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鳴らない鐘を、あなたと調律する  作者: 銀細工ナギ


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9/20

領主の迷い

 夜明け前、王都の城壁が霧の向こうに浮かんだ。


 高い壁の上には、中央鐘楼の尖塔がそびえている。リゼットはその姿を見ただけで、胸の奥に灰色の音を感じた。以前は、あの鐘楼から響く音を追いかけることが仕事だった。災害の兆しを聞き取り、調律を整え、誰より早く知らせても、記録に名が残ることはなかった。


 今は違う。


 彼女の後ろには、十二個の仮設鐘と、それを守る村人たちがいる。街道のあちこちに残された鐘は、夜通し細い音を交わし続けていた。


「入城の許可が下りなければ、どうしますか」


 エドガルが尋ねた。


「門の前で鐘を鳴らします」


「それでも止められたら?」


「別の鐘を鳴らします」


 答えてから、リゼットは自分の声に気づいた。以前なら、許可がなければ何もできないと思っていた。けれど、許可を待つあいだに失われるものを、もう知っている。


 エドガルは笑わなかった。王都の城壁を見つめたまま、手袋の上から指を握りしめている。


「私は、ここへ来るのが怖い」


 意外な言葉だった。


「領主が?」


「領主だからこそだ。王都では、私の爵位も領地も、誰かの署名ひとつで意味を失う。父の代から仕えてきた役人たちは、王都の制度に従うことを正しさだと信じている。私が間違っている可能性も、まだ消えない」


 リゼットは彼の横顔を見た。エドガルはいつも先に決断し、危険の前でも声を荒らげなかった。だが、その静けさは恐れを隠すためのものだったのかもしれない。


「間違っていたら、直せばいいと思います」


「簡単に言うな」


「簡単ではありません。でも、間違いを認めない人の方が、ずっと多くを壊します」


 彼は返事をしなかった。


 門前には、すでに王都の兵が並んでいた。先頭に立つのは、黒い外套を着た男だった。エドガルの領地を監督していた中央災害局の次官、ヴァルターである。


「エドガル辺境伯」


 ヴァルターは冷たい声で言った。


「王都は、無許可の鐘を持ち込むことを認めていない。ましてや、中央鐘楼の記録を改竄した疑いのある者を同行させるなど、正気とは思えぬ」


 リゼットの背後で、村人たちがざわめいた。


「改竄したのは、あなた方でしょう」


 彼女が言うと、ヴァルターは目を細めた。


「身分をわきまえよ。資格を持たぬ調律師が、王都の制度を語るのか」


 その言葉は、昔から何度も聞かされてきたものだった。耳に触れた瞬間、音が黒く濁る。リゼットの指が記録板の縁を強くつかんだ。


 エドガルが一歩前へ出た。


「彼女は私の証人だ」


「領主が証人を選ぶとは、ずいぶん都合のよい話だ」


「違う」


 思わず、リゼットが言葉を挟んだ。


「私を選んだのは、領主ではありません。音です」


 ヴァルターが眉をひそめる。


「音?」


「鐘の異常を聞いたのは私です。水路の遮断を見つけたのも、記録の不自然さに気づいたのも私。けれど、その判断を信じるかどうかは、私自身が決めます」


 言いながら、声が震えているのを感じた。大勢の前で、自分の力を隠さず語るのは初めてだった。王都の鐘楼にいたころは、異能を知られれば仕事を奪われると思っていた。


 ヴァルターは兵に命じた。


「鐘を没収し、二人を拘束しろ」


 兵士たちが進み出た、そのときだった。


 城壁の外から、ひとつの鐘が鳴った。


 街道の最初の鐘である。


 続いて、遠くの丘から二つ目が応じた。林、川辺、宿場。村から村へ渡された音が、王都の門前へ押し寄せてくる。


 音は一つではなかった。


 低いもの、高いもの、ひびの入ったもの、鐘舌の代わりに鉄片を吊るしたもの。揃っていないからこそ、どこから鳴ったのかがわかる。王都の整えられた鐘律にはない、暮らしの音だった。


 門の上で、見張りの兵が叫んだ。


「西の街道から、合図が届いています!」


「北の村も鳴らしています!」


 ヴァルターの顔から余裕が消えた。


 エドガルは門を見上げ、それからリゼットを見た。


「今なら、引き返せる」


「あなたが?」


「私が、君を領都へ戻す命令を出す。君を守るために」


 その言葉に、胸の奥が痛んだ。守ると言われることは、閉じ込められることと紙一重だった。


「それは、私を信じることですか」


 エドガルは黙った。


「それとも、私がここで傷つくのを見たくないだけですか」


 彼の目が揺れた。領主としてではなく、一人の人間として迷っている目だった。


「……両方だ」


 やがて、彼は正直に答えた。


「君を信じている。だからこそ、失うのが怖い」


 リゼットは記録板を抱え直した。


「なら、命令しないでください。隣にいてください」


 エドガルはしばらく彼女を見つめ、それからうなずいた。


「わかった」


 二人は門の前に並んだ。


 リゼットは聴魔針を取り出し、仮設鐘の響きを読み取った。ばらばらだった音の中に、ひとつの乱れがある。中央鐘楼から放たれた調整波が、街道の鐘を無理に同じ音へ戻そうとしていた。


 自由に鳴る音を、ひとつに押し込める波。


「鐘楼が、仮設鐘を消そうとしています」


「止められるか」


「止めるのではなく、聞かせます」


 彼女は銅線を門の金具に結び、最も近い鐘へ音を送り返した。村々の鐘が次々に重なり、王都の調整波を包み込んでいく。


 中央鐘楼の音が、初めて揺らいだ。


 門前にいた人々が息をのむ。


 そして、城壁の上から別の鐘が鳴った。小さく、ためらうような音だった。


 誰かが、中央鐘楼の中で綱を引いたのだ。


 リゼットには、その音が淡い黄色に見えた。恐れの中に混じる、ほんのわずかな決意の色だった。


 エドガルが顔を上げる。


「中にも味方がいる」


「味方かどうかは、まだわかりません」


「それでも、扉は開くかもしれない」


 重い門が軋み、少しずつ動きはじめた。


 王都の内側から、誰かが走ってくる音がする。急いでいるのに、足取りは何度も乱れていた。


 やがて門の隙間から現れたのは、鐘楼の古い制服を着た少女だった。


「リゼットさん」


 少女は息を切らしながら、震える手で一枚の紙を差し出した。


「これを見てください。あなたの名前が、まだ記録から消されていません」


 紙には、十年前の調律記録があった。


 最下段に、かすれた署名が残っている。


 リゼット・アルノー。


 初めて、自分の仕事が自分の名前で記されていた。


 彼女は紙を受け取り、しばらく声を出せなかった。


 門の向こうで、中央鐘楼がまた鳴る。


 今度の音は、黒くなかった。


 迷いを含みながらも、誰かが真実へ向かおうとしている音だった。

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