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鳴らない鐘を、あなたと調律する  作者: 銀細工ナギ


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11/20

あなたの判断を信じる

 聴魔針の先から、銀色の波が水路へ広がった。


 最初は細い光だった。やがてそれは水面を走り、鉄箱から伸びた管を包み込んだ。管の中でせき止められていた音が、ひとつ、またひとつと解き放たれる。


 遠い村の鐘。


 雪崩を知らせる短い音。


 堤防の亀裂を訴える連打。


 誰かの震える声。


 誰かの祈り。


 それらが重なり、地下の空気を震わせた。


「流れが逆流しています!」


 少女が叫んだ。


 水門の向こうで、光の流れが二つに割れた。一方は王都の中心へ戻り、もう一方は古い水路を通って外へ向かっている。


 だが、鉄箱の管だけはまだ閉じたままだった。管の表面に刻まれた紋章が赤く光り、放たれた音を再び吸い込もうとしている。


「箱を壊しますか」


 エドガルが尋ねた。


「壊せば記録も失われます」


「ならば、壊さずに止める」


「簡単に言わないでください」


 リゼットは針を握り直した。音は彼女の周囲で色になって渦巻いている。過去の恐怖は濁った紫、隠された怒りは赤、そして今、水路を満たしつつある希望は淡い金色だった。


 金色の流れが、管の継ぎ目に集まっている。


「エドガル、あの弁を回してください。右へ三つ、左へ一つ」


「わかった」


 彼は濡れた石床を踏み、弁へ走った。だが、ヴァルターがその腕をつかんだ。


「待て。そこを動かせば、圧力が一気にこちらへ来る」


「このままでも水門は崩れる」


「記録装置を守るには、封鎖を続けるしかない」


 ヴァルターの声は硬かった。けれど、その硬さの奥に、過去へしがみつく人間の弱さが見えた。


「あなたは、これを知っていたのですか」


 リゼットが尋ねた。


 ヴァルターは答えなかった。


 水路の壁が鳴った。遠くで石が崩れる音がする。


「二十年前、旧調律院を閉じたのは私ではない」


 彼はようやく口を開いた。


「だが、閉じる命令を見た。記録が多すぎると、民は混乱する。中央が選んだ音だけを伝えれば、秩序は保てる。そう教えられた」


「秩序ではありません」


 リゼットは針を水面から抜いた。


「聞く権利を奪っていただけです」


 ヴァルターの指が震えた。


 そのとき、箱の側面が開いた。中から薄い金属板が滑り出し、水路へ落ちる。表面には、二十年前の署名が並んでいた。


 最後の一行に、ヴァルターの名があった。


 彼は目を見開いた。


「署名したのか」


 エドガルが静かに問う。


「……命令を受けただけだ」


「それでも、署名は残る」


 責める声ではなかった。そのことが、かえってヴァルターの顔を歪めた。


「私は、仕組みを守れば人が守られると思っていた。誰かが判断し、他の者は従えばいいと。だが、判断する者が間違えば、誰も止められない」


 彼は金属板を拾い上げた。


「私は間違えた」


 短い告白が、水路の音に混じった。


 リゼットは彼を見つめた。灰色だった記憶の色に、わずかな白が差し込む。


「なら、今度は止める側に立ってください」


 ヴァルターはうなずいた。


 彼が箱の留め金を外し、エドガルが弁へ手をかける。リゼットは聴魔針を再び差し入れた。


「右へ三つ!」


 弁が回る。


 水路の奥で、巨大な何かが軋んだ。


「左へ一つ!」


 エドガルが力を込める。管の中を走っていた黒い音が砕け、封じられていた記録が一斉に金色へ変わった。


 轟音とともに、水が流れ出す。


 押し寄せた波が四人の足元をさらった。少女が転び、リゼットの手から針が離れる。


 その瞬間、エドガルが彼女の腕をつかんだ。


「離さないで!」


「離していない!」


 彼の声が、激しい水音を貫いた。


 リゼットはもう一方の手を伸ばし、流されかけた針をつかむ。針の先で、銀と金の音が重なった。


 地下水路のすべての鐘が、一度に鳴った。


 王都の上で、眠っていた鐘が応じる。


 中央鐘楼の音は、これまでのように一つの命令を告げるものではなかった。村から届いた警告も、過去の記録も、今この瞬間の揺れも、すべてが混ざり合いながら、街の空へ広がっていく。


 人々は足を止めた。


 聞き慣れない複雑な旋律に、誰もが耳を澄ませた。


 やがて王都のあちこちで、別の鐘が鳴り始める。


 誰かが意味を読み取り、誰かへ伝えたのだ。


 地下では、水の勢いがゆっくり弱まっていた。


 エドガルは濡れた手でリゼットを引き上げた。


「無事か」


「はい。あなたは?」


「私もだ」


 彼はそう言ってから、苦笑した。


「ただし、領主の服はもう使えない」


「身分を示す印が薄くなって、ちょうどいいかもしれません」


 リゼットが言うと、エドガルは少し驚き、それから笑った。


 その笑顔を見て、彼女の視界に淡い青が広がった。騒がしく、危うく、それでも確かな音だった。


 だが、水路の奥から、まだ別の旋律が聞こえていた。


 遠く、王都の中心よりさらに深い場所から。


 誰かが、最後の鐘を鳴らそうとしている。


 リゼットは顔を上げた。


「まだ終わっていません」


「わかっている」


 エドガルは彼女の隣に立った。


「今度は、二人で聞こう」


 暗い水路の向こうで、見えない鐘が一度だけ鳴った。

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