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帝華堂アイスココア発売中

作者: Light Up Field

 彼に言わせると、帝菓堂(ていかどう)の紙パックアイスココアは、すこぶる不味いらしい。昔ながらの味と銘打って、味の改良をせずに平然と売られているのが、信じられないと言う。「甘すぎるし、粉っぽい」と、改良した方が良いところを、ズケズケ並べていた。

 自動販売機の前で、例のココアを吸い上げる。彼のアイスココアについての愚痴を、つい思い出してしまった。口内に広がった甘みは、私の許容範囲内だ。それに、八十円という廉価を考えれば、多少の粉っぽさも許せる。

 お互いの教育環境が違うと、味覚に違いが出るのは仕方がない。偏見かもしれないが、彼はいつもビーフステーキや、回らないスシを食べているイメージがある。

 タスポの導入、タバコ税の上昇、さらには経済危機で、今にも破産しそうなタバコ屋の前に、毎週金曜日、私が下校の際に利用する自動販売機があった。こんな変哲もない場所で、彼と出会ったのだ。眼下には棚田が広がっている。この辺りは平地ではなく山峡で、誰に尋ねても田舎と即答する土地だ。こんな風土に彼は酷く合わない。

 今日は金曜日だ。もうそろそろ例の彼の人が現れるだろう。

 当たりたくはない予感は、当たった。

 キッと自動車のブレーキ音が耳に届く。

 一台のワーゲンが自動販売機の前、つまり私の目の前で停車する。赤くて、丸いフォルムの、かわいらしい車だ。初めて見た時は、さぞかし愛らしい女性が乗っているのだと思っていた。

 ワーゲンの運転席から登場したのは長身の男性だ。服装は極シンプルで、サングラスに、黒のシャツに、色味が薄らいだジーンズ。手抜きと取れる格好だが、彼ならば許される。世の中というものは不公平だ。いくら私がファッションに気を遣ったとしても、彼には及ばない。まず及ぶとか、及ばないという考えを持つのが、恥ずかしくて、おこがましい。

「お嬢さん、もう居たのかい?」

「先に居たらいけませんか? 何か問題でも?」

 この人の話し方は独特だ。ついそれに合った冷たい声音で、言葉を返してしまう。

「問題はないけど……って、またココアを飲んでいるの? あのね、お嬢さんの知らない世界には、そのココアよりも美味しい飲み物があるのだよ? そんなにココアを飲んだら、体が茶色くなってしまう。どれ、小父さんが茶色くならない安心、安全な飲み物を買ってやろう。何がいい?」

 サングラスを外し、カッと眼を見開く彼は、私に詰め寄る。彼の鬼気迫った顔は、誰にも見せられない。このおかしな発言も、誰にも聞かせられない。

 彼が例のココア嫌いの人だ。

 毎週金曜日、自動販売機に立ち寄る私は、必ずココアを買う。彼はそれが気に入らないらしい。それは個人の自由だろうに。

「小父さんではなくて『お兄さん』でしょ。確か二十三歳ですよね」

「ほう、今時の中学生は、まだ『お兄さん』と認識してくれるのか?」

 小父さんなんぞ言ったら、私は全国の大多数の方々に半殺しにされる。彼は口髭と顎鬚を生やしているので、実際の歳より幾つか上に見えるが、まだまだ若人。私が十四歳、いや、もうすぐ十五歳だから、歳の差は八つ。兄妹でもあり得ない差ではない。

「当たり前です」

「そうか。なら、お兄さんに欲しいものを言ってごらん?」

「要りません。知らない人から、ものを貰ってはいけないと教えられましたから」

 薄々気付いていることがある。この人の私に対する扱いは、妹に対するそれと同じということだ。年齢からしても当然なのかもしれないが、こんな兄がいたら甚だ迷惑だ。この場に知り合いが居合わせるようなことがあったら、一目散に私はこの人から逃げる。断固として同類に見られるのは避けたい。

「へえ、僕は知らない人なんだねえ」

 炯々とした眼光は、いつの間にか失せた。途端に愛らしい顔に変わるところが卑怯だ。こういう表情をされると、返答に詰る。捨てられた子犬の目……というのは、この眼のことなのだ。嗚呼、本当に卑しい。

「さっきのはジョークです。忘れてください。ココアでお腹が膨れるので、遠慮したかっただけですから」

「そう」

 彼は、ペットボトルと缶専用の自動販売機で、微糖の缶コーヒーを買う。この人は、ここに売られている全てのものを試飲をするために、ディスプレイの上段左隅から、飲み物を買うようにしていると聞いたことがある。その行動にどんな目的があるのかは訊いたことがない。だが、帝華堂のアイスココアを避けていることは、確かだ。

「コーヒーは嫌い?」

「いえ、ブラックは飲めませんが、微糖は好きです」

「僕はコーヒー全般ダメなんだ。苦い。カフェオレは好きなんだけどね」

 「なら買うなよ。帝華堂のアイスココアでも飲め」と、鋭く突っ込みたかったが、この人に正論で攻めてもしかたがないため、すぐに諦めた。

「にが」

 顔を顰めながら、ブラックコーヒーをちまちま飲む姿は、歳に似合わない。少年のような雰囲気を醸し出している。しかし、顔立ちは目を引くので、クラスに居る男子とは同一視できない。彼は私と同じヒト科でも、一生出会うことがない人だったかを思い知る。それなのにどうして出会ってしまったのか――その理由は私でも解っていた。

「もう一か月半経ちましたね。そろそろ……」

「うん、そうだね。お嬢さんと、ここで出会ってから」

 私の言葉を遮って、彼は言った。私の言いたいことは分かっているだろうに、話をはぐらかしたのだ。きっと、どうでも良さそうに、身の上を語ってくれるだろうと思い込んでいたため、些か落胆した。まあ、こんな中学生相手に話してくれるわけなかろう。田舎の中学生というステータスを、しっかりと理解しているのに、胸の中心にもやもやが居座ってしまうのは何故だろうか。

「帰りますね」

「ああ」

 私は少し拗ねていた。口調には、決して出さないように努めたが。

 空になった紙パックを、備え付けのゴミ箱に捨て、自動販売機の隣に駐車してある自転車に跨った。彼に会釈をすると私はその場を離れた。


 畦道を慎重に走っていると、背後から車のクラクションが鳴らされた。自動車分の幅は、辛うじて確保されている道だが、舗装されてないため、自動車での乗り込みは無謀だということを、地元の人間なら誰でも知っている。無論、自転車を追い抜くことなんてできない。クラクションを無視して、走り続けた。

「ちょっと待って!」

 突如として、小太りの小父さんが私の前に立ちはだかった。

 冷や汗が背中を伝う。慌ててブレーキをかけなければ、危うく轢死、少なくともケガをさせていただろう。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫、大丈夫」

 柔和な笑みに、私は酷く安心した。

「君、一体何者?」

 唐突に尋ねられ、答えに窮す。これは名を名乗れということなのだろうか。それにしても、少々奇妙な尋ね方だ。

夢見征子(ゆめみせいこ)です」

「僕は安西公彦(あんざいきみひこ)。君は中学生?」

 制服を見ながら問いかける小父さんに、若干警戒心を抱く。どんなに優しげな風貌をしていようが、知り合いではないのだ。

「……ええ」

「君は落ち着いてるね」

「そうでしょうか。恐れ入ります」

「ねえ、さっきココア飲んでたでしょう? 誰と飲んでたの?」

 この発言は私の警戒心を一気に高めた。いつから私のことを見ていたのだろう。

 慌てて自転車に乗り込み、自宅に駆け込んだ。

 玄関をくぐると、お母さんがテレビニュースを見ていた。のんきに寝転がる姿は、まるで牛だ。娘がどれほど不安になったかなど、知る由もない。帰宅時の不審者について告げようと思い、お母さんが注視しているテレビを消そうとして、リモコンを手に取る。

 一瞬、ほんの一瞬だが、たった今知り合った人物、つまり安西公彦に似た顔が、テレビ画面の右端に映りこみ、リモコンを持ったまま、固まった。

「安西……」

 目を擦る。他人の空似かもしれないと思ったが、その後、幾度となく映るその顔は、彼のもの以外にあり得なかった。

 現在、放送されている事柄は、若手俳優と人妻女優との不倫だ。女優の旦那は大御所の映画監督。俳優の方は幼い頃から演技に定評が出ている実力派。彼は度々女性とのスキャンダルが取りざたされていた。そのこともあって、完全に俳優側の分が悪い。彼のCMは打ち切りになり、芸能活動を自粛することになった。その若手俳優も、人妻女優も、深い関係を否定していない。俳優は会見を行い、報道について事実だときっぱり述べた。そして関係各社に謝罪をした。しかし、己の行動に非があったということについては、一切の謝罪をしていない。勿論、女優の夫にも。その態度にはあちらこちらから批判が出ている。彼のファンサイトは炎上し、次々と閉鎖に追い込まれていた。

「いつまで謹慎してるのかね。まあ、いい薬じゃん」

 母はどうでも良さそうに呟いた。確かに反省すべき点が多い彼に、同情の余地はないのだろう。だけれども、私は違った。彼のファンではないが、そろそろ復帰して良いのでは、と考えている数少ないうちの一人であったりする。

「このまま引退するんじゃない?」

 願いとは裏腹に、未来を先読みした。

 液晶テレビに若手俳優の顔がアップで映し出される。謝罪会見の時の映像だ。演じることを生業とする者に会見をさせるというのは、無駄な行為に思える。泣いてこそいないが、その顔は真摯なもので謝罪会見には相応しかった。だが、これが演技でないと、誰が断言できるのだろう。

 ディスプレイの中の彼は、立ち上がり、腰を折った。彼の隣には安西が居る。安西も合わせて身を屈めた。眩しいフラッシュがたかれる。顔を上げた時、俳優の瞳は赤く充血していた。

 苦そうにコーヒーをすする青年を思い返し、その顔と、テレビ画面に映っている俳優とを比較する。ひげこそ生えていないが、顔のつくりは全く同じ。しかし、私の知っている人は、こんな真剣な顔をしていない。口振りも違う。あんな常識家のような話し方をするはずがない。私が知っているのは、帝華堂のアイスココアが大嫌いなあの彼だ。

「生まれながらの役者なんて言われてたのに、ほんと評判は地に落ちたね。今回のことがきっかけで、路線でも転換するでしょ。子役のイメージ引きずってんし。この子はマトモナ人格しか演じたことないけど、イカれた殺人鬼役とかが似合うと思うね」

「そうかも」

 確かに殺人鬼とかが似合いそうだ。私は、好青年というよりは、遍物というイメージの方が強いから。

「えっと、名前は確か()()あづま……そういえば、ここら辺の出身って聞いたことあるような」

「そうだよ」

 久惠あづま、テレビに映っている彼――帝華堂のアイスココアが大嫌いな、彼の芸名。私の居住地が、たまたま彼の出身地でもなければ、この大変な時期に、私の目の前に現れるわけがない人だ。


 久惠との出会いは、実に一か月半にまで遡る。

 このころから、私は自動販売機に寄るようになった。

 懐の関係で毎日自動販売機を利用することはなかったが、休前日は別。自分へのご褒美というにはお粗末だが、金曜日だけ、紙パックジュースを買うようにしていたのだ。

 登下校の際にすれ違う人とは、ほぼ顔見知りだ。少しでも目立つ人が居たら、よそ者だと気付くことができる。久惠の姿を見た時、すぐに違和感を覚えた。当初は自動販売機周辺の道路で、かわいすぎるワーゲンとすれ違う程度だったが、やがて自動販売機の前に佇む彼の姿を見るようになった。

 格好はいつ見てもラフで、髪は染めていないし、ワックスは使っていない。格好は目立つものでないが、よそ者であることは確かだ。それなのに、どこか見覚えがあるような気がした。

 すれ違う度に、その妙な感覚に悩んでいたが、ある日、思いもよらず解決することとなる。


「お嬢さん、なんでココアばっかり飲んでるの?」

 とある日、自動販売機の取り出し口から帝華堂のアイスココアを取ったところで、よそ者に違いない彼が、声を掛けてきた。その時、初めてじっくりと顔を観察した。口髭と顎鬚の所為で美青年とは言いがたいが、彼の持っている渋い空気は、不思議と嫌いではないと感じた。

「はあ。なんとなくです」

 曖昧模糊に濁して答えた。その返事に納得していないのか、彼は顎鬚を撫でて、私に迫ってきた。

「他にマシなものもあるだろう? 帝華堂のアイスココアは昔ながらの味と銘打っているけど、僕に言わせれば、味の改良をせずによく売ってるねって感じ。時代錯誤もいいところだ。だいたいね、甘すぎるし粉っぽいと思わない?」

 いきなり自分の飲んでいるココアについて強烈に批判され、立つ瀬もない私は苦笑した。

「はあ」

「お嬢さんが毎週これを買ってたのは知ってたんだけど、どうして、わざわざ不味いものを買うのか甚だ疑問だったよ」

 毎週観察されていたのかと思うと、堪らなくなる。この人、変だ。危うい雰囲気を感じて急いで自転車に跨って家へ帰った。

 夕飯前の時間帯になると、夢見家はニュースしか見ない。その日も例に漏れなかった。最近は俳優と女優の不倫話が放送されている。何気なしにテレビ画面を見つめると俳優の顔に見覚えがあることに気付いた。

 いや、そんなはずはない。テレビに映っているのは、爽やかな甘いマスクの青年。そんな人と知り合った覚えはない……でも、ひげを生やしてみたら?

「あ!」

 先ほどあった変な人。あの人に違いない。

「え、あ、ウソ。芸能人に会ったの……私が?」

 呆然と呟いた。テレビの中の彼と、自動販売機の前に佇む彼は、全く違う。

「お母さん、携帯電話貸して!」

 携帯電話で青年について調べる。ヒット数は六百十万件。あまり芸能界に興味のない私でも、芸能人だと気付いたのだ。決して無名ではないのだろう。


 久惠あづま(くえ あづま、本名は久惠東、一九XX年一月八日生まれ)は、日本の俳優、モデル。所属事務所は「らぁいとエンタープライズ」。血液型はAB型、身長百七十九センチ。出身地は愛知県。趣味はワイン収集。青春ドラマや、映画などの準主役級として活躍中。〇歳時に、子育て雑誌でモデルデビューし、後に子役としてテレビコマーシャル等で活躍……。


 以上はウィキ百科事典で調べたもので、この後に続く文章も客観的な視点で書かれていたが、他のブログやサイトを見てみると、主観的に書かれている文章が、多くあることが解った。今世間を騒がせている不倫の当事者だから、当然のことと言える。アンチと信者がぶつかりあっている場面も、多々見かけた。

 報道によると、久惠は実家で謹慎中ということらしい。

 いくら出身地が同じとしても、彼とわかりあう余地は、全くない。彼と私は月と鼈、豚に真珠。

 おまけに、彼は不倫までして、世間から白い目で見られている。人生を比較的穏やかに過ごしてきた私とは、至極当然異なる生き物だ。彼の性格ではお互い相容れないことも確かだ。むしろ避けたい。

 避けたいと思っていたのに、上手くはいかないもので、久惠と出会ってから一か月半経つと、私と彼は赤の他人から、ちょっとした知人になっていた。深い付き合いなんてものは、皆無だけれどもね。


「やあやあ、お嬢さん、こんにちは」

 安西に出会った次週のことだ。また、しつこく言うが、また、彼は金曜日に出没した。実に奇抜な格好で。

「今日は一体どうしたんですか? その変な姿は田舎じゃ目立ちますよ」

 伸ばされた顎鬚と口髭は跡形もなく、アイロンが効いたシャツを着ている。しかも、今日はサングラスを持っていない。甘いマスクを惜しみ気もなく晒している。纏っていたはずの寂れた雰囲気は、どこにへやら。

「ヒドイ。小奇麗にしてきたのになあ。ほら、『ステキ!』とか、語尾にハートマーク付けて褒めてくれてもいいじゃないか!」

 思わず顔が引き攣る。この人は中学生にそんなことを言われたいのか。やはり変人だ。いや、変態か。

「はいはい、素敵ですね」

 どうでもよくて、抑揚を付けずにお望みの台詞を言うと、奇人はその場で蹲って泣き始めた。

「うえーん、うえーん、ヒドイよー」

 殴ってやろうか。顔は後に訴えられたら困るので、懐にでも。こんなふざけた泣き真似、そして、棒読みの台詞に怒り以外の感情は持てないだろう。おふざけでも許さない。仮にもこの人は「生まれながらの役者」と称される久惠あづまなのに。

「演技ヘッタクソですね。お情けをかけて欲しかったら、涙くらい流せばいいのに。俳優でしょう? ああ、それができないから芸能界引退したんでしたっけ」

 「役者」様の眉がぴくっと動く。流れる空気が、途端に冷たくなったのを肌で感じ、満足した。

「はっきり言いますが、あなたに付き合うのは疲れました」


 毎週金曜日に、私が出会っていたのは、誰だったのだろうか。この日から、私は久惠を見かけることはなくなった。テレビの中で、爽やかに笑みを浮かべる久惠は、私の知っている久惠ではない。既知としているのは、人間として何かが抜けた、おかしな無精ひげの人だ。最後に見た彼は、まともな格好をしていたけれど、やはり思考は歪んでいる。

 テレビの彼と、私が接してきた彼、どちらが「東」なのだろう。それとも、両方とも「あづま」?

 素人の私には、最後まで判断が付かなかった。やはり、彼は演技のプロなのだ。最初から、私は彼を舐めてなどいない。しかし、中学生と楽しくもない会話を交わし、ぬくぬくとした土地に身を寄せていたら、「あづま」は確実に腐敗していく。私が出会った久惠は、すごく痛かった。あれが「東」でなければ良いと願っている。私には、あの姿が現実逃避の産物と見えなくもない。

 とっとと元の鞘に戻れば良いのに、彼はいつまでも田舎で燻っている。これも何かの縁だ。スキャンダルで重くなっている尻を、叩いてやるのも良いだろう。揶揄を含めたかったので、「芸能界引退」なんて口にしたが、それは事実無根だ。実際のところは自粛中ということになっている。復帰するチャンスはあるはずだ。


 帝華堂のアイスココアが嫌いな彼は、あれほど鬱陶しかったのに、「久惠あづま」は応援していたのだと実感したのは、彼と出会ってから数年後、高校を卒業した頃だった。

 そんな発見から、さらに数年が経過し、私は二十一歳になった。既に就職していて、立派とは言い難いが社会人だ。この年頃になると、久惠に出会ったこと自体が、夢ではないかと思えてくる。私は久惠のことを他言していなかったし、彼に関係する物的なものは、何一つ持っていなかった。彼は私にとって重要人物ではなかった。それだけのことだった。「お嬢さん」と呼び続け、私の名すら知らないままの彼も、また然りだ。それらが相まって、久惠のことは帝華堂のアイスココアを見かける時ぐらいにしか、顧みなくなる。

 やがて彼の姿をテレビで見かけることがなくなっても、違和感を覚えなくなった。それが当然となった、そんなある日、自宅に三つのダンボールが届いた。

 差出人は「安西公彦」。宛先は「夢見征子」。

 中学生時代の不思議な記憶が蘇る。謝罪会見の時、久惠あづまの隣に居た安西公彦。きっと、彼らには何らかの繋がりがあったのだろう。

 しっかり張られているガムテープを、悪戦苦闘しながら剥がし、ダンボールの蓋を開ける。途端に、甘い香が鼻腔を擽った。所狭しと詰め込まれているパックを、一つ取り出し、パッケージを確かめる。表にはでかでかと「帝華堂ココア」と書かれていた。他のダンボールにも、同じものが詰められている。

 紙パックでしか売られていない、帝華堂アイスココア。それに対して送られてきたものは、粉末がパックしてあり、家庭で、湯やミルクで仕上げるタイプのココアだ。さて、こんなものは市販されていただろうか。

 それもこんなに大量に送られてきては困る。ご近所に配っても、なお余りそうだ。安西の不可解な意図に首を傾げつつ、とりあえずご近所分のココアを取り出す。やっとダンボールの底が見えきた頃、白い封筒が現れた。封筒の中には便箋が入っている。それには、こう書かれていた。


 君が帝華堂のココアを好んでいると聞いたので、来月新発売される家庭用のココアを、久惠に代わって送ります。この量はさすがに迷惑だとは思いますが、「味も良くなったことだし、お嬢さんなら、体が茶色くなるまでに飲みきってくれるだろう」と、久惠は豪語していました。……阿呆で本当にごめんね。いろんな意味で阿呆なんです。でも、阿呆は阿呆なりに努力しました。君が久惠の尻を蹴ってくれたこと、感謝しています。


 読み上げ終わると、ゆっくり息を吐いた。

 どうしようもないくらいに情けない。

 久惠と出会った時、私は一中学生でしかなかった。周りからは、落ち着いているとか、聡いとか、様々な賛辞を言われていて、自分自身もそう思っていた。今思い返すと、恥ずかしとしか言いようがない。少なくとも昔の――いや、現在も、私は、全てを覚ることはできない。テレビの中の彼と、目の前に現れた彼が、共に「東」だという考えが、思いつかなかった。彼は腐っていないし、現実逃避もしてない。全てが素。阿呆は阿呆。実に単純明快な答えを、普段の彼の性情を説いているこの手紙によって、得ることができた。感謝をしなければならないのは、私だ。自己を改めて見直すことができた。

 ダンボールを部屋の隅に積み立て終わると、さっそくココアを作ってみた。アイスか、ホットか迷った挙げ句、ホットココアに決めた。

 のんびりココアを飲みながら、バラエティー番組を見る。くだらないことで笑いながら過ごす休日は、久しぶりのことだった。サービス残業に耐える私には、電源の点ったテレビ画面すら懐かしいのだ。

 コマーシャルに切り替わったことを確かめて、トイレに行こうと立ち上がった。ふと背後から聞こえた、どこか覚えのある声に足を止め、振り返る。

 テレビの中の、黒髪の男性が、湯気の(くゆ)るマグカップを傾け、表情をころころ変える様に目を奪われた。その長い()の最後に、彼は含みの効いた笑みを浮かべ、視聴者に囁くのだ。「帝華堂ココア、発売中」と。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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