海が見たい
由紀恵は、恋をしていた。初恋ではないが、彼女にとってはまたとない結婚の可能性もありそうな相手であった。彼の名は、和樹といった。とある商社に勤務し、開発業務に携わっていた。由紀恵は、和樹とはもう半年以上の交際関係にあった。そもそもの出会いのきっかけは、ある喫茶店で由紀恵が、たまたま隣に居合わせた和樹に紅茶のカップをこぼしてしまい、そこから話の始まりが起こったということであった。
今日も、由紀恵は、駅前のバスターミナルのベンチに腰かけて、和樹の乗る車の帰りを待っていた。駅前には、人だかりも多い。ショッピングモールの前は、大勢の人が右往左往している。その人混みに紛れて、由紀恵はベンチに座り、ひたすらに待っている。
由紀恵は、最近の仕事疲れで少々ストレス状態にあった。社長秘書の勤務は激務でハードであった。だからこそ、久しぶりに和樹と会って癒したいと思っていたのである。
やがて、ロータリーの向こうから和樹の乗る見覚えのある白い乗用車が近づいてきた。由紀恵は立ち上がると、手を振って和樹に知らせた。
「ごめん、ごめん。遅れたかな?」
「うん、少し待ったわ?」
「仕事で商談が長引いてね。これでも急いだつもりなんだけど」
「いいのよ、それよりも行きましょう?」
「行くって、どこへ?」
「海へ。あたし、海がみたいの」
「これからかい?.................、分かった、乗って」
由紀恵は、車に乗り込んだ。和樹がアクセルを踏む。滑るように車は走り出した。
「ほい、これ。途中で買っておいた」
と和樹は、缶入りのミルクティーを由紀恵に手渡した。ちょうど喉が渇いていた。由紀恵は、無意識のうちに唇を舐めながら、ミルクティーを飲み始めて思っていた。そうよね、あたしたちが初めて出会ったのも、このミルクティーだったわね。
その喫茶店には、静かなバロック音楽のパイプオルガンの荘厳な響きが流れていた。店は、洋風の内装で、至る所に深々とした革張りの茶色いソファと長細いテーブルが置かれている。
カウンター席がある。その中央で由紀恵は、ひとり、冷えたミルクティーを飲んでいた。
ストローで、グラスに浮いた氷をかき混ぜる。友人の佳奈子はもう帰ってしまっていた。でも、由紀恵は何だか帰りそびれて、席に座ったまま二杯目のミルクティーを注文したのだ。
ともすると、店内は昼時分を迎えたせいだろうか、客が増えてきた。自然と、由紀恵の肩身が狭く感じられる。堪らない。
由紀恵も昼食をここで取ろうかしらと、ボンヤリ考えていると、突然に隣のカウンター席に若い男が座り込んだ。そこまではよかった。しかし、慌てたのか、男の伸ばした左腕が、由紀恵の飲みかけのグラスに触れて、コトンとテーブルに倒してしまい、中身が零れてしまった。
「ああ、こりゃどうもすみません。つい、うっかりして」
と、その男は、急いでハンカチを取り出すと、テーブルを拭き出した。
「いえ、いいんですのよ、そんな」
と、止める由紀恵を無視して、若いウェイトレスを呼びつけると、ミルクティーと苺のミルフィーユを注文した。注文がテーブルにつくと、男は笑って、
「これでご勘弁下さいな。どうも、そそっかしくてすみません」
由紀恵も笑って、
「ありがとうございます。あたし、ミルフィーユには目がなくて。ありがたく頂戴しますわ?」
それから由紀恵にもスイーツを買ってもらった引け目があったのだろう、つい饒舌になり、いつの間にか、ふたりは話し込んでいた。他愛もない世間話から始まって、自然とお互いのプライベートに触れてくる。
男は、河野和樹と言った。都内の商社マンらしい。身なりから見て、裕福そうだが、左手の薬指には指輪はなかった。
「あら、あなたも独身ですの?」
「ええ、仕事が女房ですよ。本当に忙しいったらありゃしない。たまには羽を伸ばして、ブラリとひとり旅に行きたいんですがね?」
「ふふっ、お忙しいのね?」
そんなこんなで、ふたりが別れる頃には、もう旧知の間柄のように親しくなって、次に会う約束まで取り付けて別れたのである。
カウンター席に残った由紀恵は、ひとりで彼が去った扉を見つめながら、でも、面白い人ね、と微笑んでいた。
車は、駅前通りを抜けて、住宅街へ差し掛かった。いいわね、マイホーム、憧れるわ。
隣の和樹を見る。彼も視線に気づいたのか、如才なく、
「この辺、新築が増えたよな、この物価高だっていうのに、分からんな」
「あら、家庭は女の憧れみたいなものよ、男の人は仕事でしょうけれど?」
和樹が苦笑いした。そして、急に思い出したように、
「ああ、これ、君の誕生日のプレゼント。気に入ってくれたら嬉しいな?」
由紀恵は、その包みを開いた。中に入っていたのは、透明な液体の入った小瓶であった。
「あら、香水ね。これ、高かったでしょ?」
「給料が半月分、吹っ飛んだよ。でも、君に合う香りだと思ってね?」
「ありがとう。大切に使うわね?」
そうだった。由紀恵は、髪を耳まで掻き上げながら思った。彼が、あたしに初めてのプレゼントをくれたのもその次のデートであった。
由紀恵は、駆け込むように、そのカクテルバーに入ってきた。店内は照明を落として薄暗いが、彼の後ろ姿はすぐに分かった。和樹は、カウンターで、もうチビリチビリとカクテルの細長いグラスを傾けている。
「やあ、来たかい?もう、来ないのかと思ってたところさ」
「どうして?」
「だって、俺がモテるのは、鞄か歯ブラシくらいだもの?」
「あらあら?ふふっ」
とりとめもなく雑談が続いた。話題は、おもにお互いの趣味に関しての事柄であった。
「あたし、最近、ヨガ始めたの、健康維持のためだけど」
「へえ?どこかに通ってるの?」
「近くに出来たばかりのヨガスタジオがあるのよ。で、マット敷いて、一、二、って頑張ってんのよ?」
「それを言うなら、俺は登山だな。この前の休日も槍ヶ岳に登頂したばかりだぜ?結構、ハードだったかな」
ふたりで乾杯もした。飲んだのは、無難にジンフィズであった。乾杯が終わると、和樹が、こっそりと由紀恵にプレゼントを手渡した。見ると、それは、オシャレな柄物のベージュのポーチであった。由紀恵は嬉しかった。
「ありがとう。これ、化粧入れに使うわね。柄もお洒落だし」
住宅街を抜けようとしていた。車は安全スピードで走行している。急カーブに差し掛かる。由紀恵は、やや和樹に肌を寄せるようにして、
「何度目のデートかしら?あなたと一緒にコンサートへ行く約束したのは?」
「三度目さ、もう忘れたのかい?」
そうそう、あのデートだったわ。あのジャズバーだった。
その広々としたジャズバーでは、テーブル席に隣り合って座ったふたりであったが、ふたりが渾々とグラスを傾けて話しているうちに、店内の照明が落ちて、ムード音楽が流れ始めた。すると、和樹が気をきかせて、
「一緒に踊るかい?どう?」
すると、由紀恵は、
「やめとくわ。今は気分じゃないの。それより、あなたと話していたいわ」
「また趣味の話かい?新しい趣味でも始めたのか?」
「編み物よ。あなたのために今からニットのマフラーを編んでるの、結構手が折れるのよ、編み物」
「ありがとう、期待しておくよ。じゃあ、マフラーのお礼に、今度何かのコンサートへご招待するかな?へへっ」
「あらそう?だったら、あたし、ラテンミュージックのコンサートでもやってたら行きたいな?ラテン音楽の情熱って素敵だもんね?」
「うーむ、むずかしい注文だな。じゃあ、何とか探してみるよ。君って結構、情熱的なんだ?」
「ええ、見かけに似合わずね。これでもあたし、いつだって秘めた熱情が煮えたぎってんのよ、おかしい?」
「いいや、そんなことないよ。じゃあ、また乾杯しようよ、ふたりの将来のために!」
車は住宅街から国道を走り抜けていた。その日、由紀恵はデコルテを露出させたオレンジのドレスを着ていた。さっきも、和樹から魅力的な服だねと、褒められたばかりであった。由紀恵は足を組み換えて、若干に紅潮した顔で窓の外を見た。街並みも疎らになり、やがて、国道は海岸沿いになった。
海は、果てしなく碧い。
波もなく、穏やかな海原が続いていた。
和樹は、車を空き地に停めると、海岸に降りる石段を由紀恵と一緒に降りた。
ふたりで、海岸の白い砂浜を歩く。ふたりが砂を踏みしめるキュキュッと言う音が大きく鳴り響いた。
「でも」
と、和樹は振り返って由紀恵を見て言った。
「何で、急に海に来たくなったんだい?」
「ううん、ちょっと」
と、いつもより潤んだ瞳で答えた。声のトーンも低くなっている。彼女は、その場にしゃがみ込むと、そこに落ちていた石ころを拾うと、思いきり海の遠くへ投げ込んだ。海は返事をしないで、石を呑み込んだ。
突然に由紀恵は大声を出すと、
「海のバカー!」
と、叫んだ。
それから、ふたりで黙って海を見つめ続けていた。
しばらくの時間が経った。
「帰ろうか?」
すると、由紀恵は、
「先に行って。跡から追いかけるわ?」
和樹は、先に立ち上がると、砂浜を歩いて、石段を登っていった。
しばらく、由紀恵は黙って海を見ていたが、ポツリと、
「本当、男って単純な生き物だから」
と不満げにつぶやいた。そして、足もとについた砂を手で払うと、トボトボ歩き出した。
しかし、黙って海を見ながら歩く彼女の心が何を見ていたのかは分からない。
静かで碧い海は、黙って彼女を見守っているばかりであった.......................。




