 結局、あいつは何がしたかったんだ。

 約束は守れって、何だかんだで梓のことを応援しているとでも言いたいのだろうか。

 そんな馬鹿な。

 千佳まで梓側についてしまったら俺にはもう頼る奴は誰もいなくなるじゃないか。

 もっとも、頼るも何も、これから俺と梓がどうなるのかなんてまるでわからないのだけれど。最初とは状況が大分違ってしまったから。

 今の俺と梓の問題。

 これこそ単純だ。

 俺がその気になればいいだけの話しなのだ。

 向こうの世界のことを勉強して、一成さんと一緒に暮らす勇気を出すだけなのだ。

 梓と一緒に暮らす勇気を出すだけなのだ。

 それだけで全てが終わる。

 この物語は完結だ。

 見事、ハッピーエンド。

 果たしてそれを俺が望んでいるのか。

 結局はそこだ。

 そこだけなのだ。

 梓と一緒になれば今までの千佳や裕也や倉敷さん、学校の友達との関係も続かないだろう。家族とも同じ関係ではいられまい。

 全てが変わる。

 まるで違う世界で生きていかなくてはならなくなるのだ。

 そういうことだ。

 梓と一緒になるということはそういうことなのだ。

「せーんぱいっ」

「……おうっ」

 その梓がやって来た。優しい笑みを浮かべて、ベンチに座る俺を通路から見ていた。

 俺が気付いたことを確認して、俺の隣にちょこんと座る。

 神宮寺梓。

 背丈は小さく、まあ胸も小さく、腕も細く、女の子。表情豊かな女の子。自分に正直な、真っすぐな女の子だ。真っすぐ過ぎる女の子だ。ある意味では歪んでいるのかもしれない。自分の置かれている状況を全く考慮せず、俺なんかを追いかけ回す、屈指のお嬢様。

 可愛い奴だ。

 梓は俺にすり寄ってきて、すんすんと鼻を鳴らした。

「な、何だよ」

「ふうむ、千佳先輩の匂いはしませんね。何もなかったようで安心です」

 にこーっとも、にやあっとも笑う。

「その特殊能力は封印しとけ。何もあるわけないだろ」

「えーっ。そんなのわかりません。先輩は実は可愛い女の子に弱いですから」

「ふっ、言われのない誤解だな。俺が弱いのはシンシアさんだけだ」

「がぁぶ」

 肩を噛まれた。

「いっててっ! 地味、地味に痛いからやめろ!」

 噛みつくのをやめて、いつも通りに、左腕にしがみつく。

「ふんぷんです。最近の先輩は梓以外の女の子と仲良くし過ぎです」

「言う程仲良くしてねえだろ。お前とずっと一緒なんだから」

「そうです。先輩はずっとずぅっと梓と一緒なんです」

 だから、真っすぐ過ぎる。

 結構プレッシャーになるんだ。そんな真っすぐな愛情をいつも向けられていると、プレッシャーになる。答えてやらないとって、思ってしまう。それをできないことが、情けなく感じられる時だってある。

「やっと二人っきりです」

 そう言いながらも梓は少し寂しそうだった。

 理由はわかる。二人っきりになれる機会を先に千佳に奪われたからだ。

 我慢していたんだろう。

 心配だったろう。

 せめてもと、頭を撫でて、抱き寄せてやる。

「えへへ……」

 せめてなんて本当に言い訳で、俺がこいつのこんなに嬉しそうに笑う顔を見たいだけなのかもしれない。

 一緒になればこいつは毎日こうやって笑っていてくれるのだろうか。幸せそうな顔をしてくれるのだろうか。俺がいるだけで、こいつを幸せにしてやれるのだろうか。

 何の取り柄もない男だけれど。

 それには決意が必要だ。

 高校生の、若輩者の、軟弱者の、小さな決意が必要だった。

「待っ……」

 言いかけて、俺はやめる。

 何を言おうとしていたんだ俺は。

 それは決意の裏にある、決定的な言葉だったのかもしれない。

 待っててくれって。

 俺は今そう言おうとしていたのだ。

 不思議そうな顔で見上げる梓を見つめて、言葉を飲み込んだ。

「来いよ」

 梓の手を引いて、立ち上がる。

 展望スペースの手すりまで行き、梓と並んで海を眺める。

 俺は素直になれない。おそらくは、自分の気持ちにも素直にはなれない。これからどれくらい先までそうなのかもわからない。

 だから言い訳を口にするしかできないのだ。

「詫びだ」

 何の、とは言わなかった。

 目を瞑っていたから梓の表情はわからない。

 だけど面食らった顔だけは想像できた。

 この前よりかは、ロマンチックだと思うけれど。


「うっひゃーーーーぅっ!!」


 台無しだぜ、梓。

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